6. わたしに親しいのは暗闇だけ
「生きていること」と、「死んでいないこと」は違うという。だから人は生が煮詰められたとき、その足掻きようのない苦しみを「なぜ」と神に問うのである。行いが報われざる時、顛末が見えぬ時、人はその苦しみを疑問と回答を対話によって埋めようとする。
そう考えれば、運命のような強制力だけで生を語れない。生きることとは自由を持つこととも量的・時間的に関係し、辛くも良い影響を及ぼし合う。ヨブは自らを殺めなかった。まとわりつく困難と戦うため、振り払うために。ではヨブはいま生きているのだろうか。
いつ沈むとも分からない、重すぎる試練を背負わされながら。いついかなる時であっても、自殺は最も忌避される、罪深き咎の一つなのであった。やがて命の笹船は、波浪の上で沈みかけながら、潮をかぶり雨に殴られるその窮状を、雲上に天を歩き往く月へ、呆然と訴え始めた。
今まであえて覆っていた 溺れる者とは誰であるか
喪われたあの過去の日が 美しすぎたばかりにだ
私はもしやと神に嘆く こと切れたいのではないか
いま目の前に窪む闇が 安らぎの天幕ではないか
後ろに戻れぬ綱渡り 風が谷へとけしかける
いっそ風にくれてやれ 埃をかぶった我が肉を
私はかつて死を退けた されど何が残りしか
家族はいない、皆離れた ここに業深き震えが残る
幕引きくらいは自らの 操るうちに留めさせよ
それさえ叶わぬ望みなら なぜ苦しみは煽り立てる
神よ我に説き給え そしていっそ締め上げよ
痛みを終わらせる事が 私の望むおぼしめし
神よ早く殺してくれ さあいち早く看取ってくれ
苦痛が苦痛を呼ぶ前に 降り霜わななくその前に
生きてゆこうとしても尚 脚はただれて動かない
未来この目に映らねば 命に意味を見出せじ
命に意味を刻まねば それは生きているに非ず
授けられた命ひとつ 扱いきれていないのだ
神は奪いて我は捧ぐ 頬を伝う苦痛の涙
さあ取り除けその御手で 蓮葉の露を払う如く
散らして下さい願わくは 見切って下さい願わくは
そこで奴が我を見ゆ 私ごと呪いをかけ給へ
今やすべてを手放せど 思いも口も統べられて
滑らせてはくべられて 食らわれては廃れたり
これ以上
汚れるわけにはいかぬでしょう
霊魂に罪を塗布させぬまま
我を死なせよ
かかる奴とは誰なるか
頭痛である
思いの下に湧き出ては
葉上に群がる雫なり
冷夜が霧を呼ぶように 雷雲が夕立を呼ぶように
身にケロイドの圧搾が 金切り声で吠え掛かる
呼ばれた自失は緊張を 呼ばれた緊張は激痛を
頭痛は演じて星を廻す 注目攫うはお手汚し
未だかつて
尽きる事のない井戸から 毒水が湧いて出るかのよう
汲んで汲んでも底知れぬ 枯れるを知らぬ冷たさに
骨ばる指は曲がったまま 爪は黒ずみひび割れる
この軛はいずこより 訪れ我を虐げしや
船の腹が裂けぬれば 見えぬ陰から腐りしか
されど我は小さき船 波の間に間に揺れるのみ
風に挑みしこと非ず 鳥を拒みし事もなし
波よ静まれ 我は葉片 またはかくも弱き者
私があなたに何をした ただただ放っておいてくれ
私は弱き藻屑に過ぎぬ 振り回されてばかりいる
海よ凪げ 誰と戦うか その巨躯を以って我を討つか
満ち引き芝居を繰り返し うわべの姿を塗り変える
されど疾うに消えようか 明日は山にでもなるものか
烏兎匆匆に干上がるのか なぜ声枯らして我をかまう
被る我らの脆さを視よ 何ぞ抗うことができよう
船人ノアは幸いなり かき消す怒りの泡から逃る
かたや祝詞は与えられ 栄える天意を地に現す
かたや我は朽ち落ちる 義を奉じてなお安らぎなし
静められよ さもなくば沈ませよ
唯こればかり 私は唱うのである
蝕まれた羊飼いは、砂漠の地に海の幻影を見る。そこは砂浜ではない。砂州でもない。灼熱と涸渇の地である。白砂からの熱気が蜃気楼を浮かび上がらせ、あるはずもない邪神の影を大地に描写した。ざらざらとした砂を帯びた風が、肥沃なメソポタミアの地に手を伸ばした。
渇きが潤いに近づきながら、潤いも渇きに近づく瞬時の最中に、富める者はやもめへと身を堕とした。汲まれた水を置いておこうものなら、貯め水は立ちどころに渇き、熱気に吸い上げられ、影も形も見えなくなる。
この急速な乾燥具合は、地球上では砂漠やステップなどの乾燥帯でしか見ることはできない。この砂漠においては、水とは、空気によって一方的に奪われるばかりのか弱きものだ。しかしその反動が熱帯のスコールや寒冷地の、あの馴染み深い霧である。気圧に則って移動してきた、水分を含んだ空気が、冷やされるためにそれは雨となり、霧となる。
ところが。一説によると、砂漠地帯での災害には溺死が多いという。それは、短期的に人間へ降り注ぐ豪雨が、乾燥した砂漠へと秩序立てて流れつく路もなきまま、人々を呑み込み、流し去ってしまうかららしい。
「砂漠に雨が降る」、これは珍しい気象現象だ。だが、森林にすむ人々がこの語を一般的に用いる局面は、天からの恵みとしての水を意識しているものであり、人々を脅かす存在としての災いといった意味に例える人々は、そう多くもいなかろうと思う。珍しいが故に恐ろしいのだ。それは、砂漠地帯で集団生活が建設される前提に、降雨を顧みることはないからである。裏を返せば、排水の備えが設けられなければ、地理に関わらずいつでも水は人を襲う。前提を反故にせんと暴れる大水の暴虐は、目を向けてこなかった背後から突如急襲してくる狂気であり、自然が人間を殺す例だ。
一度牙をむいた水の、なんと獰猛なことだろう。きっと津波や、豪雨と隣り合わせで暮らしている人々であるなら、絶えずその危険性が身に及ばぬように、及んでも尚動けるように、危機に備えた日常生活を過ごしているのだろうと思う。だが、このささやかな気配りの積み重ねこそが幸いだ。災害を克服できるようにと張り巡らされた、一見目立たぬところに都市の宝が働いているのである。
既述のことを考えれば、私達は押し寄せる濁流から逃れる事ができたことの人々と、同じ幸いを噛み締めながら生きることができるだろうか?住居や家畜や作物が、目の前に於いて運ばれて沈んでいくその地獄の光景を、命からがらに生き延びた人々を想像してほしい。その災害を経験していない相当数の住人の防災意識、“災いを遠ざけようとする意識”は、働いていないように映るのだろうと思う。
ヨブの心の中に描いたのは例えるなら、意思を理不尽に呑み込み、圧し寄せる、これらの水害という暴力への恐怖であった。リヴァイアサン、海に住む魔物。それは人間によって未だ支配されていない、海原の果ての更に底にて、息を潜める魔物である。
私たち人間、神に寵愛を受けて創られた命は、このリヴァイアサンから逃れることができないのだろうか?否、断じて否である。ヨブは神に訴え出て、泣きながら言うのであった。「前例があるではありませんか。どうか思い出してください。『創世の書』に、ノアと言う男が」と。
ノアは、彼が無垢なる人物であったために、主に契約を持ち掛けられた存在の代表的人間である。
『さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐいさることにした。』
無垢なるものは生き永らえ、また悪意ある者は沈められた。ヨブはどうであったか。彼の祈る姿が、神に逆らうものであっただろうか。彼が真なる義人であることは、主も認めているではないか。
ここにきて、ヨブは自分の守り抜かれた義を引き換えに、神に契約を持ち掛けているのである。
凍える人々を再び生かすには熱が必要だ。三賢者の反駁が始まる。ハヌッキーヤの枝にはひとつひとつ丁寧に火をともさねばならない。
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