3. 逃亡奴隷を虐げてはならない

 先述のように空の王、猛禽と呼ばれる者どもは、ノスリもチュウヒもフクロウも、その空を駆ける姿は素晴らしく静かだ。人間が歩いていると、慌てて道脇から飛びあがる、カラスやシラサギの落としていく羽音とはまるで異なる。仮に獲物となる小動物に、風切り羽の音を聞かれようものなら、その猛禽の狩りの腕は素人のそれだ。近づいてくるときも、遠ざかってゆくときも、狩人はその距離感を自在に操る。

 そして、翼が力強くはためいた音をそいつは確かに聞いた。麻袋をこすったような音、力強く空を叩く音。その躍動が耳に届いた頃には、「獲物は既に捕まっている」ものだ。

 そいつは突如として巨大な飛来物に脈を絞められていた。音は耳の後ろから前へ強く跳ねた!申し分のない加速度が全身の汗腺を撫で上げ、こうべを下にしてその体が——我々との別れを名残惜しむ地平線の夕陽のように——急峻な弧を描いた。〝そいつ〟は強烈な速さで翼をもつ者に連れ去られていたのだ。それは浮遊感を楽しむ暇もなく、あまりに一瞬の業であったため、いったい何が起こったのかが分からない。後になって整理して著せば、光の如く見知らぬ場所へ移動されたのだ。

 パタン!という翼の強い音と、斜め下への衝撃。物陰からたくらみを働かせていたはずのそいつは、気付いたときには身を隠すもののない、静かなる砂の床上に倒され、妬ましい二本足のくるぶしを見ているのであった。

 そいつはやや柔らかくあった地面に、鋭角にめり込んでいた。垂直に叩きつけられなかったのが不幸中の幸いだ。目を白黒させて地面から這い上がったが、休む暇さえ与えられず、つぶてのように声がぶつけられる。


「〝山羊であったもの〟よ、我らに刃向かうべからず。邪心が熟さぬのであれば、自ら引き下がりなさい。『災いだ。自分の隣人に怒りの熱を加えた酒を飲ませ、酔わせてその裸を見ようとするものは。お前は栄光よりも恥を飽きるほど受ける。酔え、お前もその隠し所を見られる。』」

「待て待て、いきなり、いきなりなんという乱暴なことをするのだ。一体何の権限があって、この〝俺の体〟を殴った…?説教よりもまず、〝俺の体〟を案じたらどうだ。」

 衝撃の強さから殴ったということにしたが、結局は何が何だか分からないのだ。自分が何をされたのか、そして自分の身に何が起こっているのかさえ分からぬまま、〝そいつ〟はとりあえず抗議の声を上げた。頭を働かせるよりも先に悪態が出てくる様を見て、さらい主は冷笑した。

「おや?先日、我らの主に楯突いたときは、『方々を歩かされたのだ』云々と不平を口にしていたから、此度は体を動かすという手間を省いてやったのだ。その批判は意味をなさない。」


 よろよろと左前脚をかばいながら、睨みつけようと眼をすごませたが、未だ頭痛が邪魔をしていた。やっとのことで体を持ち上げると、粛々と役人めいた口調をぶつける人間が、いったい誰かを〝そいつ〟は見た。

 翼や円環を実体へと織りあげる、放射状にきらめく後光。呼吸は整えられ、動揺や企てがまるで通らない眼差し。台本を正確に朗読するような話しぶりながら、よどみなく繰り出される声。そして清潔な服飾と、腕の骨を抱きかかえるような慈愛深い筋肉が袖から見える。黒く短い髪には艶と潤いとが揃うが、油によって外から整えられているのではなく、一本一本が「そこにあるように」存在する。顎を引き、結ばれた口の端がグッと上に寄せられると、唇の峰は黒い鼻穴と横一列に並び、整った鼻筋をより強調した。誰が見てもその人間が、神の軍閥に属する魂、つまり天使だということは、察するに難くなかった。

 また「げえっ」と悲鳴がひとりでに漏れた。

 邪なる憑き物は、山羊の頭が脳震盪気味で、知略を投げ捨てざるを得ず、謀で相手に先んずることのできないが為に、ひどく気分を害していた。この疲弊した影の存在は、彼を直視するに堪えず、屈して地に俯いた。


 だがこの愚かなる憑き物は、青い顔をさらに歪ませることになる。天使は一人で来たのではない。確実に結果を勝ち得るために、仲間を連れ立っていた。背後にもう二人、奥には更に一人が控えており、こちらの挙動を監視している。こちらを見竦めているのだ。

 〝そいつ〟に向き合った天の使いは、探照燈で炙るかのように、言葉を選んで悪意を追い込む。慈悲をかけたり、甘やかしたりなどはしなかった。寸分と逃げ場のないように、牧羊犬は追い立てる。 

「愚かなる〝山羊〟よ、まずお前は認めなければならない。ヨブは神の従順なる僕。そして徳と一体になった人物だ。それはお前が主との間で駆け引きをし、ヨブが財産を手放しても、『恨むことも僻むこともしなかった』、この結果から分かるだろう。お前が条件を想定したのだから、お前自身が苦痛を感じ、そうするであろうとした境遇で、ヨブの帯びる徳は尚、剥がれることを知らない。徳と言う物差しの序列で、お前はたった今、下位に立った。これでもまだ、かのヨブは、お前から尊敬されるに値しない主人であろうか。」

 また別の天使は言う。一辺を紐で止めた帳簿を脇へ挟む。

「次に〝山羊〟よ、あらゆる被造物の命に終わりはある。その中で、ヨブによって従えられる家畜と、他の牧者に従えられる家畜とがいる。お前の怒りは、誠実なるしもべヨブによって下される刃を、押し返すほどの価値があるだろうか。他所の家畜はお前を妬みはしないのか。もし他の生き物によって、お前が試しを受ける側になったとき、お前にお前の主人が見せたほどの胆力があるか。」

 そしてまた叫ぶ天使がいた。両手を開いてどっしりと構えた。

「最後に〝山羊〟よ。お前はヨブによって育てられた。お前の肉は山羊という生き物の肉だ。山羊は山羊から生まれるから、人間はお前の生みの親ではない。しかしながら、ヨブは主人としてよく働き、よく尽くした。お前がただ遊ぶばかりの子山羊の頃から、いやその遥か昔から、お前の群れと血族に草を与え、水を与え、陽光を与えた。時には身を守る壁を与え、屋根を与え、オオカミを退け、疫病を退けた。もしお前が従える者を得たとき、お前は雑多な多くの命を、彼と同じように、麗しく育てることができようか。お前のような多感で放縦な命へと、成長させることを拒みはしなかろうか。」


 天使たちは攻め立てた。〝山羊を〟ではない。山羊の迷いや悪意の中に、引っ込んでは現れる悪意をこそ潰しにかかった。時には鋭い牙を持つ獅子のようにかみつき、また時には濃厚な毒をもつ蛇のように背後を取った。あの手この手を使いながら、最低でも憑き物を追い払う以上の結果を得ようと、力強く聖なる章句を沸き立たせた。

 煮え湯を飲まされたように山羊は苦しんだ。ヨブの神を信じたあの後姿が、自らの手で潰すことができなかった威光を放ち、眩しすぎたのである。安らかなる眠りを妨げる朝の光は、いやしくも残酷な光であろうか。

 いいや、年を取った兄弟たちよ、童たちを見よ。彼らはあれほど元気に遊びに行くではないか!昇る陽光とは間違いなく、我々を包む神の慈悲なのだ!

 

 働きを以って神へ尽くさんとする天使たちの撃鉄と、打ち込まれる聖句の弾丸によって、山羊によって怯えさせられた大気が、雲が、また伸び出す様子に、神は嬉しいとお思いになったのかもしれない。山羊の前に再び、神は顕現した。光は地に垂直な脊椎と頭骨を照らし出す。太古から徹して放たれ続ける光に、我々は何を見出すだろう。もったいなきことに、そして慈悲深いことに、神は苦しむ“山羊に”、ひとつの問いをお与えなさった。

「「お前は どこから来た。」」


 決して肉眼に映らぬにも関わらず、確かなもの。主は優しく微笑まれていた。

 小さき山羊を、感情の濁流が襲った。山羊は思い出したのであった、自らの親が誰であったかを。あらゆる川は川上から河口へ流れる。川は豊かな土壌を運び、生きる命に潤いを与える。例え砂漠の広がる乾いた土地でも、定められた場所を川が流れているということの奇跡を、被造物は称えた。

 ああ、従える者と従えられる者、二者によって砂漠のイドラは組み立てられたのである。手を伸ばしさえすればそこにある。求めよさらば与えられん。山羊は萎えた後ろ足に力を籠める。やっと前足が地を離れ、ふっと軽く立ち上がると、眩しすぎる光の中で、おぼろげにいる神を視た。見えない手すりに掴まるように、優しくなでる風をなで返すように、神の方を向いた。

 まるで生まれ落ちたばかりの子供に帰ったような、弱々しい山羊の姿を見て、天使たちもまた自然に顔がほころんだ。何度でも生まれゆく地上の命が、愛おしかったのだ。


「――この瞬間を待っていたぞ!!――」

 天使たちは、〝そいつ〟のような何かが、山羊の細い体から声を上げたのを聞いた。

なんの声だろう、と首をかしげたところで、天使たちには合点がいった。

 そう、これは悪魔の産声だった。天使たちは奴を祓うために降り立ったのだ。その場にいたキャストは皆、顔から血の気が引いた。いよいよ、山羊に憑いていた内なる悪魔が、その身をひねり出そうとしているのであった。

 それはまことに邪なる存在であった。白い紙の上だからこそ、黒い文字が刻まれるように、主の光が山羊の第二の誕生を導いたとき、〝そいつ〟を、穢れされた山羊から、悪魔を引きはがす引き金となったのだ。小さな山羊の体は、明らかに自然現象に不釣り合いな動きをした。四本の足が地面から離れ、亡霊のように浮かび上がる。

 首根っこを何かに鷲掴みにされたのか?いいや、ただ首を持つだけなら、天使も連行する時に一度それをしたではないか。天使たちが異様なものを見るように、その光景を眺める道理はないはずだ。ひとりは指を差し、ひとりは手で空いた口を隠し、また頭を抱えるものもいた。

 本当に取り返しのつかない傷は、外側からの負荷ではない。内側から大きな影が膨張し、歪み、山羊の身体は生きたまま宙づりになった。そして箸でつままれた蒸し料理から、肉汁が滴った。色の濃い何かが、体の内と外を繋いでいる、目や鼻や口やその他から、ぼたぼたと擦れた大地に落ち、まだらに染めた。これは血ですらない。

「おいおいおい、やっとの登場かと思えば、好き勝手やるじゃないか。止めさせろ!すぐに止めさせるのだ!」

 比較的遠くにいた天使が指示を出すが、すぐ近くにいた天使たちは、不意の悪趣味な演出に面食らって動けない。手首などの節々は、標本針に刺されたまま接着されている。そんな神の軍側の事情などかまうことなく、恐怖の塔が冬のメソポタミアにそびえ立った。山羊に抗う力は残されていない。あらゆる侵害受容体は小刻みに振動しながら、文字で表せぬ警笛を鳴らしていた。

 弓なりの角を片手で握ったまま、靄のかかったうぞうぞとした影は、瞼を開き、まっすぐに西の空の神を見た。

 そいつは告げた。

 誰も聞いたことのない声で、誰もが知っている口をきいた。

「俺はあらゆる迷いを逡巡し、方々の人々の敵意を渉猟してきた。そうこうしているうちに、ここに呼び寄せられた者、ご招待に預かった客だ。どうだい、神をも意に解さぬ自己紹介は。俺を追う者よ。もう何度か聞かせているだろうが、その心の内を聞きたいものだ。」

「っ、ああ、まさに悪夢だよ。『何の権限があって俺の体を殴ったか』。つい先に〝お前〟が山羊の口から出した言葉を、そのままお返ししなければならないようだ。神に捧げられるほどに健やかだった山羊の身体を、お前、わざと汚す真似をしたな?」

 初めにさらって来た天使が、なんとか言葉を繋いだ。足元の白砂が黒ばんでいるのは、泥による汚れだけではない。取り囲む使いたちは警戒しながら、これ以上の事態の悪化を防がんと、直ちに動ける様に上体を前に傾ける。こぶしは力の限り固く握られ、額に玉のような汗がふきだしていた。


 主は、荒々しい気が渦巻く地上に、神を守ろうとする使いたちと、邪なるものとが対峙している碁盤をご覧になった。主からすれば、悪魔の優越であろうと、天使の緊張であろうと、何ら自身に危険を及ぼしうるものではない。あらゆる脅威は全能には向かわず、周縁の被造物に干渉する。

 ふと、横たわる山羊が、消え入る命をつなごうと、呼吸で腹を震えさせる痛々しい容体を晒しているのに主はお気付きになった。生贄としての山羊の姿によって、主なる神が思い出しなされたる事といえば、無垢なるヨブ、その人の姿であった。そして悲しい悪魔に、こうお尋ねになった。

「「お前はわたしの僕ヨブに気付いたか。地上に彼ほどのものはいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」」

 主の悲痛な声を聴いて、天使の小軍もまた心を痛めた。そしてそれぞれは、ヨブという信仰を守り通す被造物に思いを馳せた。そうだ、ヨブはよく耐えた。身をちぎる逆境にあってさえ、彼は正しくあり続けたではないか。我らもこの悪を討ち、きっと報いてみせることにしよう!決して空元気ではない。いまや彼が踏み込んで見せたあの境地は、天使たちが心を引き締め直すのに、充分過ぎる徳があった。


 さて、悪魔はさすがに悪かった。もはやエデンにて神から造られた因縁は、とうに捨ててしまっていた。山羊の大腿が押し付けられた真砂まさごが、「ギュッ」と悲鳴のような音を上げるのが、そいつの耳を刺激した。実に心地よい。

「くくく、くっくく。ああヨブという男もいたな。奴は確かに従順だ。未だに神が、正しく導いてくれると思っているのだろう。汚れていく砂のように、そのヨブの純粋さもまた、まだらの泥に染めてやれ。」

 自らの存在欲に狂った悪魔は、ここで影なる姿から形を変え、鈍いこがね色に光る、四つ脚の獣の姿をとった。攻撃的な鋭い角を持ち、その筋肉は他者の多くを犠牲にしなければ手に入らぬような、不釣り合いな体。しまいにはおぞましい雄たけびで、興奮を表現した。世界で最も驕り昂ったそれは、とてつもなく動物的に寒空に響いた。天も地も、自分さえも、等しくあざ笑うような声が、喉の奥から弾けて膨らむ。

「神よ、神よ、聞いてくれ!俺は加えて提案しよう!皮には皮を、という言葉もあろう。俺は奴が、命を守りたいがために、泣き言を差し出すところが見たくなった!手を伸ばして彼の骨と肉に手を触れてごらんなれ。面と向かって神を呪うに違いない!」

「ば、ばかな。そのような都合の良い話があるか。」

天使たちは驚いた。

「お前は最初、ヨブを初めとして、人間とは豊かさによって生きているのだから、豊かさを奪えば神を敬わなくなることを、主張していたのではないのか。それを主に認めさせんがために、あれほど耳障りに叫んでいたではないか。主もお前にそれを認めさせるためにこそ、あの一度、お前にいいようにさせたはずだぞ。その前提を今更反故にするのか。」

「それがどうした。」

悪魔はニヤニヤとした笑いを浮かべ、軽蔑したように言ってのけた。

なんと大胆に罪を重ねることだろう。奴はつい先刻まで隠れ蓑として纏っていたはずの、弱りきった小山羊の体をひねり上げ、あろうことか足元に投げ払い、放り捨てたのであった!水気交じりの砂利を鳴らしながら、力なく地に伏す山羊の身体に、邪心みなぎる金の小牛は、ついぞ視線を落すことさえしなかった。

「なんだと。」

「ああ、かわいそうに!」

天使たちはか細く息をする山羊に、走り寄って助けようとしたが、山羊の身を捨てた悪魔……形を取った金の牛の瘴気が邪魔をし、山羊に近づくことができない。意地の悪い笑みを顔に張り付けた悪魔は、かみなり雲の間を稲妻が走るように、その悪趣味な身を翻し、取り囲む天使たちをあざ笑って言った。

「いいか、俺の言うことをよく聞くがいい。俺は確かに覚えている。最初、神と契約した内容はこうだ。『ヨブは金を拝むようなやつであるかもしれない。だから財産を奪えば羊飼いは豹変するだろう』。その契約内容に沿って試され、ヨブは持っていた金や家畜という〝資本〟、将来養ってくれるであろうと期待した子供らという〝保険〟の、二つの富を失った。そしてすべて終わって彼を見れば、神を畏れる正しい人物、欲とは対極の道を歩む聖人であることが、よくよく明らかになった。奴は誠の模範であろう。神の造った作品で彼ほどのものはいまい!結構、結構。」

 悪魔は馬鹿にした様に手のひらを叩いた。そしてそのつま先で転がっている生贄の、投げ出された喉笛を踏みつけた。

「だが、その事実はどうでもよいことだ。それは〝山羊〟の邪心が、神との間で結んだ賭博だ。俺はその時、ただの代理として、その場に同席してはいたが、〝俺〟が、俺の名義で、結んだ契約ではないのだ。

 だから、ここに第二の契約手として、今度こそ〝俺〟が!この、名前を呼んではいけない悪魔が!名乗りを上げようではないか!」

 ここに至るまで悪魔の笑顔は、絶える兆しも見えやしない。もはや努めて爽やかとまで言えるだろう。一方で、悔恨の表情が重く張り付いているのが天使たちであった。遥か昔から追いかけ通しで、やっと悪魔を追い詰めたと思った。しかし居直り悪魔は強さと残忍さを隠し持っていた。気づいたときには手玉に取られていた天使たちは、たった一頭の山羊を前に、心を痛めるしかなかった。善なる人々さえ、あの機転には敵わぬという無力さを見せつけられた。

「なんと愚かな。悪魔とはこれほどまでに大胆で、しかし狭き器であっただろうか。」

「我々が慎重すぎたのだ……。慎重さという武器だけでは、商談でやつに敵うことなどあるまい。主の御前にありながら、このような失態を演じてしまうとは、甚だ遺憾というだけでは済まされぬ……!」


「おっと、お前たちがこの倒れた山羊を助けることを、あえて妨げている気はないのだ。用済みとなったこいつがどうなろうが、俺の知ったことではない。お前たちの好きなようにするがよい!…だが、俺の蓄えた邪心が膨大過ぎて、どうにもお前たちは、俺に近寄れぬように見える。

 せっかくだから交換と行こうじゃないか。お前たちに明け渡してやろう、この山羊を。その代わりとして、俺もヨブの身体を好きなように使わせてもらいたい、ただそうお願いしているだけなのだ。」

悪魔は満足げに笑った。

「もっとも、お前たちがどう皮膚を縫い合わせようが、どう祈ろうが、こいつの汲み干された体に這った傷が、今更癒やされ、再び立ち上がることになるとは、俺には思えないがなぁ。」

そして、歌劇のような調子をとりつつ、過激な嫌みを付け足した。

「神や天使が善なる存在だというのなら、乃至は、ヨブが俺の懐柔に耐えるほどの模範生ならば、この交換条件を呑むことが最も妥当だ。お前たちはヨブの信仰を信頼していたはずではないか。奴が神の子として、最も無垢な存在であると、自信を持って俺に勧めたはずではなかったのか!そうだろう?

 さあ、答えよ!再び我が前に宣べてみよ!ヨブは神も認める義人であるか、もしくは所縁無き羊飼いか!」

 こがね色の雄牛はさも自分が上品で賢いかのように、不敵に語り続ける。両前脚は大きく広げられ、筋骨隆々な上体を反らした。自らが神に成り代わる存在だと、その権威を言動から、自分で引っさげようとしているのだ。

 天使の面持ちは、無垢なるヨブに賭けるか、改心しかけた山羊を悪魔の手に握らせながら、悪魔を攻撃するかの二つに割れていた。神ではない彼らにとって、魂を天秤にかけることは、本来あってはならぬことなのだ。もっとも、冷静な議論をする暇など、この悪魔が与える由もない。この期に及んで多数決など採りうる訳がない、仮に採っていたとしても、せめて「四人で」来ていなければ…。

 一方で、主は焦っていらっしゃらなかった。主は怒ってもいらっしゃらなかった。主は恥じてもいらっしゃらなかった。主は忌みてさえいらっしゃらなかった。大いなる造り主は、常に大いなるものとしてふさわしい行動と、ふさわしい言葉を持ち、ふさわしい……つまり、人々の内心を満たせるだけの力をお持ちであった。ただただ、悲しい顔をされ、悲しい声色で言葉をお降ろしになった。

「「お前は理由もなく、私を唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」」

「それでは?」

「「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」」

悪なる者はそれを聞くと、してやったりと大声で笑った。そして天使にはもう見向きさえせず、自分の欲求を速やかに満たすため、煙のようにその場からかき消えた。

「おお、神よ、神よ。我らが主よ。

 どうか私たちを許すなかれ。

 私たちは弱い。あまりに弱かった。」

 四人の天使たちは、我々人間が夢にも見ないような悔しがり方を見せ、神にひれ伏した。それを聞き届ける暇を惜しみ、急いで山羊に慈愛を下すよう、主は促しなされた。天使たちが心から祈ることができるように、とのお計らいからである。

 天使たちは力なくうなだれ、山羊の身体は聖なる霊の手に取り戻された。あなたも称えることだろう、ヨブを取り巻く、幸いと災いの捨て石となった、小さな一頭の山羊の旅立ちを。

 天から持ってきた清潔な衣布で、天使たちは衰滅の途上にある山羊の身体を拭くと、少なくとも外傷だけは、眼に見えなくなった。しかし、死の淵から巻き戻すには、時が今少し至らなかった。たとえ奇跡の力を授けることができても、天使たち自身の力不足が、この事態を招いて、かくなる事態に至ったのであるから、この死は覆らないのであった。そして彼らは、せめて旅に出た亡き魂を、神の光のできるだけ近くへ送ろうと、静かに、静かに、祈るのであった。

『どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分に報いてくださるように。』


 それにしても、なんと危険なことであろう、神と人との接続を、断ち終えた存在がいるということは。天使たちは今後の悪魔の対策に手を焼くことになった。だが、彼らは聖なる神の使いである。人々の救いのためならば、訪れる冬よりもしたたかになりうるのだ。彼らはこれを機に、つまり〝悪魔〟がヨブの正義を折りたたんで終わらせることに心血を注いでいるうちに、こやつを討ってしまうことにした。「ヨブよ、どうか耐えてくれ」と、その希望をヨブへ託しながら、東西南北へ飛んだのであった。

 平原の白い肌の上には、「悲鳴を上げた跡」が残るばかりであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る