2. 悪い獣の横行

 現代で言うシリア、イラク西部はユーフラテス川を北に臨む地。厳かな陽光の降るこの地に、ヨブという、無垢にして神をよく畏れる、正しい人物がいた。彼は自他ともに認める、正義の人物であった。


 彼は家畜を飼いながら、ひねもすよくよく働く男であった。彼自身、羊や山羊を追いかけ、また使用人を指揮して家畜を移動させ、日当たりのよい丘や、川沿いのまだ誰にも芽の摘まれぬ原っぱへ、羊を追い込むのであった。

 彼らはシェパーズクロックを携えながら、ときに羊たちをつまずかせる。これは目を離せばふらふらと離れる、物の分からぬ家畜を従えるのに都合がよかった。羊だろうと、らくだだろうと、驢馬だろうと、群れを形成して動くからには、難儀さに大小こそあれ、一頭一頭に目を届かせる必要がついて回る。

 羊たちはつまずきながらも、羊飼いたちの手腕によって、結果として必ず、みずみずしい青草にたどり着くことができた。乾いた風が彼らのごわごわとした毛をなでるが、しかしその毛には潤いがあった。丸々と肥え太った羊たちは、彼らより痩せた羊飼いたちに従えられる。かくして大所帯を流れる時間は、常にゆっくりとその歩みを進めた。誰かが疑問を差しはさむ余地もなく、この流れの中に羊飼いたちは暮らしていた。


 ヨブはことさらに、信心深い人物であった。彼は神をよくよく畏れた。

「もし私の息子たちが、心の中で神を呪っていては大変だ。子らが罪を犯してしまっては、親の私は主に申し開きのしようもない。地獄へと行くことになるだろうからね。神様、どうか息子たちを正しくお導きください。彼らが罪を犯そうとしたら、引き留めてください。アーメン、アーメン…」

 いつもこうして真摯に神に祈った。「神様に悪いことをしないように、他人様に迷惑をかけないように、」膝をついて深く黙したのであった。その飾り気のない姿を見て、同時代人たちはあざ笑うものもあったが、ヨブは耐えながらよくよく祈った。

 また、彼は家族が宴会を開くときにも、必ず神にいけにえを捧げた。彼らの育てた肉は、羊も牛もなにもかも上等で、誰もがこれを褒めるくらいであったので、もし遠国の人間が見れば、余すところなくすべてを食べたいと思ったに違いない。

 だが、ヨブはその美しく柔らかな、肉の最も麗しい大腿を、必ず神に捧げたのだ。こうして家畜たちを育てることができたのは、滞りなく美食にありつくことができたのは、まさに神の恩寵によるのだから……それが決まって彼の見方であった。

 こうしてヨブはいかなる時も神の無垢な子であったため、ヨブは堅実に栄えた。決して一足飛びにではなく、着実に、じわじわと、栄えたのだ。川べりからは目視できない、ペルシャ湾の大いなる渦もきっと、このように育つのであろう。川上から礫石の隙間を縫うように海へと集い下った水は、自らが生まれるべくして生まれたのだと、その大きな力でのゆさぶりを、決して出し惜しむことはない。さながら奢るかのように船を呑む。

 周りの人々も快く、富めるヨブの渦の許に集まった。そして彼との付き合いを求めた。息子、娘たちもヨブと仲睦まじく暮らし、幸せに暮らしていた。


 から風の吹く、とある初冬の日のことであった。アラビア砂漠の付け根の土地は、所詮雪など降りそうもない、寒さも凍えも知らぬ灼熱の地にすぎないと、諸兄は思うだろうか。まったく然り、是非もない。イラン高原やレバノンであればいざ知らず、諸君らがこのシリアの地に臨めば、頬をなぞるその風が、たかが雨乞いのひとつふたつを以てしても、にべもない気候であることが分かるはずだ。アムピトリテーからの歳暮はなく、渇きを潤す雪はさほど見込めない。

 だが、それは生きとし生くる者に動きを命じる、活動の季節だった。あらゆる種の枠を超えて、流れる汗を遮らんとする大樹であった。乾いた風は相も変わらずだが、雨を降らすでもないこの雲でも、誰もがありがたいと思うだろう。日傘がゆっくりと時間をかけ、頭の上に広げられていくのだから。

 その季節の訪れを迎え出でるつもりか、東から猛禽が飛んできた。大きくはない、むしろ小柄だ。静けさという言葉が鈍重に呼吸するこの地に、客であるこの空の旅人も、まるで倣ったかのように見えた。鳥はしずしずと飛んでいた。どれほど羽をばたつかせて見せたところで、耳にその荒々しい音が届くことは決してないのであった。

 ところが、いいやだからこそ、と言うべきなのだろうか、羊飼いの下男の一人は、鳥の急ぎ行く姿を見て、思わず顔を引きつらせた。

 冬に先んじて飛び出しただけなら、まだ良かった。誰もさして気に留めることなどないだろう。しかしその鳥は、さながら季節の移ろいに未練がましさでもあるかのようだった。そのおもねりの感情を鳥に映し出したのは、冬と言う季節に心を躍らせた、飽くまで下男自身の、潜在的で、職業的な拘りがあったからなのだが、彼にはその姿から何かもののけのような醜さを想い連ねられ、どうにも好ましく見えなかった。そして背後の空を交互に睨みながら、こんなことを呟いた。

「さあ、おいでなすったぞ。あの黒い雲が俺たちを見下ろしにかかったら、もうじき冬も力を増すだろうよ。神様とて私たちに、よいことだと思って季節を流していらっしゃるかは俺に分からぬが、やっと待ちわびた冬が来た。これがティグリス川の向こうまで行けば、寒さに凍えるくらいなのに。

 しかし、あの鳥は何だろう、どうもよからぬ気配がする。ハヤブサの類だろうか。さては熟さぬ家畜をさらいに来たか。」

 彼は杖を振り上げて、猛禽を殴ろうとした。ところが、小さく素早い生き物をぶつセンスは、彼に味方しなかったようだ。雨傘の持ち手のように曲がった杖は、猛禽に直撃することなく宙を切った。襲われた鳥はやみくもに飛んで逃げようと、家畜たちのたむろする、町はずれの方へ向かった。

「しまった!そっちには……!」

 黒いかたまりに驚いたのが家畜たちである。猛禽は山羊のすぐ上をかわすように飛び上がったが、山羊はのけ反った。次にいけにえにすることにしていた、上質な山羊の一頭が、弓から放たれた矢のように駆け出し、夕闇に消えてしまった。


 しばらくした後、事の顛末を知ったヨブは、若い羊飼いを強くとがめた。

「ああ、山羊を一頭屠りそこなってしまったではないか。主に捧げるための肉が。これではあたかも、『あの鳥に山羊をくれてやった』のと同じようなものだ。お前はどう落とし前をつけるのか!?」


 

 逃げ出した獣が遠くまで走らず、姿を潜めて近くに留まることも存外あるものだ。

 姿をくらませはしたが、牧者の気を引こうとしたのだろう。子供の山羊であるならば、羊飼いを生業にする人間に、親代わりとも言える感情を持つものも珍しくない。無邪気なことであるが、とにかく、全くの思いのほか、山羊はそこにいた。

 ダマスクスの山羊は鼻が上を向き、頭は中央が平たく、目が横に突き出る。だが何より特筆すべきは、耳が巨大であることだろう。おもに熱を逃がすためであるが、その表面には血管が広くめぐる。

 その大きな耳で山羊は、積んであった杉の朽ち木の陰から、こっそりと羊飼いたちを見ていた。するとヨブの叱責が聞こえてきた。

 砂利を踏む子山羊に、ぽつりと思いが湧いた。ああ、あそこに頭領のヨブおじさんがいる。何を怒っているのだろう、と。山羊は近づいた。きっと自分が逃げてしまったことにより、悲しんでいるに違いない。早く駆けつけて怒りを解いてしまわねば。

 しかし、怒号は山羊の巨大な耳に届いた。

「——上等な山羊を一頭、屠りそこなってしまったではないか!」

 青天霹靂の言葉が、ビクッと山羊の足を止めた。山羊はうろたえるどころか、気が遠くなった。……それは期待していた、自分を失ったことに対しての叱責ではなかった。あろうことか、山羊の最期を操ることができなかった人間による、職務不履行者への叱責であったのだ!!

 思えばおかしかった。山羊は自らの肉の親を知らぬ。忘れるほどの昔、親とは分かれたきりだったからだ。乳離れしたときにはいつの間にかいなくなっていた。周りには同じような山羊も多くいて、そういうものだと思っていた。

 ……それで?母山羊はどこへ消えたというのだ。ついには草の生える場所をヒトは知るが故に、いつの間にか、まるで本物の親であるかのように振る舞い始め、それを自分は受け容れた。ヒトは、母を、または父を、どこへやったのだ。他の家畜たちはどう思っていたのだ。みな知りながらに従い、それでいて、今までそうだったからと諦めて死を待っているとでもいうのか。

「冗談じゃない、こんなことが!」

 今、山羊は理解した。燃料の木の皮が、火の中で反り返る様に、徐々に込み上げる怒りは、止まるところを知らない。消し炭が火そのものに姿を変える様に、山羊そのものが燃える炎となり、熱となり、煙となった。

「……知らなかった。奴らは俺を生かして養っているように見えて、実は殺す機会を窺っていたというのか……。ということは、俺は、もしあいつの下にいて暮らしていたならば、奴と出会わずに安穏に生きた分だけの寿命を、全うできないということか。」

 その事実は、幼児のようにただ遊びながら生きていた山羊には、驚くべきことだった。人間による、自分に対しての裏切りだ。ぐるりと山羊の目はひんむかれた。

「許せぬ、許せぬ!なぜ俺の命を奪うのか。命とは神から平等に与えられ、誕生を祝福されるべきものではないというのか。なぜだ!」

 山羊は荒く呼吸をしながら憤慨した。そして山羊は更地へ駆け出して、立ち込める雲に絶叫した。遠くから見ているはずの主存在に憤った。

「やい、命の造り主よ!形ある存在を超えて、天に座して見る者よ!

 この星の命を統御したるものよ!貴様はなぜヒトだけを、あれほど取り立てて肥やしたもうか!やつらは我々の命を握ったかと思えば、簡単かつ無感動に左右し、それを当然と考えている。命を授けておきながら、最後にはこちらの声も聞かず、首切り包丁を振り下ろす。なぜこれほどまでに、我々に与えられた生を理不尽なものにしたのだ!」

山羊は烈火のごとく怒った。

 果たして、神はつまらぬ怒りの声を耳にして、どうお思いになったのか。雲間からこうおっしゃった。

「「お前はどこから来た。」」

「地上を巡回していた。クタクタになるまで、ほうぼうを歩き回った。いや、歩かされていたのだ!あのヨブという、でたらめに動物を従える、羊飼いの男にだ。」

 主は山羊が怒鳴っているのを目におとめなさった。

 それは群れからはぐれ、土で汚れた体をぶるぶると震わせていた。横に延びた瞳孔をもつ眼が、ヘーゼル色に光っていた。その小さいこと、か弱いことといったら、神から見れば実に実に禿びたものであった。四肢はやせ細り、毛は荒く、そのくせ光る眼だけが神を穿とうと、ニワホコリの穂のように尖らせている。

 山羊の目は雲間から燦然と輝く神を捉えた。が、神はその姿を現すとき、ヒトと同じ形をとって現れ出たために、山羊は意図せず短い悲鳴を上げた。あまりに猛烈な嫌悪感を抱いたため、頭はくらくらし、目まいと吐き気さえ覚えたほどであった。

「ひ、ヒトの形をしてやがる……!」


 主はゆっくりとまぶたを閉ざすと、お前が何を知っているのかと問いかけんばかりに、この山羊に言葉をお降ろしになった。それは決してこの世界の、全てを震わせるほど仰々しいものではない。しかと存在を永きに残すような、光の柱のような声で、穏やかにお告げなされた。

「「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどのものはいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」」

山羊は果たしてそうだろうかと、すぐに口答えて言った。

「おおよそ、ヒトなどと言う憎らしい種族が、我々より先んじて持つ徳などない!そんなものは一切ない!ヨブは神を敬っているのではない、神を通して得られる富を敬っているのだ。その富にこそ、力にこそ、名声にこそ、頭を下げているにすぎないのだ!そしてもちろん、家畜と金とが人間の言う富にあたる。ではその金の出処とは、なんだ!?どこにあるんだ!」

 角の生えた獣は勿体ぶって一呼吸置いた。外見は変わらずとも、その言葉を響かせている者は、しゃがれ声を最大限に活かしてザワザワとがなった。湿った風は〝そいつ〟の雄たけびに震え、砂漠からは沸騰したお湯のようなふつふつという音が聞こえた。

「我々の肉を売り買いすることで、初めて奴らは手に入れるであろう、それが金だ!財なのだ!ひいては我々、家畜こそが、やつらの敬うべき対象になっているに違いない!

 もし俺のことばが偽りかどうか、今から言うようにすれば、それを確かめることができるはずだ。その手を伸ばして彼の財産に触れてみよ!面と向かって我々を惜しみ、神を呪うことだろう!」

 大演説のあと、山羊は、その姿を保っていなかった。誰も見たことがないだろう。のっぺりとした黒い影が兆し、邪に満ちた目が、正面から神をとらえていた。

 神はその眼をたいそう悲しまれた。なぜならば神は、憎しみを表現するために、生き物に眼という道具をお与えになったのではないからである。

「「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」」

 わざわざ〝そいつ〟が、神に許可を得たのはなぜだろうか。超自然的な力でヨブを損なうこと、言い換えるならヨブに呪念をかけること、など“そいつ”にとっては、赤子の手をひねるほど、容易く成しえた話のはずだった。

 それは生贄になるはずだった、山羊の中にある神との縁が、楯突くという形であっても、一度は神意を経由したいと思ったのかもしれない。自分が山羊として生まれたこと、ヨブが羊飼いとして生きていること。それらが全て神の手のひらの内にあったのだろうか、我々には知る由もないことだ。

 〝そいつ〟は再び山羊に姿を変えると、ヨブのところへひたひたと走った。


「申し上げます!申し上げます!」

 宴会をしていたヨブのもとに、慌ただしく男が上がり込んでいた。ヨブが見るとその男は、ヨブの召使であったが、上着などはふりほどかれ、土まみれのまま肩で息をしているのを見て、ただならぬ事が起きたのは明らかだった。

「誠に、申し訳、ございません!報告がございます!わたしどもが牛に畑を耕させながら、その横でロバに草を食べさせていたところ、北方からやってきた賊に、根こそぎ家畜を盗まれてしまいました!牧童たちはみな斬られてその場に倒れ伏し、これは取り返すよりも先に、まずヨブ様に報告せねばと、わたくしひとりだけ逃げ延びてまいりました!」

彼が話し終わらないうちに、また別のひとりが寄ってきて、言いにくそうに言った。

「あのー、大変です。わたくし、ほんの、ほんの少し目を離していたのですが、突然落雷が一本杉に落ち、たちまち火災がおこり、羊と羊飼いに少なからぬ被害が出てしまいました……」

ヨブが怒り出す暇もなく、さらにまた一人が走ってやってきて、ヨブに泣き震えながら言った。

「大変です!緊急事態です!北西から敗残兵がやってきて、あっという間に我々の所有するラクダを奪っていってしまいました!隠れるのに必死で、牧童たちが大きな武器でやられていく様を、私は見ている事しかできなかった…!本当に無念です!」

これでもかと凶兆は続いた。

「おぉーい、ヨブさん、大変だよお!お前さんとこの子供らが大変だ!落ち着いて聞いてくれよ、いいかい。息子さんたち…一同と、娘さん方が集まって飲み食いしてたんだが、村でいきなり竜巻が起きちまったのさ!あまりにあっという間のことだったもんで、ほとんど坊主たちも俺達も何もできず、そのまま、…その家は倒壊しちまったんだ…!もうあれは助からないかもしらん…気の毒だが、覚悟を決めといたほうがいい。」

 あまりに急転する世界に、ヨブはそれらを呑み込めなかった。嘘であるならそう言えと、召使たちに迫ってみたが、果たして家畜たちは消えたまま、戻ってくることはなかった。牧場小屋はガランとしているのに、彼の屋敷の冷たい床には、棺桶が規則正しく羅列した。

 もう悪夢を受け入れざるを得ないところまで来たとき、ヨブは暁を眺めて息を漏らした。霊の枯れ切った肉の上を、目から星の雫が滴った。

 彼はなんと言ったと思うだろうか。

 唇から言葉は生まれた。

「……私は、わたしはこの世に、裸で生まれてきた。生まれてきたままの姿でこの世を去ることもあるだろう。主が私にお与え下さったのだから、主へとこれらを返すのだ。どうか主なる神が、人々に称えられますように。」

 そう、言った。無意識に彼の口から出ていた。

 すべて汚れきった己とは、対をなして美しく燃える空を、老いた羊飼いは呆然と眺めた。だがその目は憎しみや妬みの炎で揺らめいてはいなかった。「それはそうあること」、それを見通してなお、信仰という別の色の炎に燃えていた。ヨブは頭髪をそり落とし、衣服という衣服を処分した。そして力なくそこに佇むだけであった。


「……終わった……?」

 神への恨み言がヨブの口から零れることを、今か今かと心待ちにし、闇から様子を見ていた〝山羊〟の前で、ヨブの悲劇はその様子に何らの毒を吐く兆しも見えぬまま閉幕した。彼の驚異的な精神のもとに、ただ終わったのであった。

 確信していた神への勝利材料は取り上げられ、自分の暗躍は何も実を結ばなかった。当てが外れたとあっては、かの者も驚いて取り乱した。

「?いいや、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや!!

 そんなことがあるはずはない!これほどまでに甚大な躓きを迎えておきながら、神を呪わないのは何故だろう。これではあの神が言っていたように、ヨブが、人間が、有徳だということになってしまうのではないか…?」

 悩み続ける家畜は、無垢たるヨブを受け入れられるわけもなく、しばらくの間、じりじりとした心持で砂上を爪先でひっかいていた。やつがそんなことを認めるわけがなかった。

 〝この山羊〟はとかく人間が嫌いであった。「ヒトという生き物が、徳を持っているかどうかを確かめること」なんて結果に興味があったわけではない。「徳を持っていないこと」に結びつく結果をこそ望んでいた。そのため、今目の前にあるこのザマは、自分のやり方が間違っているために出てきた結果だと思った。思い込もうとしたのだ。

 そしてどうにかしてヨブの下等性を証明できないかと、思考を巡らせた。

「もっと徹底してヨブを、悪の道へとそそのかすのだ。そのためには順境と逆境でゆするのがいいだろうと思った。…だが、最初は順境でありながら、我らを握る刃で、好きなように屠ろうとしたではないか。今、逆境を動かしても、彼は揺らぐ様子を見せない。それではおそらく、彼を堕落させるのに、この飴と鞭ではうまくいかぬのだろうか…?」

 乾燥したメソポタミアの夜明けは寒かった。地平線の下へ太陽を、押し隠したるCapricornが、地上を睨みつけていた。太陽から最も縁遠いその空の画は、怪しく輝きながら、衰えたヨブの一身をこまねいていたようである。

 ヨブの神を畏れる心はいま、充分証明されたかに見えた。だが哀れな〝山羊〟はどうしても、飼い主を認めようとしないのだった。それどころか“山羊”はヨブをますます妬み、自らの解釈した悪意ある像の方向へと動かさねばならぬと心に決めた。それは〝そいつ〟が、「ヨブが嫌いであったから」、これのほかに理由はなかったのだが、これ以上の理由もないほどの価値を、ヨブの妨害と堕落に見出し始めた。

「いいや、違う。違うんだ。彼は一度手に入れた富を失っただけだ。…いわばプラスがゼロに帰ったからだ。まだマイナスの域に至っていない、それだけなんじゃないのか?」

 人間にとって本当の不幸とは何か。彼らが忌み嫌うものとはなんだろうか。


 めらめらと冷たい炎が踊っている頃、この悪を見張っている者もいた。「天の使い、天の徒」と呼ばれる存在である。彼らは決して表立って、この肉の世界にやって来ることはない。だが歪んだ想いが内面から外へ弾けて飛び出すとき、彼らはこの世に生きる物の心的機微を見ているのである。

 彼らはそれまで〝山羊だったもの〟が救いの道から外れ、醜悪に変容していく様子に息をのんだ。それは光を発する力などとうに失われ、泥炭よりも暗く地に伏せている。

「あの小さな山羊には驚かされる。この短い間に、あそこまで心を汚すとは。主があれほど穏やかにあられるから、私たちはまだ冷静に物事を迎えられる。だが、邪な心に身を染めすぎると、もう後戻りができなくなる。それはヨブの為にも、山羊自身の為にもならない。」

「山羊には既に、山羊を超えたなにかが憑いているようだ。たとえ強引に干渉してでも、私たちが率先して、この事態に助け舟を出すべきではないだろうか。」

 いななきは山羊の喉笛から出るが、そしりも謀略も敵意から生まれてくる。矢は弓の弦から放たれるが、一撃は獲物を射抜くための害意から飛来する。

 天使たちは、山羊のような〝そいつ〟が、どうにか神や、しもべヨブや、この世界と和解できないかどうか、頭を悩ませた。人々の寝静まる中でも、ヨブは哀愁漂う背を天使に見せている。こうしてついに彼らは多少強引な手段でも、再び〝そいつ〟を神の光に当ててみて、改心を促すことに決めたのであった。


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