三差配偽記

1. 産めよ、増えよ、地に満てよ

 ――天にまします我らが主よ、どうかお許しください。

 今からここに滑らせる言葉は、偽書以外の何物でもありません。かの聖書に数え並ぶ、光に満ち溢れた書を、いやしくも私は、ここに曲げようというのです。この書を私が記すと言うよりかは、既に著されていねばならないもの。本来であればもっと早くに書き終わっているべきでありましょうに、もっぱら飛び交う銃弾と報道のあと、すごすごと提出する夏季休暇の課題さながら、机上に絞り出された紙片のみじめさを真実が相手取りましょうか。

 かくのごとく思われつつも、私はここに書き記します。兄弟たちは私の執る筆の、黒くなめらかな跡が、「うるさく薄汚れた虫が、紙面をのたうったようだ」と、指を差して忌み嫌うかもしれません。この数千年の歴史を見て、奉る人々の多くいることを思えば、私の試みは、決して穏やかなものとは言えないのでしょう。

 書とは時を超えて永く、海を越えて広く、頁に向き合った我々の心がどう動いたかを、たっぷりと観察している、寡黙な隣人です。ましてや一介の小姓が、ないがしろになどできる筈がございません。

 しかしながら私は、主なる神、白の神に想いを馳せながら、この偽典を世に贈ります。それはひとえに、私がこの書を書くことで、あまねくこの箱庭世界、特に東国・漆器や陶磁器のお膝元は、より新しい酒によって彩られ、恩恵を受けるという確信からです。さよう、「新しい酒は新しい革袋にこそ注がれる」。

 とはいえ、この世界に生きる人々は、光を神から差し出されても、ありのままに飲み下すことができません。樽から汲まれたばかりの酒が、どれほど清らかに体に染みようと、その酸い甘いを味わうことさえもせず、脳に逆行する酔いによって打ちのめされ、その度の強さに痺れるのです。誰かが発泡水や湯で割りながら、希釈する手間をかけることで、ようやく盃を傾ける。そして舌で官能的にその雫をなめとっては、恍惚そうに頬を歪ませて、次は何で割ろうか、シナモンでも浮かべようかと考える。きっとそれはさぞ美味く、妖艶でありましょうから、優しい気持ちになって、他人に勧めだすかもしれない。

 さはさりながらも、口に入ることもなく損なわれた味とは何かに、きっと思いを馳せることもないのでしょう。何かに手を加えるということは、原液を飲みこぼすことだということを、一部の人々は知らないままに寝台に横になるのです。それは大方、我々神から切り離されたはぐれ者が、先に知恵の木の実を食べて、既に腹が膨れているせいなのかもしれません。

 まったく、海風の巡る先々で、どれほどこの書が疎まれているか、私には思い至り得ません。だからこそここでひとつ、彼らに回った蛇の毒を、今再び浸すべきなのです。さすれば異なる顔をした酒が、改めて器を満たすはずです。その妖艶なる波紋はさながら、深い赤紫色の一色にとどまり続けることはありません。エルの神を奉る神司たちの言う黄金色に、童心の見る夕焼けの赤銅色に、そして白月の浮遊する水平線の青や、陰森凄幽の緑に映し出され、あなたの祝福に微笑みで応えることでしょう。私の書いた文字列が、あなたの光を発するか、それともそこから黒い煙が立ち昇り、人々を眩ますことになるか、どうぞ、お見届け下さい。


 ありてあると伝えらるる神よ、どうか私をお裁き下さい。あなたは万象でありながら、人間に、人間だけに、「自らに由る」をお授けになりました。

 あなたは道徳律の頂点でありながら、光の先に待っておられる御方。あなた様ならば、私の自由の使い方が、どの程度の正義と謬見とに揺れるかをお量りのはず。信仰と苦悩が、熱情と悲嘆が、敬服と辞去が、狂いなき眼のまつりごとに依りて、私を然るべき実りへと、お導きなされることでしょうから。

 ことアブラハムに名を連ねる者は、人々に創り主への謙虚さを説きました。そして徒弟は今日まで、その教条に込められた厳格な、ある意味で苛烈な〝敬虔さ〟を、語り繋いでまいりました。それは何故なら、私たち人間が誉れ高き被造物として、この言葉を貴方様から承ったからでありましょう。「産めよ、増えよ、地に満てよ」と。あなたがこの大権を、人間に許された必要性からに他なりません。

 このことから、人間という単一の種族が、この惑星を従えるとき、「他の獣どもの命より、優先して繁栄するための」理を、正当性を、何らかの形において構築する必要性が必然的に求められました。

 本来、神に生み出された命すべては、その価値が平等であるべきでしょう。命の宿るものは皆が皆、あなたに造られた相互いの兄弟であるのだから。生きている命全てが美しいと言うのであれば。されど現代に至るまで我々は、あなたに同じく汲み出された、馬や、犬や、蚕蛾や、花や、木々や、野いばらや、あらゆる家畜を含めた他種族の命を、そこに生きる命を(どれほど尊大なことか!)養殖と屠殺とによって数量管理をし続けてまいりました。

 それが農業です。外的種族にはない、人間特有の、この「命へ働きかける膨大な権限」が、文明生活をはびこらせる過程として、需要されたのでありました。この需要は必然也と言わんばかりに、神から与えられた火のようなもの、産業としても初期の初期に生まれたものであり、その当時はどこでも「農業供給力が共同体単位の力とイコールだった」ため、強者特有の持たざる者からの反作用がついて回ることとなり、与えし者、超越的第三者を想定して持つ者の頭を低くさせることができていました。

 ところが、悲しいかな。美しい習俗は形骸化してゆくばかり、人々は大義を喪ったのです。かつては食前に長々と述べられた口上、これは食材にではなく神に感謝しながら、口を清らかな言葉によって濯ぐ、疑問など差しはさむ余地のない「当たり前のこと」であったはず。勝利者が壊滅した街に響かせる吹奏管のラッパのごとき、荒廃した街を鎮める音色のごとくでありました。

 しかし今は誰の食卓にも造物主への歌は昇りません。この地上において矮小なる我々が、他の命を統御する管理のわざを、主ありてこそ、初めて授かり賜ったというのにです。

 彼らは瓦礫の山を登りながら、ふと立ち止まることくらいはできます。「さて、獣を食らうはいかにして、花蜜を嗜むはいかにして、その然るべき理を物にせんや。」その疑いの底には、各々が目は既に開いてはいなかろう、そう私は思います。実存主義と卵始点ダーウィニズムの台頭を遠因に、神は燃やされ、理念は形あるものから蹴り出されてしまったのです。そして七千人しかいない絶対菜食主義ヴィーガンが「肉食文化は醜悪だ」と言ったかと思えば、逆に五万人は存在する反論者が「絶対菜食主義は食文化の敵だ、個人の食卓倫理を押し付けるな」「しかし食材そのものに感謝を捧げよ、ほら美しい」などと怒涛の感情で流し去り、片付けた気になる。

 ……はてさて、それでいいのでしょうか。

 洋の東西に於いて、神学にも文化的な違いはありましょう。しかしその内実が分からないまま、批判したつもりになっているという人々も、多いのではないでしょうか。

 義務の伴わぬ権力行使は蛮行です。責任無き自由とは蒙昧です。もし人間が謙虚さという美徳を携えざるままに、畑を耕し、道を敷き、火を囲んで歌うなら、それは種の繁茂ではなく、生態系の蹂躙と呼ばざるを得ないでしょう。

 上述の前提を識るがゆえに、我らに惑星の支配を許可した、造り主への“謙虚さ”の重要性は、絶対的な尺度に絶えず導き出されておりました。だからこそ、残された有神論者は長口上を食前に詠むのでありました。預かりいただいた「膨大な権限」に、倫理的均衡を求めるがために。

 人の子は両の手に財を抱えながら、何を喪ったかが分からない。何を飲みこぼしたかが分からない。私はその仕組みを重々承知の上で、かの書を「せめてこれくらいは受け容れられるか」と、謀り事に従事するのであるから、例えるならそれは、先人の一つの美徳を希釈することであります。私もまた酔いつぶれて眠る人々を眺める事しかしない、眠るに任せておく罪を、一枚噛もうというのです。

 その無様さから腹も痛くなるというもの。

 ああ、カインのまさに愚かなることよ、汝は土に血を染み込ませることを裁かれた。だがその行が何故に忌避さるるかへ、思い向けるべきであったのだ。そして彼の凶行を、あり様を、指を咥えて眺める二足の獣よ。人を殺めた結果の醜さだけを避けるなれば、それでよいというものでもないのだ。と、呼びかけるだけなら容易いものです。


 しかし神よ、「あなた様がどこにいるというのか」。この問いは古から私たちの関心の的であり、これを巡ってあらゆる人々が苦悩してきたのも、また事実なのであります。誰かが空を飛ぶに至るまでは、宙の上にいると思われていることでしょう。我らが時を遡ることができない時代には、無の始まりにいらっしゃると。これらはすべて一方性という名の矢印の、対極にいるという例えもできましょう。現に、あなたの御手はかざされながら、私たち被造物があなたに触れることはできません。ちょうど一筋の光を握ったつもりでも、軋む掌の上に重ねられたままのように。

 このことから私たちは、いつしか〝謙虚さ〟を忘れてしまった。石を投げても決して跳ね返ることがないのなら、どう投げてもぶつからないのだろう、云々。これが現代の人々の罪の正体ではございませんか。どれほど投石が数と勢いを増しても、あなたの慟哭と嗚咽とを、人々が聞くことはないのです。あなたの裂傷と流血とを、認めることがないのです。〝沈黙〟です。

 人の子は両の手に石を抱えながら、何を喪ったかが分からない。酔いのまわりだけは溌溂に早いのに。だから人々は、かの書を読んでも分かることはない。「なにゆえ、神の従順なしもべとして、決して事を違えぬあの男が、連続する悲劇に呑まれねばなかったのか。義人であっても罪を授からねばならないのか。」ここに疑問がとらわれてばかりだからです。


 知恵の木の実はその味だけが秀でていたのでなく、栄養も底知れずあったようです。現代という時代において、自然科学の邁進は、全知全能をして照らしむが如く、その勢いはとどまることを知りません。常に前へ前へと進むばかり、それが人間の共益に役立つ例はそこら中に散らかり、事欠かないほどの〝快楽〟と、少しの〝幸福〟を我らは貪りました。


なぜ雷と雨は我らに降り注ぐかを、いま神に問おうとする人間はいるでしょうか。


なぜ天幕が恒星を規則正しく周遊させ 惑星は彷徨うのか

 またなぜ月は満ち欠けを繰り返し 水平なる太陽は橙色に焼けるのか

なぜ鳥は空を駆け、獣は地を駆け 魚は波間を泳ぐのか

 またなぜ蝙蝠や土竜は眼を閉ざして尚 その命を営むのか

なぜ病いは、患う者の体から始まり 村を滅ぼすに至るのか

 またなぜその呪いは 顔を視ただけの人々に迄伝わるのか

なぜ川は氾濫し 架された橋桁は折れるのか。

 またなぜシュメールの鉄は鋭く エルウバイド煉瓦は家屋を支えるのか


 これらを今あえて神に問おうとする人間はいるでしょうか。

 かつて私たちは散発的に苦しみに襲われ、そしてその度に向き合うことになりました。測り知れぬ想いが人類を強かに鍛えゆくのに、さも長い光陰が流れましたか。

 いいえ、たかだか幾桁の数字が表わし出す内にあります。このわずかな時の進む間に、人間は数字と記録、そして労働で、蓄えた文化から文明の宮殿を急速に築いた。地上は天による清らかな抱擁をすすけさせたが、しかし自然を圧倒しながら改変を成功させ、我らの生活にある掘削と彩色は留まるところを知らない。

 これは大いなる主存在が、人間に〝自ら〟進みゆく力をお許しなされたからではありませんか。


なぜわれわれ人間は、「自らの力に由りて」

 これら知られざる種を解き明かしてみせんと欲するか


 疑問とは我らの内側から外側への興味の向かう先にあるものです。これもまた一方性の矢印に重ねて、地に満ちた人類の、神をまねるが如し。意識の表面を一方的にかさ上げしたなら、積めば積むほど重点も浮上する。であれば、謙虚さが我らの進化の良き補填として、同時に脊椎からこちらを見ていなければ、我らが行き着く先はバベルの塔です。どうせまた、倒壊と分裂が学問を襲うのでしょう。

 かくて、私は謝っているのです。許しを希っているのです。新しく紡ぎ始めたいのです。この書は原著の前に膝を屈するものであり、旧くからの兄弟の書に成り代わらんと欲する書ではありません。一句が一節を呼び、一節が一段を織るとき、人はかの書への陰鬱な謬見を払拭し、霊の目は紡がれた縄を読み始めます。その始まりの白線上に立つのです。


 いいかげん前置きはこのくらいにして、拍子木に急かされながら噺しましょう。これより語りましたるは、飲めや歌えやの芝居見物。さる羊飼いの男の話……いいや、彼を取り囲み、その胸に灯を燃やし続けた、誠の友なる人々の話でございます。

 私の文字が、前とにありて後とにありて、人々のために捧げられますように。


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