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 袖から覗くと、詰めかけた人々の頭部が目に入った。港町の小さな劇場とはいえ、満席ともなればそれなりの人数だ。圧迫感というのか熱気というのか、ともかく場内に満ちた気配の異様さに、私は怖気づきかけた。

 コンサートの終盤に配された、私の出番の直前だった。鼓笛隊の少年少女たちもすでに準備を整えつつある。

「震えるか? それが普通だ。酒場の酔っ払い相手だって震えるんだ。まして初めてだろ」

 一曲目から楽団に混じって舞台に立ちつづけてきたレナートさんは、言葉とは裏腹に飄然としている。彼自身の性格もあろうけれど、そもそも踏んできた場数が違うのだ。音楽とともに生きてきた――その矜持が、彼を彼たらしめているのだと思った。

「なあミルカ」低く、囁くような声音で言う。「俺はお前の先生でも師匠でもない。だが――」

「師匠ですよ」と私は彼の言葉を遮った。「私はそう思ってます」

「相変わらず馬鹿だな。もう少しまともな目標を定めろ。今日で夢が叶って終わり、じゃないんだぞ。音楽は生半可な気持ちじゃ続かないぞ」

「分かってます。でも私はあなたに教わって、初めての曲を弾いたんですよ。雛鳥が最初に見たものを親と思うようなもので、これからもずっと、追いかけていくつもりです。たとえよちよち歩きでも、一生かけてでも」

「餓鬼がよ」レナートさんは視線を伏せ、右掌で顔を隠した。掠れ声で、「これはな、異国のまじないだ」

「おまじない?」

「掌に文字を書いて、呑む。緊張を和らげる効果があるんだ。お前もやれ。あっち向いてやれよ。まじないが解ける」

 私は笑い、「なんて書くんですか」

「適当でいい。さっさとやれ」

 言われたとおりにした。やがてレナートさんは顔を上げて、「なにを書いた?」

「大切な友達の名前を書きました」

「来るのか」

「その約束です」

「そうか。だったら気張って、格好いいところを見せてやれ。お前なら大丈夫だ。お前はお前の音楽を、やればいいだけだ」

 行くぞ、と肩を叩かれる。自分を背後から見つめる自分がいるような、周囲のいっさいが現実感を欠いたような感覚。夢うつつの心地で、私は〈海竜琴〉とともに舞台の光の中へと歩み出した――。

 脇役であるところの私の立ち位置は、舞台の端だ。立ち止まり、客席に向き直って、私は呼吸を忘れた。真正面の座席から私を見据える少女の姿。その虹色の光彩。

 ボカンテさんが述べはじめた口上も、まるで耳に入らなくなった。この世界にふたりきりになってしまったような気さえした。波音が、月明かりが、並んで腰掛けた流木が、貝殻細工の耳飾りが、重ね合わせた掌の感触が、〈海竜の浜〉で分かち合ったすべてが甦り、私を満たしていく。クー。

 波打際からやってきた少女。私の愛した海竜。

 脳裡で、ひとつの意思が焦点を結んだ。

 気が付くと、体がひとりでに動いていた。挨拶を終えたばかりのボカンテさんのもとに近づき、小さく、しかし確たる決意を込めて、

「すみません。行かなければならない場所ができました。勝手な我儘で、本当に申し訳ないと思います。でも――」

「構わないよ」信じがたいほどあっさりと、彼は笑った。私がそう言い出すのを待ち受けていたようにさえ見えた。「弾くべき音を見つけたんだろう? ここは私たちとレナートくんに任せて。安心していい、我々はプロだ」

「ありがとう」やっとのことで頷く。

「我々は来年も、再来年も、その次もこのオザンナに来る。だが本当に君の奏でるべき音楽は、今夜を措いては奏でられない。そうだろう? ならば行きなさい」

 頭を下げ、〈海竜琴〉を抱えたまま舞台から飛び降りた。状況を呑み込めていないのか、ぽかんと唇を開いているばかりのクーの手を握り、

「行こう」

 返事を待たず、強くその掌を引いた。客席の隙間を抜け、扉を押し開ける。劇場を出るなり走りはじめた――〈海竜の浜〉を目指して。

「どうして」荒げた息の合間に、クーが問いかける。「私は、オザンナで、あなたと一緒に」

 一緒に。ずっと聞きたかったその言葉は、私にかたとき、クーがこの街に居残った光景を空想させた。彼女は単なる旅行者で、家族がここを気に入り、移住を決めて、海の見える小さな家を買い、私たちはともに、いつまでも――。

「友達だから」と私は声をあげた。「なにが正解かなんて分からない。でも今こうしなかったら、私はきっと、ずっと後悔する」

 何度となく下った石段が近づいた。砂浜の向こうに広がった、昏く、青く翳った海を、私たちは声もなく見下ろした。

〈海竜の日〉の夜にふさわしい光景だった。月光が白く揺らぐ波間に不意に巨大な影が浮かび、躍り上がって、消える。

 風のざわめきと波音に混じり、甲高い旋律が響いてくる。声音こそまるで異なるが、それでいて確かに、この浜辺でクーが歌いつづけてきたものと同じ旋律なのだと知れた。甘美で、胸が波立つようで、そして哀しい、海竜たちの歌。

 お父さん。お母さん。震えがちなクーの唇が、そう言葉を紡ぎ出した。手を繋ぎ合わせたまま、浜辺を歩いていく。

「ほら」

 立ち止まり、やっとのことで手を離した。波間に近づいていく小さな背中を、私は見つめた。

「――やっぱり駄目だよ」不意にクーが私を振り返り、泣き出しそうな声で告げた。「私にはもう、海竜の声が出せない。群れには戻れないよ」

 息を吸い上げようとすると胸が震えた。それでも精いっぱい凛として聞こえるよう、

「クー。本当の気持ちを教えて。海に、家族のところに帰りたい?」

「――帰りたい。海が、私の居場所だから」

「じゃあ大丈夫。なにも心配しないで歌って」

 私は楽器を背中から下ろし、絃巻きを摘まんだ。海からの歌声に合わせ、調弦しなおす。迷うことはなかった。だってそれこそが、〈海竜琴〉の奏でるべき音なのだから。

 愛用のコインを取り出し、弦を弾いた。私は自身の役割を、はっきりと確信していた。ただ誠実に、伴奏に徹すればいい。それで、きっとうまくいく。

 クーがごく自然な動作で胸元に手を当て、歌いはじめた。汽笛のように引き延ばされた最初の一音が、徐々に変化する。〈海竜琴〉の響きに乗り、絡まり、溶け合う。

 声はやがて、人間のものではありえない、高く、透き通った波動へと変じた。海の響きそのものの音楽が、〈海竜の浜〉に生じた――。

「夢みたい」

 少女らしいはしゃぎ声が、クーの唇から溢れ出す。しかしその体はすでに光に包まれ、私の知る彼女ではなくなりつつあった。輪郭が薄れ、ぼやけて、ほんの僅かずつ本来の形へと帰らんとしている。小さな、青い――。

「クー、楽しかったよね」潤んだ視界の内側で、彼女の姿がまた揺らいだ。「私たち、一緒で、楽しかったね」

「うん。夢みたいだった。ミルカとのこと、全部」

 いつもと同じように裸足で波打際へと駆けていったかと思うと、クーは遂にして海竜の自分を取り戻し、海へと飛び込んだ。一心に波を分け、泳ぎ寄ってくる別の海竜へと近づいて、長い首をじゃれるように絡め合わせる。いくつもの影がそれを囲み、寄り添って、少しずつ、少しずつ、沖へと遠ざかっていく。

 やがて波間に突き出した頭部の輪郭が消え、ただ青く凪いだ海が眼前に広がるばかりになっても、私は〈海竜琴〉を抱いて、いつまでもそこに立ち尽くしていた。

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