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 赤い絨毯の敷かれた通路を、ふたり連れ立って歩む。階段を下りると、受付係の女性に声をかけられた。「〈宵の楽団〉の方ですか」

「団員じゃない。だが用があるんだ。バンドマスターに会わせてほしい」

 はあ、と彼女は困惑したように頷き、私たちの名前を控えて奥へと戻っていった。入れ替わりに現れた壮年の男性を、私は最初、彼女の上司なのだと思った。ところが彼は微笑して、

「〈宵の楽団〉でコントラバスを担当しているボカンテだ。私に話があると?」

 広々とした印象の控室へと案内された。私たちが楽器を背負っていることに気付いてだろう、彼は気さくな調子で、

「地元の音楽家かな。私も興味があるんだ。この美しい街の人々の音楽に」

「俺は余所者だが、こいつは街の人間だ。端的に言うと、俺たちを演奏に加えてほしい」

 ボカンテさんは小さく唇を開いたが、やがて両掌を組み合わせて、

「では演奏を見せてもらえるかな」

 レナートさんが自身のギターを、私は買い戻した〈海竜琴〉を構えた。目で合図し合う。 

 主旋律を彼に任せ、伴奏に徹した。私の腕を巧みに推し量ってだろう、基本的にゆったりとしたテンポを彼は維持した。それでいて同時に、情感に満ちたメロディを織り込んだ。 

 彼が楽しげな表情を浮かべているのを横目で確かめて私は安心し、できる限り誠実に自分のパートを弾きつづけた――。

「ありがとう」とボカンテさん。「あなたは彼女の先生かな。素晴らしいギタリストだ。すぐにでも採用したい」

 レナートさんと顔を見合わせて笑い合った。しかし言葉には続きがあった。

「お弟子さんのほうは率直に言って、その域に達していない。筋はいい。しかし私たちの求める水準ではない」

 私は俯いた。〈海竜琴〉の力を借りようとも、レナートさんのような達人に支えてもらおうとも、私は初心者なのだ。その事実を変えることはできない。

「そうだろうな」とレナートさん。「俺も承知だよ。まだまだだ。分かってる。分かってるんだ。でも――」

 彼は深々と頭を下げた。床に這いつくばらんほどの勢いで、

「一曲でもいい。一緒に演奏させてやってくれ。こいつの――夢なんだ」

「お願いします」と私も頭を下げた。「私と〈海竜琴〉に機会をください」

 ボカンテさんは短く息を吐きだし、それから柔らかい口調で、

「この街の鼓笛隊と共演する曲がある。そこに加わってもらおう。どうかな」

「本当ですか」

 ああ、とボカンテさんは頷き、

「その見事な楽器は〈海竜琴〉と言うんだね。奏者が自身を高めようとするとき、楽器と向き合うのは大切なことだ。訓練を通じて学べることは多い。だが楽器をより深く知る方法は、他にもある」

 扉が開き、別の人物が入ってきた。私は目を瞠った。

「この街いちばんの職人を呼んだ。私たちの楽器も見てもらおうと思ってね。どうやら彼から、君に話があるようだ」

 フリオさんが私の眼前の椅子に腰を下ろした。老職人は自身の髭を撫でながら、

「ミルカ。いま君に、〈海竜琴〉の物語をかたろう。その楽器の所有者に、海の響きの物語を」


 ***


 今日という日がなぜ〈海竜の日〉と呼ばれるか、君は知っているかな。そもそも海竜という生き物自体に、馴染みがないことだろう。伝説上の存在と思っているかもしれない。

 しかし彼らは実在する。ときおり人里に近づいて来さえする。このオザンナにおいてそれが起きる――一年に一度、彼らが接近できる条件が揃うのが、〈海竜の日〉というわけだ。

 彼らは普段、深い水底にいて、人間の目には触れない。しかし稀に、子供の海竜が群れから逸れて、人里に迷い込む場合がある。独りで海に帰るのは、幼獣には不可能だ。

 子供の海竜は成獣ほど海に適応しきっていないから、陸でも死ぬことはない。しかしどんなに群れを恋しがり、呼び声を――歌に似ているんだ――発しても、迎えは訪れない。成獣は年に一度しか近づけないからね。

 そうするうちに、幼獣の体は陸に馴染みはじめる。彼らは成長が早い。最初に失われるのは、海竜の歌声だ。ほんの数か月で、それは起きる。

 声を失くし、群れと言葉を交わせなくなった海竜は、少しずつ自分が何者であったかを忘れる。人に混じり、人として生きるようになるんだ。人間の世界はそれはそれで愉快で、幸せも不幸せもある。海での暮らしと同じようにね。

 しかし想いだけは残るようだ。陸に上がって長く経つ海竜でも、海の見える場所から離れることはない。泳ぎ方も、狩りの仕方も、家族のことさえ記憶から失せても、海の色と響きだけは、決して忘れない。

 そんな海竜のために拵えたのが〈海竜琴〉だ。海そのものの音を奏でる楽器。消えることのない海への郷愁を、そこには宿してあるんだ。


 ***


「フリオさん、あなたは」

 彼の腕にうっすらと浮かんだ鱗の紋様に、私は目をやった。若い頃に入れたという古い刺青。色の抜けて消えかけた、故郷の――。

 老職人は微笑み、小さくかぶりを振った。「私はもう五十年以上、オザンナで生きてきた。ささやかだが自分の工房まで構え、楽器作りに没頭して暮らすことができたんだ。そしていま、私の最高傑作たる〈海竜琴〉は君という、この上なくふさわしい奏者の手にある。幸運な人生だよ。思い残すことはなにもない」

「でも私は――」

「技術だけの問題ではないんだよ。君は、自分が奏でるべき音を知っている。〈海竜琴〉の真の力を引き出すことのできる人だ。私にはそれが分かる。だから満足なんだ、心から」

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