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 窓硝子の向こう側を、無数の木箱を組み合わせて作られた長細い生き物が、身をくねらせながら泳いでいく。操っているのは黒いヴェールをすっぽりと被った一団だ。巧みに息を合わせ、張りぼての竜に魂を吹き込んでいる。

 その後方を、揃いの衣装を着込んだ少年少女から成る鼓笛隊が行進してくる。私の家の前でいったん停止し、指揮者の笛の合図できびきびと向きを変える。大通りに向けて再び進んでいく。

〈海竜の日〉だった。オザンナの夏の、最大の祝祭。

 軽快な行進曲に合わせて、私はレナートさんに借りたギターを爪弾いた。短い期間ではあるものの、必死に練習を重ねた。思い通りには程遠いが、それなりに手が動く。弦を押さえる左手の指の皮はずいぶんと厚く、しなやかになった。

 当初はレナートさんを真似て指で弾いていたが、今はピック代わりのコインも併用している。私以外にそうした奏法のギタリストがいるのかは分からない。私に思い付くくらいだから、おそらくいるのだろう。本番の前にでも訊いてみようと思った――彼ならばきっと知っているだろうから。

「あ」

 じゃかじゃかと弦を鳴らすうち、指の隙間からコインが落ちた。これだけならばそう珍しいことではないが、運の悪いことにギターの孔から内部に転がり込んでしまった。顔を近づけて覗き――慎重に取り出す。内側の様子を目にしたのは、それが初めてだった。

「そろそろ出掛けようかな」

 空中に向けてそう言い、ギターを専用の袋に収めて背負った。レナートさんと役場近くの公園で合流し、楽団のもとに向かう算段になっている。

 時間までクーと一緒に街を回れたら楽しかろうと思っていたが、その約束は取りつけられなかった。家族との予定があるならそちらを優先して構わない、と告げたのは私のほうなので、仕方がないといえば仕方がない。

 家を出て、両側に露店の立ち並んだ通りを進んだ。テントや樽を流用した簡易テーブルには、グラスを手にした人々が集い、笑い合っている。酒好きのレナートさんも今ばかりは禁酒だろう、舞台が終わったらその反動で朝まで飲むのかもしれない――などと考えているうち、古物市の会場に至った。教会前の広場である。

 古着や日用雑貨が中心だが、絵画や骨董品を扱う店もあるようだ。漫然と眺めながら歩くうち、私は驚くべき発見をした。放心のあまり呼吸さえ忘れた。

〈海竜琴〉が売られていたのである。私が買ったときの十倍の値で。

 声を震わせながら、店主に話を聞いた。売主は明るい髪色の、背の高い青年だったという。ほぼ間違いなく、レナートさんだ。

「どうして――どうして」

「さあね。ほぼ新品で、音もほら」店主が無造作に弦を掻き鳴らして、私に聴かせる。「最高だろ。お嬢さん、買う? 買えないか、さすがに」

「売った人は、今どこに」

 彼に訊いても仕方あるまいとは思ったが、訊ねずにはいられなかった。すると店主は事もなげに、

「本当についさっきだからな、そのへんにいるだろ。駅のほうに行ったと思う」

 頭を下げ、決死の思いで走った。まもなく雑踏の中に浅い色味の後ろ頭を見出した。ぼんやりとした歩調で、ひと気の少ない路地へと進んでいる。相手が独りになったのを確かめ、私は後方からその背中に向けて、

「レナートさん」

「ミルカか」無視するでも逃げ出すでもなく、彼は立ち止まってゆっくりと振り返った。虚ろな笑みを浮かべながら、「見たんだろ。それで俺を追ってきた。分かったよな。俺はお前の期待するような人間じゃない」

 私は体の側方で握り拳を作り、

「ちゃんと説明してください。どうして――あんなことをしたんですか」

「どうしてもなにも、俺はただの飲んだくれだ。楽団員でもなんでもない。金が欲しかった。だからお前を騙した。それだけだよ」

「嘘を吐かないで」私は声を張り上げた。「もし本気で騙す気だったなら、とっくにオザンナを離れているはず。余所で売ったほうがずっと安全なんですから。それに〈海竜琴〉は、ちゃんと音が低く調整されていました。直前まで約束を守ってくれるつもりだったんですよね。でも魔が差した。違いますか」

 レナートさんは答えなかった。私は背負った袋を開け、彼の古ぼけたギターを突き出して、

「内側に、古い写真が貼ってありました。子供の頃のあなたと――お父さん? 並んで笑ってました。とても素敵な写真で、私、嬉しくなりました。私を信じて、宝物を預けてくれたんだって」

 彼はしばらく茫然としていたが、やがて頭痛でも堪えるように掌で額を覆い、俯いて、

「それは確かに親父だ。餓鬼のころ、俺が音楽に夢中でいると知って、余った木材でそいつを拵えてくれたんだ。器用だったんだよ、昔は。でも今は見る影もねえ。今さら信じてもらえないだろうが――体を壊してな。ここへ来たのは薬代を稼ぐためだ。だが酒場で芸を見せるだけじゃ高が知れてる。そんなときちょうどよく、お前が現れた。笑っちまったよ、馬鹿正直な餓鬼でさ。目え輝かせて――」

 彼は首を振り、終わりだ、と口調を乱して言った。

「ばれたもんは仕方ない。金は返すよ。俺は御巡りのところへ行く。悪かったな、つまんない期待させて」

 歩み去ろうとする彼の正面に回り込んだ。両腕を広げて進路を塞ぐ。

「なんだ。俺を一発ぐらい殴らないと気が済まないか?」

「そんなこと言ってません。お金はここにある。〈海竜琴〉もある。元通りにできる。だからレナートさん、やり直しましょう。今度こそ楽団の人たちにお願いに行くんです。一緒に演奏させてくださいって」

 青年は信じられないという視線で私を見つめていた。私は根競べのように一歩も動かなかった。やがて彼は声を震わせて、

「本当にどうしようもねえ餓鬼だよ、お前は」

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