6
翌日、私はまた〈海竜の浜〉を訪れた。歌声がうっすらと響いていたから、クーがそこにいることはあらかじめ分かった。
歌は初めて聴いたときとはどこか印象が異なっており――強いて言えば僅かに低く、翳りを帯びて感じられた。旋律自体は同じなのに、不思議なものだ。
私が近づいていくと、クーは歌を中断して、
「〈海竜琴〉は? おうちに置いてきたの?」
「えっと、今日はお休みにしようと思って」
「そうなんだ」彼女はあっさりと顔を上下させた。「私も――今日の歌は終わりにしようかなって思ってた」
いつも椅子代わりに使っている流木に、ふたり並んで腰を下ろす。〈海竜琴〉をギター弾きの青年に預けたことを、なんとなく話しそびれてしまったなと思った。隠し立てしたかったわけではないのに。
「駅前広場や酒場通り、歩いてみた? 凄く賑やかでしょう」
私は明るい声音を作ってそう訊ねた。クーは足先で砂を弄びながら、
「そう――みたいだね。ちょっと驚いちゃって、よくは見物できてないんだけど」
「運が悪いと、前にも進めないくらいだもんね。余所の街――たとえばパレアポリスは、いつもあんな感じなのかな」
「行ったことがないから、分からない。南端に大きな港があって、いつも船が出入りしてるって聞いたことはある。たぶん客船だろうって」
変わった着眼点だと感じた。家族の誰かが、よほど船を気にかけているのだろうか。
「クーの家族は、旅行が好きなの? 他はどこに行ったの?」
「旅行というより――引っ越しが多いのかな。同じ場所にはあんまり長く留まったことがなくて。ミルカは?」
「私は生まれてからずっとオザンナだよ。大人になったら旅してみたいけど――故郷を離れたら離れたで、懐かしくなるのかな」
「なるよ」とクーは私を見据えて言った。少しどきりとした。
思いがけず口調が強くなったと感じたのか、彼女は視線を伏せて、ごめん、と詫びてきた。私は笑いながらかぶりを振り、
「そうだよね。きっと、そうなんだと思う。当たり前のことでも、なかなか気付けないね」
ふと、彼女の耳元に小さな輝きを見とめた。顔を寄せると、クーは驚いたように、
「どうしたの」
「ううん。耳飾りが――素敵だなと思って」
「ああ、これ?」と彼女は指先で耳朶に触れた。「故郷で作ってもらったの。貝殻でできてるんだよ」
「近くで見てもいい?」
どうぞ、とクーは応じ、海にまっすぐ視線を向けた姿勢で静止した。その彫像めいた横顔と、耳飾りの宿す硬質な光に、私は意識を吸われた。
眺めれば眺めるほど、それは不思議な形状の貝殻だった。幾何学的でありながら、人の知性からは産出しえない螺旋を描いていると感じた。確かな生命の名残があり、それでいて硝子ケースに収められたオブジェのようでもある。
「こういう貝、私にも見つけられるかな」
独り言とも問い掛けともつかない私の言葉に、クーは穏やかに反応して、
「運がよければ、きっといつかは。今すぐには見つからなくても、忘れないで探しつづけたら、どこかで出会えるんじゃないかな」
私は納得して頷き、
「気長に探してみる。そうやって見つけたものは、きっと大事な宝物になると思うから」
こちらを振り返り、宝物、とクーは繰り返した。虹色に輝く彼女の光彩が、私の影を映し返していた。「旅先で宝物を見つけられたら、それは価値ある旅だったって思えるよね」
「うん。目に入るたび、オザンナのことを思い出せるようなお土産を、クーにも持ち帰ってもらえたら嬉しいな」
「――〈海竜の日〉には見つかるかな」
「絶対」私は彼女の両肩を掴んだ。息を吸い上げて、「ねえ、クー。私ね、〈海竜の日〉の舞台に出るんだ。楽団と一緒に演奏するの。だから見に来て」
「ほんと?」
経緯を説明せんとしたが、その前にクーが飛びついてきて言葉が吹き飛んだ。危うく流木から落下するところだった。彼女の白い両腕が、私の首筋に絡む。
「凄いよ。夢を叶えるんだ。私――きっと行くよ。なにがあっても行く」
ありがとう、と唇だけ動かしたが、伝わったのかは定かではない。彼女はじゃれるように私を揺さぶったあと、ぱっと身を離して波打際へと駆けていった。素足で跳ね回り、水面を蹴って、弾けるように笑いはじめる。「夢みたい」
私も靴を脱ぎ置いて、クーのもとへと走った。柔らかな砂の、そして寄せる波の感触。彼女の青いワンピースが、長い髪が、風に煽られて悪戯気に翻る。海の音と匂いに包まれて、私たちはいつまでもはしゃぎ合っていた――。
陽が落ち、月明かりが注ぎはじめてからも、私たちは〈海竜の浜〉に留まっていた。隣り合い、掌を重ね合わせて、ただ波音に耳を傾けていた。どんな言葉を交わすでもなく、互いの気配だけを感じながら、時間が流れるに任せていた。自分たちは海とひとつになったのではないかとさえ思った。
「あのね、ミルカ」と不意にクーが言った。「私――」
「なに?」
彼女は唇を開きかけ、それから思いなおしたように引き結んでかぶりを振った。「やっぱりなんでもない。そろそろ、帰ったほうがいいかもしれないね」
「お部屋まで送っていく? どこのホテル?」
「大丈夫。先に帰って、ミルカ。私はもう少しだけここにいるから」
「そう。じゃあ――また」
「また」
砂を踏んで石段の入口へと向かったが、登りはじめる前に方向を転換して駆け戻った。月光に青く染められたクーを腕の中に抱き留め、「おやすみ」
「うん、おやすみ」
今度こそ振り返らず、私は独りきりで家へと帰った。永遠の波音が、眠りにつくまで、もしかしたら眠りについたあとでさえ、私の中に響いていた。海からやってきた少女の透き通った横顔と、貝殻細工の耳飾り。思うたびに胸苦しく、私は、恋をしているのだと悟った。
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