5
「本当に持ってきたのか」大荷物を抱えてビストロに入ってきた私を見とめるなり、レナートさんは素っ頓狂な声をあげた。「ああ、ああ、気を付けろよ。酒をひっくり返すんじゃないぞ」
楽器を運ぶのに必死で、相手の表情まで確認できたわけではなかったが、私は誇らしい思いでいっぱいだった。彼の傍らまで至り、床の上にケースを置くと、
「これで入れてもらえるんですよね」
青年はエールで満ちたグラスからいったん手を離したが、思いなおしたように掴みなおして、瞬く間に中身を干した。近づいてきた髭面の店主に空っぽの器を預ける。それから私に顔を寄せて、重々しい口調で、
「とりあえず見せてみろ」
「はい。絶対に合格のはずです」
ケースを開いた瞬間、レナートさんは茫然とし、あたかも楽器を初めて見た少年のような表情になった。は、は、と小さく笑みを零し、掌を額に当てて天井を仰ぎながら、
「やられたよ。どうやって手に入れた? こんなちっぽけな港町に、こんな見事な楽器があるなんてな」
「そうでしょう? オザンナで最高の職人が譲ってくれたんです。名前は〈海竜琴〉」
「ギターじゃないのか」と青年が私と同じ疑問を洩らす。
「機能は同じだそうです。弦もちゃんと六本揃ってるし、左手で押さえて音程を調整して、右手で弾いて音を出すんです」
「知らないだろうが、世には弦が七本や八本のギターもある。異国の、なんだか恐ろしい技巧の持ち主が使っていたのを見た。太い弦が余計にあるぶん、地鳴りじみた凄まじい音が出るんだ。重金属の機械みたいだったな、あれは」
そう教養を披露したあと、レナートさんは〈海竜琴〉と私とを交互に見て、
「少し触らせてくれないか」
「もちろんです。楽団で通用する楽器かどうか、しっかり判断してください」
彼は〈海竜琴〉の首を掴んでそっと持ち上げ、自らの太腿の上に置いた。抱え心地を確かめるように、位置を微調整する。「うん――いいぞ。素晴らしい楽器だ」
前回と同様に、じゃらん、と掻き鳴らす。煌びやかな音が拡散する。なんらかの演奏を始めるのかと待ち構えたが、そうはならなかった。彼は眉間に皺を寄せながら私を振り返って、
「このままじゃあ駄目だ」
私は愕然とし、
「なぜですか。いい楽器だって言ったのに」
「確かにな。凄い楽器だ。だがこいつは、楽団向けじゃない」
「だからなぜ」
「楽団ってのは多数の音が入り交じって、ひとつの音楽を作るんだ。楽器にはその一部として担うべき役割が必ずある。今のこいつでは、それを果たせない。音が浮いてしまって、いい塩梅には溶け込まない」
「そんな、そんな」
私は人目も憚らず、掌で顔を覆って泣きべそをかきはじめた。必死の思いで手に入れたのに。この楽器さえあれば、なにもかも上手くいくと信じていたのに――。
「泣くな。俺がどうにかしてやる」
え、と顔を上げた。私は指先で眦を拭い、「どうにかって?」
「要はだな、音が調子よく響き合うように調弦しなおせばいいだけだ。簡単だよ」
「本当ですか」
「ああ。だからこいつを――〈海竜琴〉と言ったか、しばらく俺に預けておけ。直しておいてやろう」
私ははたとしてレナートさんを見返した。論理的な言葉には違いない。しかしたとえいっときでも〈海竜琴〉を手放さなければならないと思うと、すぐには頷けなかった。
「ここでは直せませんか?」
「無理だ。全員の楽器と響き合わせて、慎重に調整する。だから時間がかかるんだ」
「その場に立ち会わせてはもらえませんか?」
「あのな、それぞれに都合があるんだよ。忙しいんだ。お前に構っている余裕はない」
「でも――」
青年は苛立ちを露わにして、「これ以上ぐずぐず言うなら、この話はなしだ」
「ごめんなさい。つい」
私が頭を下げると、彼は表情を緩め、
「まあ、任せておけ。手許に楽器がないのもなんだから、俺のを代わりに貸してやろう。基礎だけここで教えるから、あとは自分で練習しろ。構造が同じなら、弾き方も同じだ。持ち替えてもそう大きな違和感は起きない」
上半身を屈め、椅子の下から自身のギターを取り出して私に手渡す。〈海竜琴〉よりは幾分か小振りで、そして古ぼけていた。繰り返し、繰り返し、弾かれてきた楽器だった。
「構えてみろ」
命じられるままに体を動かす。レナート青年は私の手許を覗き込みながら、
「まずはここだ。指を広げて、しっかり先端で押さえるんだ」
私に才能があったとは思わないから、彼の指導が適切だったということになるのだろう。ものの一時間ほどで、ざっくりとではあるものの、私は曲に合わせて音を奏でられるようになったのである。
「ありがとうございます。レナートさん、〈海竜琴〉をどうかお願いします」
彼は満足げに微笑むと、片手を上げて店主を呼んだ。新たなエールを注文してから、
「しっかり励めよ、ミルカ。〈海竜の日〉を楽しみにしてるからな」
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