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「あれを売ってください」工房に踏み込むなり、私は声を張った。「ここに全財産が。足りなければどうか、分割で買わせてください。あの楽器が必要なんです」

「ああ、君か。どうしたね」

 奥から姿を現した老職人が、私の眼前に立った。なにかの作業の途中だったのか、片手に小さな工具を持ったままである。

「お約束どおり、自分の弾きたい音を探してきました。その人にギターを持ってこいと言われたんです」

 フリオさんは目をぱちくりとさせた。

「ずいぶんと早急だね。持ってくれば楽団に入れると?」

「――検討してくれると。あれならぴったりだと思いました。お幾らですか」

「少し落ち着いて、話を聞かせてみなさい。君にそう指示したのは誰?」

「レナートさんというギター弾きです。すごく巧いの。演奏を間近に見せてもらったのは初めてで、とにかくびっくりしました」

 話しながら、脳裡に音色が甦るのを意識していた。昂奮で声が裏返りかけた。

「〈鷲と栗鼠〉亭で出会ったんです。私が〈宵の楽団〉に憧れているのを、一目で見抜きました。私を傍に座らせて、指だけで弦を弾いて、そうしたら音楽が」

「なるほど、なるほど」例によって鷹揚な調子で、フリオさんが顔を上下させる。「腕利きのようだ。その場にいたのは彼だけ? 他の楽団員はどうしていたんだろう」

「単に独りの気分だったのでは。そんなことよりも、譲ってくださる気はあるんですか」

 私が壁にかけられた青いギターを指差すと、老職人は髭をたくわえた自身の顎を摘まみながら、

「君が約束を守ってくれたことを、私は本当に嬉しく思っている。だからできる限りの誠意で応えたい。いいかな、ミルカ。その楽器は――〈海竜琴〉という」

 私は首を傾げ、「ギターではないんですか」

「構造は大差ない。私がそう名付けた、というだけだ。誰のための楽器とも考えず、ただ海を眺めながら作った。そのうち売る気ではいたが、けっきょく手放せないままだ。今がそのときなのかもしれない」

「じゃあ」と私は彼に詰め寄った。「売ってくれるの?」

「売ろう。君がこの楽器で、奏でるべき音を奏でられることを願っているよ」

 はう、と声にならない声が咽から洩れ出した。かろうじて唇を動かし、頭を下げて、

「ありがとうございます」

 彼は壁から丁重に楽器を外し、いったん作業台の上に運んだ。絃巻きを摘まんで音を微調整したり、布で全体を磨いたりしはじめる。作業の妨げにはなるまいと、ほかの楽器を眺めて時間を潰そうと試みたが、けっきょく上手くはいかなかった。すぐに彼の傍らへと舞い戻って、その手許を一心に見つめていた――。

 重厚な黒いケースの中に収められた楽器を提げて、私は工房を後にした。ただ歩くだけでも一苦労だったが、まるで気にならなかった。掌に食い込む重みさえ喜ばしかった。立ち止まって反対の手に持ち替えるたび、その存在を再確認できるような気がした。

 レナートさんが〈鷲と栗鼠〉亭に来るのは夕方過ぎだ。いったん家に帰ろうかと考えたが、直後に素晴らしい思い付きが生じた。自然と足取りが早まった。

 クーに楽器を見せようと思ったのだ。出会ったばかりの友人に、手に入れたばかりの楽器を披露すべく、私は揚々と〈海竜の浜〉に向けて歩いていった。

 旅行客なのだからどこかの旅館に滞在しているはずだとか、あるいは街へ観光に繰り出しているかもしれないとかいった当たり前の認識は、なぜかまるきり意識に上らなかった。私はなんの迷いもなく小さな砂浜へと下り立ち、そして事実、彼女はそこにいたのである。

「クー、見て!」

 彼女は相変わらず裸足のまま、波打際から駆けてきた。淡色のスカートが風に翻る。「それ、どうしたの?」

「工房でいちばんの楽器を買ったの」

 平たい岩場を見つけ、慎重にケースを運んだ。クーが興味津々といった様子で屈みこむ。私は金具を外し、ゆっくりと蓋を開けた。

 透き通るような青さをふたりで共有できた瞬間は、今もって忘れられない。彼女は息を詰め、それから私を振り返って、

「やったね」

 私は強く頷き、岩の上に腰掛けて〈海竜琴〉を抱えた。たったひとりの観客たるクーが、私の正面に座った。

「なにか弾けるの?」

「ぜんぜん巧くは――でも聴いてみて」

「うん。ここで聴いてる」

 右手の親指を弦の上に滑らせた。低音から高音へ。当時の私にできたのはそれだけだった。単純きわまりない、演奏とも呼べない演奏。

 しかしそれは確かに、波間に浮かんでは消える光のような、短くも鮮やかな音楽だった。私の指が生み出し、空中へと放った音色。初めての魔法。

 凄いね、とクーは言った。凄いよ、と私も答えた。

 ほかに会話はなかった。私たちは顔を見合わせながら、いつまでも残響のなかに佇んでいた。

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