3

〈海竜の日〉を間近に控えて、オザンナの夜は目映い。店という店に灯りがともり、一帯を鮮やかに照らし上げている。がやがやとした話し声や、グラス同士をぶつけ合わせる音が洩れ聞こえてくる。名物である魚料理の匂いが鼻孔をくすぐる。年に一度の商機を逃すまいと、みなが必死だ。

 私は変わらず、老職人に与えられた課題について考えていた。来る日も来る日もふらふらと街を彷徨っては、喧騒のなかにこれという音を見つけ出さんとしていた。楽団の一員が発するにふさわしい、愉快で煌びやかな、それでいて都会的に洗練された音色――。

 その日、木製の丸っこい看板が吊り下げられたビストロの前で、私は足を止めた。耳を欹て、ここだと確信する。細く息を吐き出してから、褪色した赤の扉を押した。

 いらっしゃい、と声をかけられたが、私はすぐには返事ができなかった。穴蔵のような店内の奥まった空間にいた人物に、正確にはその手許に、意識を吸い寄せられていたのである。

「なんだ。俺になにか用か」

 私の視線に気付いたらしい青年が、ひらひらと片手を振って寄越す。浅い色の短髪で長身、つり目がちの、華やかな印象の風貌だ。酔っているらしく、頬が僅かに紅潮している。

「ああ、これが気になるのか。親爺さん、その子をここへ。余ってる椅子があるだろ」

 テーブルのあいだを擦り抜け、青年の傍らに陣取った。私は興奮気味に、

「あの、私、ミルカといいます。いきなり失礼ですけど、あなたは――」

「レナートだ。〈宵の楽団〉に興味があるんだろ」青年は陽気に笑い、膝の上に置いたギターを掌で叩いた。古ぼけてこそいるが、貫禄を宿しているようにも見える。

「すぐ分かった。こいつに君の目は釘付けだったからな」

「私、外でたまたま音を聴いて」

「少しだけな。俺にもう一杯エールを。この子にもなにか適当に、冷えた飲み物を」

 大振りな氷の入れられたフルーツジュースが出てきた。礼を言ってから、私はレナート青年の次の言葉を待った。

「喝采を浴びるのは気分がいい。それに稼げる。憧れるよな。無理もない」

「どうすれば入れてもらえますか。なにか試験がありますか」

「試験というか――適性の有無だろうな。腕はもちろん必要だ。たとえばそう、こんな具合だ」

 彼は楽器を構え直すと、じゃらん、と音色を確かめるように弾き下ろした。おもむろに掌を指板の上で踊らせはじめる。初めはゆっくりと、次第に激しく、それでいて軽やかに。

 親指で主に低音を、残りの指で豊かなメロディを奏でる、巧みな奏法だった。不思議とパーカッションの音さえ聴こえる。どうやっているのかは見当もつかない。

 演奏が終わるなり、場は歓声と指笛で満ちた。彼は照れたように頭を下げてから私に向き直り、

「ともかく楽器を調達してくることだ。なんでも構わないが、ギターなら俺にもある程度、判断が付く。見栄えするほうがいいな。観客を目で楽しませることも大切だ」

「そうすれば――一緒に演奏できる?」

「そういう話は楽器を持ってきてからだ。俺は夜はたいがい、ここにいる。次は自分の金で飲み物を頼めよ」

「ありがとう、レナートさん」

 ジュースを一息に飲み干すと、私は大急ぎで店を飛び出した。考えてみればとうに工房は閉まっている時間帯で、行動を起こすにしても明日を待たねばならなかった。その程度のことにすら思い至らないほど、私は有頂天だったのだ。

 とうとう奏でるべき音を見つけた。今度こそ楽器を手に入れ、彼の傍らで掻き鳴らそう。聴衆の熱気を、舞台の昂揚を、そして音楽の魔法を、この身で感じ取ろう。

 飛び跳ねるようにして家に帰った。その晩は枕元に財布を置き、朝日が昇るのを待ちわびて眠った。夢は見なかったように思う――おそらくはなにも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る