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工房からの帰り道を、普段よりもずっとゆっくりと歩いた。石畳の道の端で立ち止まり、風に混じった潮の香りを嗅ぐ。海は煉瓦色の建物の群れに隠れて、ここからでは見えない。
本来ならば今ごろ、真新しい楽器を抱えて意気揚々としているはずだった。慎重に音を合わせ、弦に指を滑らせて、自ら生み出した魔法に耽溺する――長年の空想を今日こそ現実とするために、凄絶な覚悟とともに家を出てきたのではなかったか。
今すぐ汽車に飛び乗って別の店へ向かい、なにかしらの楽器を手に入れるべきではないかと考えた。たとえ入門者向けの安物でも、自分のものとなれば相応の満足感を得られるに違いなく、練習に没頭していればそのうち、あの青色も意識から離れていくかもしれない。どんな形であれ、一刻も早く音楽を身近に引き寄せるほうが大事なのではないか――。
かぶりを振り、それから息を吐いた。フリオと名乗った老職人の真意が、私にはまるで掴めなかった。
私のような素人に、あれほど見事な楽器を売るはずはない。ならばなぜ、すぐさま追い返さなかったのか。期待を抱かせるような言葉を告げたのか。
あの楽器が奏でるべき音。私が見つけるべき音楽。
耳がふと、遠い旋律を捉えた。幻聴?
海から吹き寄せる風の音や海鳥の鳴き声が、音楽的に聴こえる瞬間はときたまある。眩しく清冽な朝や薔薇色の夕方、あるいは雨上がりに、それはよく起きる。普段ならば一瞬で失せてしまうはずの音が、今日は驚くほど長く続いた。
本当に誰かが歌っているのだと気が付くのに、ずいぶんと時間を要した。私は背伸びをし、かしらを巡らせて、その正体を探らんとした。
〈海竜の浜〉だと思った。方向を転換し、走りはじめる。
働いているパン屋へと至る通りの途中に、目立たない小路がある。そこを折れて石段を下っていくと、小ぢんまりとした浜辺に出る。たまに思い出したように訪れては、流木に腰掛けたり、砂の城を拵えたりして、ぼんやりと時間を過ごす。そういう場所だ。
本当の名前は知らない。〈海竜の浜〉というのは、私が胸の内で与えた勝手な呼び名にすぎない。岩や木々によって巧みに人目から隠された、その秘密めかした空間に、今は誰かが――。
岩場の隙間にある狭い石段を、私は慎重に下りていった。歌声は高まったり低まったりしながら、いまだ継続している。聴き慣れない旋律だった。しかしどことなく懐かしい響きを含んでもいる。そんな気がした。
浜に辿り着いた。出入口はこの一か所しかないはずだが、足跡の類は見られなかった。砂が陽光を浴びて、白く輝いているばかりだ。
流木の横を行き過ぎたとき、思わず声を洩らしかけた。私は見出したのである、水際に佇む人影を。
歌声が止んだ。相手が振り返り、胸元に右手を添えた姿勢でこちらを見返してきた。白く涼やかな顔に、幽かな戸惑いの気配を覗かせている。
少女だ――おそらくは私と同じ年頃の。
「ごめんね。邪魔しちゃったかな」
おずおずと笑いかけた。私はゆっくりと歩み寄りながら、
「よくここで歌の練習をしてるの?」
「ううん。今日が初めて」
小さく首を傾けながら、躊躇いがちな口調でそう答える。波打際に立った彼女が素足を濡らしていることを、私は知った。
「そっか。いい場所だよね。私もお気に入りなんだ」
街で見る顔ではない。旅行者だろうと見当をつけた。この時期にやってきたということは、おそらくは〈海竜の日〉が目当てだ。この分かりにくい入口をよく見つけ出したものだと思ったが、地元の人間ではないからこそ、かえって気が付く場合もあるのかもしれない。
どちらともなく、私たちは並んで流木に腰を下ろした。少女は裸足のままだった。海風が私たちの服をはためかせ、前髪を揺らした。
「どこから来たの?」
遠いところ、と彼女は言った。老職人と似たやり取りをしたばかりだったので可笑しくなり、私はつい口許を掌で覆って笑った。少女が不思議そうな顔をする。ごめん、と告げて事情を説明した。
「――楽団に入るのが夢なんだね」
「うん。今年こそ自分の楽器を手に入れて、舞台に上がってみたいんだ。この機会を逃したら、また一年待たなくちゃいけない。だから頑張りたい」
この段になってようやく、私たちは自己紹介をし合った。彼女は名をクーといった。私とはやはり同い年で、オザンナには休暇を利用した旅行で来たのだと語った。
「じゃあ〈海竜の日〉はご家族と?」
「海竜の――日?」
「一年に一回のお祭りだよ。それで来たんじゃないの?」
クーは曖昧に頷き、視線を海へと転じた。「知らなかった。そう呼ぶんだね」
「せっかくだから見物していくといいよ。街じゅう飾りつけされて、露店もたくさん出て、とっても賑やかなの」
少し間が空いた。彼女は足許の砂を見下ろしながら、短く、
「考えてみる」
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