波打際から来た少女
下村アンダーソン
1
エメラルドから深い青へと緩やかに変じる色合いは、どこか〈海竜の浜〉を思わせた。形も奇異といえば奇異に違いなかったが、目を惹かれたのはやはりその塗装で、私はずいぶんと長いこと、壁に掛けられた楽器の前に立ち尽くしていた。十三歳の夏のことだ。
「そいつが気になるかね」
調弦を行っていたらしい職人が、立ち上がって私に声をかけてきた。小ぢんまりとした工房で、ほかに客はない。仕事の邪魔をしてしまったかと不安がるうち、彼のほうから近づいてきた。微笑している。
私から見れば、祖父の世代に近いであろう人物だ。楽器で占められた壁も、ふたつの作業台も、奥の空間に収められた二人掛けのソファも、小さなテーブルも、棚も、なにもかもが古めかしい。
「色が」と楽器に視線を返しながら言った。訊ねたいこと、告げたいことは無数にもあったはずだが、咄嗟には思い至らなかった。「その――」
「好き?」
「好きです。とても素敵」
職人は白い髪を揺らした。仄かに木屑の匂いがした。
「弾いてみるかい」
私の返事を待たず、彼は楽器を壁から下ろして手近な台に立て掛けた。試奏の際に使うのであろうスツールを引き、
「弦楽器は初めて?」
「経験はないです。触っていいんですか」
「もちろん」職人は深く皺の刻まれた顔に笑みを浮かべた。スツールに腰掛け、楽器を自らの膝の上に乗せる。まずは近くでよく見てごらん、と私を手招いた。
私の記憶の中にある楽器――かつての〈海竜の日〉にこの街を訪れた楽団の奏者たちが持っていた楽器とは、大きく印象が異なる。同じ六弦でもこちらは明確に左右非対称で、片側だけにアーチ状の角が伸びている。首も、絃巻きの付いた頭部も、遥かに長い。どこからか掴まえてきた不思議な生き物のようにさえ、私には見えた。
「あ」
シャツの捲り上げられた職人の腕に、鱗に似た模様が覗いた。私の小さな慄きを見て取ったのか、彼は弁解するように、
「若いころ、生まれ故郷で入れた。もう色が抜けて消えかけているがね」
「どこなんですか?」
遠いところだよ、とだけ彼は答えた。はぐらかされたと思いつつも頷き、私は息を吸い上げて、
「変わった楽器ですけど、それがあったら〈宵の楽団〉に入れますか。〈海竜の日〉の舞台に立って、みんなの前で演奏できますか」
そう、これが問いたかったのだと、言葉を発しながら思った。当時の私の関心ごとといえば、もっぱら音楽だった。多くを知っていたわけではない。運よく立ち会えたいくつかの体験を繰り返し脳裡に甦らせては、幸福を噛みしめていた。憧れを募らせていた。
年に一度、このオザンナで催される祭りがある。普段の穏やかさをかなぐり捨てるように、街じゅうが喧騒に呑まれる。私が初めて、街の外からやってきた楽団を観たのは五歳のとき――八年前の〈海竜の日〉だった。
幕が上がり、舞台が目映い光に包まれた瞬間のことを、今でもよく覚えている。揃いの衣装で身を飾った男女と、それぞれが構えていた楽器の放つ煌めき。叩き出される軽妙なリズム、下から突き上げるような低音、鍵盤や弦楽器の生み出す透明な旋律。
「そうか、楽団にね」と目の前の老人が言う。「今年ももう、まもなくだな。君は彼らに加わってギターを弾きたい、と」
「楽器はどれでも構わないんです。ただ、あの人たちと一緒に演奏してみたいんです」
職人は小さく頬を緩ませ、
「ではなぜこれを?」
「なんとなく――色が綺麗だったから」
「なるほど、なるほど」
と職人は笑った。純朴すぎる回答と内心では感じていたが、彼はちっとも馬鹿にしたようではなかった。私の答えを気に入ったようにさえ見えた。
「大事な感性だ。頑張ってお金を貯めてきたのかな」
こくこくと頷いてみせた。近所のパン屋の仕事を手伝っている。高価な品は望むべくもないが、せめてしっかりとした楽器が手に入ればと願って、この工房を訪れた。しかし扉を開けるなり、真っ先にこの青に目を引き寄せられてしまった――。
「正直に言うと、これを売る相手は厳選する気でいる。高い金額を出す人、という意味ではないよ。このギターが奏でるべき音を見つけられる者に委ねたいと思っている」
落胆が、ありありと顔に表れたのだと思う。技巧以前に私は演奏者ですらなく、ただ舞台に立つ自分を夢想しているだけの小娘だった。美しいその楽器の所有者たる資格など、ひとかけらもあるはずがない。
「じゃあ――やっぱりほかの楽器を探します。お邪魔しました」
頭を下げて辞去しようとする私を、
「まあ、待ちなさい」
と職人が押し留めた。はたとしてその顔を見返すと、彼は静かに、
「誰に売るかまだ決めていない、と言っただけだ。もしかしたら君かもしれない。君がこの楽器に心惹かれてくれたのなら、その気持ちをもうしばらく、持っていてほしい。君も考え、私も考える。その時間を少しだけ設けるのはどうだろう。君の名前は」
ミルカです、と名乗った。空中に指で文字を書きながら、綴りを説明した。
「そうか。私はフリオだ。君が弾くべき音を見つけ出せたと感じたら、またここへおいで」
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