【小話あり】儀式
文吾は、目の前のテーブルに置いてある二つの盃に酒を注いだ。
ひとつは、自分のために。
そして、もうひとつも自分のために。
いや、正確には、自分のためではない。もう一人の自分のためにである。
これから、儀式を始めるのだ。
文吾は、盃を手に取ると、それを一気に飲み干す。
そして、何もない目の前の空間を見据え、心の中で呼びかける。
・・・・
出てこい 俺のこころ
そして聞け 俺の嘆きを
俺は 書けん
何も 書けん
ハッ 自称文豪を気取りながら
まったく 何も書けん
おお 出てきたな
俺のこころ 俺の影よ
なになに
ならば あきらめよ
あきらめれば 苦しみから解放される
おまえという存在は 死んでしまうが
オマエは ホントに 容赦がない
この俺に 死ねというか
それも考えた もはや この世に未練はない
俺の運命の歯車の歯が欠けた あの日から
だが 俺は それでも残したいのだ
俺の 『マスタァピィス』を
なになに
ならば 好きにするがいいと
ああ 好きにするさ
ありがとよ 俺のこころ
・・・・
儀式は終わった。
文吾は、書けなくなった時、こうやって自分のこころと対話するのである。
文吾は、すっきりした顔で、ぺろりと舌なめずりすると、もうひとつの盃を手に取り、それも飲み干し、そのまま横になってしまった。
その夜、文吾は夢を見た。
彼の運命の歯車の歯の夢を・・・もはや、その歯は欠けてしまい、永遠に失われた。
あの時から、彼の運命の歯車は止まってしまった。
「夏美さん・・・。」
文吾は呟いた。
夏美・・・彼女こそ、文吾の運命の歯車の歯だった。
彼女は、文吾にとって、すべてだった。
しかし、結核という悪魔が、彼女を奪い去ってしまった。
夢の中で、夏美が文吾に笑いかける。まぶしすぎる笑顔に、文吾は目を細める。
「文吾さん、焦ってはだめよ・・・あなたには・・・才能はないかもしれないけど、
誰にも負けない、文学に対する情熱があるわ。
私にはわかる。あなたは書ける。書けなくなったら、また、応援に来るわ。」
「夏美さん、ありがとう。
『マスタァピィス』を書き終えたら、すぐに、あなたに会いに行きます。」
あたりが、真っ白く染まり始め、夏美の姿は、純白に包み込まれた。
日の光を顔に受け、文吾は目を覚ました。
彼は、目に溜まった
これから、『マスタァピィス』を書きあげなければならない。
これを書きあげれば、再び、彼の運命の歯車は回り始める。
文吾は、書きもの机の上に置いてある写真立てを見て、微笑んだ。
その中の夏美が、いつまでも、文吾に優しく笑いかけていた。
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