chapter 7「もしも私が彼女に出会えていたら...(正)」 Ⅲ
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朝、目が覚めると頬を温かいものが流れていくのを感じた。
―――まただ。
白い天井に手を伸ばす。
―――そこにいてくれたらよかったのに。
―――この手を掴んでそのままそっちのセカイに連れていってくれたらよかったのに。
心地よいユメの余韻はたちまち胸を引き裂くような哀しさに代わっていく。
涙を拭うとゆっくりと起き上がり、机に向かう。暁光に照らされた月を瞼の裏に焼き付けるかのように筆を走らせていく。
”彼女”の言葉。
”彼女”の表情。
”彼女”の仕草。
”彼女”が思うこと。
”彼女”が信じていること。
文字という檻の中に閉じ込められた”彼女”との記憶をそっと指でなぞる。
ああ、そのすべてが愛おしい。
その少女のユメを初めて見てからもう一年以上が経とうとしていた。
初めての出会いははっきりと覚えている。
父親が変わって行きたくもない日本の高校に通うことになった。期待はそもそもしていなかったが、新しい世界はやはりつまらなかった。ありきたりおざなりの会話、決まりきった行動パターン。魂がない、まるでゲームの中に放り込れたかのよう。
春の風に舞う桜の花びらを見て絶望した。
これから何十年もこの風景を見ることに堪えられそうになかった。
その日の夜、ユメを見た。
どういうわけか今日一日をもう一度体験していた。両親に愛想笑いを浮かべ、人形たちと席を並べて退屈な入学式に臨んでいる。嫌がらせ以外の何物でもない。明晰夢だと理解しながらもユメは終わらない。セカイの終わりを本気で望んだときだった。
アナウンスとともに新入生代表の挨拶が始まった。
壇上に颯爽と上がる生徒を見てふと違和感を覚える。
現実では男子生徒―――たしかどこかのIT企業の息子だったか―――だったのに女子生徒に変わっている。しかも、その少女は遠目でもとんでもない美少女であった。
『私は生徒会長になってこの学院を最高のものにすることを約束します!』
まさかの生徒会出馬宣言に度肝を抜かれた。会場がおもくそ滑っているのにまるで気にしないその面の皮の厚さたるや。しかし、周囲を見渡せばさも当たり前のようにスルーで特に驚く様子もなく。どうやらこちらのセカイではその少女は当たり前の存在であるらしい。
長いホームルームが終わると息せききって廊下を走っていた。三つ隣の特進クラス、その少女は案の定いた。新しい季節に色めきたつ教室の中で予想通りというかポツンと取り残されている。おいおい、新しい教科書は確かにテンション上がるが、読むのは家に帰ってからにしろ。
『ねえ、あなた』
俯いた顔がゆっくりと上がると長い睫毛がぱちぱちと瞬く。間近で見るとますます美少女で滅茶苦茶にしてやりたい衝動を覚えた。
『あなたってポンコツだよね?』
不思議な瑠璃色の瞳がこれ以上なく見開かれる。あんぐりと開いた口がぱくぱくとわななくが言葉が出てこない。きっと出来のいい頭で必死に罵詈雑言を考えているのだろう。でも、育ちがいいから経験が絶対的に足りないといったところか。
『な、なんですか、あなたは!』
『さあ、なんなんでしょう?』
『あ、あなた、もしかしてバ、バカな方なんですか!?』
―――ああ、やっぱりカワイイな、コイツ。
それからユメをみるたびに二回目の「今日」を繰り返すようになった。
積み重なっていくあるはずのない日常。
いつだってその横には出会うはずのない少女が隣にいた。その少女は秘密基地に捨てたはずのガラス玉をいつだって大事そうに持っていた。そして、両手いっぱいに持ったそれをキラキラ輝くような笑顔で見せてくれるのだ。
やがて、その少女は―――にとってかけがいのない存在となったが、不思議なことにいつも名前だけは思い出すことができなかった。それ以外は鮮明に思い出せるというのに。まるで奇跡の対価だと言わんばかりに意地の悪いカミサマがセカイから隠しているかのようだった。
―――今夜もダメだったか。
ため息をつくと日記を閉じる。窓から差し込む朝陽はもう熱を帯びていて熱かった。そして、”彼女”との思い出がびっしりと詰まった机の棚の奥に新しい記憶を仕舞う。
そして、つまらない現実が今日も始まるのだ。
ああ、私はなんでこっちのセカイなんだろう。
”彼女”のいないこっちのセカイは色が無くて、とても退屈だ。
だから、私は―――。
+ + +
見上げた空は黒インクを零したかのようにのっぺりとしていた。月は無く、流れる雲を街から漏れた光が染めている。夕璃は星を探そうと頭を巡らしたが、人工の光に慣れた目はそれらしいものをなかなか見つけられなかった。
ようやく夏の大三角を見つけたそのとき、後方の鉄扉が重々しく開くのを聞いた。
「…………誰かいるの?」
大人っぽい外見に反して意外と可愛らしい声。しかし、いつもなら金管楽器のように騒がしいはずのそれはか細く震えていた。
「いますよ。待ってました」
スマホの光が来訪者の顔を照らしていた。闇にまだ慣れないのか、眼鏡の奥で切れ長の目が細められている。艶っぽい唇は今は真っ直ぐ引き結ばれ、風に揺れる黒髪は空に溶け込むかのよう。夕璃はいつまでも待った。そして、二見
「…………生徒会長?」
「まあまあ、逃げないでください」
夕璃は用意していたサーモスを手に取ると紙コップに注いで若紫に渡した。コップの中からは挽きたての豆の匂いとともにメープルの微かな香りが鼻をくすぐる。
「空を見ませんか? といっても月は無いし、明るすぎて星も見えません。おまけにコーヒーは季節外れのホット。秋になれば最高なんですけどね」
苦笑しながら一口飲むとメープルで飲みやすくなったコーヒーが口の中に広がる。この組み合わせは専ら紅茶党でコーヒーが苦手だった夕璃に若紫が教えてくれたものだ。
「…………ふう、美味しい」
たった二日だというのにその味はひどく懐かしくて、なんだか泣けてくる。
「呑気にこんなところでコーヒーなんか飲んでいる場合?」
振り向くと若紫はコンクリートの出っ張りに腰を下ろしていた。時折紙コップを口に運ぶとこちらを上目遣いで睨んでくる。大胆にも足を組み、中庭で出会った似非文学少女の姿はすっかり消え果てていた。その油断ならない姿こそまさしく夕璃の知っている若紫であった。
―――やっぱり猫を被っていましたね!
「『ノーネーム』の事件なら終わりましたよ。ホタルがサーバー内のデータを完全に破壊しました。津島
「…………そう、完全解決というわけ。やっぱりすごいね、アンタたちは」
「いいえ、漏洩してしまった情報は二度と元には戻りません。そして、心の傷、もです」
「別にいいじゃん。元々は身から出た錆でしょ? やましいことがない人間にはノーダメージなんだし」
「…………二見さん、」その呼び方はいかにも寒々しくて嫌だなと思う。
「それは違います」
「つまらない議論はやめようよ。こんなところに私をわざわざ呼び出したのはそんなことを話すためじゃないでしょ? ありがとう。コーヒー美味しかったよ…………なんか懐かしい味がした」
そう言うと若紫は紙コップを夕璃に渡した。コップに残った体温は瞬く間に夜の風に消えていく。
「一番肝心なことがまだでしょ?」
かつて感じたはずの温かさはこの世界にはどこにもない。
「犯人がわからなきゃ物語は終わらない」
「それは…………」
言い淀む夕璃を見て若紫は呆れ果てたとばかりに小さく笑って言った。
「そして、犯人は私というわけだ」
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