chapter 5 「もしも彼があの日私を...」Ⅰ


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 窓の外は真っ赤な夕焼けが空を染めていた。数日前から厚く垂れこめた雲から太陽がようやく覗いたというのにその色が不吉な血の色に見えるのは現在の自分の心理状態を反映しているからだろうか? 夕璃はそんなことを思いながら誰もいない廊下を歩き続ける。

 数分後、目的の場所の前に立つ。息がひどく苦しい。まるで100メートルを全力で走り抜けたかのように心臓がドクンドクン脈打っていた。

 呼吸を整えると意を決して教室の扉を開く。

 はたして葵井蛍はいた。夕璃が入ってきた扉とは反対側の扉のすぐ近く、気怠そうに机の上に座っている。


「ホタル、来てくれたんですね」


 自然と声が半オクターブ高くなる。蛍とまともに話すのは実に半年ぶりだ。前回は学校に誘おうとした結果、ひどく険悪になってしまった…………それ以来になる。


「はあ? おまえが学校に呼びつけたんだろ。それとその呼び方は止めろ。何度言ったらわかるんだ? それとも理解する頭がないのか?」


 しかし、蛍は最悪の機嫌であった。前回の別れ際をそのまま再生するかのよう。


「どうしてそんな些細なことにいつも腹を立てるんですか? 昔からずっと私はあなたを『ホタル』と呼んでいたし、別に変な意味もないじゃないですか」


 一瞬、蛍の顔から血の気が引いたように感情が消える。しかし、首を振ると苛立たしげに大きく舌打ちをした。


「バカか、俺は。この女が他人の感情を察する能力がないことをいい加減わかれ」

「ホタル、それはどういう意味ですか? 私は正しいと思うことを言っているだけですよ。私の主張が間違っているなら何が間違っているかはっきり教えてください!」

「なあ、そうやって完全武装して人を叩きのめすのがそんなに楽しいか? 他人はみんな自分を向上させるためのサンドバッグか?」

「私はそんなこと思っていません!」


 自分は間違っていない。間違えたとしても間違えを認めて訂正すればいいだけ。そう信じて生きてきた。だからこそ、今の自分に恥じるものは何一つない、はずだ。

 でも、どうしてホタルは私を見る度にがっかりした顔をするのだろう?

 どうして学院の生徒たちは視界の外で私を嘲笑うのだろう?


「ホタル、教えてください。本当に私の何が間違っているんですか?」

「ああ、誰も言わないなら言ってやるよ! おまえは―――」


 しかし、蛍は言わなかった。ひどく哀しそうな顔をすると振り上げた拳を自らの脚に叩きつける。乾いた音がしたが、その音は小さかった。


「…………俺に用事があるんだろ? 早く言え」


 蛍のころころ変わる態度に理解が追いつかなかったが、夕璃は頭を切り替えると用件を伝えた。その用件とはまさしく「ノーネーム」のことだった。


「『ノーネーム』のサーバーは学院の中にあります」

「まさか」

「この学院の内部ネットワークは特殊なプログラム言語を使っていることは知っていますか?」


 夕璃はとあるプログラム言語の名前を口にした。その言語はインターネットが主流になる前のパソコン通信の時代を起源にもつ言語であった。


「知らないと言いたいところだが、残念なことに知っている。ちょっと前に頼まれて弄る機会があったからな。あんなマイナー言語に触れるのは二度とごめん被る」


 学院の独自性だとか、セキュリティのためだとか色々理由づけられているが、結局はIT担当の五十代職員の完全な趣味である。その扱いづらさゆえにセキュリティに関してはむしろ脆弱であった。しかし、「ノーネーム」の捜査にはそれが幸いした。


「『ノーネーム』経由のスパムメールには奇妙な文字化けがいくつかありました。調べてみるとそれはこの言語で作られたプログラムでしか出ない、しかも、内部ネットワークのみで完結しないと絶対に出ない挙動なんです」

「あのクソみたいに大量なスパムを全て調べたのか…………」

「はい、これから学院のサーバー室に行って内部データを精査しようと思うんです。おそらく偽装したプログラムか、もしくは痕跡が見つかるはず。たぶん犯人は学院生です。大事にはしたくありません。だから、外部の人じゃなくホタルに―――」

「断る」


 夕璃の返事を待たずに蛍は扉を開けて立ち去ってしまう。鞄などの荷物はない。授業にはほとんど出ていないので本当に夕璃と会うためだけに来たのだろう。


「ちょっと待ってください! ホタル!」


 慌てて蛍の袖を掴むが、振り払われてしまう。


「偽善者ごっこをするのは勝手だが、俺を巻き込むな。いい迷惑だ」

「でも、みんな困っているんですよ!? ホタル、昔から言ってたじゃないですか、ホタルの夢は『世界中の人々を幸せにすること』だって。これだって―――」

「違う!」


 廊下中に響く大声に夕璃は思わず身をすくめた。


「なあ、ユリ。頼むからもういい加減にしてくれよ」


 自らの顔を覆った掌からそんな声が漏れてくる。そして、おもむろに掌を退けられるが、その顔はなぜか今にも泣きそうな顔をしていた。


「ただの他人ならバカな道化だと笑えるが、おまえは残念なことに俺の幼馴染だ。おまえのどうしようもないところは誰よりも知っているし、腹立たしいことにいいところも知っている。だから、もう見ていられない。六条夕璃は他人にとってどういう存在なんだ? 誰よりも正しい六条夕璃が本当に望むものは何なんだ?」

「私は、ただ…………」

「おまえは本当にすごいよ。顔はいいし、頭だって馬鹿じゃない。家だって大金持ちだ。でも、

たとえどんなに恵まれていようと、おまえには心がない。おまえがわからないんだよ。どんなヤツかわからないから信用されないし、気味悪がられる」

「…………わかりました。ご協力をしてもらえないことは理解しました。わざわざ来てもらってすみません。ありがとうございました」


 夕璃は一礼すると踵を返す。そして、時間の無駄とばかりに廊下の奥にすたすたと歩いていった。その顔を蛍は見ていない。悔しさと怒りに顔を歪ませて、大きな瞳の上にじわりと大粒の涙を湛えたその顔を。きっと見ていたらわかっていたはずなのだ。


 ―――六条夕璃に心がないなんてあり得ないことを…………。



+ + +


 ハッと目が覚めて起き上がると頬をつーっと涙が伝っていく。全身は気怠く目を閉じれば今すぐにも戻れそうな夢の気配が残っている。頭の奥には痺れるような感情のしこり。


 ―――思い出しました。


 奇妙な感覚だった。サーバー室を入った途端、誰かに殺されかけた死の恐怖よりも、全く得体の知れないこの事件の黒幕への畏怖よりも、葵井蛍が自分を理解してくれない怒りの方が心の中にはるかに強く残っているなんて。

 千々に乱れる心のまま一縷の望みを託してパンツの下を探ってみたが、悪夢はやはりまだ終わっていないらしい。


「…………はあ」


 大きくため息をついてから洗面所でアルコール除菌をしようと(信じられないことに夕里の部屋には除菌用品がない!)ベッドから起き上がりかけたときだった。枕の横で何かがブルブル震えていることに気づく。どうやら夜中に目が覚めたのはこれのせいらしい。

 液晶を覗くと今が夜の3時であるという情報とともに「葵井蛍」の名前が表示されていた。


「…………もしもし」               

『やっと繋がったか。ユウリ、大変だ。今すぐPCを開いてくれ』

「…………今じゃないとダメなんですか?」

『当たり前だろ! うん? いつになく不機嫌な声だな。なんだ、ガチャで爆死して不貞寝でもしていたのか?』

「…………いざとなったら必ず助けてくれると信じていた人に裏切られて、挙句の果てに殺されかけたんですよ」

『なんだそりゃ。何があったかは知らんが、おまえも大変だな』


 ―――それはアナタですよ!

 思わず叫びかけたが、グッと呑み込む。その代わり枕がめり込むほどの拳をたたき込む音が蛍に聞こえたかどうか。とにかくこちらの蛍は固い友情で結ばれた親友なのだ。


「…………開いたよ。REAに繋げばいいの?」

『いや、普通にネットでいい。サイトは―――』


 蛍から指示されたのは大手新聞のネット版であった。そして、地域版の一番上にその記事は記載されていた。


《渋谷区のマンションで高校生が飛び降り。意識不明の重体》


『永井火風花かふかだ。元生徒会の被疑者A』

「…………えっ!? それって!?」

『津島夢呂栖めろすは自宅マンションから姿を消している。今かほるが追っているが、昨夜から完全に失踪状態だ』


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