chapter 4 「もしも私が彼女に出会えていなかったら...」


+ + +


 被疑者C:二見若紫むらさき

 白蘭学院高校二年、特進医科在籍。造園部に所属。学院外では渋谷のW予備校に通う。


「………………それだけ?」


 思わず声が出てしまった。蛍はそんな夕璃を見やると再びため息をついた。


「その件についてはうんざりするほど話したはずだ………………まあいい。昨日は俺もうまく説明できなかった。REA、『ノーネーム』に公開された個人の人間関係を視覚化しろ」


 中空を埋め尽くすようにカラフルなボールがいくつも浮かび上がった。ボールの一つ一つが人間であり、それらは人間関係を示す線で繋がっている。そして、線が多ければ多いほど円の大きさは大きくなり、他者に強い影響力を持っていることを表していた。

 その中で最も大きかったのが被疑者である永井火風花かふかと津島夢呂栖めろすであった。彼らのボールは大きさもさることながら、張り巡らされた線によって太陽にすら見えるほどだ。

 対して二見若紫むらさきのボールはなかなか見つからなかった。一定以上の大きさを持つものを片っ端から目で追ってみるが、それらしきラベルはやはりない。


「二見若紫むらさきはやっぱり見えないねー」


 助け舟を出してくれたのだろう、ミカはそう言うと片目を瞑ってみせる。


「まったく…………おまえまで忘れたのか?」

「だって、ねえ?」


 蛍は呆れたように首を横に振ると手で何やら操作をした。すると浮遊していたボールが一斉に落下していく。そして、透明の紙の上にインクの入った水風船が落ちたかのように無数の円が描写されていた。二次元表示に変わったのだ。


「ここだ」


 赤いマーカーが一つの円を指し示す。その円は取り立てて大きくはなかった。むしろ他と比較すれば小さいといっていいだろう。


「これは…………」


 大きさも人間関係の広さも影響力も関係なかった。

 その場所“だけ”が問題だった。


「そうだ。『ノーネーム』の中心にいるのは―――二見若紫むらさきだ」


 三次元では決してわからなかった。いや、二次元でも遠くから俯瞰しなくては気がつかなかっただろう。銀河のように輝く渦のど真ん中にそのちっぽけな円は確かに在った。


「知り合いの知り合いの、さらに知り合い………と繋げていくと六人目には世界中の人間と間接的に知り合うことができるという仮説がある」

「『スモール・ワールド現象』、だね。社会心理学の仮説だっけ?」

「ここにいる人間の平均仲介数が平均3・74人。少ないのは学生中心の閉鎖的な環境だからだろう。それに対して二見若紫むらさきは2・63。『ノーネーム』上で公開された全ての人間と三人以下で繋がるんだ。ここにいる全員とだぞ。これは明らかに異常だ」

「…………単に顔が広いだけでは?」


 遠慮がちに、けれど、はっきりと指摘するとミカもかほるも頷いた。若紫の人脈が秀でていることは知っていたが、まさかこれほどだとは。


「かもしれん。これはあくまでREAが機械的に導いた可能性の話だ。俺だってAIが全て解決してくれると思うほど、こいつらを信頼しちゃあいない。毎日毎日飽きるほどバグと不具合を出すからな。けれど、調べてみる価値はある。二見若紫が犯人でなかったとしても真犯人に繋がる手がかりを得られるかもしれない―――昨日もそう言ったはずだ」

「ホタルが言いたいことは理解できるよ。理解できるんだけど…………」


 ミカは困ったように夕璃の顔を窺った。蛍もかほるも表情こそわかりにくいが、目顔で似たり寄ったりの反応をしていた。


「…………わかった」

「えっ!? ユウリは本当にそれでいいの?」


 正直なところ夕璃は苛立っていた。夕璃とて学院の運営を担ってきたことを自負する人間だ。蛍たちに圧倒されてばかりで面白いわけがない。


「二見若紫は犯人じゃない。絶対に!」

「その根拠は?」


 蛍の乾ききった視線が夕璃に刺さる。しかし、今回は朝のときのようにはいかない。盟友であり、生徒会の仲間がを侮辱されたのだ。


 ―――このまま黙って引き下がっていられるものですか!


 頭の隅々が急速に覚醒していくのを意識しながら夕璃は真正面から受け止めてやった。


「私、いえ、ボクが二見若紫という人物の為人を知っているからだ」

「客観性の欠片もないな」

「じゃあ、逆にキミは二見若紫の何を知っているというんだ? 二見若紫が何を大事にし、どんなことで笑い、どんなことで怒るのか? キミの後生大事にしている数字の羅列にはそれがあるのか? あるのならご自慢のAIに喋らせてくださいよ?」

「―――なん、だと?」


 蛍の顔から感情の色が消える。


「ユウリ!」


 色めき立ったミカたちが慌てて割って入ってきたので夕璃はむしろ感心した。いつもカリカリしているような蛍だが、本気で怒るとむしろ無表情になる。つまり、それを知っているミカたちはそれだけ蛍との関係が強いということだ。


「ミカは黙っていてくれ! これは“ボクたち”の問題だ」


 血の通った人間関係などゴミ程度にしか思っていなかった幼馴染が良い友人を持っていることは嬉しいが、今は関係ない。


「二見若紫は確かに全部が全部褒められるような人間じゃない。性格はすごくいい加減だし、口を開ければいつも冗談を言ってばかり。思いつきと気まぐれで行動するから動きが全く読めない。黙っていれば女性ですらドキッとするような蠱惑的な外見なのに、猫みたいにどこにでも飛び込むから見ているといつもハラハラさせられる。だから、あの子の近くにいる人間はすごく疲れてしまう。

 でもね、二見若紫は本当にいい人なんだ。誰よりも優しい女の子なんだ。一緒にいると心が太陽みたいにポカポカしてくる子、なんだ。

 これは…………二見若紫の親友、本人は親友だと思っている女の子から聞いた話だ。その子は品行方正、学業優秀、容姿端麗の三拍子揃った完璧美少女なんだけど、その子には友達が一人もいなかった。たぶん、あまりに完璧すぎるから一緒にいると引け目を感じてしまうんだろう。でも、本人はそれでいいと思っていた。だって、完璧なんだから。他人と違うのは当たり前。そう思っていた。

 でも、その子の前に二見若紫はひょっこり現れた。本当に気まぐれな野良猫みたいに。そして、言ったんだ。

『あなたってみんなが思うよりずっとポンコツだよね?』って。

 はあ? なにコイツ? とそりゃ思ったよ。いきなり現れていきなり口に出したのがコレですよ!? それからずっとまとわりつかれて、いくら無視しても自分が話したいことをベラベラ喋るわ、テストが危なくなれば泣きついてくる。そのくせ感謝なんか全然しない。便利な道具みたいに使って、人を何だと思っているんだ!」


 話しているうちにだんだん腹が立ってきた。そもそも普段の素行が悪いから変な事件の犯人に疑われるのだ。なんで並行世界くんだりまで来て擁護せにゃならんのだ!?


『だって、もったいないでしょ。学院の連中もさあ、ムズカシイこと考えないでボロ雑巾みたいに使いたおせばいいんだヨ。根が単純だから感謝の言葉一つで勝手に働いてくれるし、ユリもみんなに頼られてハッピーなんでしょ?』


 文句を言うと若紫は決まってこんな言葉を言う。むしろ依存されて嬉しいでしょとばかりにいけしゃあしゃあとしているのだ。


 ―――でも、むしろそれは若紫でしょう?


 詐欺みたいな言葉に騙されて若紫がまんまと副会長の職についたときはさすがに不味いことになったと思った。責任も義務も自分に押しつけて副会長という美味しい汁をありつくつもりなのだと。けれど、すぐにそうでないことがわかった…………。

 文句も愚痴も人一倍言う。

 勝手なことをしたことは数え切れない。

 しかし、二見若紫は副会長として常に六条夕璃の横にいてくれた。

 生徒会として初めての大仕事だった文化祭。片付けても片付けても終わらない雑務と事務仕事に忙殺されて毎日始発で来ては夜遅くまで生徒会室に残っていた。

 いよいよ心が折れかけたとき、若紫は淹れたばかりのコーヒーを渡すと笑ったのだ。


『ユリ、空を見に行こうよ』


 密かに借りていた鍵で屋上の扉を開けると少し湿って冷たいコンクリートの上に二人で座った。渋谷からそう離れていない学院の夜空はネオンのヴェールに覆われていてかろうじて「秋の大四辺形」がわかるだけだったけど、その豆電球よりも目立たない四つの星がどんな星空よりもきれいで、メープルシロップを入れたコーヒーはひどく温かったことを覚えている。


「何も知らないくせに! 若紫のことを悪く言わないで! 私の大事な友達を傷つけるのなら誰であろうと私はそいつを絶対に許さない!」


 まくし立てるように言う夕璃の顔を少年たちは呆然とした顔で眺めていた。夕璃は自分でも何を言っているのか皆目見当がつかなくなっていたが、自分が非論理的なことをしていることだけは理解していた。


 ―――私は何をやっているんでしょうか?


 これではまるであべこべだと夕璃は思う。夕璃はいつだって論理と理屈の人間であり、感情論ばかりを振りかざすのは若紫の領分だ。


『―――ユリは心がないんじゃないよ。ただもうちょっと自分に素直になればいいかなー』


 そう言われたのいつだったかもう思い出せない。

 あの笑顔はこの世界には存在しない―――それがただ、哀しかった。


「…………ユウリ、もういい」


 肩をぽんぽんと叩かれると蛍が目の前にいた。


「それから顔を拭け。ひどい顔だ」


 ポロのハンカチを押しつけると蛍はそれ以上は何も言わず自分の席に戻った。言われるがまま顔を拭くと自分が泣いていたことに気づく。


「…………ごめん。感情論ばかりで全く説得力がなかった」


 足に力が入らず、床がぐらぐらと揺れていた。大失敗だ、と思った。


「そうだな。おまえの弁護は最悪だ。これが裁判なら二見若紫は有罪確定だ」

「…………」

「でも、これは裁判じゃない」

「…………えっ?」


 びっくりした顔をした夕璃を前にして蛍は肩をすくめる。そんな二人を見てミカは笑いを噛み殺すように笑い、かほるは目を細めていた。


「おまえら何がおかし―――」


 蛍は何かを言いかけようとしたが止めた。そして、かぶりを振ると窓の外を見るともなく見つめ、やがて、フッと笑った―――その笑顔はとても優しいものだった。見ているとなぜだか締めつけられるように胸が痛むのを夕璃は感じた。


「おまえが、いや、二見若紫の親友が二見若紫をとても大事に思っていることがわかった。そして、ユウリはそのことを信じている。二見若紫の嫌疑を晴らすにはそれだけで十分だ」

「でも! それじゃ…………」

「納得がいかないか? 変なヤツだなあ。俺たちに信じてほしいのか、疑ってほしいのか、どっちなんだ?」


 そう言いつつ蛍が左手を振るとREAの姿が掻き消えるように消えた。照明が再び控えめに灯ると生徒会室の室内に少年たちの影が長く伸びる。


「さて、帰るか」

「うん、帰ろ帰ろー。かほるは稽古がんばってねー!」


 慌ただしくスクールバッグを肩にかけるとあっという間に少年たちは帰り支度を済ませてしまう。面食らう暇すらない。


「「「お疲れ様でしたー」」」

「ちょっと待ってよ!」


 オートロックがガチャリと施錠する音を聞きながら夕璃は蛍の袖を掴んだ。


「何だよ? 俺がこの世で三番目で嫌いなのが残業だと知っているよな?」

「そっちこそ何なんだよ!? いきなり気持ち悪いぐらい納得しちゃってさ!?」


 繰り返すが、六条夕璃という少女はこと理屈に関してはシベリアに墜ちた隕石よりも頭が硬い人間である。結果オーライでスルーできるような柔軟さはまるで持ち合わせていない。

 蛍は自分の頭をわしゃわしゃと掻くと「あ゛ー、これだから恋愛脳は」と呻いた。その様子を見たミカはついにこらえきれなくなったのか、腹を抱えて笑い出す。


「……チッ、皆まで言わせるな」

「…………なにが?」

「聞いているだけで胃もたれしてきそうなんだよ!」

「???」


 しかし、蛍は本当にこれ以上は話す気はないようでずんずんと廊下の奥に歩いていってしまう。その耳はなぜか真っ赤だった。わけがわからず振り返るとミカとかほるは二人して肩をすくめていた。


「はいはい、ごちそうさまでしたー」

「(お腹いっぱい)」

「???」


 …………やっぱりわけがわからない。


+ + +


 長い長いポプラ並木と住宅街を通り過ぎ、ようやく駅前の商店街に着いた頃には空はすっかり暗くなっていた。通りを歩く人も学生服姿はすっかり消え、スーツ姿ばかりだ。

 あの後、玄関を出るとかほるは待っていた事務所の車に乗り込み、ミカも中庭を歩いているうちにいつの間にか姿を消していた(相変わらず謎が多い男である)。蛍だけはタクシーに乗り込むこともなく、夕璃と一緒に駅までの道を歩いた。もっとも道中で会話らしい会話はなく、眼鏡型のウェラブル端末でずっと何やらしていた。口から漏れる単語から察するにどうやら社内の打ち合わせをしていたらしい。まったく…………忙しいことだ。


「ユウリ。おまえ、スマホの電源消したままだろ」


 商店街の中ほどを過ぎた頃、目下の仕事を済ませた蛍がむっつりとした顔で話しかけてきた。


「えっ? そ、そうだったかな?」

「どうせまたソシャゲのガチャで爆死したんだろ? まったく人の掌の上で遊ばされて何が楽しいんだか。自分で作ったほうが百倍楽しいだろ」


 さすが根っからのクリエーターは言うことが違う。

 ジト目で睨む蛍に促されて夕璃はバッグの中からアイフォンを取り出した。はたして電源は切られていた。どうやら無意識で切っていたらしい。リンゴのロゴが灯ると顔認証が瞬く間にロックを外してしまう。普段は使いにくいことこの上ない顔認証だが、“こういう”ときに限っては役に立つ。


「『ノーネーム』がいつどんな動きをするかわからん。REAとはいつでも繋がるようにしておけと何度言ったらわかるんだ」

「う、うん…………そうだね…………」


 期せずして夕里のスマホを開けてしまった。ゲームのアイコンが多いホーム画面をぼんやり眺めながら、夕璃は落ち着きなく流線形の縁を指で撫でた。


「そういえば…………」

「そういえば?」何だろう? 少し不安な気持ちで背筋を伸ばす。

「腹が減ったな」


 ガクッ!―――これがコントなら間違いなく膝が砕けていただろう。なんだ、そんなことか。てっきり生徒会室の言動に矛盾点を見つけられたとばかり思っていた。


「ユウリ、あそこで何か食っていこうぜ」


 蛍が指さしたのは商店街の一角にある精肉店であった。昔ながらのショーケースには各種肉類に加えて揚げたばかりであろうコロッケやらメンチカツなどが並んでいる。店の奥から漂う香ばしい匂いは十代男子にはセイレーンの歌もかくやだろう。

 ムムムッ! 夕璃の眉が吊り上げる。


 ―――ホタルはまた買い食いなんてして! こんなものを食べたら夕ご飯がちゃんと食べられないでしょう! 成長期だからこそ栄養バランスには気をつけないといけないのに、それになんですか!? この油ぎったジャンクフードは!? 見ているだけで胸やけしてきそうです!


「『黄金のコロッケ』か…………それとも『圧倒的暴力のメンチカツ』か…………クソ迷うな!」


 しかし、蛍はといえば夕璃の懸念など一ミリたりとも気がつく様子もなく、自社株をTOBするかどうかと同じぐらいの真剣さで悩んでいる。


よしBoom! 決めた! おばちゃん、コロッケとメンチ両方ちょうだい!」


 二百円と引き換えに出てきたのは湯気とカロリーの塊。冬ならいざ知らず、もう夏の気配が漂い始めるこの季節にわざわざ食べなくても―――と思うが、「うまい」「うますぎる」と唸りながら頬張るアホ顔を見ているうちに、ぐうーっと夕里の腹が鳴った。


 ―――まあ、食べるのは私ではなく、ユウリですし…………。


 それにここで食べるのを拒否すれば蛍の不信感を抱かせるに違いない。夕璃はしばし迷った末に他と比べて小さめのカニクリームコロッケを注文した。


「ほくほく…………おっ、『甘美のカニクリーム』を注文するとは勇者だな!」

「まあね(そのヘンな修飾語は何なんですか?)」


 早く食べて帰りましょう、そんなことを思いながらまずは小さく一口カニクリームコロッケを齧るとサクッと小気味いい音が口の中で響いた。


「もぐもぐ(揚げたてはやはり食感がいいですね)…………っ!?」


 衣の中からとろりとしたクリームが舌に滑り落ちた途端、夕璃の頭の中は真っ白になった。

 それはもはや「美味しい」「美味い」とかの次元に収まるものではなく、ただ原始的本能がもたらす快楽が脳神経を焼き尽くすかのような圧倒的な何か。

 気がつくと二口目が終わり、小さな俵形のコロッケは姿を消していた。夕璃は呆然と手元の油染みた紙を見つめていたが、やがて店頭のおばちゃんにふらふらと近づいていく。


「待て。ユウリ、俺と約束しろ。買うのはあと一つだけだと」

「えっ…………一つで足りるわけないでしょ?」


 天然自然の優等生である夕璃は今まで知る由もなかったのだが、今年で創業七十周年を迎える「お肉のコヤマ」は学院生には大変有名な店であった。店主の職人技で揚げられた各種総菜は材料こそ平凡だが、シンプルな味付け故にクセがなく後を引くようなおいしさがある。幼少の頃より舌が肥えに肥えた学院生であっても、むしろ一流料理人の複雑な味に慣れ過ぎているからこそその味はルネッサンスな「美味い!」を与えるのであろう。

 カニクリームは魔宮だ、という蛍の諫言に渋々従った結果、夕璃は普通のコロッケを手に取っていた。こちらは腹が膨れるのでカニクリームのような危険性はないらしい。


「ほくほく…………こちらはこちらで…………ほくほく…………またこれはまた…………」


 店先の前にはご丁寧にも縁台があり、夕璃と蛍は並んで座っていた。明らかに道交法違反だが、買い物に来た高齢者がここで足を休めているので必要悪である。


「うーん。こんなに美味しいものが通学路にあったなんて…………はっ!」

「はは、年がら年中食べているだろ」


 蛍は笑って流してくれたが、夕璃は少し不満だった。もちろん夕里がこんなに美味いコロッケを食べていたことに対してではない。

 知りたいことは山ほどあった。そして、その一つ一つがすべてが少年たちにとってキラキラ輝くような記憶であることはその顔を見ればわかる。


「…………あと一ヶ月もすれば夏休み、だね」


 ちょっとした好奇心で気がつけばそんなことを言っていた。


「ああ、アイツらと行ったアメリカ横断旅行からもう一年経つのか。早いもんだな」

「早いねえ(アメリカ横断!? 何それ、聞きたい!)」

「まったくひどい旅行だった。明石がカジノで勝ちすぎてマフィアに追われるわ、ミカが大食い大会で優勝するわ、かほるが闇のラップコンテストで戦う羽目になるわ…………」


 よほど強烈な体験をしたのか、蛍はコロッケ(二個目)を頬張りながら遠い目になった。


「そ、そうだったねえ」

「ユウリ、オマエも女の子に間違えられて大変だったよな」

「……あはは、日本人は童顔だというし、それも関係してるのかなあ?」


 最後の一口を呑み込むとコロッケは跡形もなく消えた。話を聞くのに夢中になったせいで途中から前意識で食べていた。少しもったいない。


「生徒会長になってもう半年か…………」


 ぼんやりと手元の耐油紙を半分に折る。紙の寸法が正確ではないのか、きれいに半分にすることができなかった。最初は少しのズレだったのが、折る度に形が歪になっていく。

 夕璃が見つめていた紙を蛍はヒョイと掴むとそのまま店の前のゴミ箱に捨てた。そして、再び夕璃の隣に座るとぽつりと呟くように言った。


「まだまだ、道半ば、だな」


 黒い瞳が街灯の光に揺れていた。その視線の先にあるものはわからない。


「…………そう、だね。まだまだこれからだ」

「ああ」


 自分と若紫と同じようにこちらの世界の少年たちも何処かへ向かって走り続けているのだろう。全てが満たされて、完璧な世界など並行世界であってもありえはしない。


「ホタルの夢は―――『世界中の人々を幸せにすること』だっけ?」


 笑ってそう言うと蛍は少し意外そうな顔をしたが、すぐに顔をしかめた。


「ガキの頃の夢だ。嫌なことを覚えているなあ」

「誰でも考えそうで考えない。本当にホタルらしい夢だよ。あはは、ホタルは昔から人と同じなのが大嫌いだったもんね」

「そうだ。『違うことを考えろ』の精神だ」


 蛍たちが物心ついた頃、世界にはまだ本物の“魔法使い”が生きていた。

 彼はこう言った。


 ―――『自分が本当に世界を変えられると思う人間が本当に世界を変えている』、と。


 そして、彼は本当に世界を変えてしまった。

 幼かった葵井蛍は父親の話す“魔法”の物語に夢中になり、彼の遺した“魔法のアイテム”に目を輝かすと、いつか海を渡って魔法使いの弟子になることを小さな胸に誓ったのだった。


「ホタルは“魔法使い”にはなれそう?」


 そう尋ねると幼馴染は肩をすくめる。


「全然。“魔法使いの弟子”にすらなれていない」


 そう言って少年は星のない夜空に手を伸ばした。

 いつか、そこに星を灯すことを夢みて。


± ± ±


 ―――えっ。


 目を覚ますと夕璃は白い部屋に立っていた。“目を覚ます”という表現は正確ではないかもしれない。眠気とか意識の混濁とかそういうのは全くなく、まるでバックグラウンド中のゲームを切り替えたというのが一番近いだろう。


 ―――ここはどこでしょう?


 身体の確認も兼ねて独りごちてみる。しかし、内言として頭の中に響くものの、声帯が震えている感覚がまるでない。はてな、と思って喉を触ってみようとしたところ、それもできなかった。そもそも喉も手も無ければ、身体そのものが存在しないのだ―――。

 まるで一昔前の3Dゲームの一人称視点のようだ。頭をいくら巡らしても自分の身体が描写されない。そういう発想になるのは昨夜眠る前に夕里のゲームを一通り遊んでみたからだろうか。

 まるでわからない状況だったが、とりあえずはできるので部屋の中を見回してみた。部屋の中はやはり白かった。壁も天井も少し柔らかい床のリノリウムも部屋の唯一のスライドドアも、そして、窓の外ですら白飛びしたかのよう。そして、極めつけは部屋の大半を占拠するベッド。なぜ今まで意識にのぼらなかったのか不思議に思う。

 ベッドはシンプルな形状だった。あくまでベッドだけに限れば。ベッドの周囲には点滴をかけたスタンドと心電図モニター、その他にもいくつかの機材が整然と配置されていたが、その機能はよくわからないし、正直どうでもいい。

 夕璃の視点は点滴のチューブの先で固定されていた。

 ベッドの上には


「やあ」


 ひじ掛け付きのスタッキングチェアの上に一人の少年が座っていた。


「“ある”方の世界はどうだった?」


 柔らかい髪は見えない風にふわりと揺れている。髪色は色素が薄いせいで光の加減で紅茶色や鬱金色と変わっていく。中性的な顔は鏡で見るより整った印象を与え、白いシャツから伸びる腕はひどく華奢で艶っぽくさえあった。


「君が望むのならそっちの世界で人生をやり直したっていい」


いたずらっぽく細められた目に覗く瞳は夕陽に照らされた瑠璃色。


「いうなれば転生というヤツかな」


 ―――六条夕里!


「それは違う」


 ゆっくりとかぶりを振るととある方向を手で示した。


「カレの魂は


 ―――…………えっ?


「言葉通りの意味だよ。キミの魂が六条夕里の中にあるのなら、六条夕里の魂はキミの中にあるのが道理だろ? そして、幸いにしてキミの肉体は見ての通り昏睡状態だ。良かったじゃあないか、並行世界の自分とはいえ、男に自分の裸を見られなくて」


 ―――そこに…………六条夕里が…………いるんですか?


 透明人間の身体が近づくとベッドで昏々と眠る少女の頬に触れようとする。しかし、伸ばすべき腕も手も夕璃は持ち合わせていない。夕璃は怒りに震えながら顔を上げるときっと睨みつけた。


 ―――もういい加減にして! 私たちを弄んで何が楽しいの!?


「世界は無数の可能性に満ちている」


 少年の身体をした“何か”は息を吐くように呟いた。夕璃の声を無視するというよりもまるで夕璃そのものが気づいていないかのような態度。


「キミが男になっている世界があるようにキミが存在しない世界ももちろんある。だから、自分を特別な存在だと思わないことだ。世界は感情を持たない舞台だ。何一つ特別なものなんてない。舞台に立てる者だけが特別なんだ」


 その無感情な言葉は無原則に夕璃の心を凍り付かせた。抵抗などできやしない。相手と自分では存在の格が、文字通り“次元”が違う、と思ってしまったのだ。


 ―――…………あなたは神様なの? それか神様の代理? 


「そんなありがたいものじゃないさ。とにかくそんなことはどうでもいい。六条夕璃、キミのことだからわかってはいると思うけど、残り制限時間はあと24時間だ」


 ―――…………もしそれが過ぎたら?


「キミは元の世界に戻ることなく六条夕里として一生を終えることになる。そして、この身体は二度と目覚めず、六条夕里は魂の牢獄から解放されることはない」


 ―――そんな!?


「キミは一人の人間を救わないといけない。だが、急ぐ必要はない。時間はまだある。考えろ、感じるんだ。ニンゲンが自分ではない誰かを“救う”という行為が本当に意味するところを…………」


 病室を支配する白色が急速に明度を上げていく。魂の枠が白に塗りつぶされていく。薄れゆく自我のなかで、これが死ぬということなのかと夕璃は思う。


「そうそう。来た土産にヒントをあげよう」

「キミはあの日の夕方、『ノーネーム』の正体に迫っていた」

「その結果、不幸なことが起こった」

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