chapter 3 「もしもワタシがイケメンたちのリーダーだったら...」


 

 その光景を夕璃は一生忘れることができないだろう。

 白蘭学院の保健室は大玄関にほど近い場所に位置している。夕璃たち四人が出ていくと登校したばかりの生徒たちの吹き溜まりになっていた。当然、生徒たちの視線に晒される。

 かつての六条夕璃が一般生徒の前に立ったとき、どんなに騒がしかったとしても周囲はしんと静まりかえったものだった。それは六条夕璃が誰よりも正しかったから。正解を見せつけられると人は口を噤むか目を反らす―――そういうものだと夕璃は思っていた。


「生徒会だ!」


 そう誰かが口にするとたちまち廊下は喧騒に包まれていった。


「ミカ王子を朝から拝謁できるなんて今日私死ぬかもしれない!」

「…………かほる様は今日も尊い」


 黄色い声援に混ざって女子生徒の恍惚とした声が漏れ聞こえてくる。少しでも近づきたいと思う一方でお互いの腕や足を牽制する彼女たちは不思議と秩序だっていた。

 熱狂は男子生徒も負けてはいない。均整の取れた彼らの肉体に羨望の視線を向けると同性の特権とばかりに肩や背中に挨拶代わりのタッチをしていく。その度に女子生徒が「穢れる!」とか「視界に入ってくるな!」と抗議の声を上げるから騒がしいことこの上ない。


「社長ー! アプリの挙動がおかしいんだけどー!?」


 他の二人のようにアイドル的な人気はないものの、蛍は蛍で男女を問わず大人気だった。スマホを片手にアプリのバグを指摘する者、こうした方がいいんじゃないかとアイデアを提供する者、はたまたもはや妄想や願望にしか聞こえない要望を出す者…………。


「おい、オマエら! 俺はドラえ〇んじゃねーぞ!!」


 ひっきりなしの声にたまらず蛍がそう言うと周囲にドッと笑いが起こった。


「…………これは……なんなの?」


 秩序なき蝉噪に夕璃の独白が呑み込まれる。

 白蘭学院は良家の子女が多く集まる学校だ。校風は当然紳士淑女然としたものを期待される。生徒はみな規律を重んじ、その言動にはどこか余裕を持っていた。廊下を慌ただしく走る者もいなければ、女子はもちろん男子でさえも衆目の中で口を大きく開けて笑う者などいない。だからこそ、若紫は学院では例外中の例外で女子生徒の一部が露骨に嫌っていたぐらいである。

 それがどうだ。この変わりようは。

 夕璃は自分の身内からむずむずとした苛立ちに似た感情が湧き上がるのを感じた。夕璃がもし夕璃のままだったら一喝してこの馬鹿騒ぎを一蹴したであろう。

 やはり、自分は正しかった。おそらくは夕璃自分の代わりに生徒会長に座った者の仕業だろう。会長選挙のときに争った生徒が誰だったかを思い出そうとしたときだった。


「あ、生徒会長だ!」


 折よく何処からかそんな声が上がった。夕璃は目をこらして周囲を見渡すが、それらしき人物は見当たらない。それどころか生徒会の象徴たる緋色の腕章すらもない。


 ―――なんなんですか! この世界の生徒会は仕事を放棄しているんですか!?


「生徒会長、おはよう!」

「もう! 生徒会長、無視しないでよー!」


 はたしてどこにいるのだろう? 生徒たちの声から察するにここにいるのは間違いないのだが…………。夕璃は生徒の一人一人を改めてチェックしてみるが、やはりそれらしい人物はいない。それどころか変な視線を送るものだから何人かに怪訝な表情をされてしまう。

 その屈辱感に堪えかねてもうやめようと思いかけたとき、女子生徒の小集団と目が合った。タイのデザインが三年だったので夕璃は慌てて目を逸らそうとしたが、その先輩は予想に反してにっこりと笑いかけてきた。


「ユウリくん、おはよう!」

「は、はい! おはようございます!」


 全身を強張らせて頭を下げると頭上で黄色い歓声が上がるのが聞こえた。


「キャーッ! ユウリくんに挨拶されちゃった♪」

「はあ? おまえ、ふさげんなよ! なに、“生徒会長さん”に朝から色目使ってるわけ!?」


 ―――!?


「ほえー、今日もユウリ生徒会長、カワイイょぉぉぉ!」

「生徒会長! 私、挨拶されてないよ!」

「あっ、てめー! どさくさに紛れてユウリくんの手をにぎんじゃねえーっ!」


 ―――…………六条夕里が…………生徒会長、ですって!?


 夕璃が呆然としていると獣の眼光をしたお姉さま方はこれ幸いと取り囲み、あっという間にもみくちゃにしていく。シャンプーと制汗デオドラントとコロンと汗と口臭が混ざったそれらは臭いを通り越してむしろ鼻の奥が痛い! 涙目になる夕璃の腕を誰かが強く引っ張るとたちまち高知沖のカツオの如く釣り上げられた。


「先輩方すみません。もうすぐチャイムが鳴るのでユウリ会長は返してもらいますよ」

「あっ、副会長!」


 蛍は夕璃の手を取りながら、上級生にウインクをした。お姉さま方が一瞬それに見惚れるのを認めるや否や蛍は走り出した。


「ユウリ、走るぞ!」

「えっ、ええっ!?」


 喉は苦しくて焼け焦げるように痛い。 

 白亜に囲まれた廊下が見る間に流れ去っていく。けれど、視界の中心はずっと変わらない。漆黒のブレザーに包まれた長い腕が夕璃の手を掴んで離さない。


「―――おまえの支持者ファンはいつだってすごいな! パワーが桁違いだ!」

「……………………う、うん」


 それはいつも見慣れたはずの校内の風景。けれど、六条夕璃が決して見ることはなかった風景。上履きの裏は熱く、沈滞していた空気が顔の横を吹き抜ける。一歩足を踏み出すたびに自分の頭から当たり前だと思っていた概念が消えていくのを夕璃はぼんやり感じた。


「―――ハアハア………ちょ、ちょっと待って! 会長と副会長だけで逃げないでよー!」


 横を見れば、顔を真っ青にしたミカと泰然自若なままのかほるが並走している。生徒や教師は驚いた顔で見るが、彼らの視界から四人の姿は閃光のように消えてしまう。


「―――悪いな、ミカ。役職者は無職と違って忙しいんだ!」

「―――無職いうな! 僕だって生徒会会計だよー!」


 少年たちの笑い声が廊下に響きわたる。

 それを聞いた生徒たちは一様に眉を上げるか訝しげな視線を送る。しかし、彼ら彼女らの口角は自然と上がっていた。そして、呆れたように笑うのだ。


「今日もアイツらはバカだなー」

「今の生徒会って本当にバカだよねー」

 

 そんなバカな連中がメンバーとして連なるのが“この世界”の白蘭学院高校生徒会であった。愛すべきイレギュラーたちは今日も学院の内外に良くも悪くも圧倒的な評判を築き続ける。


 ―――誰が呼んだか、「フォー・クレイジーズバカ・四人


 そして、そのバカヤローたちの中心でありリーダーこそが「六条夕里」その人であった。


+ + +


 午前中の授業は朝の騒ぎに劣らず嵐のように過ぎ去っていった。

 六条夕里という男の子は蛍たちに限らずクラスメイトに対しても良く言えばムードメーカー的存在、悪く言えば道化役といった感じだったらしく男女を問わず皆気さくに声をかけてきた。

 勝手がまるでわからない夕璃は口調すら統一できずに手探りで言葉を紡いでいくしかない。まるでアドリブ劇を演じているような気分だったが、周囲は何も感じないようで「また生徒会がバカな遊びをしているのだろう」とか「まあユウリだし」と勝手に納得されてしまった。


 ―――まったく! こちらの夕里はどれだけバカだったんですか!?


 心配しているのが自分だけなので夕璃は終いには馬鹿らしくなり、「どうにでもなれ」とばかりに夕里を演じることを止めてしまった。


「―――ねえ、ナース服とブルマってぶっちゃけエロいという理由で廃止になったわけじゃない? でも、そうならセーラー服もいつか廃止されるんじゃない? だって、あれもエロいよ」


 ミカはかつ丼のかつを飲み込むなり、ポツリと呟くように言った。


 ―――またバカなことを言ってますよ、この王子サマは…………。


 昼休み。夕璃は生徒会室で昼食を食べていた。夕璃だった頃は事務仕事と若紫の相手をしながら片手間でパンを齧っていたが、こちらの生徒会も生徒会室で食べるのが日課らしい。


「まあ、いつかはそうなるだろうな」


 蛍は気のない調子で答えた。視線はノートPCの画面を凝視したまま。その傍らには空になった完全栄養食のボトル。金属っぽい臭いがするがはたして大丈夫なのだろうか?


「じゃあ、レディースのスーツは!? あれだって結構エロいよ!?」

「男のデザインと一緒になるだろうな」

「浴衣は? 袴は? 巫女服は?」

「甚平、紋付袴、神主にみんな統一だ」

「ヴォーディアンダ!? チクショー、誰なんだ…………この世界をエロがない世界に変えようとしているのは…………」


 箸を握りしめた拳が机を叩くとかつ丼の上に涙の雫がポトリと落ちる。


 ―――…………こいつら。そんなわけないでしょ、本当にバカじゃないの!?


「ミカ、違う。エロの精神が世界を変えているんだ」


マスクを外したかほるが静かに言った。目の前には大盛りスタミナ焼肉弁当と大量のサラダ。劇の本番に備えて体重をストックする必要があるらしい。冬ごもり前のリスみたいだ。


「「な、なんだってーっ!?」」


 大げさに驚くバカ二人を見て、かほるは不敵に笑った。そして、あえて二の句を継がずに昼食に戻るのだった。形のいい鼻に焼肉の臭いが漂うとビクッと震える。どうやら吐き気がひどいらしい。アイドルもなかなか大変だなあと夕璃は思った。


「でも、もしそうなら女の子の恰好はみんな男と一緒になっちゃうの…………?」

「ミカ。それは違うぞ」


 ああ、まだその話題を続けるんですね。夕璃はたまごサンドを頬張りながら机の周囲を見た。仕事がしやすいようにと作った書類ボックスは影も形もない。ゆっくり昼食を食べられるのは久々で悪くはないが、腹の中ではワーカーホリック根性がぶすぶすと燻り始めている。


「たとえ男女の服が統一されたとしても、エロは些細な差異を見逃しはしないだろう。ボタンの位置、丈の長さ、そういったものに今度はエクスタシーを感じるようになるんだ」

「それってつまり―――」

「ああ、エロはいわば精神体エネルギーなんだ! エネルギーは物体に新しい価値を生み出していく。未来の人類はひょっとしたら俺たちが中世のコルセットやドロワーズに性的魅力を感じないようにセーラー服やメイド服に何も感じないのかもしれないな…………」

「ホタル、キミって…………」

「俺たちはエロと非エロという大きなうねりに漂う一葉なのかも、な…………」

「何て言ったらいいか…………とにかくすごいよ。今日のホタルは最高に冴えてるね。ねえ、ユウリ。キミはこの説をどう思う? すごくない?」


 キラキラと無駄に輝く少年たちの目がサラダサンドを食べる夕璃に注がれる。彼らはリーダーの声を待っていた。夕璃は死んだ魚の目でそれらを眺めやるとパンを呑み込んだ。


「―――うん。バカじゃないの?」 


 絶対零度の声音でそう言い放つと少年たちは一瞬ひどく傷ついた顔をしたが、すぐにスラップスティックコメディの背景音よろしくゲラゲラ笑い始めた。


「今日のユウリはツッコミがキレキッレだなー」

「さすがは僕らの生徒会長! ボケにツッコミに変幻自在だー!」


 ―――なんなんですか……この人たちは…………。


 昼休みは終始このような調子でグダグダのまま終わった。結局、彼らが仕事をすることは1秒たりともなかった。それどころか話題にすらならない。どうやら少年たちの頭の中からは「生徒会」や「運営」といった概念はきれいさっぱり消失しているらしい。

 夕璃が食後に飲んだコーヒーは殊更苦かった…………。


 

 放課後。

 夕璃が沈鬱な表情で生徒会室に入ると“4C”の面子バカメンが既に顔を揃えていたので心底驚いた。夕璃の世界ではかほるはマネージャーの運転する車に早々に乗り込み、蛍も渋谷にある自身の会社にタクシーで“出社”する。そして、驚くべきことにミカでさえも学校が終わるとどこかにふらりと消えてしまうのだ。この多忙さこそが夕璃が生徒会に誘ったときに鼻で笑われた大きな要因なのだが、“こちら”の世界の彼らは缶コーヒー片手に呑気に雑談に興じていた。


「オリックスはなんで毎年あんなに弱いのかなー。ドラフトは即戦力の社会人で一貫しているし、補強もちゃんとしている。育成力だって悪くないのに」

「他が異次元なんだよ。金満と育成力と勢いがそれぞれ突出しているチームが毎年覇を競っているんだ。オリはそういう意味では普通すぎる。セリーグだったら十年で軽く二回は優勝しているな」

「オリックス、いい選手がいっぱいいるからもっと人気出てほしいなあ」


 どうやら野球の話をしているらしい。


 ―――男の人は本当に好きですねえ。


 夕璃も幼い頃に父に連れられて東京ドームに行ったことがあったが、何が面白いのかさっぱりわからなかった。

 …………さてと。少年たちの話題はいつまでも枯れることなく、今は夏の甲子園について話している。それを右から左に流すと夕璃はマックブックを起動した。幸いにしてIDとパスワードは夕璃の知っているものと同じだった。

 元の世界に戻るために残された時間は一日半しか残っていないのに雑務―――しかも、自分の世界(もの)ではない―――が気になるとは。我ながら馬鹿なことをしているとは思う。しかし、事実気持ち悪いのだから仕方がない。精神的安定のためだと夕璃は呑み込んだ。

 起動すると出荷状態と見紛うばかりの閑散とした画面が映し出されたので眩暈を覚えた。こいつらはどれだけ仕事をしていないんだ―――!? 予算の執行は? 文化祭の準備の進行状況は? やっていないでは済まされないタスクリストが次々に頭に浮かび、夕璃は叫びたくなった。震える手でマウスを動かすがやはりそれらしきファイルは見当たらない。


「―――ちょっ……えっ?」


 「ちょっと何なの、コレ」と言いかけた口が止まる。真っ新なデスクトップ画面の隅に見慣れないアイコンがあった。いや、似たものを見たことがある。蛍の作った「GATE」だ。クリックすると「AOI」のロゴとともに「GATE WORK CLOUD 」と表示された。そして、内蔵カメラが網膜認証を行うとたちどころに起動が終了する。その時間は二秒に満たない。


「…………ウソ」


 そこには生徒会に関するありとあらゆるファイルが存在した。夕璃がここ数日をかけて作成していたもの、あるいはこれから手をつけようと思っていたものも完成した状態で置かれている。その中には来年の卒業式や次回の生徒会選挙なども含まれ、また白蘭学院のデータが―――どこから探し出してきたものか想像もつかないような類のものまで―――ライブラリ化されていた。

 まるで魔法を見せられているような気分だった。未来の自分が作ったものを過去の自分が覗きみている。そんな錯覚を夕璃を覚えた。


「―――さてとバカ話はここまでにして、そろそろお仕事の時間にしますか」

「そうだね」


 ハッとして顔を上げると蛍たちが夕璃を見ていた。表情は特に変わってはいない。メイド服やプロ野球の話をするときと同じように少年たちは“仕事”を始めようとしていた。


「…………各部活の予算の執行状況は?」


 絞り出すようにして吐き出した夕璃の言葉を「スタート」の意と認識したのだろう。蛍は眉一つ上げずに左手を上げると印を結ぶようにして空中に線図(パターン)を描いた。


「REA、会議ミーティングモード」


 限界ギリギリまで出力向上フルチユーンされた5G回線が各部位に接続し神経回路を形成すると生徒会室の空中に「機械仕掛けの幻霊ファントム」が作り出される。


「生徒会の業務状況は?」

全て問題ありませんノープロブレム。全ての要素は予想範囲内に収まっています。いかなるイレギュラーも発生を確認できません。ファイルとして出力しますか?」

「―――だ、そうだ。生徒会長殿」


 明度を落とした室内にメイド服を着た美少女が忽然と現れていた。無論、幽霊や魔術の類ではない。少し注意すれば少女を中心に三方向に設置された小型プロジェクタによって作られたホログラム像だということがすぐわかる。


「相変わらず趣味だねえ。自分たちの生活を形づくるGATEが“この子”を作るための試作品プロトタイプの集合体と知ったら1億人のユーザーどう思うだろうなあ」


 ミカがそう言うと蛍は心底理解に苦しむといった顔をした。


「おまえは何を言っているんだ? 交換日記の延長のつまらんSNSより美少女型人工人形オートマタの方がはるかに浪漫を感じるだろ? むしろ俺に感謝してほしいぐらいだ」

「まあ…………僕はわかるけどさ。それにしても今日もREAちゃんは可愛いね。ホタルが創造主だということを危うく忘れそうになるよ…………」

「おう。今日のメイド服は会心の出来だぞ。REAの人工知能がGATEユーザーの動画と写真を分析して自動作成したオブジェクトに俺のちょっとした好みが加わった自信作だ!」


 どうやら蛍が昼休みにいつになく真剣な顔でPCに張りついていたのはこのAR少女の衣装を作るためだったらしい。夕璃はほとんど使ったことはないとはいえ、自分がアップロードしたデータがこんな風に流用されていると思うと戦慄を覚えた。


 ―――元の世界に戻ったらすぐにアンインストールしましょう、絶対に。


「俺の夢はすべてのデバイスを美少女型にすることだ!」

「そこはせめて『ドラ〇もん』にしとこうよ…………」


 蛍とミカがなおも擬人型デバイスの是非について話していたが、夕璃の耳には入っていなかった。自分と若紫がこの半年間やってきたことはこの男子たちの雑談の合間にやっていたものに劣っていた―――。その事実が夕璃の心の中に黒い染みを作るとたちまちひどく苦いものに変わっていく。

 実際、蛍の作ったシステムは完全無欠だった。

 生徒・教職員があらゆる手段でアクセスでき(なんとFAXにも対応している!)、入力は簡便かつ最低限(それでもわからないことはどんな些細なことでも「REA」が懇切丁寧に教えてくれる)。集められた入力情報はシステムAIが瞬く間に処理し、生きたデータとなって生徒会の運用を支える。故に生徒会の人間は事務仕事から解放され、アイデアを考え出すことに専念することができるのである。そして、それはアイドルの現場であろうと渋谷のオフィスであろうと、アイデアが浮かんだ瞬間に「REA」に話しておけば次のミーティングでそれは企画案として用意されているのだ。

 自分と若紫がやってきたことは何だったのだろう? 夕璃の脳裏に生徒会に入ってからの半年間がよぎる。楽しいことばかりだった、とはとても言えない。苦い記憶もあれば、窓の外が真っ暗になっても帰れなかったこともたくさんある。


 ―――私は…………。


「ユウリ、生徒会のことはこれでいいな?」

「…………はい。これで…………問題はありません」


 きっと彼らにとっては生徒会とはその程度のものなのだろう。それぞれが本業に行く前のちょっとした休憩のついでぐらいのもの…………。


「そう。学院の表側は今日もノープロブレムだ。しかし、裏側はそうじゃない。現在進行形で状況は加速度的に悪化している」


 そのとき生徒会室の空気が確実に変わった。少年たちの声から巫山戯ふざけの色が消え、ピンと張り詰めたものに変わっていく。


「―――これより『ノーネーム事件』の会議を始める」


 …………「ノーネーム」、ですって?


 腰を浮かしかけた夕璃を蛍は目顔で制した。


「REA、事件の最新状況を報告」

了解レディ。先日の不正アクセスを元に逆探知を試みましたが、すべて失敗しました。被疑者はロシア・北朝鮮・コロンビア他2051か所に高度に暗号化されたネットワークを分散しており、またそれらは最長で13時間、最短で40秒で発生と消滅を繰り返しています。アクセスの解析は1241時間で終了する予定です」

―――っBoom! それでは遅い。俺たちが辿り着く頃には犯人の目的は完遂している」


 夕璃は蛍たちの会話を聞きつつも密かにキーボードを入力していた。そして、入力を受けつけたREAは夕璃にだけ見えるように「ノーネーム事件」の概要を出力した。


「…………っ!?」


 ディスプレイの光に照らされた瞳が大きく見開かれたのを他の三人は気づいただろうか? 夕璃はマウスを握る右手に左手をそっと重ねると震えるのを必死で抑えた。

 夕璃と夕里の二つの世界において「ノーネーム」というキーワードを共通とする事件はその本質において大きく異なっていた。

 夕璃の世界では内部ネットワークを利用した個人情報の漏洩が事件の核であったが、夕里の世界においてはそのネットワークは「GATE」に放逐されてしまっている。本来は事件そのものが起きようがない、そのはずだった。

 しかし、「ノーネーム」は変わらず存在し続けていた。誰でも閲覧可能な外部ネットワークに場所を移し、公開される情報もより先鋭的でよりスキャンダラスなものへ。そして、


 ―――暴露された生徒のうち既に二人が自殺未遂―――

 

 夕璃が夕璃であった頃、「ノーネーム」のスパムメールを読んだことがある。生徒会長という職務上、それこそうんざりするほどの数をだ。その中には重大な問題にすべき醜聞もあるにはあったが、大半は頓馬というべきものばかりであった。若紫などはそれこそ恰好のターゲットにされていた。不謹慎とは思いつつも、それを笑いのネタにしたこともあったし、そもそも身から出た錆なのだからいいクスリになるだろうとすら思ったこともある。

 しかし、これは違う。

 こちらの「ノーネーム」はダークウェブを通してシステム化され、極めて効率的に人間の抱える闇を晒そうとしていた。悪意はさらに別の悪意にリンクし、巨大な負のネットワークを形成していく。人間というものはこうも汚いものなのかと思う一方で強烈な吸引力があった。目が離せなくなる。心と体が黒い泥の中に落ちていく。


「注意してください。長時間の閲覧は心に悪影響を与える場合があります」


 REAの警告とともにサイトへの接続が一時的に切断される。夕璃はかぶりを振ると息を吐いた。そして、思う。夕璃自分は「ノーネーム」の本質をまるで理解していなかった。

 「ノーネーム」が誰であれ、そこには明確な“悪意”が存在していた。

 

 ―――血のように赤い夕陽が照らす校舎。

 ―――静まり返った廊下の中で響く自分の足音。 


 腸をかき混ぜられるような感情とともに瞼の裏に焼き付いた光景がフラッシュバックする。それは六条夕璃の最後の記憶、その残光。

 …………夕璃自分はあのとき「ノーネーム」の核心に迫っていた。

 そして、“何か”があったのだ。その“何か”と並行世界の入れ替わりに直接の因果関係があるかどうかはわからない。わからない、けれど…………。


クソf**k! 俺たちの庭で好き勝手しやがって。ぶっ殺してやる!」

「まあまあ、落ち着きなよ。ホタル、君らしくないよ」

「…………すまん。つい熱くなった」


 おちゃらけた雰囲気は崩していないものの、意識して道化を演じている―――夕璃にはそう見えた。「白王子ホワイト・プリンス」の意外な一面に「おや?」と思ったときだった。


「とにかくデジタルでできることはホタルとREAちゃんに任せるよ。これからは昔ながらのアナログな方法でやってみようじゃない?」


 そう言って立ち上がるとミカは部屋の隅からホワイドボードのキャスターを引いてきた。もはや雑巾ではビクともしないようなインク痕がそこら中にこびりついたそれは夕璃にはむしろ慣れ親しんだものであった。


「―――『ノーネーム』の事件の主犯と現在考えられる人間は三人。そのうちの一人を昨日僕が調べてみたわけだけど…………」


 老刑事が持っていそうな手帳をポケットから取り出すとミカは調査結果をボードを埋め尽くす勢いで書き出していった。

 

 被疑者A:永井火風花かふか 

 白蘭学院高校三年、特進文系Aに在籍。所属する部活はなく、現在は渋谷のW予備校に通っている。前生徒会においては一年ながら副会長を務めており、次期生徒会長候補筆頭であったが、生徒会選挙で歴史的大敗を喫する。


「―――選挙ではお友達ともどもこれ以上ない負け方をしたけど、永井先輩の人脈は学院だけに限ったら随一といっていいんじゃないかな」

「汚いほうも、な」

「そうだね」


 蛍の言葉にミカは頷く。

 生徒会長に就任してからまるで思い出すことはなかったが、そういえば対抗馬にそんな上級生がいた、気がする。もっとも夕璃の場合は選挙前日に前生徒会の不適切な会計処理が判明してほぼ無投票状態で勝ったのだが。


「それだけの人脈だから学院において彼以上の情報提供者はいないだろう。ましてや白蘭学院みたいな前時代的レベルで閉鎖的な学校では、ね。動機も充分すぎるほどある」

「だが、実行するだけの能力がない」


 かほるが囁くように、けれどよく通る声で指摘した。


「あはは、そうなんだよねー。ここ数日の間、この先輩とお友達が何やら裏でコソコソしているのは間違いないんだけど、どれだけ調べてもその辺の裏がとれなかった。いやー、面目ない!」


 確かに、と思った。とかく夕璃には印象が薄い永井火風花かふかだが、それは偏に能力と実績において特別秀でたものを持ち合わせていなかったからだ。巨大組織においてコミュ力で成功するタイプであり、遺憾ながら自分の父親と同じタイプだったりする。


「じゃあ、次は僕。もっとも事務所が契約している興信所に依頼しただけだけど………」

「キター! 芸能界最凶のもみ消し能力キター!」

「ミカ、うるさいぞ」


 被疑者B:津島夢呂栖めろす

 白蘭学院高校三年、特進理系Bに在籍。小等部から一貫して部活や外部の活動に属した経験はなし。中等部三年から基本的に学院に登校することはなく、担任が持ってくるテストとレポートで単位を特例的に認められている。


「特例措置ねえ。その津島先輩とやらはどんな実績を残していらっしゃりやがるんですかね?」

「議員である父親の秘書活動、だってさ」

「―――ケッ!」


 かほるが肩をすくめると蛍はあからさまに腐った。ユーザーの(理不尽ともいえる)要求と24時間向き合い続けている自分と同格なのが気に入らないのだろう。


「これを言うと蛍はもっと気に入らないと思うけど、彼の“本業”は有名キュレーションサイトの管理人グループの代表だ。年間アクセス数と収入は…………蛍がキレるからやめておこうか。評判の悪いサイトばかりで訴訟もいくつも抱えている。少なくとも彼には『ノーネーム』になれるだけの技術と能力はある」

「動機がない」


 腹の底から忌々しげに蛍は言った。


「中身がどうであれ、そこまで軌道に乗った人間があんな馬鹿な真似をするとはとても思えん」

「じゃあ、実は共犯だったりして」

「津島と永井は水と油。津島が永井をターゲットにすることはあっても一緒になることはない。実際、過去に標的にしたこともあると調査結果にも書いてある」


 かほるはそう言うと調査レポートの束を投げてよこしてきた。つまらなそうな顔の蛍から渡されたそれを読んでみると確かにそういったことが記載されている。

 重い沈黙がしばし生徒会室の中に落ちる。

 夕璃の記憶を今一度思い返してみたが、やはり永井火風花かふかという名前にも津島夢呂栖めろすという名前に引っかかりは覚えない。仮にもし六条夕璃がその二人のどちらかが犯人だと結論に至っていたのならたとえ記憶が消えたとしても何かしら違和感ぐらいは感じそうなものなのだが。


「…………三人目の被疑者か」


 ぽつりと呟いたのははたしてかほるだったか。

 物思いから覚めた夕璃の顔を三人はじっと見ていた。


「…………えっ?」


 三人の表情は三者三葉だった。かほるは無表情のまま、ミカは気まずそうに、蛍はいらただしげに。やがて、三人の間に視線が交錯したが、蛍は小さな鼻息を吐くとともに言った。


「三人目の被疑者、二見若紫むらさきの調査は、ユウリ、お前の担当だ」

「……………………えっ?」


 ―――ホタルは…………今、何を…………言ったんですか?


 夕璃と蛍はしばらく無言で見つめ合っていたが、先に視線を逸らしたのは蛍だった。そして、肺の空気をすべて吐き出すような勢いで大きくため息をついた。

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