chapter 2 「もしもワタシが幼馴染の男の子と変わらず一緒にいることできたら...」



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 夕璃は座席に座るとホッと息をついた。

 ラッシュアワーよりまだ少し早い時間帯。下り電車の車内は少し余裕があり、乗客はスーツよりも制服の方が多い。

 家を出てから男の身体で歩き続けるのは正直なところ疲れた。重心のズレた身体と意識の差は如何ともし難く、幾度となく足がもつれ躓きそうになった。

 それでも家を出るまではわりかし何とかなったのだ。

 髪のセットは生徒手帳の写真に合わせればよかったし、面倒なネクタイも夏服なのでする必要はない。トイレに関しても“構造”さえ一度理解してしまえば問題は心理的抵抗ぐらいのものである。

 朝食の席では夕里の両親と顔を合わせることになった。

 父親の春彦は“息子”に対してほとんど無視するような態度であったが、夕璃ゆりは溺愛ぶりを鬱陶しく感じていたのでむしろ好ましかった。母親の春香はほとんど変わらない。相変わらずほわわんとして女優時代の天然ちゃんオーラをまき散らしてる。違うとすれぱ若干世話を焼きたがるきらいがあるところぐらいだが、これはむしろ夕里側の問題であろう。


 ―――男の子の日常、て案外ちょろいですね。


 そんな甘いことを思っていたらこのザマである。

 自宅から白蘭学院の最寄り駅までは銀座線と東横線を乗り継いで約二十五分。

 最寄り駅を降りた後も商店街と住宅街を潜り抜け、さらに学院の敷地に入ると今度は長い長いポプラ並木を抜けなくてはならない。学校の往復だけで一日の健康に必要な歩数を稼ぎ出すことができる。


 ―――ああ、もう帰りたいです。


 学院に行くのが今から憂鬱だった。

 慣れない男の身体だから、というだけではない。

 夕璃には六条夕里という男の子がまるでわからない。

 彼がどういう性格で、どういった人間関係を持ち、学院においてどんな地位を占めているのか。全てが霧の中であり、自分の人生がリセットされたような気分だった(実際はもっとひどい状況なのだが)。わかっているのは生徒手帳に記載されている僅かな情報のみ。どうやらクラスと生徒番号は同じらしいが。

 電車の発車チャイムを聞きながら、夕璃はポケットからスマホを取り出した。機種こそ同じアイフォンであり、革製カバーも同じだが、色だけはそれぞれ異なっている。

 六条夕里という人間を調べるには個人情報の塊であるスマホを開くのが何よりも手っ取り早い。そんなことは百も承知なのだが、夕璃はペットの猫が映った液晶をぼんやり眺め続けた。

 これまで得た情報から察するに夕里はおそらく性別だけが異なる並行世界の自分なのだろう。ならば、調べるのを躊躇することなど何もない。なぜなら自分なのだから。

 しかし、夕璃はかぶりを振るとスマホをポケットに仕舞った。

 

「ふーん。キミはそういう性格をしているんだね」


 ハッとして顔を上げる。

 はす向かいの座席に一人の少女が座っていた。

 白い蘭を思わせる純白のセーラーワンピース。黒いカラーとスカーフは力強いコントラストを描き、細い腰にはやはり黒色の革ベルトがきりりと締まっている。

 つい昨日まで夕璃も着ていた白蘭学院の制服であった。

 しかし、夕璃の視線は少女の顔を捉えたまま離さない。


「…………どう、して?」


 夕璃の消え入るような呟きを聞いて、少女はいかにも楽しそうに目を細めた。

 セーラーの襟を覆った髪はふんわりと空気を含んだくせ毛で朝陽を受けて黄金色に輝く。鼻や顎は優美の曲線を描き、桜色の唇は薄いながらも如何にも瑞々しい。そして、何よりも印象的で強く心を惹きつけてやまないのは―――夕陽に照らされた瑠璃の色をした瞳だった。


「…………私?」

「そう、間違いなくキミだよ」


 よく響くメゾソプラノの声。ビデオで何度も聞いたその声を聞いて、夕璃は怒りで自分が膨らんだような感覚を覚えた。


「…………もしかしてあなたは夕里なの?」

「核心をいきなり突いてくるね。キミらしいや」

「答えて! 犯人はあなたなの!?」

「さあ?」


 六条夕璃の姿をした“誰か”はオーバーアクション気味に肩をすくめた。夕璃なら絶対にしないであろう仕草。それだけで夕璃には目の前の少女が自分でないと確信する。


「男の子になった気分はどうだい?」

「私を返して!」


 夕璃が叫ぶとシンと静まり返った。

 そのとき「六条夕璃」は目を瞠っていた。

 まるで見当違いの言葉にひどく驚いたかのように。


「車内では、お静かに、ね?」


 やがて、「六条夕璃」が穏やかに笑いながらそう言ったので夕璃は条件反射的に車内を見回してしまう。そして、ひどく驚いた。 

 無数に立っていた乗客の姿が尽く消えていた。それだけではない。車窓には無数に並走する車両。合わせ鏡のように車窓が無限に重なり、外の世界を窺うことはまるでできない。そのくせ車内はモーター音もなければ揺れることもなく、時間が止まっているかのようだった。


「ここは…………どこなの?」


 あまりにバカげた状況に夕璃はうすら寒さを覚えた。身体が入れ替わってから数えきれないほど思ったように―――自分は夢をみているのでは?―――と今一度思う。


「…………“こっちのセカイ”のほうが条件はいいんだけどなあ」

「えっ?」


 「六条夕璃」はニッコリと笑うとかぶりを振った。


「ううん、何でもない。時間もないし、本題に入ろうか。キミは自分のセカイに戻りたい、それは間違いない?」

「当たり前でしょ!」

「本当に本当に?」


首を傾げる姿がいかにも腹立たしい。


「くどい!」


 ふう、とため息を一度ついてから「六条夕璃」は言った。


「キミは四十八時間以内に一人の人間を救わないといけない。それがキミがキミの世界に戻るための唯一にして無二の条件だ」

「条件? それは誰なんですか!?」

「そこをはっきりしたら条件にならないだろ? と言いたいところだけど、ぶっちゃけ誰でもいいよ。簡単でしょ? だって、キミは完全無欠の生徒会長なんだし」

「あなたの目的―――」


 そう言いかけて夕璃の顔は苦悶に歪んだ。

 まただ。意識が急速に記憶へと変わり、記憶が霧に包まれていく。


 ―――大切なことだからもう一度言うよ―――。

 ―――キミは誰かを救わなければならない。それが叶わなかった場合、キミは―――。


 かつての自分の姿は輪郭をすっかり失い、その表情はもうわからない。



 柔らかな朝の光がポプラの葉を透かして差し込んでいく。衣替えをしたばかりで剥き出しになった二の腕にその仄かな温かみは心地いい。

 かつての夕璃は一日のなかでこの朝のひと時が一番好きだった。

 人も疎らでどこか清潔感すら感じるこの時間帯は忙しい夕璃にとって一番心が落ち着く時間帯だった。しかし、今の夕璃がそんなことを感じるはずもなく。


 ―――いつもであれば生徒会室で事務を終わらせてから、校内を巡回するのですけど……。


 スマホの液晶に反射した“自分”の姿を改めてまじまじと眺める。


「…………やはり冴えないですねえ」


 独りごちて苦笑いを浮かべる顔はいかにも弱々しい。非言語的コミュニケーションの暴力のようだった超絶美少女顔とは雲泥の差である。

 そして、夕里という男の子は常日頃からこんな柔弱な表情をしているようだ。意識していないと自然とそうなるというか、表情筋がしっくりくるのだ。

 こんな顔を常にしているようでは生徒会長はおろか生徒会の平メンバーも厳しいかもしれない。というか、自分だったら絶対にお断りする。

 夕里の部屋の様子を一通り検めてみたところ、部活動をしている様子もなかった。

 やはり落ち着くのは定番のオタクだろうか?


「それは…………イヤですね…………」


 自分の身体を奪った黒幕らしき人物の言葉を考える。

 一人の人間を救わないといけない、と言われた。はたしてその“誰か”とは夕里自身ではないだろうか。例えば、将来を絶望して自殺した六条夕里の身体に自分の魂が入り込んだ…………とか。その場合、本来の世界の自分に大きな不安は残るが、確かにこの自分の知識と経験があれば、六条夕里の冴えない人生も一変するに違いない。


 ―――いずれにせよ、まずは夕里の日常生活を向上させることからですね。


 長い思考の末にそう結論づけたときだった。


「―――きゃっ」


 ふんわりとした感触。弾むようにそれが左半身から離れていくとき、夕璃の視界の端をふわっと黒いものが舞った。鼻をくすぐる、芳しい、けれど懐かしい匂い。

 そして、誰かが倒れる音。

 ハッと我に返ると風景が一変していた。どうやら考えているうちに長い並木道を通り抜けて中庭に着いていたらしい。中庭は校舎と講堂にそれぞれ面しており、真ん中には清王朝風の噴水がある。中庭全体が貴族の庭園のようであり、至る所で色彩豊かな花々がその芳香を漂わせていた。


「…………」


 女子生徒が足元で倒れていた。

 芝生の上に零れる黒髪は朝日を受けてキラキラと輝き、白い制服から伸びた褐色の手足はドキッとするほど艶めかしい。そして、伏せられた瞼から伸びる長い睫毛。


「―――若紫むらさき


 しかし、夕璃がその名を発することはなかった。はたして理性が意識下で止めたのか、それともそれ以外の理由だったのか、今の夕璃にはわからない。


「大丈夫?」


 ありきたりな言葉を重ねて伸ばした夕璃の手は僅かに震えていた。若紫はぼんやりとそれを眺めていたが、やがてかぶりを振った。


「…………大丈夫です」


 若紫はそう言って花壇のレンガに手をかけると立ち上がった。


「ありがとうございました」


 小さく一礼すると落ちていた如雨露を拾い、花壇の奥で待つ園芸部の少女たちの群れに溶けていった。


「…………そう、ですよね」


 中空に漂ったままの我が手を見つめる。少しだけ大きくなった掌は意外にも力強く、それはやはり他人の手だった。


「―――っ!」


 急に泣けてきた。

 薄々予想はしていたが、実際に“現実”を突き抜けられるとなかなかキツイ。

 学院には若紫の思い出がそこら中に散らばっている。中庭だってそうだ。ああいうキャラクターのくせに若紫は花が好きだった。副会長として生徒会に入った後も園芸部を暇を見つけては手伝っていた。夕璃も何かにつけては手伝わされたものだ。

 夕璃は自分が失ったものの重みを改めて実感した。いや、失われたのではない。最初からここには存在していないのだ―――。


「…………でも、」


 夕璃はまだツーンと痛む鼻をつまみながら思った。

 …………若紫のあの姿は何なのだろう? 

 夕里と若紫に接点がないのはわかる。典型的な草食ボーイと思われる夕里くんにそれを望むのはあまりに酷な話だし、下手したら女子と話をしたことがないことだってありうる。

 しかし、だ。

 若紫がどれだけ美人でもその本質は快活な性格にある。面倒見がよく、人好きのするタイプだ。男子がどれだけ気後れしたとしても、話しかければ明るく応じるはずだし、実際にそういった場面を夕璃は何度なく見ている。


 ―――…………大丈夫です。ありがとうございました。


 あの乾ききった、人を拒絶するような態度。

 そして、それだけなら夕里が単に嫌われているだけかもしれないが、外見も夕璃の知っている若紫とはいくつか異なっていた。髪型はショートヘアだし、眼鏡をかけているのを見るのも初めてだった。

 若紫に何があったのか? それとも何がのか?

 かつての友人としてそれを知りたいと夕璃は思う。夕里としてできることは少ないかもしれない。それでも―――。

 夕璃が若紫が消えた生垣の奥に足を踏み出したときだった。


「―――おまえ、何しているんだ?」


「ひゃあ!?」


 突然、肩に手を置かれたので飛び上がるほど驚いた。夕璃は元々他人に体を触れられることに慣れていない。苦手といっていい。例外は若紫だけで近頃はようやく慣れ始めたが、最初はよくからかわれたものだ。


「おい、なんていう声を出すんだ!? 俺までびっくりしたぞ!」


 振り返ると再び驚いた。

 幼いころからずっと羨ましいと思っていた長い手足。

 さらさらと髪になびく髪は光を吸い込むような黒。その下にある頭部はコンパクトで、そして、本人曰く中身以外は無用の長物だと言い切る顔の造形は恐ろしく端正であった。


「その様子だとよほど後ろめたいことをしてたらしいな」


 ニヤリと笑うその顔は小悪魔そのもの。


「―――ホタル」


 思わずその名前が零れてしまい、夕璃は「しまった」と思った。葵井あおいけいは「ホタル」と呼ばれることを好まない。どうにもその響きが持つ軟弱なイメージを嫌っているらしい。


「ああ、おはよう。ユウリ」


 しかし、蛍はさも当たり前のように受け入れたので拍子抜けしてしまった。向こうの世界ででは夕璃が呼ぶたびに苛々した表情で訂正を要求したというのに(夕璃は夕璃で意地になって呼び続けたが)。


「…………まったく。エントランスで待っていても来ないし、春香さんに聞いたら朝から様子がおかしいというから急いで追いかけてきたというのに、朝っぱらから女をストーカーか。やり方がスマートじゃない―――」


 ―――どうやらこちらの夕里わたしはホタルと仲がいいらしいようですね…………。

 さもありなん。同じ幼馴染でも異性の気恥ずかしさでぎくしゃくしてしまった夕璃と違い、夕里は同性ということで関係が変わっていないのだろう。


「…………おい、」


 ―――でも、こちらのホタルはんですね。


「ユウリ! 聞いているのか!」

「えっ、ええっ!?」


 けいの顔がすぐ目の前にあったので息が止まるかと思った。真っ直ぐ射貫くように見つめる瞳は黒曜石のようで、そこには夕璃に負けず劣らずの強い意志を感じさせた。

 しかし、蛍は肩に置いた手を引っ込めると深々とため息をついた。


大体I getわかったthe idea。まったく恋愛脳には何を言っても無駄だな。まあ俺に言えた義理ではないが、ほとほどにしとけよ」

「…………うん、うん?」


 同じ蛍でも人間関係の経緯が違うとこうもわからないものか。まるで全く知らない小説をいきなり途中から読むような気分であった。


「じゃあ、今日も始めるか」

「…………えっと、何をでしたっけ?」


 既に2メートルほど進んでいたホタルは呆れた顔で振り返るとすたすたと近寄ってきた。


「本当に熱があるんじゃないか?」


 そう言って掌を額を当ててきた。そして、「よくわからん」と呟くと今度は自らの額をぴったりと合わせてきた! 仕立てたばかりのシャツの匂いに混じって感じる仄かな温もり。夕璃の顔はたちまち真っ赤に染まっていく。


―――っBoom! やっぱり熱いな。風邪でもひいたか?」


 ややぶっきらぼうだが、優しい声音を夕璃はボーっとした頭で聞いていた。蛍が穏やかな口調で話しているのを聞くのはいつ以来だろうか?


「ユウリ、授業が始まるまで保健室で休んでろ」

「いや、でも…………本当に体調は悪くない…………」

「そう主張するなら五秒以内に客観的根拠データを出せ。…………出せないな。じゃあ、俺の言うとおりにしろ」


 蛍はそう断定するといきなり膝の裏に触れたので夕璃は飛び上がった。しかし、声をあげるよりも先にもう一方の手が背中に回るとたちまち体重の感覚が消失する。


「えっ、えっ? ええっ!?」

「―――クソッ、重いな…………」


 横向きになった夕璃を抱えるとホタルはゆっくりと歩き始めた。


「おっ、おっ、おっ、」


 哀しきは人生経験の少なさか。乙女のときですらされたことがない初“お姫様抱っこ”に夕璃の思考はすっかり停止し、飼育員に抱えられる子オットセイと化していた。


「お、お、おろしてください!」

「断る」

「そんな!」

「うるさい! 今、お前にダウンされると後々に響くんだよ!」

「えっ…………?」


 黒髪が風に揺れている。すぐに近くにある顔はひどく真剣で真っ直ぐに前を見つめる双眸には巫山戯ふざけの色は一切見えない。


「―――ったくBoom!。クソ重くて腕が死にそうだ。やっぱり慣れないことはするもんじゃないな。こういうのは明石やかほるの分野だ」


 言葉に違わずその顔は苦々しいが、蛍の足取りはしっかりとしていた。普段は密室で一人プログラム式を相手にしている人間なので想像しづらいが、葵井あおいけいの身体能力は決して低くない。むしろ一人ソロで登山をするような人間である。


 ―――何なんですか、これは?


 わけが分からない。何もかも。蛍はなぜ自分にこうまでしてくれるのか? そして、あの孤高を絵に描いたような蛍をここまで変えてしまう六条夕里は一体何者なのだろう?


『―――おまえには心がない』


 180センチの高さで流れていく世界はまるで知らないものだった。ため息をついて緊張を緩めると少年の匂いが鼻をくすぐる。しかし、それは不思議と心地いいものだった。



 保健室に着くとホタルは体温測定を手始めに惚れ惚れするような手際で夕璃の体調をチェックしていった。特に問診は下手な医者よりも真剣な調子で夕璃は質問に答える度に自らの正体がバレるのではないかと冷や汗をかいた。


「―――異常はないな」


 蛍は情報をタブレット端末に入力を終えると軽く息を吐いた。


「だから、そう言った……じゃないか!」

「万全を期しただけだ」


 悪びれるどころかその声音にはすっかり興味の色が失われている。視界の端でちらりと覗くと液晶には画面から溢れんばかりのコードが上から下に流れていた。


「もっとも、喋り方がまだおかしいけどな」

「―――っ! こ、これは…………」

「『これは』なんだ? 論理的に説明してみせろ」


 直截的な物言いに夕璃は思わずカチンとくる。

 そうだ。そうなのだ。今まで目にしたことのない優しさを感じないでもないその姿に一瞬だけほだされかけたが、葵井あおいけいは本来こういうヤツなのだ。頭はいいが、カチカチの理屈屋で傲慢でいつも人のことを馬鹿にして。


「どうした? 言えないのか?」


 相変わらずこちらの顔を見向きもしない。そして、その様子は以前の世界と何一つ変わらなかった。


 ―――いっそのこと全部本当のことを言ってしまおうかしら?


 実は自分は別の並行世界から来た人間で、しかも、六条夕里ではなく六条夕璃という名前の女の子なのだと。花も恥じらう完璧美少女でしかも長い歴史と伝統を持つ白蘭学院生徒会きっての生徒会長の「夕璃サマ」とは何を隠そう、私のことだ、と!


「これは…………」 

「これは?」

「これは…………昨夜お嬢様を主人公にしたゲーム?にハマり過ぎて口調が移ってしまったんですわ、おほほほ」


 言えなかった。いくら本当のこととはいえ、ありえなさすぎる。


「…………なんだって?」


 蛍はタブレットから顔を上げるとぽかーんとした顔で夕璃を見つめた。

 …………沈黙が辛い。


「…………アホなのか、おまえ」

「えっ、ええ、アホでしてよ」


 ここまできたら勢いで乗り切るしかない、が、本当の自分をアホと断じられるのは哀しかった。夕璃は心の中で泣いた。


「ユウリ…………おまえ、本当に大丈夫か?」

「だ、大丈夫ですわよ。今のわたくしの心は完璧に美少女令嬢ですのよ」


 にっこりと笑う夕璃を見て、蛍は片手でこめかみを押さえた。どうやら頭痛がしてきたらしい。夕璃だって頭が痛い。


「…………あのなあBoom!。おまえ、今がどういうときかわかっているのか?」


 ―――あれ? 夕璃が改めて蛍との関係に疑問を覚えたときだった。


「モーロン!」


 扉が騒がしく開くと保健室には似つかわしくない陽気な声が響いた。


「また面倒なときに面倒なヤツが…………」


 横で蛍の苦みきった声が漏れていたが、夕璃の視線は開いたばかりの扉に釘付けになっていた。


「やっほー、ホタル、ユーリ♪」

「…………ミカ・フォン・ローゼンダール」

「はい、今日もカワイイみんなの王子サマこと、ミカ・フォン・ローゼンダールだよー!」


 陽だまりに包まれた廊下を背景にして透けるような金髪が粒子をまくように煌めいていた。柔らかな眼差しから覗く瞳は初夏の緑を思わせるグリーン。子供っぽい言動に反して身体は白樺のようにすらりと伸びていて、所作も洗練されている。

 そして、ごく自然に夕璃の手を取ると襟元にそっと当てた。ひどく熱い、生命そのものの感触に夕璃は息を呑む。


「うん、ユーリは今日も元気だ。もう、心配させないでよ。ホタルからユーリがビョーキだって聞いたから寮から『流星王チヤリ』をすっ飛ばしてきちゃったじゃない」


 ニコッと笑う姿はまさしく王子様そのもの。


「―――ミカ、ちなみにユーリはまだビョーキだぞ。なんでも令嬢モノのゲームにハマり過ぎて心の中が女の子になっちまったんだと」

「ユウリ、ホントウなの…………?」


 緑の瞳が怪しく瞬く。夕璃はなぜだか続けてもいいものかと躊躇した。しかし、本来の夕里を知らないのだから続けない選択肢はそもそも持ち合わせていない。


「そう、ですわ。わたくしは白蘭学院高校の美少女生徒会長、六条ユリでしてよ」


 それにしても若紫から教えてもらった「お嬢様言葉」がこんな形で役に立つとは。人生何があるかわからない。いや、そもそも男になっている事態で豪快に道を外れているのだが。


「ふーん。ユリちゃんは美少女生徒会長サンなんだ」

「え、ええ、そうですわよ」


 ミカにそんな風に呼ばれるのは初めてだったのでひどくこそばゆい。

 ミカ・フォン・ローゼンダールはとにかく訳がわからない人物だった。

 誰にでも愛想がいいが、決して深い仲になることはない。好奇心の赴くまま学院内をいつも浮雲のようにフラフラしている。故に行動原理は予想不可能。「野生のパンダが放し飼いにされているようなもの」―――若紫がそう評したのを聞いたことがある。

 しかし、唯一の例外が六条夕璃だった。


『うーん。僕はキミのことが嫌いみたいだ。自分でもビックリだよ。この僕が他人に対してネガティブな感情を抱けるなんて。キミ、すごいね。よっぽどだよ』


 生徒会長に当選後、役員にぜひと誘った夕璃に対しミカはさらりと言った。愛の告白を囁くような調子だったので夕璃は本人が去るまで罵倒されたことに気がつけなかった。


「へえ…………そうなんだ…………」


 白い手が夕璃の手首を掴む。ミカの身長は蛍とさして変わらないので自然ベッドに座る夕璃を身体を覆いかぶせるような形になる。


「ふふ、震えてる。本当に女の子みたいだ…………」

「ちょ、ちょっと! ミカ・フォン・ローゼンダール!」

「ユウリ、女の子だったらキスしてもいい?」


 耳元に囁く声。顎に触られた途端に力が抜けてシーツの海に吸い込まれていく。


「可愛いよ、ユウリ…………」

「ミカー、程々にしとけよー」


 ―――まさか。二人は本当に私が女の子だって気づいている!?


 怖い。逃げ出さないといけないのに金縛りにあったように動けない。

 ミカはサディスティックな視線で見つめながら、夕璃のシャツのボタンを一つ、また一つ外していく…………。夕璃はぎゅっと瞼を強く閉じた。


 ―――若紫、助けて!


「ユウリは本当に可愛いね。ユウリに比べたら学院の女の子なんてゴミみたいなものだよ」


 ……………………うん? 今、なんて言った?


「ユウリの可愛さはパーフェクトだ。たとえユウリにそっくりな双子の女の子がいたとしても僕は絶対ユウリを選ぶね」

「……………………」 

「あー、ユウリー。かわゆいよー。ザッツジャパニーズ、モエモエキュン!」


 夕璃は掌に力をグッと籠めると大きく振りかぶる。

 教室で生徒同士がトラブルになったとき、議論の収拾がつかなくなったとき、校舎裏や女子トイレで陰湿な場面を見かけたとき、夕璃はいつもこの“手”をつかう。

 誰が名付けたか―――『抑止力ノ拳ピースメーカー・ナツコー』(十中八九若紫だろうが)

 一度その拳が机や壁に叩きつけられれば、その轟音はフロア一帯に響き渡ったという。

 そして今、夕璃は生まれて初めてその拳を「抑止」ではなく直接行使した―――!


「あ゛あ゛ーん! ユウリがぶったー!」


 大理石の床をのたうち回るミカを蛍は冷ややかに見下ろす。一方で未だ鼻息の荒い夕璃にはちらりと一瞥をくれただけだった。


「オマエが悪い」

「(今のはミカが悪い)」


 えっ?―――いつの間にそこにいたのか、マスク姿の少年がベッドの端にちょこんと座っていた。


「おはよう、かほる。おまえ、いつからいたんだ?」

「(さっき)」どうやら今の妖精ブラウニーが囁くような声の主は彼らしい。

「ミカが来たときに一緒にいたのか。まったくアイドルのくせに本当に存在感ないなあ」


 三宮さんのみやかほるは目を細めると小さく肩をすくめた

 174センチと身長としては蛍やミカよりも低いが、シャツから覗く腕は駿馬のようにしなやかであった。今はマスクで覆われているが、奥二重の瞳はいかにも涼やか。古典芸能を幼い頃からたたき込まれた人間特有の美しい姿勢からは気品の高さが匂いたつほどだ。


「舞台の準備はどうなんだ?」

「(順調)」

「リアルに客と接する商売は大変だな。今から喉を温存しないといけないなんてな。そうだ、かほる。いっそのこと俺が合成音声でおまえの台詞を全部作ってやろうか?」


 かほるの目元が笑う。どうやら気持ちだけありがたく受け取ったようだ。

 夕璃は芸能関連に疎いが、それでも三宮かほるが今夏著名な演出家が主催する舞台に主役として立つぐらいは知っている。博多、梅田、名古屋、帝国劇場と回って千秋楽は日本武道館だったか、そのチケットのプレイガイド的なことを少し前に生徒会でしたことを思い出す。

 ―――しかし。

 これで白蘭学院の「四英雄」が三人も揃ったことになる。

 夕璃の記憶にある限り、「四英雄」が揃って友人関係にあるという話は聞いたこともない。蛍は自らのアプリ開発にしか興味がなかったし、三宮かほるはアイドル活動で超多忙の身だ。そして、ミカ・フォン・ローゼンダールは見ての通りの人間である。

 元より彼らは他者と交わるようなタイプではない。だからこそ、夕璃は生徒会という共通の器に彼らを引き込み、見たことのないような化学反応を学院に引き起こそうとしたのだ。


赤石あかしって今どこにいるんだっけ?」

「まだアメリカのどこかだろう。あの漂流者ドリフターめ、SNSはおろか携帯電話すら持たないからさっぱり動向が掴めん。あのバカが今どこにいるかを知るにはスターリンク衛星で監視でもしないとダメだな!」

「わお、さすがホタル。いんしつだね!」

「うるせえ。あの風来坊の出席が足りているのは誰のおかげだと思っているんだ。俺が出席データを偽装しているからだろうが」


 ―――どういうことなの!? 


 これで「四英雄」が全て揃ってしまった。

 神戸赤石あかしは学院に在籍できているのが不思議なぐらいのレアキャラである。まさしく「風来坊」の形容が正しく、学院の生徒の間では出会えたら幸せになると噂されるぐらいだ。

 夕璃が訝しく思っていると廊下が俄かに騒がしくなってきた。壁時計の針を見れば既に一般の生徒が登校する時間であり、グダグダやっているうちにすっかり時間が過ぎていたようだ。


「さてと―――」


 蛍はノートPCを鞄に入れるとおもむろに立ち上がった。


「―――今日も世界を変えにいくか」

ほんの少しa littleだけど、ね」


 かほるもこくりと頷くとミカに続く。一人ベッドに残された夕璃はぼんやりとその光景を見つめていた。三人の少年の姿はひどく眩しく、そしてなぜだか貴いものに思えた。

 しかし、三人は立ち止まると夕璃を振り返った。そして、蛍は右に、ミカとかほるは左にと自然に寄っていく。中心にはちょうど一人分のスペースが空いていた。


「ユウリ、行くぞ」

「ユウリ、行くよ」

「(ユウリ、行こう)」


 ―――どこに、ですか?


 少年たちは答えない。代わりに熱の籠った手が、夕璃の手を、背中を、肩を、引っ張っていく。まるで天上へと至るような高揚感が夕璃の全身を包んでいく。違う。これは夕里の記憶だ。それも無意識レベルで刻まれた。


「…………僕はいいよ。授業が始まるまでここで休んでいるよ」


 夕璃はやっとこさ吐き出すように言った。しかし、比類ない個性と才能を持った彼らは意に介さなかった。まさしく身勝手そのものであり、自分が世界の中心にいるとまるで疑わない。


「大丈夫だ。おまえの頭がおかしいのはとっくの昔に知っている」

「まー、なにせ変人揃いのボクらを仲間に引き込むような人だしねー」

「そう、クレイジー」

「俺はおまえらほどおかしくない! それはそうとユウリ! おまえが脳内麻薬で理性を失おうが、ビデオドラッグで言語中枢がイカれちまおうが、それとも本当にカミングアウトしたとしても、いまさら俺たちがそんなことを気にするもんか」


 誰かが背中を強く叩くと一瞬息ができなくなった。


「とにかく俺たちを巻き込むだけ巻き込んだんだ。今更逃げられると思うなよ」


 扉を開く直前、夕璃の脳裏には一秒前の三人の顔が刻まれていた。

 その顔は悪戯を計画する悪ガキそのもの。けれど、その笑顔は世界を本気で楽しもうとする笑顔だった―――。


「おまえは本当にクレイジーだ。そして、俺たちもクレイジーだ。そして、クレイジーなヤツだけが世界を変えられる! それを教えたのはユウリ、おまえだろ?」


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