±YOU(プラスマイナスユー)~完璧美少女生徒会長でお嬢様なワタシが冴えないもう一人のボクに生まれ変わったら~

希依

chapter 1 「もしもワタシが冴えない男子の姿で目が覚めたら...」



 六条夕璃ゆりは完全無欠の美少女である。

 絹のように滑らかな髪に欧州ヨーロツパの高級陶磁器が如き白く透き通った肌、顔は当然のように小さく、目鼻立ちは黄金比から一ミリたりとも狂いはない。その中でも最も際立ち、かつ本人も一番気に入っているのはその瞳の色だろう。

 夕日に照らされた瑠璃色の玉。

 母方の祖母の血筋が隔世遺伝したに違いないその瞳を初めて見たとき、あまりの美しさに父は母の腕に抱かれて眠る幼子を気づけば「夕璃」と呼んでいたという。

 両親の愛を一身に受けたたぐいまれなる宝石のような少女は生来の真っ直ぐな気性も加わり、十六歳になってもますます輝きを増していた。

 日本を代表する良家の子女が通う私立白蘭学院高校でも常に成績はトップクラス、運動神経抜群、ピアノに生け花、料理に裁縫と何だってできる。ならばこそ、高等部一年にして白蘭学院の生徒会長に抜擢されるのは当然の帰結というわけで。

 期待に満ちる講堂で新しく就任したばかりの生徒会長は学院の構造改革を高らかに宣言した。旧い因習で満ちていた校舎に一陣の春風が吹き抜けた頃、生徒たちは敬意と羨望を込めて彼女のことを「夕璃さま」と呼ぶのだった―――



+ + +



 最初は違和感だった。

 夕璃は霧がかかったような頭で目が覚めるとベッドから降りた。

 途端、足元がふらつく。

 うまく歩けない。奇妙な感覚だった。身体に熱はないのにふらふらする。まるで身体の重心がズレたかのよう。

 違和感の中心はデリケートエリアだ。膨張するかのようにパンパンに腫れているのが布地越しでもわかる。間違いなく月の物に関係するだろうが、まるで心当たりがなかった。

 面倒なことにならないといいんですが―――そんなことを思いつつ、夕璃は短くはない廊下を足を引き摺るように歩いた。ただでさえ、今は厄介事が生徒会室に山積みなのだ。

 高級ホテルのスウィートルームにあるような広い個室。母が飾り立てたドライフラワーのアレンジメントがそこら中に飾り立てられたそこは普段なら夕璃のお気に入りの場所だ。最新式のTOTOに腰を下ろすとおもむろに下着ごとロングパンツを下ろす。


 ―――あれ、パジャマなんて着ていたでしょうか?


 夕璃はいつもネグリジェで眠る。パジャマを着るのは体調が悪いときぐらいだ。

 しかし、そんな疑問も下着の中から現れたものを見た瞬間、超新星爆発に巻き込まれる半径一光年内の惑星のように吹き飛んだ。


「…………えっ?」


 これは悪い冗談だ。それも恐ろしく底意地の悪い。夕璃は最初にそんなことを思った。自分でも意外だったが、冷静だった。絶叫してもおかしくないという状況だというのに。冷静なのは如何にグロテスクでも病気の症状に違いないからだろうか。

 思いきって抜いてみた。

 しかし、岩に刺さった聖剣のようにビクともしない。経験したことのない痛みを覚えつつ、皮膚の境目を見ると繋がっていた。その証拠に動きに合わせて内鼠径部も上下している。


「えっ…………これはまさか…………」


 夕璃は急に恐ろしくなると今度は慎重にちょんちょんと指で突っついてみる。

 …………指のものではない…………触覚が…………あった。


「ぎぎやややややゃゃゃゃゃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 今度こそ絶叫した。

 自分にあるはずのない、決してあるはずのない“モノ”が生えている‼


「一体どうしたんだ!」

「ぎゃゃゃゃゃゃゃやややぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 父親がドアを開けてこちらを覗き込んだので夕璃は再び絶叫した。

 声量は更に大きく。たとえ血は繋がっているとはいえ花も恥じらう乙女の『個室』にファストパスで入り込むなど万死に値する行為である。

 しかし、夕璃の父こと六条春彦は夕璃の姿を見るなり顔を大きく歪めた。


「まったく…………朝から汚いものを見せやがって…………」


 そして、あろうことかドアをたたき壊すような勢いで閉めたのである。


「だから、男はダメなんだ! ああ、やはり人の道に反してでも女の子を生むべきだった!」


 えっ? それはないでしょう?

 あなたの大事な娘がとんでもない“海鼠なまこ”になっているんですよ…………?

 立ち去る父を追いかけるように夕璃はよろよろと立ち上がる。そのとき、壁の隅にかかっていた小さな鏡がちらりと視界に入った。


 ―――自分とよく似ているが、けれど確実に知らない“誰か”が鏡の世界にいた。


 

 『   六条       夕里  』

 『 ROKUJYOU  YUURI 』

 

 ブレザーの胸ポケットの中に入っていた生徒手帳には今の自分の顔とともにその名前が書かれていた。どうやらそれが現在の夕璃の名前のようだった。

 どこか投げやり気味を感じさせる名前であり、父が喜々として語っていた自分の名にまつわるエピソードが娘馬鹿の捏造だったことを夕璃は知った。


「でも、そんなことはどうでもいいんです!」


 そう言って自分の声ではない声にギョッとする。


「も、問題は自分が“男の子”になっているということなんです!」


 部屋の中を改めて見渡す。今思うと起きた瞬間になぜ気がつけなかったと思うぐらい、部屋の中身は様変わりしていた。お気に入りのシュタイフのテディベアも免税店でコツコツ集めたディオールやシャネルも、表参道ヒルズで数々の争奪戦の末に手に入れた服も、伊勢丹で買い揃えたオシャレでかわいい北欧メーカーの家具や雑貨もみんな跡形もなく消えていた。どれもこれも全て例外なくだ!

 代わりにあるのは冴えないファストファッションにマンガとTVゲームの背表紙が並ぶオタクくさい本棚、唯一価値がありそうなのは無駄に性能がよさそうな4Kの大型テレビとホームシアターセットだが、これはこれで無駄に変な拘りが滲み出ていてむしろ気持ちが悪い。


「はあ…………」


 クロゼットの扉の裏に申し訳程度に設置された鏡を改めて眺める。


「…………冴えない、ですねえ」


 夕璃は陰口や悪口を言う人間では決してないが、それにしたってコレはないだろう。

 自分がもし男の子に生まれていたら―――と想像したことは夕璃にもある。

 基礎は完璧なのだから、さぞや貴公子然とした美男子になると思っていた。

 しかし、現実はどうだ(この状況が現実とすればの話だが)。

 パーツそのものは夕璃だった頃とほとんど変わらない。小顔だし、目鼻立ちだって悪くない。瞳の色だって『夕璃色』のままだ。でも、違う。自分だからこそわかるのだ。男になったことで完璧なバランスが崩れ、その狂いが全体としての印象をひどく歪めてしまっている。

 しかし、夕璃が何よりも気に入らないのは男としてはあまりに弱々しい印象を与えることだった。身長は夕璃(百六十センチ)とほとんど変わらないし、全身の筋肉量も大して変わっていない。下手すれば男装した夕璃の方がよほど男らしいかもしれない。


「゛あ゛あ゛あーーっっ! 最悪ですっっっっっ!!」


 なぜ、こんなことになってしまったのか!?

 完璧美少女の六条夕璃の輝かしき日々は何処に?

 ライトブルーの夏用ベッドカバーに腰掛けると夕璃もとい夕璃だった夕里ゆうりは頭を抱えた。ちなみにベッドは夕璃が使っていたもの(天蓋付)よりも数段ランクが落ちている。


「…………そうです。こういうときほど冷静になるんです」 


 外見はもやし男でも中身は泣く子も黙る最強の美少女生徒会長なのだ。

 夕璃は一度目を閉じるとベッドの上に座禅を組んだ。それから雑念を消して鼻呼吸に集中する。生徒会長としての超多忙な日々を過ごすうちに自然に習得した瞑想法である。

 やがて、意識が自分の呼吸の音だけになると、夕璃は静かに自身に語りかけた。

 ―――昨夜、ベッドに入る直前私は何をしていましたか?

 その瞬間、ズキリと頭が割れるような痛みが夕璃を襲った。


「―――っ!」


 痛みとともに現れたのは霞がかった記憶だった。

 ぽっかりと開いた空白のようなそれは如何にも掴みどころがない。感情の残滓は微かに感じられるような気もするが、微睡みの中の夢のように現れては霧散していく。

 夕璃はそれでも瞼に力を入れると再び呼吸を整え始めた。

 負けるのは嫌だ。こんな不条理を自分は絶対に受け入れない。

 ―――思い出せないなら思い出せるところからです!

 六条夕璃の十六年が最初から巻き戻される。

 お姫様のように愛でられた幼少期。

 自分が他の子とは違うと認識した学童期。

 記憶のフィルムが通り過ぎかけたとき、一人の男児の姿が意識に浮上した。

 屈託のない幼い笑顔。その顔を見るとそれだけで幸せになれた顔。そして、もう決して自分には向けてはくれないその顔。


 ―――ホタル


 ふと思う。こういうケースは男女の心と身体がそれぞれ入れ替わるのが相場ではないだろうか? もしそうだとしたら葵井あおいけいと入れ替わっていたのだろうか…………。


 ―――っ! ち、違います! わ、私はそんなこと思いません!


 夕璃は慌てて記憶の映写機のハンドルを急回転させるとやがて走馬灯の光はたちまち白蘭学院の入学式を飛び越え、やがて、探し求めていた場所に辿り着いた―――。



- - -



 カタカタとキーボードの打ち込まれる音が聞こえる。

 生徒会室はとても静かだった。

 白蘭学院は高級住宅街のど真ん中に存在するため防音設備には気を遣っている。聞こえるのは校庭の掛け声ぐらいで学校の放課後でよく連想されるような音、特に楽器の類はこの学院では聞こえることはない。


「私が思うにユリはキャラが弱いと思うんだよね、中途半端というか」


 夕璃ゆりはマックブックから顔を上げるとテーブルのはす向かいを睨んだ。いつ崩れてもおかしくない書類の山の陰でその少女は物憂げに肘をついていた。整然とした塵一つない夕璃の周囲とは対照的である。


「ムラサキ、頼んでいた入力は終わったんですか?」

「いいや、まだー」


 頭痛を覚えかけて思わずこめかみに手を当てた夕璃を見て、少女はにかっと笑った。その笑顔は如何にも純真無垢であり、一陣の涼風を思わせた。

 二見若紫むらさき―――生徒会副会長であり、六条夕璃が学院において唯一気の置けない人物。生徒会長の夕璃が美少女だとしたら、若紫むらさきは美人と形容すべき外見を持つ少女だった。

 天鵞絨ビロードのように滑らかな黒髪にきらきらと輝く健康的な小麦色の肌、長い睫毛が似合う切れ長の目に同性の夕璃でもドキッとする妖艶さを湛えた厚い唇。もう少し身長があれば、「ミス・ユニバース」にエントリーしてもおかしくないような容貌だ。

 だが、黙って憂いの一つでも横顔に浮かべれば艶麗な容姿を持つ少女も今は二人だけの生徒会室ということで気が緩み切っているのか、幼稚園児のようにけらけら笑い続けている。


「…………まったく。とにかく今日中に必ず終わらせてくださいね」

「うーん、やっぱりキャラが薄いなー」


 軽口を叩きながらもタイピング音は加速している。その速さはもはやアップテンポのジャズを弾いているかのよう。若紫むらさきは黙々とやるよりも軽口を叩きながらやる方が仕事はノる。短くはない付き合いでとっくにわかっているはずだが、迷惑なことには変わりない。


「文武両道の優等生で二年にして生徒会長、容姿は黙っていれば眉目秀麗。実家は大手広告代理店の創業一族で母親は元有名女優…………うーん、確かにすごいんだけど、まあ現実リアルに一人ぐらいはいるかもねー、なんだよね。どうせならもっと突き抜けてほしいというか。大財閥の一人娘とかどこぞの王室の落胤とかぐらいまでいくともっと面白かったのになー」

「…………何を馬鹿なことを言っているんですか。羨ましがられこそすれ、私の家のことを物足りないなんて言うのは若紫むらさきぐらいですよ」


 口では呆れつつも夕璃は若紫を信頼している。全幅の信頼を置いているといっていい。普段はいい加減な態度が目に余るが、やるときはやるタイプだ。またこういう性格なので学院の内外に広い顔を持ち、また意外にも人の機微にも敏かったりする。正論一辺倒で得てして周囲に敵を作りやすい夕璃にとって彼女は何ものにも代えがたい存在であるといえた。


「あー! 一番足りないものがわかった!」

「聞きたくありません」

「口調だよ、口調! やっぱりお嬢様キャラでいくなら語尾に『~ですわ』とか『~てよ』をつけなきゃ! はい、そういうことで本番スタート!」

「はい!? 何を言っているんですか!?」

「違う違う! それを言うなら『何を仰っているのかわからなくてよ』、だよ!」

「…………ムラサキサン、それで体育祭の報告書は終わったんデスノ? そろそろ私の堪忍袋の緒も切れる頃デシテヨ?」


 訂正。やはりこの少女はノリと閃きと勢いだけで生きているだけなのかもしれない…………。

 結局、ああだこうだと軽口を叩いているうちに終わる頃には最終下校のチャイムが鳴ってしまっていた。これが鳴ると申請をしない限り、全ての生徒は下校しなくてはならない。


「あー、やっと終わった…………」

「最初から真面目にやっていればすぐに終わったんですのよ……て、はっ!」

「そうそう、それでいいんだよ!」

「どうして私がこんなヘンな喋り方をしなくてはいけないんですの……て、また!」


 夕璃は慌てて口を押さえた。こう見えて意外と流されやすいタイプである。親ならまだしも他の生徒に「お嬢様言葉」を聞かれでもしたらとても不味いことになる。


「もう! どうしてくれるんですの!? 一般生徒にこの語尾を万が一でも聞かれでもしたら今まで築きあげてきたものが水の泡ですわ…………ああ、また!」

「別に聞かれてもいいでしょ。水の泡、結構じゃない」

「…………えっ?」


 聞いたことのないような乾いた声音に心臓の音が跳ねた。

 若紫は夕璃のことをジッと見つめていた。その顔からはおどけた色はすっかり消え、急速に朱色が混じり始めた窓の光に照らされて憂いの陰すら帯びている。


「夕璃はもう少し他人に“隙”を見せたほうがいいと思うな」

「…………どうしてそう思うんですか?」

「この生徒会室に私たち二人だけしかいないからだよ」

「ごめんなさい、仰っている意味がわかりません。生徒会の活動日をもっと増やした方がいいということですか?」


 生徒会の活動日はイベントの準備期間などの繁忙期を除いて「月・木」と決められている。今期の生徒会が始動するにあたって最初の話し合いで決めたことだ。


「内申点目当ての有象無象がいくらいても、ね」

「生徒会の仲間をそういう風に言うのはよくない…………ですわ」


 口ではそう言いつつも若紫の言わんとしていることは夕璃も理解している。

 夕璃と若紫以外の生徒会メンバーは雑用や繁忙期の手伝いをしてもらう程度で生徒会は実質夕璃と若紫の二人で運営されているようなものだった。

 そして、それは二人が学院の中で卓越して優秀だから―――、というわけではない。


「確かに“あの四人”を生徒会に引き込むことができなかったのは私の落ち度です。…………“彼ら”がいたら学院はもっと良くなったでしょうね…………」


 白蘭学院における女子の有名人に現生徒会長の六条夕璃がいるように、男子のなかにも有名人は存在した。それも四人。彼らは学院の内外において余人をもって代えがたい実力と実績を持っていた。

 人呼んで―――『四英雄』。

 その名が持つ重みと学院内の人気は夕璃などのそれをはるかに圧倒している。

 ちなみに容貌もそれぞれ異なる方向で秀でおり、『四英雄』を崇拝する女子生徒ファンの抗争は学院の内外で血で血を洗うほど激しいものらしい。

 

 一人は「白王子ホワイト・プリンス」と渾名される―――「ミカ・フォン・ローゼンダール」。欧州の世界的ファッションブランドグループの跡取りであり、欧州王家の血を引く本物のプリンス。


 一人は「緑ノ君」と渾名される―――「三宮さんのみやかほる」。旧華族出身で曾祖父は人間国宝に列せられる芸術一族であり、自身も人気アイドルグループの一人である。


 一人は「赤き漂流者レツド・ドリフター」と渾名される―――「神戸赤石あかし」。各国の特殊部隊に近年採用されたことで有名な「神戸流実践武術」の継承者であり、身体能力の怪物フィジカル・モンスター

 

 そして、最後の一人は「黒い閃き」―――「葵井あおいけい」。国内最大IT企業AOIグループの創設者の息子であり、若者を中心に圧倒的な支持を集めるSNSサービス「GATE」の開発した若き天才開発者。


 夕璃が会長になれたのは彼らが一人として立候補しなかったからと陰でよく囁かれているが、そのことは夕璃も(悔しいが)認めている。そして、認めているからこそ、より良き学院の運営のために夕璃は『四英雄』に対して生徒会の一員になるように説いたのだ。

 結果は…………惨憺たるものだった。

 一人は「キミが嫌いだから」とはっきり言った。

 一人は困ったファンの一人としてあしらわれた。

 一人は会うことすら叶わなかった。

 一人は―――


「あー、なんかごめん。トラウマ抉っちゃったかも」


 ぷるぷると震える握り拳を若紫は両掌で包み込むと慰めるように言った。一方の夕璃は怒りで赤くなったり、悲嘆で蒼ざめたりと信号機のように目まぐるしく顔色を変えている。


「たとえどんなに有名でもどんなに顔がハンサムだとしても、あんなに失礼で性格の悪い人たちは生徒会には必要ありません! 私には若紫がいてくれればそれでいいんです!」


 気がつけば罵詈雑言が口から駄々洩れだった。


「…………そう言ってくれるのは友達として嬉しいんだけどねえ」


 照れ臭そうに若紫は漏らすが、もちろん夕璃には届いていない。

 あの四人の男子はこれまで順風満帆の人生を送ってきた夕璃にとって人生初めての挫折だった。いくら完璧な美少女である夕璃だって一人の年頃の女の子。学院の超有名人たるイケメン男子を生徒会に誘うにあたって下心が露も欠片もほんの少しぐらいはあったかもしれない、あったかもしれないが!


「それにしたってあの断り方はないです! 私はあくまで生徒の学院生活の向上を願ったからこそ勧誘したわけで、それをあの人たちはまるで私が色欲の権化みたいに―――」

「わかったわかった! どうどう! どうどう!」


 忘れもしないあの屈辱の数々―――。

 顔は人形のように美しいが、いかにも軽薄なミカ・フォン・ローゼンダール! あの心の底を何もかも見透かしたようなあの目! 自分からは何一つ積極的にしないというのに私の何がわかるというんだ!

 親の名声を引き継いだだけのくせに一端の芸術家気取りの三宮かほる! せっかくダンスを誉めてやったというのに「素人にはこういう風に見えるのか…………」と言わんばかりの形だけの心のない感謝の言葉。よりにもよってこの私を一般大衆として扱った!

 神戸赤石あかしは…………よくわからない! とにかく学校に来い!

 そして、“ホタル”だ。

 “ホタル”というのは葵井けいに夕璃が幼い頃につけたのあだ名である。

 夕璃と葵井けいは幼馴染であった。都内の一等地に位置するマンションの隣同士で物心ついたときから一緒に遊んでいた仲だ。以来幼稚舎からずっとこの白蘭学院でずっと同じ時間を過ごしてきたが、ここ数年はまともに口をきいてない。

 理由はよくわからない。全てが最短正面突破の夕璃だから、無論本人に直接聞いたが、ホタルは舌打ちと抽象的な言葉ばかりで一向に要領を得ない。仕方がないので反抗期なんだろうと結論づけた。男の子は年頃になると訳の分からない言動をすると聞いたことがある。「中二病」というか、そういったものなんだろう。


『―――たとえどんなに恵まれていようと、おまえには心がない』


「…………本当にどうして彼らは私を嫌っているんでしょうか?」


 ようやく怒りの熱が引くと今度は冷静にその理由を考え始めていた。六条夕璃という少女はどこまでも真っ直ぐな心を持つ少女である。顎に手を当ててしきりに考え込む夕璃を若紫はしばらく眺めていたが、やがてフッと小さく笑った。


「―――それはアイツらが大馬鹿野郎だからだよ!」

「えっ!? 若紫、急にどうしたんですか!? ちょっ―――、くすぐったいです!」


 若紫は戸惑う夕璃の背中に両腕を絡ませるとぎゅっと抱きしめた。それから猫がじゃれつくように夕璃の肩や首筋やうなじにすりすりと顔をこすりつけるのだった。


「…………なんか夕璃が愛おしくなっちゃって、さ」 

「暑苦しいです。早く離れてください」

「イヤです。生徒会長にスキンシップするのは副会長の特権なのです。あー、柔らかくて気持ちええー。夕璃はまだまだ成長期だねー」


 副会長のセクハラ行為に今すぐ大声を出そうかと思ったが、夕璃は夕璃で若紫の絹のような黒髪や硝子細工の如き華奢な肉体を肌で堪能しているのでおあいこである。


「…………ごめん。変なこと言っちゃったね。やっぱり夕璃は夕璃のままでいい」

「…………私は今のままでいいとは思いませんけど」

「相変わらず真面目だねー。ま、そゆうとこが私は好きなんだけど。あーあ、ほんとアイツらみんな馬鹿だよ、私が男だったら絶対に夕璃と付き合うんだけどなー」

「若紫…………」

「それにチョロそうだし、お金持ってそうだし」

「ごめんなさい、殴っていいですか?」

「あはは」


 いつまでも笑い続ける若紫を押し出すようにして生徒会室を出る。時計の針は□□時を既にまわっていた。さっさと施錠して急いで鍵を返しに行かなくては。



「―――若紫。お手数ですが、鍵を返しに行ってもらえませんか?」


 カードキーを受け取ると若紫は怪訝な顔をした。


「あれ? 夕璃は帰らないの?」

「ちょっと用事というか、気になることがありまして…………」


 夕璃が二の句を継ぐ前に若紫はピンときたようだった。この辺はさすがに付き合いがそれなりに長いだけのことはある。


「もしか□て『ノーネーム』に関係した□する?」


 首肯する。

 「ノーネーム」というのは近頃学校を騒がしているメール事件のことだ。

 白蘭学院では生徒全員に大型のタブレット端末が支給されている。通常のネット接続の他に学内専用の内部ネットワークが常時接続されており、これによって生徒や教師の間で簡単かつ安全に情報の共有が可能になっている。

 しかし、半年ほど前からその内部ネットワークを通じて大量のスパムメールが学院内の全生徒に届くようになった。メールには生徒のゴシップ情報がほんの些細なもの(掃除をサボった、ゴミをゴミ箱に捨てなかったなど)から非常に反響の強いもの(複数の異性と交際している、親の会社の不祥事とか)までありとあらゆる裏情報が記載されていた。

 無論、学校がそれを黙認するはずはなく、著名なセキュリティ企業に調査を依頼しているが、現在のところ主だった成果は出ていない。


「あんなの、ほっとけば□□のに。真面目に学生やっていれば実害なんてないじゃない?」

「そんなわけにはいきません! たとえ学院が平和になっ□としても告げ口や密告で実現したものに意味はありま□ん! それに…………ノーネームの犯人が生徒会…………私だという噂だってあります」

「…………まあ、そうな□よね」


 実際のところノーネームの情報は意図はどうあれ生徒会の活動に資すること大であった。ノーネームが提供した情報には部活の不正会計や校内のいじめ情報などもあり、それらをもとに生徒会が介入した事案はいくつもある。もちろん介入の際は正規の方法で裏はとるが。


「だからか。今日はいつも以上に陰気臭い顔でPCを睨んで□るなーとは思ってはいたんだわ」

「その言い方は引っかか□ますが、その通りです。おかけで□までノーネームの正体に近づくヒントのようなものに気がつけました。おそらくノーネームの□□□□は□□の□にあります」


 ―――っ!?


「マジか。ということは□□は□□□という□□だね」


 ―――頭が…………痛い…………。


「□い。□□ら、行っ□確□□□□ようと思□□□す」

「□□、危□□っ□! ノ□□□ムの□□□いる□□は□□□□も犯罪□□! 下手に首□□□ま□□□う□□□っ□! 大人□□□任□□□!」

「大□夫□□よ。本□□□ょ□と気に□□□□□□確かめ□□□□□□ら」


 輪郭が急速にぼやけていく記憶の中で夕璃と若紫がなおも押し問答を続けている。ついには一緒についていこうとする若紫から逃げるように夕璃は廊下を駆け出していた。

 いつもならむしろ若紫に協力を仰ぐべきところをそのときはなぜ頑なに拒んだのだろう?

 はっきりとした理由があったはずなのに今はまるでわからない。

 ただ―――明らかに心配でたまらなそうな若紫の顔だけが焼き付いて離れない。

 ―――若紫、ごめんなさい。


 それからの記憶は断片的なものだった。


 血潮のような真っ赤な夕暮れ


 静まり切った廊下   重い足取り   失望


 凶器が描く銀色の残像   人間の持つ底知れぬ悪意 


    

 あかくて あたたかい わたしの血

 


 だれか、だれか…………たすけて…………

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