chapter 5 「もしも彼があの日私を...」Ⅱ

 そのタワーマンションは青山通りを200メートルほど北にいった場所にあった。最寄り駅的には表参道の方が近いかもしれない。雑居ビルが立ち並ぶ都会的な風景が道路を挟んで閑静な高級住宅街に変わる様は東京という街の二面性を如何にもよく表していた。

 時刻は朝7時。通勤前のその時間帯はいつもであれば地元住民たちだけの穏やかな朝だったのだろう。しかし、決して広くはない生活道路に無遠慮に停められた黒塗りのハイヤーが犬の散歩やランニングの風景を不快なものにしていた。そして、夕璃の推測が正しいなら、その車の数は加速度的に増えていくに違いない。


「たっかいマンションだー」


 灰色の空を聳え立つ白亜のマンションをミカは眩しそうに見上げた。


「あんなところから落ちても案外即死しないもんなんだね」


 不謹慎かつ物騒な物言いに夕璃は思わず周囲を見渡す。幸いにして人はいなかったので安堵のため息をつく。既にこの一帯は「マスコミ」がうろうろしていた。夕璃も駅からここまで二回も食いつかれている。今はまだ朝だが、日がもっと昇ればレトロRPGの勇者のように片っ端から「話す」「調べる」を繰り返すのだ。

 事実、今回の事件は好奇心を満たすには打ってつけのネタであった。金持ちの子弟が通う有名私立学校を舞台にしたスキャンダラスな事件。善悪がわかりすぎるその構造はいくらでもヘイトと金を稼ぐことができる。ミカや蛍によると何人かの学院生から情報の漏洩が始まっているらしい。「ノーネーム」の存在が表舞台に出てくるのも時間の問題だろう。


「ミカ、気をつけてよ。僕らが学院の人間だとバレたらどうするのさ」

「へいきへいき~♪」


 平然とそう言うが、夕璃は気が気でない。ただでさえ夕里たちは学院の超有名人なのだ。顔を知っている記者がいてもおかしくはない。夕璃は初めてだったが、彼らはテレビで見るよりもはるかにガラが悪かった。もっと直截的に言えば怖かった。犯罪で金を得ているのではなく、その犯罪者で金を得ているぐらいの違いしかない。


「あはは、確かにこういうところはユウリにはキツイかもね」

「悪いごとじゃないよ、もう!」


 夕璃とミカは今、情報収集のために永井火風花かふかが飛び降り自殺を図った自宅マンションに来ていた。かほるは別ルートで津島夢呂栖めろすの行方を追っている。


「でも、急がないと」


 夕璃はスマホをちらりと見やる。画面には「ノーネーム」のサイトが映っていた。昨夜頃から更新回数が爆発的に増え、今も学院生の触れられたくない暗部を吐き出し続けている。学院側は慌てて臨時休校まで行い対応に当たっているが、成果は出ていない。


「そうだね。ホタルが持ちこたえているうちに『ノーネーム』に繋がる決定的なキーを見つけなきゃ」


 「ノーネーム」から漏洩する情報は学院生本人だけでなく、学院生の親やその企業も含まれ、あるいは白蘭学院以外の生徒にも飛び火していた。手を打たなければ早晩火の手は東京、日本と燃え広がっていくだろう。そうなれば夕里たちは無論生徒会どころではない。


「でも、どうやって?」


 今の夕璃は制服ではなく、キャップからスニーカーまでオールナイキのラフな格好をしていた。幼すぎる童顔さえ無ければ、クラブの朝帰りに一応見えなくはない。


「さて、どうしようかなあ。うーん、困ったねえ。もっと早く行動に移していれば、女の子二人ぐらいお土産にして津島先輩の部屋にお邪魔できたんだけどなあ。先輩、早漏すぎでしょ」


 そう言ってミカは怪しく笑った。どうやら嘘でも誇張でもないようなのが恐ろしい。いったいこのミカ・フォン・ローゼンダールなる王子様は一体何者なのだろう。夕璃はいよいよわからなくなってきた。


「ま、なんとかなるんじゃない♪」

「そんないい加減な…………」


 マンションに歩き出すミカを慌てて追いかける。ちなみに王子様のファッションは白のシャツに黒のパンツという非常にシンプルなもので首や指につけたシルバーアクセがアクセントになっている。それがブラウン強めの金髪と高身長が相まってまあ格好いいこと。ブラッド=ピッドが主演するような映画にそのまま出ても違和感がないぐらいである。


「なんとかなる。必ずなんとかなるようにしないといけない」


 ミカがそう言ったのは黄色い警戒線を前にこれからどうしようか考えていたときだった。一瞬何を言っているかわからなかったが、数拍置いて先ほどの会話の続きだと気づく。


「(ねえ、ナイショの話してもいい?)」


 そして、突然耳元に囁くものだから面食らってしまう。少し舌足らずの発音のその声は人形の中でころころと転がる鈴を連想させた。


「(ホタルは絶対に言わないだろうけど、警視庁が『AOI』の捜査を始めている)」

「えっ、それってホタルの…………!?」


 ミカが「しーっ」と人差し指を唇に当ててみせたので夕璃は慌てて平静を装った。


「でも、そんなの完全に濡れ衣じゃないか」

「うん。そうだね。でもね、彼の戦っている世界はそういう場所なんだ。ボクらが当たり前だと思っているルールですらルールだと思わない人たちがボーダーレスに存在する世界。ライバルがちょっとでも潰せれば儲けものだと思っているんだよ」


 まるで気がつかなかった。話から察するに今どうこうの話ではなかったのだろう。でも、全然そんな素振りを見せなかった。メイド服や野球の話で笑っていたじゃないか。コロッケを美味しそうに食べていたじゃないか!?


「ホント困るよね! ホタルはこういうとき意地張って絶対にボクらを頼らないんだから! だからさ、ユーリ。嫌がらせにうーんと助けてあげてホタルを困らせてやろうよ!」


 ニカッと笑った顔が朝日に輝く。もちろん夕里も同じ顔で頷いていた。


「うん、そうだね。困らせてやろう」


 そのとき一つのイメージが脳裏を掠める。

 ―――黒い線のような雨。何もかもが巨大で人工的なビルディングの裏側―――立ち尽くすミカ・フォン・ローゼンダール。彼は困惑していた。唇は「なぜ」の形で凍っている―――葵井蛍はずぶ濡れのまま不敵に笑うとタブレット端末を掲げた。それを見たミカの膝が崩れる―――雨だれの音に混じって漏れる嗚咽―――温かい雨が頬を伝っていく。


『……なんなんだよぉ』

『悪いな、ミカ・フォン・ローゼンダール。俺たちは『不正義セイギの味方』なんだ」

「―――だから、諦めて助けられろ。それが嫌ならおまえも誰かを助けろ」


 ミカは目を閉じるとあのときのホタルの台詞を繰り返す。


「なあ、そうだろ? リーダー?」


 夕里は頷くとまた同じようにミカの肩に手を置いた。


 ―――世界を一緒に変えよう。今よりもほんの少しだけ素晴らしい世界に。


「というわけで始めますか」


 そう言って突然ポケットの中から小さな瓶を取り出したので夕璃は目を剥いた。そのまま中身を呷るとたちまち白い肌が紅潮し、産毛の残る毛穴からはアルコールの臭いがむんむん。


「ちょ、ちょっ! ミカ!?」

「だいじょうぶ、だいじょうーぶ! ボクの国ではお酒は16歳からだきゃら。へへ、ユウリはそういう恰好もキャワワイイねぇー、ああ、なんかアツくなってきひゃった」


 往来の真ん中でボタンを外し始めたので今度こそ心臓が止まる。大理石の彫刻のような肌が眩しくて、男の子の身体ってこんなにもキレイなものなのかと思わないでもないが、とにかく止めなくてはいろいろマズい…………本当にこのアホ王子に任せて大丈夫なのか!?


 

 道路脇に設置されたプランター―――大きな縁がウッドデッキのように使えなくはない―――その男は座っていた。


「さーせんー、なんかあったんっスかあ?」


 ミカが尋ねると男が顔を上げた。首元が開いたワイシャツに皺の寄ったズボン。その少々くたびれた外見は信用金庫の営業か区役所の担当者のようにも見える。


「いや、警察来ているじゃないっスかあ? それにマスコミっスか、アレ? ナントカ新聞て腕につけている人?…………なんか事件でもあったんスか?」

「…………キミ、住民の人?」


 アイコスを咥えたまま質問に質問を返す。いつもならその態度にカチンとくるところだが、夕璃は大人相手の緊張感でそれどころではない。ミカの横で必死に平静を装う。


「いや、オレはー違いますけど、コレが地元民っスね」


 立てた小指を見て男が苦笑いをする。


「そこのマンションで飛び降りがあったらしいよ」

「マジッスか!? オレたちそこで今まで飲んでたんスよ! ああ、だからサイレンがうるさかったのか!」


 それにしてもよくもまあアルコールが回った頭でぺらぺら次から次に嘘がつけるものだ。しかし、男は努めて平静を装っていたが、目に光が灯ったことは明らかだった。垂らした針に食いついたと思ったのだろう。そして、それは夕璃たちとて同じだった。


「高校生の男の子らしいよ。永井火風花かふかクンって知ってる?」

「うーん、どうっスかねえ。聞いたことねえっす」

「白蘭学院の三年生らしいけど」

「ああ、それならカノジョの同期タメっす。アイツ、なんか知ってるカナ?」

「ちょっと聞いてみてくれない?」


 打って変わった笑顔とともに名刺が渡された。そこには男の名前とともに中吊りでよく見る週刊誌の名前が書いてあった。


「スゲー、週刊誌の人だったんすか!? マジで事件じゃないっすか!? わー、スゲー、もしかすると俺のこと記事に載っちゃったりします? うわ、マジヤベー!」

「匿名だけどね」


 気をよくした男は飛び降り事件について教えてくれた。永井火風花かふかと彼の友人がとある女子高生グループに対して未成年飲酒の挙句、性的暴行を起こしたこと。それが今、ネットが暴露されていることなど…………そのほとんとが既に知っていたことだが、ミカはさも初めて聞くことのようにふんふんと聞き入っていた。


「ああ、その被害者の女の子、たぶんオレのカノジョの友達の友達っスよ。マリンちゃんだったかな。スマホに写真残っていたかな…………」


 男の顔がさっと変わる。男は被害者女子の名前を言ってはいないのでネタがホンモノだと確信したのだろう。実際にはGATEで収集していた情報なのだが。


「本当に? 電話で聞いてみてくれない?」


 さて、これからが本番だ。無論、記者に情報を渡すのが目的なのではない。その逆だ。案の定、電話を操作する手が止まる。怪訝な顔をする男にミカはにっこりと、だが、有無を言わせぬ迫力をもって言った。


「記者さん、『ノーネーム』ってサイト知ってます? 最近、高校生を中心に流行っている裏SNSがあるらしいですけど、この事件もそれ絡みですよね? カノジョもそれにどうやらハマっていて、オレ困ってるスよ」


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