17.5話 望んではならないものが欲しい男のはなし



 ユゥリアスにとって、ハルカ=アスミとはどのような人物か。


 この世界の常識がない異世界人たる彼女は、次々にありえないような現象を引き起こしてユゥリアスの心の平穏を奪い、衝撃と共に飽きることを知らない非日常を与えてくれる存在である。

 色判定を受けてから数年の間、ユゥリアスの過ごす時間には本当に何もなかった。当然だ。誰とも話さない、何もやることがない、生きるための行動しかとらない日々に何かがあるはずもない。そんな空虚だった城での生活に比べると、今は毎日が刺激的過ぎるほどで。……それが、とても楽しい。今日は、明日は何が起きるのかと胸が高鳴る。

 ハルカは特別だ。今のユゥリアスの思考の大半を占めるのはハルカのこと。彼女がいるからユゥリアスは今、自分は確かにここに存在し生きているのだと強く実感できる。



(けれど、ずっとこのまま……という訳にもいかない。ハルカは元の世界に帰りたいのだから)



 元の世界に帰るために彼女はユゥリアスの庇護を求めた。異世界に帰る方法を見つけるためにも拠点が必要だと。ハルカはいつか、この世界から去っていく。だから“ずっとこのまま”を望んではいけない。それは分かっているはずなのに心は思う通りにならない。

 ハルカが元の世界に戻れるよう、協力は惜しまないつもりだ。手がかりを求めて裏市までやってきて、異国の品や情報も真剣に探している。でも、それが見つからないことにどこかでほっとしてしまう自分が嫌だった。

 ふと隣を歩く彼女を見るとじっと足元の地面を見つめており、段々とその歩みが遅くなっていく。彼女は表情が少ないので異能を使っていない時は分かりにくいのだが、考え事をしているのか、疲れているのか。どちらかだろう。



「ハルカ、どうしたんだ。ぼうっとしてないか? 疲れたなら休もう」



 声をかけることで顔を上げたハルカが頷いて同意したので、しばし休息をとる。彼女はずっと異能を使って辺りの人間の心の声を聞いており、それは大勢の人間に話しかけられるようなものだと言っていたので疲れるはずなのだ。

 ユゥリアスにはない力で、彼女にしか分からない感覚。それがどれほど大変か知ることはできないため、無理をしていないか、大丈夫なのかとただ心配するしかない。



(……あまり自分のことを顧みないからな、ハルカは)



 生まれ持ったその強大な力ゆえか、はたまた人と関わらなかったという人生ゆえか。自分でできることは何でも自分でやってしまう。ホームでの生活も随分と彼女の仕事が多い。いや、“できるから”という理由でやってしまうので、他の者の仕事が減っている状態だ。

 本人は全く負担だと感じていないようだが、傍から見ていると働きすぎではないか心配になってしまう。



「無理はしていないか? 君の力がどれくらい消耗するものなのか、私には分からないからな」


『大丈夫ですよ。ユーリさんは優しいですね』



 異能で伝わってくる感覚で本当に大丈夫だと思っていることに安心した。そして『貴方は優しい』という言葉に含まれる感情はとても温かくて好意的で――この気持ちを受け取る度、ユゥリアスは少し落ち着かない気分になる。ハルカから伝わってくる好意は心地よくて、それでいてむず痒くて、どうしようもなくユゥリアスの心を掻き立てるのだ。……けれどその感覚を、求めてしまう。彼女との心の交流がユゥリアスは好きだった。



『ユーリさん。ユーリさんが大変な時、困った時は私が絶対に助けますから、助けを求めてくださいね』


「……急に、どうしたんだ?」



 ハルカの伝えたい言葉と共に、本気でユゥリアスの力になろうと考えている思いが伝わってくる。彼女が使う伝心の異能は二種類あるようで、周りの者がいつ何を話してもいいように「心を読む力」は常に使っているが、「自分の心を伝える力」は話しかける時にのみ使われている。だからハルカが何を考えて急にそんなことを言い出したのか、よく分からずにそう尋ねた。



『ユーリさんは人を助けてばかりだから、私くらいはユーリさんを助ける人になろうと思いまして』



 どうやら先ほど歩みが遅くなっていたのはユゥリアスについて考えていたからだったようだ。彼女は過去の、城での暮らしについてもその異能の力でおおよそを把握している。自分の存在を疑ってしまうほど、透明に扱われていた期間。ユゥリアスにとって最大の苦しみであったその過去を変えることはできないが、今は異能者である自分がいるからいつでも助けられると、ハルカはそう思っている。



『私はユーリさんの味方になりたいです。この世界の常識がないので、驚かせることが……その、いっぱいありますけど。本心ですよ、伝わりますか?』



 彼女の異能は感情も伝わるものだからもちろん伝わっている。自分に向けられた親しみも、優しさも、気遣いも、心の底からユゥリアスを大事に思い、守りたい、助けたいと思ってくれていることも。何もかもしっかりと伝わっている。


 その感情で己の心の中が満たされた瞬間、どうしようもなく揺さぶられて、体温が上がる。心臓はうるさい程に鳴っている。胸がいっぱいで苦しいくらいに満たされてしまう。

 親にすら愛されなかった、誰の愛情も関心も得られなかった人間が、突然こんなに温かい感情を向けられて。平静でいられるはずがないだろう。

 おかしくなりそうなほどに嬉しい。こんなに満たされているのに、もっと欲しくてたまらない。何が欲しいのか、何が足りないのか。一体、どうして。



(……ああ、そうか。私はこの人が好きなのか)



 自分はこの人が欲しいのだと気づいた瞬間自覚した。そしてそれが伝わってしまっているだろうことにも気づき「あっ」と思った時には遅かった。ハルカは真っ黒な目を丸くしてユゥリアスを見つめており、珍しく驚いた表情を見せている。……初めて、彼女に心を隠したいと思った。


 知られたくなかった。伝えたくなかった。いずれこの世界を去る人に、去るつもりの人に、こんな感情を持っても不毛だ。受け入れられないだろうし、迷惑だろう。彼女を困らせたくはない。



(嫌われたくない。君に嫌われたら、私は……)



 しばし言葉を探す。何を言えばいいだろう。ハルカを好きになってしまったのは事実で、この気持ちを今すぐ変えることはできない。この感情を捨てることはできない。けれど、これを押し付ける気もない。

 ただ、これからも今まで通り過ごしたい。それを失ってしまったら、今のユゥリアスはきっと足場を失ったかのように、この世界に立っていられなくなる。



「……すまない。迷惑だろう」



 ようやく絞り出した言葉はそれだった。でもどうか、嫌いにならないでくれと思う。ハルカの目に嫌悪が宿るところだけは見たくない。いや、見られない。それが怖くて彼女の方を見ることができなかった。



『迷惑ではないですよ。私は……友達として、ユーリさんが好きですけど……』



 ユゥリアスの気持ちを知ったハルカの感情からは嫌悪も拒絶も感じなかった。戸惑ってはいたが、嫌がられてはいない。それに心底安堵してようやく彼女の顔を見られるようになった。

 少しだけ、目元に赤みがさしているように見える。ユゥリアスの気持ちをむずがゆく感じているらしいことは、彼女の能力で伝わってきた。……それが少し、嬉しい。自分は嫌われておらず、むしろ、好かれているのだと分かるから。



「よかった。嫌われていないなら、これからも友人でいてくれるだろうか」


『じゃあ、今まで通りで』


「ああ。……ありがとう」



 この世界で唯一、自分を見てくれた人。初めての友人で、ただ一人の特別な人。この関係を先に進めなくていい、このままでいい――――このままでいいから、ずっとここに居てほしい。

 望んではならないものと分かっていてもそう思う。けれど、決して口にはしない。叶わぬ望みだと分かっている。いつか彼女が帰る日、帰る瞬間まで言葉にしない。……伝わってしまうかもしれないが、望んでしまうだけで押し付ける気がないことも伝わるはずだ。



(自分の心がこうもままならないものだとは……)



 己の感情を自覚してから、心が乱れやすくなってしまった。移動能力を使う際、彼女に触れることすらためらってしまう。……触れたら好意があふれてしまいそうで、何より好いた相手に触れるという行為が壊れそうになるくらい心臓を激しく鼓動させる。

 ――その直後に魔物の眼前、触れそうな距離に転移した時は心臓が口から飛び出るかと思ったが。本当にハルカと一緒にいると、心臓に負担がかかる。寿命が縮んでいるのではないだろうか。


 茸熊の解体を終えて、また彼女の力でホーム付近に移動した。指先が触れるだけで心臓がおかしな挙動をする。ホームに戻れば仲間の帰りを待っていたのか、魔物の肉を楽しみにしていたのかよく分からない三人の期待に満ちた目に迎えられるハルカを見ながらぼんやりと考える。



(心臓を使いすぎて疲れたな。本当に寿命が縮んでいそうだ。……いや、それも構わないか)


 

 好意があふれそうになったり、何をするんだと驚かされたりを繰り返すこの日々が終わりを迎えるなら、自分の生もさっさと終わってしまえばいいのにと。そんなくだらないことを考えてしまってすぐに思考を打ち消した。ハルカの負担になってしまいそうだから、やめよう。こんなことを考えるのは。



「疲れたから俺は暫く休む」


「はーい! ねぇハルカ、一緒にダリアードの料理を見学しようよ!」



 背後で楽し気にハルカへと声をかけるセルカの言葉すら気になってしまう。彼はハルカを同じ年頃だと思っているし、それなりの好意を抱いているようにも見える。未来を見たという彼女の話では、瞳の色の花冠も贈ったという。……このままではいけない。余計なことを考えてしまいそうだ。



「浴場、いく」


「えー……ハルカはほんとに綺麗好きだよね。出かけたら必ず浴場に行くもん……」



 セルカの誘いをにべもなく断るたどたどしい言葉を可愛いと思いながら部屋に戻る。コートや装備を外し身軽になったらベッドへ転がった。

 ハルカと話している時は彼女の言動に驚かされたり、ヒヤヒヤすることが多くてあまり己の気持ちには意識が向かない。問題はそれ以外の時間だ。



(……だめだ。ずっとハルカのことを考えてしまう。どうすればいいんだ)



 初めて抱いたこの感情を持て余している自覚はある。だからといってどうすることもできない。これからも彼女とは友人だ。その先は望まないし、望んではいけない。

 ――――望んではいけないと思っている時点で、その欲が根底にあるのだろう。



(自分が嫌いになりそうだ。……私はこんな、どうしようもない人間だったのか?)



 自分はこんなに欲深い人間だったのかと、気づかされる。この感情は本当に厄介だ。知りたくもなかった己の欲深さを知ってしまった。

 ハルカにとって親切で優しい人間でいたい。ハルカに大事な友人だと思ってもらえる自分のままでいたい。醜い欲求など消えてしまえばいい。



(望んではいけない。私が望むのは、ハルカの幸せだけでいい)



 ハルカの望みを叶えたい。元の世界に戻りたいという彼女の願いを叶えたい。帰してやりたい。本気でそう思っている。

 けれど同時に、彼女が帰らないと思ってくれないだろうか。元の世界に戻る方法が見つからない、ということはないかとも考えてしまう。絶対にそんなこと考えてはいけないと思うのに。



(……彼女の望みを叶えるのが、最優先だ。好いた相手には笑ってほしい。そのためなら自分の感情など捨てられるだろう、ユゥリアス)



 ハルカが笑ってくれるのが一番嬉しい。いつだったか彼女に伝えたように、その気持ちに変化はない。だからこの望みは、心の奥底にしまってもう二度と出してはいけない。

 一度眠って、目が覚めたらこの欲を忘れよう。目が覚めたら、彼女のためだけに動こう。そう自分に言い聞かせ、目を閉じる。


 そうして眠って見た夢は、胸の底にしまいたかった欲を如実に表した、望んではならない未来。幸せな悪夢を見て、目覚めた気分は最悪だった。



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