7.5話 透明だった男のはなし



 ぱちぱちと火が爆ぜる音と、小川のせせらぎ、そして夜の鳥が恋しそうに鳴く声だけが聞こえる静かな夜。ユゥリアスは火の番をしながら、今日一日の出来事を振り返っていた。

 二十三年の人生の中で、恐らく今日が最も衝撃的な一日であった。五歳の頃誰かに湖へと突き落とされて死にかけた日よりも、八歳の色判定で王族失格とされた日よりも、異世界からやってきた彼女と出会った今日の方が、あらゆる意味で何もかもを凌駕したと思う。



(……まさか、異世界の人間に出会う日が来るとはな)



 現在、その相手は寝袋の中で静かに眠っている。世界を渡り、見知らぬ世界で生きることを余儀なくされ、本人に自覚がなくとも疲れていたはずだ。眠る気も眠れる気もしなかったユゥリアスが夜通し火の番をすることを告げた時は渋られたが、もう深く眠っているようで身じろぎ一つしない。



『さすがの私でも他人ひとに寝ずの番をさせておいて一人だけ休むのは気が引けますよ。途中で起こしてくださいね、交代しましょう』



 そんなことを言われたものの安らかな寝顔を見ていたら起こす気になどなれない。眠っているその姿だけを見れば、とても美しい少女だ。

 閉ざされた瞼に隠れている瞳は漆黒で、それに見つめられると吸い寄せられるようについ見つめ返してしまう、不思議な力の籠った目。誰もが羨望の眼差しを向けるだろう艶やかな黒髪は、さらりと背中に流れて揺れる。

 あどけなさを残しながらも女性らしい、少女が大人になる頃の、成熟する寸前の色気とでも呼ぶべき雰囲気を纏っている。それが不埒な二人組を引き寄せたのだと思っていたが、彼女は既に成人しているという。ならばこれからも多くの欲望を向けられ続けるだろうと心配したのと同時に、その言動を思い出して、そんな心配など容易く蹴散らしてしまいそうだとも思った。



(……初めは、可哀想な子だと思ったんだが)



 ハルカ=アスミ。異世界から拉致された被害者で、魔力を持たず「透明」とされた女性。これだけならあまりにも悲惨で憐れで同情を禁じ得ないのだが、驚くことに彼女自身が全く悲観していなかった。

 知らない世界に突然放り出されて、どうやって生きるかと焦りはしていたが絶望はしていない。ユゥリアスが暮らしを保障すると約束したあとはもう、本当にあっけらかんとした態度で。表情は豊かでないはずなのにどういった感情を持っているのかは伝わってくるから、本当に全く現状を嘆いていないのが分かるのだ。

 あまりにも堂々としているものだから、彼女が大変な身の上であることを忘れそうになってしまう。



(あの性格は、桁外れの異能のせいだろうか?)



 ハルカは“チョウノウリョク”という異能を使って、ありえないような現象を次々と引き起こす。ユゥリアスがどれだけ驚いていてもお構い無しにその才能を振るう。彼女と話すようになってから驚きの連続で、心の休まる暇がなかった。

 遠慮も配慮もどこかに置き忘れてきたのだとしか思えない行動から、人との交流に慣れていないらしいというのも察した。……正確には、人にその能力を晒すことに慣れていない、だろうか。

 元の世界でもハルカの能力は特異なもので、今までは隠して生きてきたようだ。でも、この世界で生きていくため、そしてユゥリアスの協力を得るためにその能力を打ち明けることにしたらしい。……もう知られているから、と開き直った彼女はその能力を盛大に使って見せている。



(私を困らせたい訳ではない、らしいからな……あれで……)



 ここまで他人を振り回しておいて、悪気はまったくなくむしろ感じるのは好意なのだ。好意があるからこそ、その力を惜しまず使ってくれるのだけれどおかげで精神的に振り回される。

 だがユゥリアスは彼女のそんな言動を意外と気に入ってしまっていた。良いと思ったことを即行動に移すのはいさぎよく……いや、潔すぎるが、分かりやすくて正直だ。そしてそれが本気でユゥリアスのためになると思っているから。



(……実際、助かってはいる。悪い気分でもない)



 突拍子もない行動で驚かされ、戸惑い、理解に苦しむがそれが嫌なわけではない。新鮮で、鮮烈で、痛快とすら思う。次は何をやらかすつもりだと、不安なのか期待なのか判断しきれない感情で心臓の鼓動が早くなる。あまりにも刺激的で、濃密で、鮮明すぎる一日だった。



(判定を受けてからは初めてだな。……今日は楽しかった、なんて……思うのは)



 楽しかった。そう、楽しかったのだ。


 危険度の高い魔物である火山猪を圧倒的な力で捻じ伏せた異様な光景に驚いたのも、突然頭の中に言葉が浮かんで妙な会話をすることになったのも、いきなり目の前から消えたハルカが薄氷魚を持って帰ってくるような異常事態に混乱したのも、瞳の色を褒められてどきりとしたのも――――もう自分の色を憎み続けなくて良いと知ったことも。

 その出来事の最中にいる時は混乱していて状況を飲み込むのに必死だったが、落ち着いた今思い返せばすべてが笑えてきて、楽しかったと思える。ただ、一つだけ悪かったのは。



(あの痛みだけはどうにからないものか……っ)



 ユゥリアスの体には魔石が埋まっているらしい。人が死んで魔石化するという話は聞いたことがなかったが、魔力の多いもの、つまり魔物からは魔石が生まれる。魔力の多い人間なら同じことが起きても不思議ではない。

 元々のユゥリアスは魔力が多く、仮死状態になった際に魔力の一部が魔石化してしまったのだろう。それが魔力の流れを阻害しているからユゥリアスの色は薄いのだとハルカが教えてくれた。だからそれを壊せば魔力が増えるはずだと。……その壊す、という作業がとんでもない激痛で、とても立っていられず暫く身動きをとれなくなるのが問題だ。

 


『あと300回くらい続ければ完全になくなりそうです』



 神妙な顔で取り出した小さな魔石を見せながら伝えられた言葉を思い出し、思わず深いため息を吐いた。途中で挫けるかもしれない。……いや、しかし、それでも。色を手に入れられるならやるしかないだろう。

 いないものとして扱われ、自分の存在を見失うような苦しみに比べれば、これくらい。



(……魔力の色さえ濃ければと。何度、思ったことか)



 ずっと色が欲しかった。せめて、王族として、人として認められるくらいの色が。

 魔力の少ない王族。王族失格の薄色。王位継承権などあるはずもなく、王族としての役目も与えられず、血族からは存在すらしない“透明な人間”のように扱われた。自分など、まるで見えないような。

 誰も目を合わせない。声をかけても反応が返ってこない。自分にあてがわれる使用人はいなくなり、食事も用意されないので厨房で自分の食べるものを探した。掃除や洗濯も自分でした。体が成長すると着られる服がなくなってしまい、使用人たちに配給される物を物色して身に着けるようになった。

 しかしそれでも王族としての予算は割かれているようで、月に一度部屋にぽつりと金の入った袋が置かれていたが、王宮内でそれを使う場所はない。ただ、金の入った袋だけが部屋の隅に積みあがっていく。

 八歳の色判定から五年ほどそうして過ごしただろうか。……誰とも目が合わない、言葉を交わさない、本当に自分が存在するのか、分からなくなった。だから外に出たのだ。白い髪は蔑みの目を集めたが、それでも人に見られることにほっとした。自分は確かにここに居たと。


 橙色の石は二属性であり、その濃さも平民の中であれば平均以上だ。名を偽り、言葉を変え、髪の色を隠せばまるで「普通」の人間のように扱われる。はじめのうちはそれでも嬉しかった。やっと人になれたと思ったから。



(……でも、それは……“私”では、ない)



 王家の生まれのユゥリアス=リィ=ドルアとして、偽りない自分が認められた訳ではない。王族であることを知られれば、白髪を見られれば、やはり侮蔑的な視線を受けることになるだろう。

 薄色の判定を受けて行き場のなくなった者たちを保護し、心底信頼され感謝され尊敬されても、素性だけは明かせないまま。……それを伝えて、自分を見る目が変わるのが怖かったから。“自分”を受け入れてもらえるのか、分からなかったから。

 誰にも自分を見せられないから、誰もユゥリアスを見ていない。誰もユゥリアスを知らない。結局ここでも自分の存在は空ろな虚像でしかなく、透明であることと変わらないと、気づいてしまった。



「本当に、君しか私を知らないんだ」



 思わず声に出してしまい、起こしてしまったのではないかと少し慌てる。しかし相手は眠ったままで、ほっとしたような、どことなく残念のような。そんな自分に呆れ、自嘲してしまう。

 彼女の能力で自分の出自はすべて暴かれてしまった。秘密を知られた瞬間は混乱したし、焦り、なんてことをしてくれたのだとも思ったが、それを知ったところで彼女の目に“蔑み”の感情が宿ることはなく――今思えば、それがとても嬉しかったのだ。

 この世界で彼女だけが本当のユゥリアスを知っている。知った上で、ただ純粋に好意を寄せてくれている。もちろん恋愛的な意味ではなく、ただ人として好かれているだけだ。でも、それはユゥリアスにとって初めての経験だった。



(……あの能力は感情が直接流れ込んできて……危ないな)



 ハルカはユゥリアスを対等な一人の人間として見ている。伝わってくる好意はあまりにも純粋で心地よくて、心地よすぎて、もっと欲しいと思ってしまって。

 飢えた腹を満たすように、乾いた地面を潤すように。ほしくてほしくてたまらなかったものを与えられたような、感覚。彼女は感情の起伏が少ないと自称するが、そうでもないのではないか。だって、こんなに。



(こんなに満たされてしまったら……嫌いになんて、なれるはずが……)



 ずっと色が欲しかった。でもそれはただ、自分を見てほしかったから。透明な人間でない、普通の人間になりたかったから。

 しかし今、目の前に。自分を一人の人間として見てくれる相手がいる。この世界で無色透明と断ぜられた彼女が、この世界で初めて自分を“透明人間”ではないものにしてくれた。心を読まれているからこそ、自分を偽れないからこそ、ハルカの漆黒の瞳にだけは本当のユゥリアスが映っている。

 そんな彼女は、自分に希望の光も見せてくれた。ユゥリアスは欲しかった色を手にすることができるかもしれない。けれど、たとえその未来が訪れなくても、もういいのではないかと思うくらいには心が穏やかだ。……自分という人間を見てくれる誰かがいてくれれば、色なんてどうでもよかったのだと気づいてしまった。

 常識外れで、強引で、唐突で、突飛な彼女にはきっとこれからも振り回される。それでも、きっと嫌いになどなれない。むしろ――。



『私の世界の夕日は……ユーリさんの瞳みたいな、綺麗な赤色に染まります。こちらとは全然違いますけど、本当に綺麗ですよ。私の好きな色です』



 唐突にその言葉を思い出しユゥリアスはたまらず目を覆った。瞳の色には、魔力が関係しない。その人間だけの、純粋な色だ。だから瞳の色を褒めるのは「あなた自身が好きだ」と好意を伝えることになる。異世界人であるハルカにその常識がないのは分かっているし、言葉と共に届けられた感情に他意がないのも理解しているが、それでも。



(貴方の瞳みたいに綺麗な色だとか、その色が好きだとか……熱烈な愛の告白にしか聞こえない。他意がないから余計にたちが悪いな)



 それでも、綺麗だと思っているのも本当だったから、たまらない気持ちになった。今思い出しても落ち着かない。妙に胸がざわついて、しかし不快ではないような、そんな妙な心地になる。



(異世界の人間だからな……これから色々教えてやらなければ、何をするか)



 教えてもいろいろと突飛なことをして驚かされそうではあるが。この妙な落ち着かなさも、その不安のせいに違いない。

 ちらりと視線を向けた先で眠る彼女は、ユゥリアスの心配など知らぬまま静かに呼吸を繰り返すばかりで。けれど何故か、そんな姿に安心して笑みがこぼれる。


 そして、次の瞬間に視界からハルカが寝袋ごと消え去ったために呼吸も心臓も一瞬止まった。



「ッハルカ……!?!?」



 慌てて彼女がいたはずの場所に駆け寄ったが、跡形もない。一体何が起きたのだと、思考が駆け巡る。



(……寝ている間に移動能力を使うことがある、と言っていなかったか?)



 目が覚めたら森にいた。けれど寝ながら移動能力を使うことがあって、今回も寝ぼけてやったのだと思っていたら異世界だった。

 そんな話を彼女はしていたはずだ。ならば、今いなくなったのもそれではないのか。



(……でも、本当に? 元の世界に戻ったという可能性はないのか?)



 そうだとすれば、それは良いことだ。彼女は元の世界に帰る方法を探すつもりで、それが分かるまでユゥリアスがその身を保護するという話でまとまっている。彼女が帰れたなら、それでいいはずだ。



(私は、気でも触れたのか。…………ただ、誤って移動しただけであってほしい、などと)



 その感情が何なのか、ユゥリアスには理解できなかった。自分の思考が、理解できなかった。ただ朝までその場から動けず、ハルカが戻ってくることを願って、待ち続けた。



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