烏丸御池の居酒屋とバー
金曜日の夕方、今日は鷹目の歓迎会ということで社内は少しソワソワしている。後1時間もすればそれぞれ仕事を切り上げて地下鉄で飲み屋のある地域まで移動するのだ。歓迎される側の鷹目もそれはそれで楽しみだったが、今はパソコンと格闘中だった。かれこれ1時間、開発しているソースコードにエラーが出てきて自分の練習で作っているホームページがどうにも動いてくれない。ついに鷹目が音を上げていたところ、後ろのレイコが小声でアドバイスしてくれた。
「鷹目さん。スクリプトが動かないんですか?」
コクリと頷く。下手に返事をしてしまうと、周りから怪しまれてしまうからだ。レイコは鷹目よりも優秀だった。いつも彼が悪戦苦闘していると後ろで見ているレイコがアドバイスをしてくれる。会話という会話は隣にシンシンが居る以上できなかったがいつも助けられていた。
「file is not found.だからパス間違えてるだけじゃないですか?」
(ファイル名は間違ってないけどなぁ.....)
と鷹目が心のなかで考えて、ファイル名を定義した変数の行までスクロールを動かす。するとレイコが、あっと声をあげた。
「たぶんファイル名じゃなくて相対パスを渡さないと駄目なんじゃないですか?」
「そっか!」
つい声が出てしまい、隣りに座っていたシンシンがびっくりしていた。しかし鷹目はその様子に気づくこともなくカタカタと何かをタイピングしている。カチッとそのホームページをデバッグすると今度はちゃんと表示されたようだ。
「あー!良かった!そっか。スクリプトファイルの場所動かしたらこうなるのか!」
「ん?なんか動くようになった?」
「はい。やっと」
シンシンが鷹目のディスプレイを覗き込む。ふむ、と言ってなかなかいいんじゃない?と軽く褒めてくれた。レイコはムフフと満足そうに笑顔だ。私のおかげでしょーといいたげだった。
「さて、そろそろ歓迎会が近いし帰る準備しよう。キリが良いなら鷹目君もそこで終われば?」
「そうします」
社内のメールの確認や、今日学んだことを軽くノートにメモって今週の仕事はおしまい。仕事をしたことのなかった鷹目はこれまで週末のありがたみは全くわからなかったが、派遣として社会経験をする上で、なるほど土日が如何に大切なものなのかはよく分かった。社会人のみなさんの「残り半日」という希望で何故か仕事にブーストがかかるのも分かる気がした。
飲み会がある今日は鷹目はロードバイクを使わずに会社に来た。今日は京都市内を走るバスを駆使してここまで来たのだ。シンシンとレイコの関係を暴く勝負の日だからシロも連れて行かないといけない。わざわざバスで西院駅に寄ってからこの会社にくるのは苦労した。
シンシンと鷹目は一緒に会社から少し遠いが丸太町駅まで向かい、京都市営地下鉄に乗る。一駅しか乗らないが予定した居酒屋が近いのだ。乗ったときは満員の地下鉄だったが、烏丸御池駅を降りる客は多い。飲み会があるサラリーマンもそうだが、この駅は阪急との乗り換えになっており、また京都のビジネス街のちょうどど真ん中にある駅というのも理由の1つだ。
烏丸御池駅で降りて2人は人混みを躱しながら歩いているとバッグの中で寝ていたシロがヒョッコリと顔を出した。
「んん!おお?人が多いなぁ。烏丸についたん?」
「そうだよ」
シロがふわっとその場に浮かび鷹目の頭の上に乗った。烏丸御池駅の南側の出入り口から段を登って外に出る。
「ふーん、烏丸も変わったんやなぁ。いろいろと新しい店があるんや」
烏丸から河原町までの繁華街、ビジネス街は移り変わりが激しい。居酒屋が合った場所はまた違う名前の居酒屋に変わったり、昔からあった本屋が潰れてホテルになったり。シロもここに来たのは久しぶりなようで、キョロキョロと辺りを見回していた。
三条通りを東に曲がると目的地の居酒屋がある。鷹目とシンシンが店に入るとすでに会社のメンバーの半分くらいが集まっていた。ガヤガヤとした店内と焼き鳥の匂いにシロがよだれを垂らしていた。
「今日はお前に食べさせる余裕はないぞ?」
「わかっとるわ」
口をツンと尖らせてシロが空へ飛んでいく。厨房の方の焼き鳥の炭火焼きを見に行ったようだった。
鷹目がやってくると座敷に座っている先輩たちが遅いぞーと笑いながら言った。大半は早くビールが飲みたいという顔をしていて、鷹目を歓迎するつもりは殆どないのだろう。すいませーんと言いながらシンシンと隣り合って歓迎の席へ座らせてもらう。それからしばらくして何人か、おじさんがやって来て、一番最後に部長が来た。社員の中でもテンションの高い人が待ってました!といって早く席に座れと促した。分かった分かったと部長が座るとそれぞれがすぐにテーブルに置いてあったビール瓶を全員のグラスに注ぎあう。鷹目とシンシンもお互いのグラスにビールを注ぎ、部長が席を立って短めの挨拶をした。
「鷹目君、突然のことでこっちもびっくりしていますが、頑張りましょう!みんなもこれから仕事もプライベートも楽しんで!乾杯!」
「「「「カンパーイ!」」」」
あちこちからカンカンというグラスのぶつかる音がした。静かだった社内の人間たちが嘘のように饒舌になる。酒が入ると皆気が大きくなり、大声で笑う人、娘が反抗期でと泣くおじさん。店内に流れる音楽は殆ど聞こえないし、10本頼んでいたビール瓶はあっという間に空になっていた。
「先輩......会社っていつもこうなるんですか?」
あまり酒を飲むタイプではないシンシンは缶ビール分くらいの量が限界らしく、すでに烏龍茶を注文していた。
「そうだね。うちの会社はいつもこんな感じだね。仕事中はいろいろ押さえてるんだろうね」
ゲラゲラと笑っている一回り上の先輩社員たちは飲み放題の2時間が経つと顔が真っ赤になっていた。歓迎会だったはずのその場所はいつの間にかただの宴会場となっていた。退屈そうに浮かんでいるシロはオレンジ色に光る照明の上に寝っ転がっていた。
店員が気まずそうに幹事のもとへやって来て耳打ちをしたところで、宴会は一旦終了のようだ。幹事の人が立ち上がりパンパンと手を叩くと皆そちらを向いた。
「はい!じゃぁ時間となりましたので!!最後に鷹目君の挨拶で終わろうと思います!」
「うぇ!!?」
突然の指名に鷹目は箸休めに飲んでいたカクテル、スクリュードライバーを吹き出しそうになった。酔が回っているおじさんたちは、ヨッとか、待ってました!とか適当なことを口にした。鷹目は困ったなと苦笑いしながらその場で立ち上がった。
「えっと...皆さん。今日はありがとうございました。全く役に立っていない自分ですが、これからも頑張りたいと思っています。あと、この後の二次会はシンシン先輩とサシ飲みがしたいです!!」
「「「おおおーー!」」」
驚いたのも当然、シンシンは社内の中でも釣れない人間だからだ。
社内の飲み会は必ず二次会があるが彼がついてきたことはない。しかしこの一週間、鷹目はありとあらゆる漫画、アニメを見尽くしてシンシンと仲良くなれるように会話をしていた。
やれあのアニメの伏線がどうのこうの、あの漫画の構図は第一巻の最終ページと同じだとか、マニアックな内容をシンシンと話し合えるまでの仲になっていた。
皆がシンシンの方を向くと、シンシン本人は嫌そうな顔を隠そうともせず、明らかに「えぇ...」と言いながらも3秒位考えた後で、
「行こか!」
「「「おおおーー!」」」
パチパチと拍手が起こった。あまりに珍しいことに全員が喜んでいた。「鷹目君のおかげでなにかが変わるかもしれないな」なんて言っている人もいる。大げさな人だと「世界が救われた」とか言っていた。
ガヤガヤとした店内を出ると、外がとても静かに感じられた。部長課長はどこかへ先に消えていき、他の人たちも仲の良いメンバーでそれぞれ二次会に別れていった。シンシンと鷹目、そして他の人には見えないレイコとシロの3人と1匹が路上に取り残されていた。
「で、鷹目君、俺は2人で飲めるバーとか疎いけど、どこかいいところ知ってる?」
「ちょうど良くそこに怪しいバーがありますよ」
鷹目が指差した先には木で作られた歯車が2つ組み合わさった看板が立てられたBAR GEARという店があった。入り口が一体どこにあるのか分からないような看板が緑色に光っている。
「怪しすぎない?」
「ものは試しでしょう?」
怖いもの見たさの鷹目と堅実派のシンシン、相対する2人だったが今日は鷹目の歓迎会ということで、その店に入ることにした。立て付けの悪い台風が来れば吹き飛びそうな扉を開くと、店内は魔女の館とでも言うような怪しい緑とピンクのネオンライトで満たされて、古ぼけたジュークボックスと破れたソファーが店のど真ん中に置かれていた。
「いらっしゃい」
シルクハットを被っているカウンターのおじさんの低い声。怪しい雰囲気の店にしては、思っていたより他の客がいた。
「個室ってあります?」
「奥に行きな。あと、先に注文」
無愛想にカクテルを作るそのおじさんが注意するかのように注文を促す。鷹目は先輩にお先にどうぞと譲った。
「モヒート」
「ソルティドッグで」
おじさんが頷いた。
店内の奥に進んでいくと小部屋が3つあり、1つの部屋はすでに誰かが入っているようだ。若い男女のヒソヒソ話が聞こえるが、内容まではわからない。鷹目はシンシンに先に入るように促し、自身は座らずすぐに「ちょっとトイレへ行ってきます」と行って席を外した。
店内の雰囲気と打って変わってトイレの中は至って普通だった。ポケットの中に忍ばせておいた青黒い小さな瓶を取り出して、ちゃんと準備ができていることを確認する。真吐きの薬は自分自身で実証済みだ。洋式便所に座ることもなく手だけ洗ってシンシンの場所に戻ってきた。
「俺もちょっと行っとくわ」
「そうですか」
シンシンが入れ替わりでトイレに行く。鷹目が座るとちょうどよく先のおじさんがモヒートとソルティドッグを持ってきてくれた。小皿に乗ったナッツも一緒だった。ごゆっくり。と一言添えて去って行くのを確認して、鷹目はサッと瓶を取り出して蓋を取りそれをモヒートへ溶かした。粉はあっという間に溶けていき、少しだけモヒートの色が青っぽくなった。何事もなかったかのように瓶をポケットに仕舞い先輩を待つ。
「よく考えると、お前のやってること、ほぼ犯罪やんな」
シロがドン引きというような顔をしてモヒートのグラスを覗いている。
「黙ってろ......俺も悪いとは思ってる......」
扉がもう一度開きシンシンは戻ってきた。
「あ、もう来てた」
「ちょうどさっき来ました!」
「そか。それじゃあ乾杯しようか」
「そうですね。これから、よろしくおねがいしますね。先輩」
鷹目がグラスを片手に持つ。
「何だ?あらたまって?乾杯」
「乾杯」
2人の間にキン、とグラスの音がしてシンシンがモヒートに口をつける。そしてグラスを置いて数秒後、シンシンの体が横に傾き、壁にもたれかかる形で眠ってしまった。
「た!鷹目さん!シンシンが!」
何も知らされていないレイコがあたふたしている。突然寝息を立て始めたシンシンなんて見たこともないのだろう。
「よし!鷹目!成功や!!こんなうまくいくなんてな!レイコ、シンシンは死んでへんから安心せぇな!チャンスは10分!」
「わかってる、わかってる。シロ、落ち着いてくれ」
鷹目はノートとペンを取り出して机の上においた。そして他の客に聞こえないよう小声で話し始めた。
「シンシン先輩、彼女の名前を教えて下さい」
「キタハマ......ナミ......」
レイコから知り得た情報は間違っていない。ナミという名前はそのとおりでキタハマという情報は初めてだ。ノートに北浜?と書いた。
「彼女とは何歳差ですか?」
「8歳」
かなり若い。レイコの見た目は確かに大学生くらいに見えていたが、シンシンが28歳だから20歳ということは成人したばかりかもしれない。
「いつからその子と付き合い始めているんですか?」
「2ヶ月前」
レイコが乗っ取られたのが3ヶ月前、そしてシンシンと付き合い始めたのが2ヶ月前。鷹目はノートに時系列を数直線で表しながら書き記していく。レイコが乗っ取られた後の1ヶ月間は空白ということだ。
「どうやって付き合うことになったんですか?」
「アプリで」
ふーんなるほど。鷹目も聞いたことがある。マッチングアプリのことなのだろう。それなら確かに北浜ナミがシンシンの家にやって来たときに「やっと会えた」というのも分からなくもない。長距離恋愛というよりかは寧ろ初めて顔を突き合わせて話し合えたということなのだ。
それにしても初めて直接会う人間にいきなり部屋に上げて、それでいてレイコいわく抱き合ってキスをするとはなかなか先輩もアグレッシブなんだなぁと思った鷹目だった。それほどまでにシンシンが積極的なのか、いや、それともこの北浜ナミが彼に執着しているのか。
少し考え込んだが、今は質問を多くするのが吉だ。鷹目は質問を続けた。
「彼女と共通するものがありますか?」
「手芸サークル」
シンシンの口から意外なサークルの名が出てきて驚き、鷹目はレイコを見る。レイコは首を横に振って、そんな趣味知らなかったという顔だ。
「それじゃあ、同じ手芸サークルに参加していた?」
「うん」
なるほど、2人は同じ手芸サークルに属していた。ただ、2人は年齢に差がある。同じ頃に大学に通っていたわけではなかったというわけだ。
「北浜ナミとは同じ大学出身で、そしてたまたま同じサークル、手芸サークルに参加していたということですか」
「うん」
2人はマッチングアプリで知り合い、たまたま同じ大学出身、同じサークル所属で話が合った。それが決め手でお付き合いするようになったということなのだろう。北浜ナミとシンシンの関係は大体わかった。1番の問題は北浜ナミが今どこにいるのかというだけだ。それさえわかれば、レイコの体に取り付いた悪霊を追い出してレイコをもとに戻すことができる。
するとシロが鷹目に話しかけてきた。
「おい、鷹目。そもそもシンシンはどこの大学出身や?」
「たしかにそうだ。シンシン先輩。出身大学を教えて下さい」
「龍谷」
なるほど、北浜ナミはシンシンと8歳差で現在20歳くらい。同じ大学出身ということなら、彼女は龍谷大学にまだ在籍しているということだろう。
「シンシン先輩。ということは北浜ナミは今、龍谷大学に在籍しているということですね?」
「......」
返事がない。返事がないということは、「分からない」ということか。
「北浜ナミが今どこに住んでいるかはわかりますか?」
「......」
これもまた返事がなかった。
「おいおいおい!返事がないっちゅうことはわからんゆうことやな。何やこいつ、自分の彼女のこと何も知らへんやん......。こりゃひょっとすると北浜ナミがシンシンに嘘のことを言っている可能性も高いなぁ......」
シロが呆れた顔をして寝ているシンシンを小突いた。
「その可能性は高いなぁ。同じ大学、同じサークル、年齢や名前も全部嘘かもしれない。ただ、2人は付き合って同じサークルの話や同じ大学だからこそ知っていることで盛り上がってるはず。北浜ナミが龍谷大学に今も在籍している。これは結構間違いないだろ?」
しかしシロは腕組みをして眉間にシワを寄せている。
「いや、せやけどおかしいわ。仮にアプリで出会えたとして、2ヶ月前に2人が付き合ったとするとや、もっと早く出会ってもおかしくないで?龍谷言うたら結構近い所に住んでるはずや。それなのに、北浜ナミはシンシンに対して『やっと会えたね』って言ってんねん。レイコも云うてたけど、遠距離恋愛ってのほうが正しいはずや」
「確かに......」
シロの言うことは全くそのとおりだった。北浜ナミがどこに住んでいるかは定かではないが、20歳で京都の大学に通っているのであればそこまで遠いところではないはず。やっと会えたね。と言うような遠距離恋愛をするはずはないのだ。
「まぁでもや、何もかも嘘かもしれへんって考えるとキリがない。こいつも北浜ナミがまだ同じ大学に在籍しているかどうかは分からん言うてるし。退学してる可能性もある。まぁとりあえず、20歳くらいで大学生っていうことにしとこ」
シロは鷹目の持っていたボールペンを奪い、ふわりと空中に浮いて「20」「大学生」「手芸サークル」というところに丸をつけた。
「レイコさん、『北浜』という名前はどう?自分の名前な気がする?」
レイコは首を横に降っていた。納得できない顔をしている。
「いや、しない」
鷹目とシロはその後も北浜ナミの素性を知るために色々と質問したものの、それ以上の内容は引き出せなかった。本当にこのシンシンは彼女と恋愛関係にあるのか、まるで現代の仮面舞踏会、ナイトクラブで1日だけ遊んで知り合った女の子と同じレベルじゃないかと言いたくなった。
「うーん。ほんまこいつ何も知らへんやんけ!わからんわからん!鷹目、確信に迫るような質問はあらへんのか!?」
「そんなこと言ってもなぁ。レイコさん。なんかある?」
うーんと悩んだレイコは、少し考えてこういった。
「彼女との1番の思い出とか?」
「は?」
シロが呆れた声をだした。
「い、いいじゃない!シロ!そこからなにか分かるかもしれないでしょう!?」
レイコがプンプンと怒った。
「んなこたどうでもええやろ!もう時間ないんやで??だいたい、レイコが言ったやんか!2人は初めて出会ったその日にショッピングセンターで彼女が彼氏を刺し殺す映画見ただけや!それが1番の思い出に決まってるやろ。それ以降2人は会ってへんやろし!」
確かにそうだ。シロは小さいながら頭がよく切れる。2人が出会ったのはあの日が初めてなはず。ショッピングセンターで見た映画くらいしか思い出はないかもしれない。
「まぁまぁ、シロ.....」
鷹目がシロを諭してシンシンにその質問をした。
「先輩。その彼女との1番の思い出は?」
「病院」
鷹目と幽霊とカマイタチが顔を合わせる。1番の思い出は映画ではなかった。「病院」全く想定していない解答が出た。鷹目は慌ててペンを持ってノートに病院と走らせる。
「シンシン先輩!病院でどんな思い出が?」
「......」
「アホ!そんな質問の仕方じゃ回答できへんやろ!」
シロがキーキーと鷹目に怒っていたところでシンシンの体がピクリと動いた。意識が戻ってきている兆候だ。
「あかん!鷹目!こいつ起きる!!ノートしまえ!」
鷹目は慌ててノートをリュックの中に放り込み、何事もなかったかのようにカクテルを少しだけ飲んだ。その瞬間、突然レイコが苦しみ始めた。幽霊のレイコが自分の胸を抑えて空中でもがいている。
「おい!レイコ!どうした!大丈夫か!」
シロが慌てるが彼女に声は聞こえていないようだ。あぁ!っと叫ぶとレイコはグッタリと目を閉じていた。薬の副作用かと鷹目の頭をよぎったがそうではなかった。むしろそれよりも酷い事態だった。
倒れて眠っているままのシンシンが口を開いたのだ。
「お前達...私の幸せを...奪うつもりか」
個室のテーブルがガタガタと震え、シンシンのモヒートが波打つ。徐々に揺れは広がり、店全体が揺れ始めると、隣の個室にいた客の戸惑いの声も聞こえてきた。
鷹目は何が起こっているのかすぐに理解ができた。北浜ナミがシンシンの体を乗っ取っているのだ。強烈な霊力がこの店全体に溢れている。
シンシンがゆっくりと体を起こし、カッと目を開くとその目は真っ赤に充血している。そしてその悪霊は鷹目とシロを睨んだ。湯水のように溢れてくる怒涛の霊力にシロまでもが苦しみ始めている。
「あっ......あかん!鷹目、これは俺も......」
「待ってろ!!」
鷹目は咄嗟に自分のスーツの胸ポケットに入れていた緊急用の札を取り出して、シンシンの額に貼った。その途端、シンシンがぐぅうっと唸り店の揺れが少しずつ収まる。酷い苦しみの表情を浮かべているシンシンに貼られた御札は、その中心から少しずつ燃え始めて灰に変わっていく。
収まりゆく揺れの中、体を乗っ取った北浜ナミが最後に叫んだ。
「......こいつは!私のものだ!!」
ガタンと大きな音。シンシンがテーブルの上に突っ伏す形で倒れたのだった。すぐに帽子をかぶったカウンターにいたオジサンが個室の扉を開いてきた。
「お客さん!地震だったみたいですけど大丈夫ですか!?すごい音が!」
入店したときは仏頂面だったが、緊急事態にとても焦った表情だった。倒れている男性を見てオロオロとしている。
「あ、あぁ!大丈夫です、大丈夫!ちょうど良く寝ちゃったみたいで!先輩!先輩起きてください!」
シンシンが鷹目に大きく体を揺さぶられるとうぅんと寝ぼけながらも目を覚ましたようだった。テーブルに打ち付けた額が赤くなっていが目の充血は無くなり元通りの表情だった。一方でレイコは未だに気を失って浮かんでいる。
シロは特に問題なく空に浮かんでレイコを起こそうとしていた。しかしレイコが目を覚ます様子はなかった。
「あれ、鷹目?どうした、何が起こった?」
シンシンは何が起こっているのか理解できず、店主の心配そうな顔を見て混乱している。
「あ、あぁ先輩、あのなんか地震が起きたみたいですし、今日は一旦帰りましょう!先輩も疲れてるのか突然寝ちゃったし!」
「ん?ん?そうか??」
鷹目が心配しているのはシンシンでもあったが、それよりも心配なのはレイコの方だった。あれほど強烈な霊力を浴びると消し飛ばされかねない。さっきまではっきりと輪郭が見えていたレイコの姿が少しだけぼやけている。
「鷹目、ほんままずいで。緊急事態や。向こうさん、レイコを消しにかかってきてんで」
「.......」
鷹目は考えていた。こうなった以上時間の余裕はない。レイコが消されてしまえば、北浜ナミがレイコの体を完全に奪い取った形になり、悪霊を祓うことが難しくなる。
2杯分のお金はシンシンが払ってくれて、2人が店を出る。鷹目は先輩のおごりに感謝した。
「ありがとうございます」
「いいよ。むしろすまん、寝てしまったとは.....疲れてるんかな?」
「先輩、あの、ちょっと待っててください。渡したいものがあって」
「うん?」
鷹目はリュックを床におろして中をゴソゴソとあさり、赤いお守りを取り出した。
「これ、肌身離さず持っておいてください」
「え?何?」
シンシンはその赤いお守りを受け取り不思議そうな顔をする。何の脈絡もなくお守りを渡してくる後輩に驚くのは当然だった。
「僕実は、神社仏閣系の家庭で育ってて......。結構そういうの見えるんですよ。先輩は今、かなり怪しい霊に取り憑かれてます。そのお守りは財布の中にでも入れて、大切にしといてください!」
霊に取り憑かれていると言われたシンシンは変な顔をする。それもそうだろう、何も知らない本人からすれば、あまりにも突拍子もない話だ。
「えぇ......あんまり信じがたいけど......」
「いいから!絶対です!お願いです!」
鷹目の必死な顔にシンシンはたじろぎながらも、わかったよと言いながら自分の財布を取り出し小銭入れの中にそのお守りを入れた。
もう後に残された時間は殆どない。鷹目は必死だった。ひょっとするとレイコが消されてしまうかもしれない。ひどい場合はシンシンの命が危ないかもしれない。あの悪霊は「私のものだ」と叫んでいた。それほどにシンシンに執着しているということだ。
その後2人は烏丸御池駅で別れシンシンは地下鉄で北に、鷹目は南へ歩いた。タクシーでも捕まえて家に帰ることもできたが、今は少しだけ頭を整理したかった。
烏丸御池から五条通りへ向かう道からは明るく点灯する京都タワーがよく見える。京都の中でも比較的大きな烏丸通もこの時間帯だと車が少ない。突然の襲撃に鷹目は緊張と焦りでいっぱいいっぱいだった。せめて安心したのは相棒のシロに大してダメージはほぼなく、いつものように肩に乗っていることだった。
「おい、鷹目、あれは何渡したんや?」
「ん?」
「あの赤いお守りや」
「ああ1つは、悪霊退散のお守りだ。でも多分1週間もしないうちに突破されると思う。あとGPSが入ってる」
鷹目がスマートフォンでマップアプリを開くと赤い点が表示された。赤い点は烏丸御池から丸太町方面へ移動していた。
「なるほど。で、だ。北浜ナミを探り出し、祓うって狙いやったけんど......お前、あのレベルの悪霊、祓えんのか?遠隔から攻撃してくるって、半端やないぞ。レイコは消し飛ばされそうになるし、俺まで殺されそうになってんねんで?」
今まで色々な悪霊を祓ってきた鷹目だったが首を横に振った。
「いや、もう手遅れだ。こうなった以上、祓うのは難しい。まず先に封印を考えるしかない。封印をしたあとに、他の霊媒師とか坊さんとかにお願いして本格的なお祓いをするしか無い」
レイコの体を乗っ取る北浜ナミという悪霊の力はすでに鷹目の実力を上回っていた。遠隔からレイコの魂を経由して攻撃をするとは相当なものだ。こうなった場合は封印を目指す他ない。
「そうか。でも鷹目、封印ってことは、その悪霊の依代がいるんちゃうか?」
「ああ。その悪霊と関係する依代がいる」
武士の悪霊なら刀。恋の果てに男を恨む女なら簪。今回の悪霊に関連する何か依代となるものを探し出さなければならない。ただ、北浜ナミがどこに住んでいるのか、シンシンの質問をした後でも何者なのかはっきりしない今、依代を探すという行為は無謀としか思えなかった。
「お前!そんな時間あらへんのにどうすんねん!レイコ消されてまうぞ!」
「どうしようもこうしようもねぇよ!......出来ることをやるしか」
烏丸通りに鷹目の声が響いた。鷹目とカマイタチは見つめ合った。若い妖術師の顔は真剣だった。
「分かった。お前がそういうんなら俺も手伝う。なんとしても依代探すぞ」
「ありがと。シロ。明日はまず龍谷大学に行ってみよう。北浜ナミがそこにいるのかどうか確かめるところからだ」
赤と白の京都タワーは煌々と輝いている。
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