壬生寺の薬師爺
水曜日は定時退社日。いつの頃からか残業は悪とされ、この日に限っては一切の残業は許されないというルールができた。しかし人間の習慣はなかなか改善されず、ましてやこのプログラムがメイン業務の彼らはノートパソコンを持ち帰って家で仕事ができる。仕事が間に合わない彼らのうち何人かは、必要な仕事道具をバッグに入れて家に帰っている。大変な仕事だなぁと鷹目がぼそっと呟いたがシンシン先輩はちょっと違うと訂正した。ノートパソコンを持ち帰る人間の半分は仕事が間に合ってない人かもしれないが、もう半分は勉強のためだったりするらしい。技術は勝手に進化する。何もしないで過ごしているとついていけなくなるのはプログラマー側らしい。
「仕事より大変じゃないです?それ」
「そうだよ。知らないうちにAIとかロボットとかが発達してるんだから。そうしないと俺たちは時代について行けないのよ。じゃ、また明日」
「あ、お疲れさまでした」
シンシン先輩はサッとかばんを持って事務所から出ていった。鷹目は先輩が出ていったのを確認してからパソコンのメーラーを起動する。メールアドレスに[mibu.yakushinyorai@~]と記入して、件名に「お久しぶりです。鷹目です」と入力する。カタカタと慣れないパソコンのタイピングで手元と画面を行ったり来たりしながら、10分ほどかけて送信した。
「鷹目君。帰りなよー」
ふと顔を上げるとサラリーマンの全てが詰まったような格好の課長が事務所の入り口から声をかけてくれた。周りを見ると自分だけしか社内に残っていなかった。
「あ、はい!」
メーラーの更新ボタンを押すと、ちょうど先のメールの返信が帰ってきていた。ダブルクリックして開き、そのメールに目を通すと鷹目は「よし」と独り言をつぶやいた。課長は今にも部屋の電気を消そうとスイッチに手をおいている。鷹目はパソコンのシャットダウンだけ押して、リュックを背負って課長にすみませんと軽く頭を下げて早足で会社を出た。
2月の少し暖かい時期は一瞬で終わり、また気温が下がってしまった。このまま春になってくれれば良かったがお天道様はご機嫌斜めだったらしい。初出勤が一昨日の月曜日、真夜中に漫画を読み漁り、火曜日の昨日は家に帰ってからアニメを2倍速にして見まくった。今まで深夜アニメに興味はなかったがシンシンがハマっているというアニメは思っていた以上に面白く、2倍速で見るのはもったいないと思ったが時間が限られていてそうも言っていられない。
おかげで睡眠時間は削られて、仕事中もあくびが止まらなくなってしまっている。エナジードリンクをコンビニで買って胃に流し込むと少しだけ目が覚めた。
アニメと漫画を見るという努力のおかげもあって、進藤先輩とは徐々に仲良くなっていった。先輩は人の目がないところでは結構楽しくおしゃべりをしてくれた。少しずつ信頼してもらえるようになっているのは間違いない。
今日も同じように自宅へ帰ればアニメを見るつもりだが、その前に寄って帰るところがあった。
退勤時間が重なると碁盤の目に例えられる京都は交差点だらけのせいで信号待ちが重なり渋滞が発生する。しかしロードバイクなら関係ない。車と歩道の狭い隙間を通り抜け5分もかからず四条通に出る。四条通で右に曲がり、路面電車、嵐電の始発四条大宮駅を通り過ぎそのまままっすぐ進むと梛神社という小さな神社の鳥居が見えてくる。その神社を左に曲がり少しすすんだところに鷹目の目的地があった。
細い路地に面したプランターに植えられた花々がきれいに咲いている民家のチャイムを押す。ピンポーンという音は少し古びて、最初のピンという音がピシッという歯切れの悪い音になっていた。「薬師」と書かれた表札は古ぼけてかろうじて読める程度だ。「はいはい」と扉の奥から声が聞こえる。ガラガラと扉が開くと中から50台くらいのおばちゃんが顔を出した。鷹目と気づいた途端にあらぁと言う。
「お久しぶりです。撫子さん」
「あら、鷹目君?久しぶりね!薬師さんに何か貰いに来たの?」
撫子さんはまさにおばちゃんが履く木製のスリッパのような靴で玄関先に出てくれた。靴と石がぶつかってカンカンと心地よい音をたてた。
「はい、さっきメールして返事が帰ってきたんでここにいるかと」
撫子は薬師さんと呼ばれる退魔の薬や妖術用の薬などを作っている人の世話をしている一般の家政婦だ。もちろん妖怪や悪霊という類が見えるくらいの力は持っているが、その相手ができるほどではない。
「さっきどこかへ出かけていったわね。ひょっとしたら銭湯にでも行ったのかしら?」
この近くには大きなスーパー銭湯がある。地域に愛される銭湯で京都にしては広い駐車場があり遠方からくる客も多い。薬師さんはよくそこにひとっ風呂浴びて帰ってくることも多かった。
「あれー?いや、それなら少し近くで時間つぶしします。久しぶりに壬生寺でも」
「あらそう?じゃあ戻ってきたら携帯に連絡してあげるわ」
「よろしくおねがいします。あ、あと自転車ここに置かせてもらっても...?」
「どうぞ、どうぞ」
鷹目はロードバイクを玄関の中に入れてもらい、礼をして壬生寺へ向かった。
路地を抜け出して少し歩くと、立派な日本菓子の店があり、その隣は壬生寺がある。本当の名前を壬生延命地蔵尊。この壬生寺は新選組の訓練場だったことで有名だ。今では面白いことに壬生寺の境内の中に老人ホームと保育園が併設されている。
「壬生延命地蔵尊」を掲げた門をくぐると右手に一夜天神と書かれた菅原道真公の伝説に由来する建物、そして新選組のあの有名な水色の「誠」の文字が書かれた羽織とか、お守りを売る建物がある。地下には新選組に関わる展示や、壬生狂言と呼ばれる狂言の資料、千佛延命地蔵尊の像が置かれた小さな資料館が用意されている。最近は落ち着いたが、かつて大河ドラマの新選組、アニメやゲームでいろいろと脚色された新選組が流行った頃は多くの女性客たちがここに押し寄せ、壬生寺に手を合わせていた。今はそのブームも落ち着いて、数人の客がチラホラと点在しているだけだ。
鷹目が入ったときには日が落ちかけた夕方で人は殆どおらず、地面を突っつきながら歩く鳩のほうが多かった。
「久しぶりだなぁ。相変わらず地蔵さんが多い」
壬生寺は京都中の地蔵が集められてできたという千体仏塔という塔が立てられている。ミャンマーのパゴダそっくりの円錐形の建物の壁面にいくつもの仏像や地蔵が飾られているものだ。平成元年に建てられた塔だが、これだけの数があれば大抵の妖怪や悪霊は絶対に近寄らない。
鷹目が本堂に手を合わせてに行こうとした時、ふと右に顔を向けると水かけ地蔵と書かれた六角形の地蔵堂の中に人がいた。それは鷹目が探していた人だった。
「あ、薬師さん!」
僧服を着て手を合わせていた小柄なおじいさんがこちらを向いた。暗い地蔵堂の中でそのメガネだけがキラリと光った。
「おぉ、優太か。久しぶりじゃないか」
下駄を履いたそのおじいさんがカタンカタンと地蔵堂から出てきた。僧服を着て真っ白な髪の毛に立派なあごひげ、いわば仙人のような姿をしている。
「お久しぶりです。薬師さん。さっきのメールの件です」
「おうおう、わかっとる。まあお前もせっかく壬生寺に来たんだ、この地蔵さんに願い事でもしたらどうだ」
水かけ地蔵は江戸時代中期に作られた石造りの地蔵で、水をかけながら願い事をすると何でも1つだけ願いを叶えてくれるとされている。
鷹目はそれもそうですねと言って、2本ある柄杓のうち左を取って、亀の口から溢れ出る水をすくい地蔵の乾ききっていない頭に掛けた。手を合わせて目をつむり、頭の中で願い事をしようと思ったが鷹目に直近の欲望はなく、さっさとこの事件が解決しますようにとだけ願った。
「優太、何を願ったんだ?」
「うーん。今調査してる事件の解決です」
「ほう、仕事熱心だな」
「50万かかってますからね」
「現金な奴め」
白いあごひげを撫でながらフォフォフォと笑う。
「そういう薬師さんは何を願ってるんですか?」
「ん?そりゃイベントのランキング100位以内の突破じゃよ」
そういいながらピンクやオレンジのゴリゴリに2次元アイドルでデコレートされたスマートフォンを取り出して、薬師爺さんはまるで孫を見るようなへニョへニョとした目になった。薬師爺さんは見た目によらずソーシャルゲームにいろいろと手を出している。クイズゲームやRPGやアクションゲームなど有名所のソーシャルゲームは全て網羅していたが、その中でも1番長く続けているのがこの2次元のアイドルを応援するリズムゲームだった。
このゲーム界ではかなり知られた存在のようで、リアルイベントのときは見た目も相まって仙人の愛称で呼ばれているらしい。たまにブログや動画投稿サイトでゲーム攻略方法を伝授するほどの猛者なのだ。
年齢に似つかわしくないといえば失礼だが、若干鷹目は引きつった笑顔でそれとない返事をした。
「相変わらず、かんなちゃん推しなんですね」
「薬師パンチ!」
その言葉を聞いた瞬間、薬師の爺さんは左手の拳を鷹目の腹めがけて放った。殴られた鷹目が後ろによろめき、腹を抑えながら苦しんだ。これまた年齢に似つかわしくないパンチだった。
「グッ!な.....なぜ......?」
「かんな...ではない。か、り、な!だ!」
「す......すいません」
「わかれば良い。二度はないぞ.......」
(70過ぎの爺とは思えねぇ...。)
お腹をさすりながら水かけ地蔵堂を出ると話を切り出したのは爺さんからだった。
「で、優太。何の薬が必要なんだ?」
「いや、実は、今回は妖怪向けじゃなくて...人間向けに......」
人間向けにという言葉を聞くと仙人は振り返って訝しげな顔をした。それなら普通の薬局に相談に行けと言わんばかりだ。
「なに?まぁいい。一旦家に戻るとしよう」
壬生寺を出た頃には日は沈みきって、街灯の明かりが点いていた。薬師爺さんは玄関を開けると「撫子さんや、お茶を2つ出してくれ」と叫び、台所からは~いと返事が帰ってきた。鷹目は家に上がらせてもらい居間に通してもらうと座布団の上に正座した。爺さんは小さなテーブルに手を付きながらよっこいしょと同じく座布団に腰を下ろし胡座をかいた。
「で、どんな薬が欲しいのかい。優太」
「はい、今、生霊らしき幽霊が取り憑いた人間を調べてて...。その取り憑かれた人間にいろいろと質問をして喋らせたいんです」
「ふむ。真吐きの薬か。たいして難しくないな」
仙人はあごひげを撫でながら話している。いつもの癖なのだろう。
「本当ですか?」
爺さんの目は左上を向いて何かを思い出している。考えているうちに撫子さんがお茶と小さなお茶菓子の屯所餅を持ってきてくれた。先の菓子屋のものだろう。
爺さんはよっこらせと立ち、自分の後ろのふすまを開いた。中にはいくつもの棚があり、その棚の中には特殊な妖術用の薬の原料が入っているのだった。
「葵の葉......たぬきの尻尾を竹で燻た粉......カッパの爪と......」
ぶつぶつとつぶやきながら棚の引き出しから怪しい薬の原料を取り出すと、手に持った擦り鉢の中にポイポイと入れていく。
「よし、これを混ぜて......」
そう言って爺さんはまた座り、すり鉢の中の薬たちをゴリゴリと砕き始めた。
「優太、作りながら説明するぞ?」
「はい」
「だいたい効果は10分程度。この薬を飲んだ瞬間その相手は急な睡魔に襲われる。その睡魔に襲われている間は、半分寝言のように質問に答えるようになる。ただあまりに難しい質問には答えられないから、できるだけ二択にしたりして工夫するんじゃぞ」
「はい」
すり鉢から聞こえていたゴリゴリという音は少しずつ収まっている。
「あと何度も使うことはできん。耐性がつくからな。それに生霊が憑いているとか言っておったな。そいつは眠らないが問題ないんだな?」
「はい!好都合です!」
薬師爺さんが手を止めて鉢を薄い半紙の上にひっくり返して半分に折り、僧服の中から小さな小瓶を取り出してその中にサラサラと薬の粉を入れていく。青黒い粉で満たされた瓶に蓋をすると、爺さんはその瓶を鷹目へホイと投げた。
「おっと!あ、ありがとうございます。ほんといつも助かります!」
瓶をキャッチして鷹目が礼をする。そして爺さんは冷たく低い真面目な声で告げた。
「10万」
「え?」
「代金」
「嘘でしょ?」
「クレジットカードも可だぞ」
机の上にショッピングセンターで置いてある「カードをお入れください」としゃべる暗証番号入力装置があった。以前は無料だったはずが料金を取るようになったなんて聞いていない。
「嘘だ!何で急にお金を取ろうとするんですか!?」
正座を崩して鷹目は立ち上がり、逃げ出そうと駆け出した。いくら助かると行っても10万円はひどすぎる。
「愛しの!かりなちゃんを!推すためには手段は選べん!撫子さん!」
「はい!」
後ろで座っていた撫子さんがすっくと立ち上がり、鷹目の右腕と左腕を押さえた上で羽交い締めした。
「ちょっ!?あああ!?」
鷹目が暴れるがびくともしない。撫子さん一体何者と思ったが、薬師の爺さんのお付きだったらこれくらいは当然なのかもしれない。その爺さんは鷹目の鞄の中から財布を取り出していた。
「薬師さん!それは!ちょ、ちょっと!それは!」
鷹目が大きな口を開けた瞬間、撫子さんが口の中に青黒い粉を突っ込んだ。さっきの真吐きの薬だった。途端に鷹目は睡魔に襲われぐでんぐでんの酔っ払いのようにふらついて、座布団の上に膝をついた。撫子さんが羽交い締めにしていたおかげで頭から倒れるのはなんとか回避できた。
鷹目の意識は朦朧としている。自分が今どんな格好で倒れているのかすら分からない。
薬師爺は鷹目のクレジットカードを差し込んだ。
「暗証番号を入力してください」と機械音がきこえる。
「鷹目、暗証番号は?」
「4696、白黒...」
爺さんは4696と入力し確定ボタンを押す。
「認証しました。カードをお取りください」
「まいどあり!!!領収書は財布の中に入れといてやるからなー」
まどろむ世界の中で鷹目は心のなかで思った。ソシャゲに取り憑かれた人間のほうが悪霊よりよほど怖いと。
「おい!鷹目!鷹目!」
ふと目を覚ますと目の前にシロがいた。
「あ、あれ?シロ?ここ、どこ?」
「丹波口駅」
鷹目が辺りを見渡すと切符売り場と自販機が目に入った。確かにここは丹波口駅だ。外はすでに暗くなっていた。
「お前がいつまで待っても帰ってこうへんから心配したわぁ......。何なら悪霊にやられたのかって思ったくらいやで!!」
まだふらつく頭を抑えながら鷹目が体を起こす。
「いや、実際悪霊にやられたよ......」
「なに!?」
「薬師っていうクソジジイにな......」
「あぁ?」
鷹目ははぁ、と深い溜息をついた。シロに説明しようかと思ったがやめた。話したところで笑われるだけだろう。
「まぁいいや。薬は手に入ったから。シロの方はなにか情報手に入ったか?」
今日一日シロは別行動していたのだ。他の妖怪から話を聞き、レイコの体を奪ったような悪霊の話がないか探ってもらっていた。
シロは首を横に振った。
「いいや、あかんわ。さっぱり。やっぱりシンシンに聞き出す以外に手段はなさそうやな」
「そうか。金曜日しかチャンスはないか」
椅子から立ち上がるとまだ薬が残っているのかふわっと自分の体が浮いたような気がしたが、自分の家まで帰るのは問題なさそうだ。ふと左手に違和感があり、目を向けてみるとご丁寧にロードバイクは駐輪場と書かれたメモが手の甲に貼られていた。鷹目はそのメモを引っ剥がしてクシャッと丸めた。
「鷹目ぇ?イライラしてるところ悪いけどよ、真吐きの薬の効果、信じてええなやろなぁ?」
「あぁ...間違いねぇよ」
身をもって経験したからなといいそうになったが飲み込んだ。シロに馬鹿にされるところだった。
「そか。ならええわ。ところで、今日、レイコは大丈夫そうか?」
「ん?何だ?レイコさんのこと、好きなのか?シロ。心配してくれるなんて優しい妖怪だな」
「い、いやそんなんちゃうわ!」
シロが少し赤い気がする。
「ハハッ、話し相手がいなくて寂しいって言ってたよ」
「お、おうそうか。それなら明日は行かなアカンなぁ」
あからさまに顔がへへへとにやけている。このカマイタチ、誰かに頼られると断れないタイプなのだろう。それが若い女ならなおさらか。
「おいおい、お前、レイコさんが元の体に戻ったら会えなくなるかもしれねぇの覚悟しとけよ?」
「わーってるわ!」
特急の列車が通過してJRの高架下にガタンゴトンという音が響いた。
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