仕事場にて

私は目を覚ました。目を覚ましたと言っても幽霊だ。相変わらず部屋の天井近くをふわふわと浮いている。映画の後の記憶は一切ない。「ナミ」は私の顔を見て明らかに殺意を向けてきた。もうすでに私は死んでいるのだが。

シンシンも目を覚ましたようだ。体を起こしてカーテンを開けて、いつものようにやかんに水を入れて、火をかける。お湯が沸くまでに顔を洗って、テレビをつける。テレビ自体は音楽代わり、天気予報の時間帯になるまでちっとも目を向けない。一方で私は暇だからテレビを見ている。ゴシップネタや最近若者で流行っている商品とかが面白おかしく放送されているのを見ると、私もたまに生きていれば欲しいなと思う物が出てくる。今となっては叶わないのだが。

お湯が沸くとコーヒーのドリップパックをマグカップの縁にかけ、お湯をゆっくりと注ぎ入れる。シンシンの朝はいつも一杯のコーヒーから始まる。何も食べずにコーヒーを飲むのは胃に悪いと思うのだが、それを彼に伝えるすべはない。

コーヒーを飲み終わるとシンシンは会社着に着替える。社内にいる人間なので基本的に自由な服装で良いとされているらしいが、シンシンは襟付きの服を必ず着る。彼の硬さでもあり良さでもある。イヤホンを耳につけて彼は会社に出かけた。きっと聞いている音楽は大好きなアニメの主題歌だろう。

シンシンは毎日20分程度会社に歩いて行く。途中には京都御苑がありこの時期は桃や梅の花が咲く頃だ。シンシンは京都に住んでいる人間だが、寺社仏閣に興味もなければ、梅、桃、桜の花を見るというような風情を楽しむ心を持っていない。できることなら私のためを思ってたまに違う道を通ってほしいと思うのだが。

職場に向かって歩いていく中で、私はナミのことを考えた。あの後シンシンと2人で何をしていたかもわからないし、家についてから目を覚ました後は彼女はすでに帰ってしまった後だった。ただ明確に向けられたあの殺意は私の体に刻みつけられていた。本当に怖かった。京都の狭い路地に体格の良い男が後ろからついてくるよりも怖い。まるで目の前に包丁を喉元に突きつけられたような怖さだった。思い出すだけでも震え上がるほどだ。

彼女は私だ。でも、あの体の中にいるのは絶対に私ではない。私以外の誰かだけれど、それが誰かは全くわからない。私の名前すら分からないのに。

考えているうちにだいぶ会社近くまで歩いていたシンシンは、もう少し進めば二条城が見えてくるというところで右に曲がり、薄汚れたあまりパッとしないビルの中に入りエレベータに乗って4階のボタンを押す。ゴウンゴウンと動く昭和のエレベータが止まって扉が開くと、古ぼけたビルとは思えないくらいきれいなオフィスの入り口が見える。

明るいLEDライトの下にプログラマーたちが10人程度座れる机があり、窓側には部長らしき人が座るための少し大きめの机があった。シンシンは1番端の島の真ん中の席に座るとディスプレイの電源をつけた。プログラマーだと割と普通なのかわからないが、デスクトップパソコンの電源は落とさない主義らしい。私は彼らの仕事がよく分かっていない、黒い画面に何か英語を打ち込んで再生ボタンを押すと、よくあるパソコンのソフトウェアの画面が立ち上がってくる。

壁掛け時計の9時のチャイムが鳴ると業務の開始時間だ。出社している人間は今日は7人、いつもより多い日だ。この職場は合計で20人くらいの社員がいるがほとんどの人たちは率先して在宅勤務をしている。一方でシンシンは必ず会社に出てきている。そのほうが集中できるらしい。いつものように朝礼という形で出社した全員が立ち上がり、今日の予定や仕事の進捗率の確認をするのだが今日は少し違った。部長席に座っていた髪の毛が後退し始めているおじさんが立ち上がる。

「おはようございます。今日はいい話があったんだが......」

オジサンは会社の入り口の方に目を向けてなにか探すような素振りをした。

「誰かくるんですか?」

部下の一人がそう言った。プログラマーたちはいつも納期と仕様に追われている。一時期デスマーチ?と呼ばれる状態に陥った様子を年末に見たことがあるが、起きているのか寝ているのか、生きてるのか死んでいるのか分からない。白目になりながらエナジードリンクを飲んでいるその姿はまるでゾンビのようだった。少なくとも幽霊の私よりも恐ろしい見た目だった。

「本当に急に決まったんだが、新しく派遣の子が来ることになった」

「おぉ!」

部下たちは少し喜んでいる様子だった。驚くのも当然だろう、彼らの仕事量と人数を考えると何も分かっていない私からしても人材不足なのはすぐに分かった。社会問題とも言えるようにプログラマーは慢性的な人材不足。派遣が来るだけでも嬉しいのだろう。

「で、部長、どこにいるんですか?」

「それが、まだ来てないんだ......」

「は?」

全員ががっかりとした呆れ顔になった。初出勤日にいきなり遅刻という時点であまり期待できない。

「さっき連絡を入れてみたんだが......」

そう言って部長が自分のスマホを取り出してみるが何も連絡はないらしく首をかしげている。するとちょうどガコンというエレベータが停まる音がして、扉が開くと二十代くらいの若い男が大慌てで入り口に飛び出してきた。

「すいません!遅くなりました!警察に職質受けちゃって......!」

大声で叫ぶ彼は黒いフレッシャーのスーツを腕にかけて額に汗をかいている。ゼーゼーと肩で息をしてなんとか息を整えようとしていた。

「お、おお!職質......?ま、それは後にして、こっちに来ておくれ」

部長がそう言うと、彼は朝礼をしている部長席の近くまでやって来た。プログラムをしている会社に似合わないハツラツとした若い男の子だと思った。

「みんな、彼が新しい派遣の鷹目優太くんだ」

「よろしくおねがいします!鷹目優太です!」

彼が頭を下げるとパチパチと全員が拍手をした。

「それじゃぁ鷹目くんの指導は、進藤くんに任せたよ」

サラリと部長が言うと、私が取り付くシンシンが驚いた顔をしている。

「え、俺ですか?」

「部下を育てるのも経験だよ」

突然の辞令に彼は驚いていたし、いささか不服のような顔をしていたが、めちゃくちゃ大変な仕事ではないと納得したのか「わかりました」と答えた。

「それじゃぁ鷹目君の席は進藤君の隣ね」

空席になっていたシンシンの隣の席を部長が指差す。派遣の彼は「あ!はい!」と元気な返事をしていた。朝礼は終わってそれぞれが自分の席に戻っていく。とても仕事をするとは思えないようなカジュアルなリュックサックを背負ってきた彼はシンシンの隣に座って頭を下げた。

「進藤さん、よろしくおねがいします。鷹目優太です」

元気な彼はシンシンと馬が合うだろうか。少し心配だった。

「よろしく。進藤真司です」

「はい!よろしくおねがいします!」

それぞれの社員がそれぞれに個人の仕事をしているので社内は静かだ。おそらくこの中の何人かは彼らの会話に聞き耳を立てていることだろう。

「まずは、今までどんな会社に行ってたか教えてもらってもいいかな?」

「あ、実はここが初めてなんです!」

「え!そうなの?それなら、大学時代に言語系勉強してたとか?」

新人君は頭の上にはてなマークが浮かんだかのように首を傾げた。

「言語系?ではないです。経済学部でした」

シンシンの顔が真顔になっている。他の席に座っている同僚たちはその会話を聞いてクスクスと笑いをこらえている。

「鷹目君......何の言語が得意?」

「え、日本語しかできないです」

その言葉を聞いた瞬間、部署にいる全員が大爆笑した。よっぽど面白かったのかシンシンの向かいに座っている人はお腹が痛いようだ。一方でシンシンは真顔も真顔、この全く知識のない派遣社員をどうしようかと悩んでいる様子だった。新人君はなぜ笑われているか分かっていない様子だ。

「何の言語が得意なのか」とプログラマーに問われれば回答は「C# , JAVA , Ruby , PHP 」などのプログラム言語のことなのだ。幽霊の私も最初のうちはそういう知識がなかったが今では多少言葉だけなら知っている。呆然としていたシンシンがやっと口を開いた。

「よし、分かった、俺は覚悟を決めた。1から頑張ろう、いや0からかな」

「よ、よろしくおねがいします?」

何も分かっていない鷹目君はおどおどとしていた。

これは私にとってもいい機会かもしれない。シンシンの初心者に向けた指導を受けられるチャンスだ。鷹目君がパソコンの電源を入れるとディスプレイの電源がついた。早速、鷹目君と一緒に勉強しようと思ったときに甲高い声がどこからか聞こえた。

「おい!小娘!」

私は声の聞こえた方向を探してあたりを見渡したが、人の姿はどこにもない。

(あれ?でも私に話しかけてくるはずないか。空耳かな)

そう思ってまた起動中のパソコンの画面を見ているとまた声がした。

「無視すんなや!ここやここ!鷹目の頭の上!」

私が鷹目君の頭頂部に目を向けると、そこには真っ白な体をした小さな動物が腕組みをして仁王立ちしていた。可愛らしい顔をしたそのイタチのような動物は右手を上げると、よぉ!と言ってふわりと空に浮かんだ。

「はじめましてや。俺はかまいたちのシロ!今はこの鷹目と一緒に働いてますぅ!」

私は驚きすぎて声が出なかった。あまりのことに何も理解が追いつかない。かまいたち?私の姿が見える?こってこての関西弁で喋ってる?見ているものすべてが理解不能だ。

「おいおい、何も不思議やないやろ。お前が幽霊なんやから。ほら、自己紹介してくれ」

「あ、あ...」

自分の開いた口から出てくる言葉は何一つなかった。誰かと面と向かってしゃべるのが久しぶりすぎたのだ。なんと言えばいいのか全く思いつかない。

「落ち着け!まずは!はじめまして!」

「は、はじめまして」

私はやっと言葉を話した。自分の声が聞こえたとき、こんな声だっただろうかと不思議な気持ちになった。そして誰かと会話ができることがとても嬉しかった。急に胸からこみ上げるものがあり、目頭が熱くなってきた。

「お、おい!俺に会えてそんな嬉しかったんか......?」

冗談を絡めながら白い動物は笑っている。

「ち、違う。喋れて嬉しいの。うぅ......」

私の目から涙がこぼれた、3ヶ月ぶりに私を認識してくれる人、人ではないが動物がいる。いや動物でもないけれど。この3ヶ月とてもつらかった、どうしてこんな事になってしまったのか分からなかったし、つい最近ナミという私の姿をした人間に殺意を向けられてからは不安で仕方なかった。

「な、泣かんでくれ......あかん......女の涙は苦手やねん......」

白い妖怪はオロオロとしながら私の顔の近くに飛んできてくれた。優しい心の持ち主だ。

「ごめんね、ありがとう。もう、もう大丈夫。自己紹介したいんだけど、私生きてたときの記憶がないの」

「あぁ記憶を失ってるんか!?まじか!困ったなぁ。とにかくお前の知っている情報を少しでも教えてくれ。俺と鷹目はお前を救いに来たんや!鷹目は妖術師。俺はカマイタチ。お前が何者かに体を奪われているっていうのは話で聞いとる。なんでもええ、とりあえず俺とゆっくり話そうやないか」

「分かった」

私はかまいたちのシロに自分の持っている情報を話した。

シンシンに突然取り憑いたのは約3ヶ月前から。なぜシンシンに取り付くことになったのかは全くわからない。それから私がずっとシンシンの観察をしていたこと。シンシンの生活や仕事ぶり。そしてつい最近初めてスマホを覗いたときにシンシンに遠距離恋愛をしている彼女がいることが分かったこと。

その女性が私の姿形と全く同じだったこと。彼女が「ナミ」と名乗っていたこと。

シロはフンフンと頷きながら私の話を聞いてくれた。

「そのナミって子は映画の最後に私に向かって、『私達を邪魔しないで』って言ってきたの」

とても怖い記憶だったがシロに話していると少しだけ不安が減った。シロは私の話をウンウンとうなずきながら聞いてくれている。

「そうか、そりゃ怖かったな。で、そのナミってのがお前の本名の可能性は?」

「ないと思う、あんまりピンとこなかったの」

「ふぅん」

シロは腕を組んでふわふわと浮いている。なにか考えているようだ。

「邪魔するなよ。って言ったってことは、何か目的があるってことやろうけど......。いまいちわからへんな。お前の体を奪っている何者かはこのシンシンを狙ってると......。なにかそいつに魅力的なものでもあるんかな......」

「私もずっと一緒にいるけど、イケメンと思ったことはまったくないよ。でも良い人って感じ」

「まぁ、良い人止まりのタイプやな!」

妖怪はケケケっと笑う。何も聞こえていないシンシンは必死に鷹目に何かを教えている。鷹目はポカンとしているから、かなり難航しているのだろう。

「まぁええわ、お前、名前がないから呼びにくいな。仮で名前、つけてもええか?そやな、幽霊やし、レイコでいいか?」

「うん、いい。それで」

レイコという名前は安直だったが、別にそれで構わなかった。ナミでなければ何でも良かった。むしろしっくり来たまである。

「レイコ、お前にはもう一つ聞いとかなあかんことがある」

シロが真剣な目をしていた。真っ白な体に真っ黒な瞳が私をじっと見つめている。

「今、誰かを羨ましいと思ったり、あれがしたい、これがほしいとか思ったりしてへんか?」

シロが尋ねた質問は拍子抜けな内容だった。私は緊張して聞いていたが、何だそんなことかと思いながらそれに答えた。

「そりゃあ、生きてる人たちが羨ましいと思うことは.......」

今日の朝のテレビだってそうだ。私と同じ年代の人たちが楽しそうに街を歩いていてたり、流行りのアイドルを追いかけていたり。私が生きていればと思うことはいくらでもある。

「気いつけや。幽霊のお前にとって、それはめちゃ危険や」

「どういうこと?」

「今から言うことを必ず守りや」

シロが空中でくるりと回転し、私の目の前に立ちはだかった。

「1つ、羨ましいと思う気持ちはできる限りしまっておけ。1つ、憎しみ怒り悲しみという負の感情はすぐにでも収めておけ。これらはお前が悪霊になんのを遅らせるための措置や」

「悪霊!?」

私は驚いた。自分がいわゆる人に害をなす霊になる。にわかには信じがたかった。

「自分は少しずつ悪霊になっていくから気づかへんやろうけど、幽霊は成仏せんかったら少しずつ悪霊になるもんや。羨ましい、私も生きていれば、妬ましい......そう思っていくうちに、人を恨むようになってくる。あわよくば、ナミみたいに、体を奪い取ってやろうとかな」

私に向けられたナミの笑顔を思い出す。ひょっとすると私の体の中にいる奴も、もとは私と同じような幽霊だったのだろうか?

「ええか、基本的に成仏しなかった魂が現世に残ると遅かれ早かれ悪霊と呼ばれるものになる。それぞれ個体差はあるけどな。レイコは遅いほうや」

「もし、私が悪霊になったらどうなるの?」

「悪霊に理性はない。もはや何も感じられへんくなる。そうなったときには俺たちの出番や」

「出番って?」

「悪霊退治。お前を祓う。そうなるとお前はこの世から消えてなくなる。そして地獄行きってわけや」

「そんな!」

私が大きな声を出したのがびっくりしたのか鷹目君が椅子の上で飛んだ。突然飛び上がった彼に今度はシンシンが驚いていた。鷹目君も私のことが見えるようで、たまに目配せしてくれる。ただ彼はこの会社に入ったばかり、他の人に目をつけられないようにするため私に話しかけたりはしない。

「レイコ!落ち着け!そうならへんようにするために、俺がアドバイスしてんねん。それともう一つ、気をつけなあかんことがある。自分を見失うな。これが一番大事や」

「どういうこと?」

「幽霊は一体何のために幽霊になったんか、何をすればええんか、何がしたいんかを徐々に忘れていきがちや。未練があるから現世に残ったものの、結局幽霊の体では実現が不可能なものが多い。そのせいで大抵の幽霊は途中で諦めてまう。諦めた瞬間が悪霊の始まりや......」

「それなら私はなおさら、悪霊になりやすいじゃない!」

私は自分が何のために幽霊になったのか全くわからないし、特に何かをしたいわけでもない。未練があるかと言われると、生きること自体が未練だ。私だって天珠を全うしたい。体があると分かった今なら、私は体を返してほしい。

「そうやレイコ。そこなんや。お前はこうして幽霊であり続けた。大した目的も無く、この対して格好良くもない男に取り憑いている。もうすでにレイコが悪霊になっていてもおかしくないんやけど、お前はいまこうしてシンシンに何の害も与えず取り付いとるだけや。これなんやけどな、ほんま不思議やけどシンシンとお前の間にはなんか変な力で結びついとるように見える」

シロは左手指と右手指を交互に組み合わせ、ガッチリと結びついている手振りをした。

「この力はレイコが自分でやってることやない。まして、シンシンがそういう力を持っているわけでもない。なんというんやろ......俺も初めてやから分からへんけど、あの世にいる仏さんが優しく結びつけてるような感じや。絶対に離れへんようにしてる」

私はシンシンを見た。彼と私の間に何かがあるらしい。私の目には全く見えなかった。

「あの世にいる仏さんって?」

シロは首を傾げている。

「わからん。ただ......感じるのは、悪意じゃないってことだけや」

妖怪はヒュンと体を翻し、パソコンのディスプレイの上にちょこんと乗った。

「まぁまずは情報ありがとさん。俺と鷹目に任せてくれ。色々と調べてなんとかしてみせるわ。このシンシンへの聞き取りに関しては、鷹目がやってくれるはずやし」

「ありがとう。何もできないけど、お願いします」

「へへ、任せぇ!」

小さな妖怪だが、たった1人で過ごしてきた私にとってはとても頼もしい存在だった。

午後からの鷹目の仕事はほとんど勉強だったようだ。仕様書と呼ばれるドキュメントを一つ一つ読み込みわからない単語があればその都度調べる作業。プログラムという世界に入ったことのない彼にとってそのドキュメントに書かれている単語は殆どが聞いたことのないようなカタカナで、鷹目は学生時代を思い出していた。

「やべー。マジでわかんねぇよ」

「がんばりやー」

トイレでパンクしそうな頭を冷やし、シロに愚痴をこぼしたが適当にあしらわれた。

「調べた先でまた知らない単語が出てきて、その単語を調べるとまた知らない単語が出てくるんだぞ?分かるか?この苦しみ。無限検索地獄だ」

シロが苦しめ苦しめと言わんばかりにニヤリと笑い低い声で答えた。

「いつか......終わりはあるもんやで......」

「適当なこと言いやがって......」

はぁと鷹目がため息を付いて席に戻ったところ、シンシン先輩が課長となにか話している。自分が席に戻ったのに気づくと先輩が近づいてきた。

「鷹目君。今週の金曜日特に予定ないよね?君の歓迎会をしようと思うんだけど」

「あ、ありがとうございます」

「お店とかはまた連絡するし」

「はい。お願いします」

シンシンはそう言うとすぐに自分の作業に戻った。鷹目も同じく作業に戻り調べものをする。プログラミングをしている会社は非常に静かだ。たまに誰かが相談する会話が聞こえたり、電話がかかってきたりするが、それ以外はずっとタイピングの音だけが響く社内だ。4時間ほど経って17時を過ぎると何人かの社員は仕事を終えて帰る準備をしているようだ。この会社は忙しくなければ基本的にホワイトなのだろう。仕事の終わり頃になり、シンシンが鷹目を気にかけて話しかけてきた。

「どう、鷹目君。今日の成果は」

鷹目のノートにはいろいろと文字が書かれていた。ノートの上にはシロがふわりと浮かんで、覗き込んでいるが何もわからないという顔をしている。一方でレイコは今日の鷹目の調べ物のおかげでいろいろと分かった事があったようだ。

「いや......マジ何も分かった気にならないです」

「そうだろうね。俺も最初の頃そうだったよ。右も左もわからなくって調べに調べたって感じさ。仕事で使える人間になるのはだいたい3年くらいかかるだろうね。仕事ってそんなもんだろうしね」

「えぇ......」

妖術師としての活動しかしたことのない彼にとって仕事がこんなにも大変なものだとは思わなかった。学生時代に勉強した内容がほとんど通用しない世界だった。

「ハハハ、まぁ気長に行こう。明日は試しにビジュアルスタジオコード入れて、ハローワールドのホームページでも作ってみようか」

鷹目がその言葉の中で分かったのはホームページという言葉だけだった。

「ビジュアル...?なんですか?」

「また明日にしよう!」

「あ、はい」

シンシンは無知な新人に嫌な顔せず笑いながら退勤の準備をしていた。

鷹目はシンシンと一緒に会社を出た。シロはレイコに手を振っている。15センチ程度のイタチの手は小さくて可愛らしく、レイコはつい、うふふと笑みが漏れてしまった。

鷹目は自分のロードバイクにまたがり堀川通まで出て、二条城の方へ向かって走っていった。肩に乗せたシロは相変わらず気持ちよさそうに風を感じている。二条城の角で右に曲がり二条駅方面へ、段々と町並みはにぎやかになり、駅前につくといろいろなお店が並ぶようになる。

駅前のスポーツジム、映画館やゲームセンター、昔ながらの商店街。この二条駅の周りにはいろいろな物が揃っている。鷹目は駅の自転車置き場にロードバイクを止めて、歩いてお気に入りの店に入った。カフェ兼、ハンバーガー屋のその店は雑多な本や小物が置かれ、知る人ぞ知る店だ。鷹目はハンバーガーが大好きな人間だ。ジャンクフードが好きというと大抵の人間が、嘘でしょうという顔をするが鷹目からするとそれはハンバーガーに対する知識が足りないだけだ。

いつものようにハンバーガーを注文して窓側のカウンター席に座ると、ふぅと溜息を着いた。

「お疲れやなぁ!鷹目!座ってただけだってのに!!」

「そらそうだろ。こんなに頭使ったの初めてだ」

「学生時代の中の上くらいの頭じゃ厳しいか?」

「あー......もう言い返す気力もねぇよ......」

鷹目はリュックの中からノートとペンを取り出して机の上に広げた。

「ん?なん?今から復習でもするん?」

「ちげぇよ!お前俺たちの目的はプログラムじゃないんだぞ?今日仕入れた情報をいろいろとまとめて、作戦会議だ」

「ああ、せやせや」

シロはするりと鷹目の肩から腕を滑り降りて、机の上に寝っ転がった。そしてレイコから聞いた話を鷹目に伝えた。鷹目はその情報をノートにとって1つずつ書き留めていく。一通り話し終わったところで、鷹目は情報をまとめた。

「レイコが進藤先輩に取り憑いたのは3ヶ月前。だいたい去年の12月くらいと。そして一切の記憶は無い。20歳くらいに見えるから、ひょっとすると大学生ってところかな」

「彼女はシンシン、あぁ、進藤先輩と暮らして、彼の真面目な仕事ぶり、頑なにプライベートを人に見せようとしない性格、って言うことが分かったな。あと......人には言わへんけど漫画とかアニメとか好きらしいで」

「そしてつい最近、進藤先輩に彼女がいた事を知って、たまたまその日に彼女が家にやってきたと。で、その彼女がレイコの姿だった。明確な殺意を向けられて、映画館で気を失ったのが最後と......」

「じゃあ中にいるのは誰や!ってことやな。ま、悪霊のたぐいやろなぁ」

シロがふぁあああくびをしている。

「おいおい、もうちょっと頑張ってくれよ。シロ?午前中話してた限りじゃ、先輩と何か固く繋がれているって言ってたな」

「ああ、お前たちの世界やと赤い糸とでも言うんかな?」

シロがハハハと気楽に笑う。

「シロ、殺意を向けてくる悪霊が人の体奪ってるとなるとかなり厄介なんだ。俺も直接レイコさんと話せれば良いんだが......他の人に怪しまれてしまうからなぁ」

鷹目はシロとレイコを目視できるが他の人はそうではない。そんな中で突然、空中に向かって話し始めれば、とんでもない奇人変人扱いを受けるだろう。そのせいでこの事件を調べることが難しくなってしまうのは困る。

シロはよっこらせと体を起こす。

「鷹目、進藤先輩と2人で話し合って、その彼女のことを聞き出すってのはできへんの?」

「うーん」

鷹目は腕を組んで眉間にシワを寄せた。

「話し合おうと思うとどうにかしてシンシン先輩と2人きりにならないといけない。たとえ2人きりになったとしても、先輩は絶対にプライベートを話そうとはしないタイプらしいだろ?」

「せやなぁ......。それなら......やっぱり薬でも盛るしか無いんちゃう?」

「薬か......。あの人に頼ってみるかぁ」

鷹目がハンバーガー屋の天井を仰ぐ。

「仮にあの人に薬をもらうとして、それを飲ませるタイミングなんて......」

その時シロが何かを思い出しピョンと中に飛び上がった。

「せや、今週お前の歓迎会をするんやろ!その時を狙うしかねぇや!」

「確かに!二人っきりになれるチャンスだな!」

つい声が大きくなってしまった。ちょうどハンバーガーを持ってきた店員が驚いた顔をしている。

「は......ハンバーガーです」

「あ、すいません」

カゴを受け取ってノートを端に寄せてハンバーガーを机においた。シロはハンバーガーの匂いによだれが止まらない様子だ。

「お、分かるのかシロ。この違いが」

「分かる。分かるで!少し齧ってもええ!?」

「良いよ。仕事のお礼だ」

そういうや否やハンバーガーの肉にかじりつき、うーんと唸る白いイタチ。よほど美味しいのだろう、もう少し食べたそうな顔をしている。

「動物には塩分がきつすぎるからな!これ以上は駄目だ」

「馬鹿野郎、俺はお前のペットやない!」

ピーピー喚く動物を横目に鷹目はハンバーガーをひとかじりする。肉汁が口の中に溢れうまい。ペットの飼い主も満足の顔になった。シロはムスッとした顔になりまた机の上に横になる。

「あーあ!今週の金曜日が勝負のときってなるとよ、それまでにお前はなんとかしてシンシンとサシ飲みできるくらいの仲にならなあかんのやで?」

「そうだなぁ。先輩社員と仲良くなるなんてできるものかなぁ」

「共通の話題でも持ってけばええんとちゃうか?」

「共通の話題ねぇ、俺はキャンプが好きだけどレイコさんから聞いた話じゃ、先輩重度のインドア派でアニメや漫画が好きなんだろう?」

「ここからはお前の頑張り次第や。今日から深夜アニメ見まくるしかないんちゃう?」

「そうするかぁ......」

鷹目は口をモゴモゴとさせている。

「それじゃあ今週することは決まりやな。俺はレイコの話し相手になって情報収集。お前は今週、マンガ・アニメを勉強してシンシンと仲良くなって、金曜日の歓迎会でシンシンとサシになって彼女のことを聞き出す。それでええな!」

「おっけー!シロ、頼りにしてるぜ」

「おう、それならその肉をもう少しこっちによこせ」

「それは別!」

「なんでや!」

ハンバーガーの残りを鷹目は口に放り込み席を立ち、シロを鷲掴みにして肩に乗せた。掴まれたシロは雑だ雑だと不満を言うが、悪い悪いと鷹目が頭を指で撫でてやると文句を言わなくなった。

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