ファブリス

 女神に説得されて山奥の村で本当の両親とともに温かな暮らしを始めたラナ。

 が、それが楽しかったのはほんの数年だった。

 仲良しのアメリーが十代で結婚し出産した。この村ではこれが普通なのかとラナが驚いているとアメリーは悪気なくこう言った。

「ラナも早く親孝行しなよー。一人娘なんだからさ」

 その無邪気な言葉はラナの胸を抉った。

 ラナが二十代になる頃には両親は「あそこのお家の息子さんは働き者で」 「あの家の親戚に魔獣討伐が出来る子息がいて」 と話題が男一辺倒になった。言わずもがな、結婚を視野にいれろという圧である。

 ラナとしては正直なところ結婚なんて考えられないと思っている。聖女だった過去は両親には言えないが、王都の高スペック男子に散々苛められたことを考えるとまず異性が無理なのだ。結婚したくないなあとぼやいたラナに両親は現実を教えた。

「でもね……私達は必ず貴方より先にいなくなるのよ。そうなったらこの家は誰が守るの? 貴方も一人で何もかもは出来ないでしょう。居なくなった時のためにも……」

 現実はいつだって非情である。苛められた可哀想な過去は結婚しない理由にはならなかった。保険もない世界なのだ。

 それでもなんやかんやで逃げ回っているうちにいつの間にか村の年頃の男は皆結婚してしまった。その頃には両親の紹介する男は「どこそこの息子さんは一回離婚しているけど~」 と難のつく男になった。もしかして無理してでも手頃な男と結婚するべきだったのだろうか。


 ラナは夜中になるとこの先を思ってちょっと泣いた。

 地球の日本だったら独身でも誰からも何も言われなかったのに。日本に居た頃の母親はよく「周りがうるさくて仕方なく結婚した。相手は大外れだったし娘は可愛くないし最悪」 と言っていたが、今となると母親の気持ちがよく分かる。したくもない結婚をしなくてはならなくて、肝心の旦那は自分を大切にする気はないし娘はなんと中身が異世界人。そりゃ絶望したくなるよなあと思う。

 村に来て幸せだった期間よりストレスを感じる期間が長くなった。こういうのはずるいとは思うが、それでも耐えきれなくなって女神を呼ぶ。すると本当に一瞬で女神は現れた。


『どうしたの? 何かあったの?』

「周りの結婚しろの圧がつらいんです!」


 命の危機ではないし勧めてくる周りの完全に善意から。再召喚の頃を思うと贅沢な悩みと言えば贅沢な悩みだ。女神も少し困っていた。


『……事情は分かりました。私に理想の婚姻相手を連れてきてほしいということかしら?』

「やっぱり女神様の力でも結婚は避けられないんですね……。どうせ結婚しないといけないなら、お願いします!」

『言っておくけれど、理想の相手なんてどんな神にも無理よ。結婚生活はお互いを尊重し合い、揉め事も双方が折り合いをつけていくもの。相手に一方的に負担を強いることはできない』


 正論中の正論にラナは項垂れた。しかしそれでも過去を武器に女神を詰る。


「この村に連れてきたのは女神様なのに」

『そうね』

「数年で結婚しろの圧力で死にそうになるなんて、知ってれば選ばなかった」

『……』

「そもそも今までの聖女はみんな恵まれてたのにどうして私だけこんな惨めな思いをしなくちゃならないんですか? これが女神様のやり方なんですか? 異世界転生だって私の意思なんかなく強制的に転生させられたんですよね? そうまでしたのに召喚されてから旅の間本当につらい思いさせられたし」

『分かりました。相応の相手を連れてくるから、まず理想の第一条件を教えなさい』


 女神は折れた。召喚後にごちゃごちゃなことになったのは確かにこちらに非がある。ラナの言っていることが完全に駄々っ子だが、まあそれくらい心身ともに回復したと思えば……。


「連れてきてくれるんですね! ありがとうございます! えっと、そうですね……」

 ラナは考えた。両親が不安なのは今代の聖女――つまり自分だが――で召喚関連で問題が多々起きており、農業牧畜ともにずっと中の中から中の下の収穫。女神が余計に力を使ったことで豊作になりづらいのだそうだ。一昔前は蓄えがあった村長の家も先細る一方で、だからこそ余計に一人娘に伴侶を見つけて安心したいということだが。

 つまり、金。お金持ちと結婚すれば文句はないはず。


「財力ですね! あ、でもだからって私を全然尊重してくれない人は困ります。あと子供関連でうるさく言ってくる人はやだな。……二度の召喚と死にそうになったことでまともに子供を産める身体なのか自分でも不安だし」

『つまり、お金持ちで貴方を最大限尊重してくれて、跡継ぎの心配もない人がいいのね』

「はい!」

『……ちょうどいい人間が王都にいるわね。大商会の現跡取り。子供を設けられなかったから養子をとっている。おまけにそれなりに年を取っているのに評判の美男』

「えー、最高じゃないですか! そんな条件なら後妻でも構いませんよ」

『決まりね。幸い近くまで来ていることだし、数日後にここの温泉を目当てに訪れた、と誘導させるわ。貴方を見た瞬間に婚姻を申し込むでしょう。言っておくけれど、この世界で最も貴方の出した条件に合致する人よ。それを忘れないように』


 女神はそう言って消えた。ラナは長年の心配事がこれで解消されたと久しぶりに心地よく眠りについた。


 数日後、女神の言ったとおりになった。

 口コミで広まっていたラナの村の温泉に浸かりに来たと王都の商人一行が訪れたのだ。

 わくわくしながら村長の娘として身の回りの世話をしようと村の入り口に立つ一行の前に赴いたラナだが、その中で一番偉い人間の顔を見て固まった。


 ファブリス。あの旅の間散々自分を苛め抜いた人。


 固まったのはラナを見たファブリスも同じだった。しばらく無言で見つめ合う。

 ファブリスの共の者達が当主はどうしたのだろうと思っている間、村長は何か娘が粗相をしたのかと生きた心地がしなかった。

 先に口を開いたのはファブリスだった。まず村で一番偉い村長に確認する。


「村長。これは貴方の娘か?」

「は、はい。ラナと申しまして、今年で22になります」

「そうか。……名前も、計算も合う。やはり……」

「あ、あの?」

「既婚か?」

「え? ええと、恥ずかしながらまだ未婚でして……」

「そうか。なら私が婚姻を申し込んでも問題はないな?」

「え、ええ!?」

「一目で惹かれた。ラナ殿。どうか自分と結婚してほしい」



 出会って三分プロポーズ。ラナは女神を少し恨んだ。いやあの時の冷遇四人組の一人って何でそんな重要な情報を黙っているかな!? しかしこの世界で一番ラナの出した条件に合致すると言われたことを思い出す。

 ここで断ってもまた結婚しろと呪いのように言われる毎日が続くだけ。先に結婚したアメリーの子がもう話せるようになったのを見た時は自分ばかり取り残されているようでつらかった。この村では早く結婚して早く子供を産んだ女こそ偉いとされる。喪女にはガチで人権がない。これ以上後回しにするのも得策ではなかった。


「……私でよければ、喜んで」





 それまでの喪女時代の圧はどこへやら。村では運命の出会いをした二人としてラナとファブリスがもてはやされていた。


「ラナが結婚しなかったのって、ファブリス様に出会うためだったんだね~。よっ玉の輿!」


 アメリーが二番目の子に乳をあげながらそうからかってくる。死んだ目でラナはそのからかいを受け流した。


 ファブリス。旅の間の苦痛は忘れていないから複雑だ。しかし背に腹は代えられない。彼と結婚するとお金に不自由しないし、跡継ぎも……あれ?

 ラナはふと思い出す。

 セレスティアさんは? 彼も他の二人もめちゃくちゃセレスティアさんが好きだったはず。結婚しなかったの? でもそういえば逆ハー出来る世界ではないから、彼女はクレマンあたりと結婚したんだろうか。で、ファブリスはセレスティアに操を立てていると。それで養子をとったということかな? ラノベでセレスティア主人公ものだったら好みの展開だけど、本命のための風よけにされるのは嫌だなあ。この辺はっきりさせておかないと。

 ラナはその件について、歓迎の宴が終わって二人きりになった時に聞いてみることにした。


「久しぶり」

「……六年ぶり、だな」

 覚えてたんだ、と嬉しさとも煩わしさが混じったような感情になる。昔の知り合いに覚えて貰えてるのは嬉しいけど、苛めっ子が覚えててもそりゃ人を苛めるのは楽しかったよねとも思ってしまう。ともかくそういう感情を押し殺して必要なことを話さなければ。


「どうして私に結婚を申し込んだの? 元聖女だから?」

 ラナからすれば自分にはそれくらいの価値しかないと思っている。早く結婚しろの圧で自己肯定感は下がりまくっている。

「違う」

「ならどうして?」

「あの頃から、君だけを見ていた」

 普通ならここでうっとりするんだろう。けどそんな感傷は苛めっ子と苛められっ子である二人の間柄には似合わない。

「セレスティアさんはどうしたの? 私が邪魔で仕方ないくらい大好きだったんでしょ」

 ぐっとファブリスが痛いところを突かれたように呻いた。こっちは事実を言っただけなのに、と思いつつもロジハラだったかなと思ってしまう。


「確かに旅の間は好きだった。だが今はもう関わり合いたくない」 

「関わりたくないって言っても、大商会の当主と大貴族の令嬢でしょ。何度か会うこともあったんじゃないの? 彼女は今どうしてるの?」

「軟禁されている。俺は最後まで彼女の面倒を見ようとは思ったのだが、彼女はそれを当然のものとして考えていて鼻についた。金だって無い所から無限に出る訳でもないのに」


 ラナは思った。それは……彼女を否定できないな。自分も今まさに財力目当てで彼と結婚しようとしてるし。


「それで、セレスティアさんは?」

「今も同じところで軟禁されている。父親が死ぬまでは普通に生きるんじゃないか」


 苛めの首謀者。美貌を武器に男達を手足のように操りラナを苛めた人間。思うところはあったが、まあ薄ら不幸な目にあっているみたいだし、ラナもこれ以上彼女を責める気にはなれなかった。


「もうあんな女の話はよくないか? それより、君の話を聞かせてほしい。ここにいる理由も今までどんな暮らしをしていたかも」


 まあ、何も知らずに結婚はないよなとラナはこれまでの生活を話す。特に珍しいことはないのだが。話し終えるとファブリスの話を聞きたくなった。


「もうこれくらいでいい? それよりファブリスの話を教えてよ。商人の奥さんなんてどうしていいか分からないし、義理の息子になる人だっているんでしょう?」

 ファブリスが困った顔をする。

「……もう数年早く君と会えていたら、養子をとらずに済んだんだろうな。君の子供を跡継ぎにしたかった」

「え、それは私が困る。あんな目にあっていて産める身体か分からないし」

「……ごめん」

「それはいいから。お家のしきたりとか禁忌とか教えて。あと義理の息子さんのことも」

「しきたりも禁忌も普通の家と変わりないよ。規模は大きくなるけどね。……ただ、息子に関しては……」

「?」

「同じ家に住みながらもう何年も会話がない。聖女冷遇四人組の一人だと知られてしまってね。それでも聖女に操を立てて独り身でいるから当主の地位を許されているが、女を連れてきたと知られたら怒るだろうな」


 義理の息子が鬼門。ラナの頭が痛くなる。いっそ息子に自分こそが聖女であるとばらしてしまおうか? いや死んだことになっているのにそれは……けどそれまで女の影が無かった大商会の当主に気に入られて突然やってきた女って怪しさ満点だよね。いざとなったら打ち明けることも視野に入れなければ。


「ラナ……」

 考え込むラナの頬をファブリスの手が優しく包む。顔が近づく。

 キス、されると思った。


 金目当ての結婚。しかも因縁の相手。自分を好きだとは言っているが、これって罪悪感じゃないのかなあ。……でも結婚は結婚。女神も言っていた。相手に一方的に我慢を強いるのはよくない。キスくらいで済むなら安いだろうとぎゅっと目を閉じる。

 キスはされなかった。ファブリスの気配が離れていく。

「怖そうだね」

「え、あ、その……」

「一生許されなくて当然のことをした。村長も大商会の当主直々の頼みを無下にできなかっただろう。何より君は優しいから衆人環視の中で行われた求婚を断らないと思った。……卑怯者だよ」

「……」

「紙切れ一枚の関係でいい。本当の夫婦にならなくていい。……ただ、俺に世話させてくれれば。それで、一日に一回微笑んでくれれば。それが俺の救いになる」


 白い結婚でいいというのだろうか。願ったり叶ったりだ。心の暗黒部分を包み隠さず言うならこっちは金と結婚したという事実だけがほしいし。

 ……でも、それでいいのだろうか、人として。いやよくないよ。これファブリスだけが負担じゃん。彼はそれで本当にいいのだろうか?

 ラナは部屋を去るファブリスを最後まで目で追っていた。彼が振り向くことは無かった。





 ファブリスの自宅は王宮に規模こそ劣るが、その豪華絢爛さはこちらのほうが優っていた。さすが大商人の当主の家。どこもかしこもピカピカで綺麗で、その辺りに飾ってある絵画や壺は一体いくらになるのか。ラナは感心する反面、ふと昔を思い出して黒い気持ちになる。

 こんなにお金があるのに、女神に指定された聖女だった私の食事代にお風呂代に洋服代、ただの一銭も出さなかったのね。

 乗り心地の素晴らしい馬車から降りて以降、ずっと優しくラナの手を引いて廊下を歩くファブリス。過去の所業を思い出して不必要にぎゅっとその手を握りしめた。

 そういえばどこへ向かって歩いているんだろうと気づいたが、ファブリスはある部屋の前で立ち止まった。

 秘書のコンスタンに命じて開けさせたその部屋の中は、眩いばかりの黄金で満ち溢れていた。

「ここは……?」

 家に来て真っ先に見せる場所が宝物庫というのも妙な話だ。何か意味があるのではとラナがあえて聞く。

「ここは、君が貰うはずだった財産」

「え?」

 思わず宝物庫を見回す。これだけあったら一生遊んで暮らせるのではないかという黄金が瞬いている。戸惑うラナにコンスタンが説明した。

「ファブリス様は、貴方が二度目の召喚でこちらに来てから、毎年ずっとこの部屋の財産を増やし続けていました。貴方様への慰謝料でもあるのでしょう。金で解決するなど、とご不快になられるかもしれませんが、ひとまず当面の生活費としてお受け取りください」

「生活費、って」

「ファブリス様は大商会の当主として常にあちこち飛び回っておりますゆえ、自宅にいられる時間はほとんどないのです」


 ラナの中で天使と悪魔が同時に囁いた。まず悪魔が『貰って当然だよね。本当だったら旅の間これくらい使っても良かった身分だもの。正当な権利だよ』 と。そして天使は『多少は貰う権利があったとしても明らかに貰いすぎよ。贅沢は慣れると怖いんだからね! そもそもこれ試されてるんじゃないの? 大商人の奥方として浪費癖はないかとか』

 先々のことを考えた結果、天使が勝った。

「……お気持ちだけ貰っておきます。私は、人並みの暮らしをさせてもらえるならそれで充分です」 

 ファブリスは苦い顔をした。それは人並みどころか虐待されていたラナの過去を思い出したからだが、一応旦那となる男のそんな顔を見たラナは何か失敗したのではと不安になって落ち着かない。居心地の悪そうなラナを見てようやくファブリスは我に返り、ラナを奥方が住むべき部屋まで送った。


 ファブリスの趣味なのだろうか。部屋の中はゴテゴテと表現したくなるほど色々なものがあって色彩豊かだった。山奥の村でも慎ましい暮らしに慣れていたラナには中々刺激が強い配色だったが、住まわせてもらう以上文句は言えない。幸いにも寝台周りはシンプルだったのが救いだ。

 ラナは知らない。旅の間ずっと灰色の世界で生きていたラナのために、少しでも明るく楽しくなるような部屋をと使者を通じて家の者に命令させたファブリスのことを。聞いていれば違った感想が生まれたのだろうが、ファブリスは気持ちを押し付けたくはなかったし、ラナもそこまでファブリスに興味が無かった。


「長旅で疲れただろう。夕飯はここに持ってこさせるから」

「うん」

「……ゆっくりしてくれ」


 ファブリスはラナの部屋を出て、少しだけにじんだ涙を手の甲でぬぐった。あんなに恋い焦がれたラナが、自分の家にいる。歓喜の涙をまた流して、ファブリスは家中の者に指示を出しに行った。

 ほぼひと月に渡る不在だった。出産で宿下がりした下女が二名、そのぶん補充された若い少女が二名。また流行り病で五名が自宅待機。そのぶんまた補充されたという。召使が主人の顔も知らないとあっては使い物にならない。まず新しく入った者達と話すことから始めた。バタバタと慌ただしくなったその隙に、ラナの部屋に忍び寄る影があった。ファブリスの邸宅のどこをうろついても咎められない男。


 ファブリスの義理の息子、エクトル。

 


 エクトルはこのたびファブリスが迎えたという愛人の部屋の前で激しい憤りを覚えていた。

 あの色ボケ爺。大人しく聖女様に操を立てていれば何も言わなかったものを。自分のしたことをすっかり忘れて愛人を家に連れ込むとは。

 エクトルはファブリスが大嫌いだった。教科書にも掲載されるほどの「聖女冷遇四人組」 の一人だったと知った時から。

 何故そこまで憎むのか? それは――

 エクトルの初恋はラナだったからだ。




 大商会の跡取りになるべくエクトルはファブリスに引き取られた。学ぶことは苦ではなかったし、人との交流も大歓迎。これで見目も綺麗なほうなのだから慢心しそうなものだが、ある時期までは己に満足せず邁進する理想の跡取りだった。

 ある日、学校で歴史を習った。その日のテーマは「歴代聖女学」

 異世界からやってきた聖女が衰退期に入ったこの世界を救ってくださることへの理解を深める全国民必須学問だった。


 とはいえ、誰もが内心「ふーん」 としか思ってないのではないだろうか。

 その時になれば女神が異世界から来るように調整しているから、聖女が困らぬようあらゆることに不自由しないよう、付き人は全員良家の子息子女。それから魔力をこの世界に馴染ませるための旅のことを教科書は格調高く書いているけれど、それ物見遊山と何が違うのと言いたくなるような贅沢三昧聖女サマもいた。 

 感謝はするけど恵まれ過ぎていまいち好きになれない。それがエクトルの正直な感想だった。

 それが変わったのは、新しく追加された最新の聖女の話だった。

「……その四人組は聖女を侮りました。世界を救うくらいで思い上がるなとすら思っていました」

 教師の説明を聞いてエクトルの眠気が吹っ飛んだ。そうそう、それだよそれ。一人くらいガツンと言ってやる人間はいないのかってずっと思ってたんだ。

「その聖女は食べるものも着るものも満足に与えられず、寝る場所は一人だけ野宿だったそうです。王都に戻る頃にはボロボロになり、そんな聖女なんていらないとばかりに四人組は策を弄して聖女を元の世界に送り返しました」

 想像以上の惨劇にエクトルは冷や汗を流す。

 え、これ本当にうちの世界の人間がやったの? 悪魔の所業じゃん。同じ人間と思いたくねー。なんかいい思いしてムカつくくらいは思ったけど、死ぬほど不幸になれなんて思ってないし。


「復活した女神はこの惨状に気づいて慌てて聖女を呼び戻しましたが、聖女は既に虫の息でした。四人組は女神に叱られてようやく事の重大さに気づき、必死に聖女に謝ったと聞きます」 


 あまりの酷さにエクトルの中で感情移入の対象が旅の仲間の同郷人から聖女に移行していた。

 許さないよな? 当然。いくら何でも少女一人に酷すぎる。そんなやつら人間じゃない、処刑台送りにしたっていいくらいだ。

 

「聖女様がどのようなお考えだったのかは分かりかねますが、聖女は彼らを許したそうです」


 ざわざわと講堂が騒がしくなる。当然だ。普通の人なら納得できないだろう。そんなの優しいというより甘ちゃんだ。砂糖で出来てるんじゃないか。


「そして聖女様は力尽き、静かに亡くなられたそうです。聖女の平均寿命は87歳だそうですが、いやはや、一人大幅に平均を下げましたね」


 教師のあっけらかんとした言い草がまた聖女への同情を誘う。いやそんな……軽く言っていいことじゃないだろ。なんで一人だけそんな思いしないとならないんだ?

 

「冷遇されるままになっていた無能、聖女らしくない平凡さが罪、と批判的な声も多いですが、それでも聖女を冷遇していいという理由にはなりません。そもそも聖女が来なくなれば世界が滅ぶということを近年の若者は忘れすぎなのです」


 エクトルはぐっと黙った。それまでの聖女を人生イージーモードとやっかんでいたぶん、この最新の聖女に同情がわいた。

 どうして一人だけそんな思いをしなければならなかったんだろう。どうして誰も味方になってやらなかったんだろう。どうしてそんな悪魔みたいなやつらを許したんだろう。考えれば考えるほど胸が痛んだ。聖女――ラナが可哀想で。

 とある文豪が言った。可哀想ってことは惚れたってこと。まさにエクトルはその状態だった。


 エクトルがファブリスに引き取られたのは、親戚の中でも優秀だからというのが表向きだが、実際は引き取ってもうるさく言ってくる輩がいないからだろうとエクトルは思っていた。

 実家では亡くなった先妻の子としてあまり良い扱いを受けてこなかった。父親は生きている後妻とその息子にばかり気を取られてエクトルには注意を払わない。それがさらに後妻を増長させエクトル放置を加速させる。兄の誕生日を数年祝うことなく弟の誕生日はエクトル除く家族で祝う父親だったからしょうがない。ラナほど酷くはないがエクトルも虐待されていた。その寂しさを紛らわすように学問に打ち込むしかなかった。友人の家を勉強の合宿と言って渡り歩いてほとんど実家にいなかった。


 教科書の挿絵で書かれた聖女ラナはエクトルと同じ黒髪だった。それが余計にエクトルに共感させる。

 ラナを知ってからというもの、つらい時は「ラナ様だって頑張ったんだ」 と奮起し、義父の取引相手から暴言を吐かれた時は「ラナ様だってお許しになられた」 と笑って流し、一人がたまらなく寂しい夜は「ラナ様はもっと寂しかった」 と手描きで教科書の挿絵を写した紙を胸に抱いた。

 エクトルにとって、会ったこともないラナが心の支えだった。

 そのままでいれば幼く可愛らしい初恋だったのだが、学園でとある無神経な貴族によって破られた。


「……そういえばラナ聖女は本当にお可哀想ですよね。義父がいればきっと助けたでしょうに」

 聖女の話題はこの世界の上流階級にとって天気の話題と同じだ。何代目の聖女が好きかで盛り上がるのが定番となっている。だから何気なく口にした。

 しかし言われた侯爵令息はプッと吹き出し耐えきれないというように笑った。

「く、ふ、はははっ! よりによってお前がそのようなことを申すとは!」

 何故笑わなければならないのか、心外だと口にしようとして貴族から衝撃の事実を知らされた。

「教科書にも載っている冷遇四人組の一人はまさにお前の義父ではないか。お前の義父は助けるどころか積極的に虐待したんだよ。庶民にまでは知られてない事実だがな。親の罪を子供も背負えとは言わないが、親子というものは必然的に似る。……笑ったのは謝ろう。だが僕以外の前で同じことを言わないほうがいいぞ。豊作が無くなったことに怒りを覚えている人間も多い」

 

 世界がひっくり返ったかのような衝撃を受けた。

 それから怒りのままに義父を罵倒した。そうでもしないと自分が滅茶苦茶になりそうだった。

 ただただラナに申し訳なくて義父と接するのをやめた。

 初恋の女性を死に追いやった一人が尊敬する義父。

 その事実はエクトルの心に消えない傷を残した。


 そういえばファブリスは結婚していないが、秘書のコンスタンによると「ラナ様を想い続けているから」 らしい。腹が立ったので「何年それが持つが見ものですね。父上の薄情さは貴族方からお墨付きのようですし」 と皮肉を言ってやった。


 憎くて堪らない義父だったが、それでもラナのことを知りたくなった時には酔い潰して聞きだす時もあった。

「物静かで、控えめで、優しい娘だった。間違いを犯しても一度も責めなかった。俺だって、旅の最中にどんどんやせ細っていく姿を見て哀れに思う時があったが、皆の手前言えなかった」

 ラナの話が聞けるのは嬉しい。が、ずっと聞いているとそれ以上に不快さが勝る。実際の旅では虐待しかしなかったくせに、後悔だけは一丁前なんだな。いや、百歩譲って後悔するのは許せても、本当は可哀想に思ってたんですぅー本意じゃなかったんですぅーと悲劇のヒーローぶるのは許せん。

「でもそんな子を苛めたんですよね。あ、違ったか。苛め殺したんだ」

 そういう時はこう言うと義父は朝まで大声でボロ泣きするのだ。そして朝になるとなんでもないような顔をして仕事に向かう。体調が悪いまま仕事に行かせるのも嫌がらせ、いや、愛する聖女を酷い目に合わせた男への復讐だ。

 たまに罪悪感を覚えて当時の状況を調べたりするが、その過程で諸悪の根源であるというセレスティアの全盛期の絵画を見た。なるほど。騙される男もいるだろうと思うくらいには美しい。が、それだけだ。好きになった女が美しいだけでどうして世界を救う聖女を虐待出来るんだ? 実行した義父が愚かすぎるとしか思えない。ラナの絵画と比べると、セレスティアは綺麗だが何となく近寄りがたい、底意地の悪さのようなものが滲みでてるような感じだ。それに引き換えラナは一見ありきたりな容貌に見えて、とても透明感のある優しそうな様子をしている。性根の差なんだろう。


 写真でないのだから絵師の悪感情や贔屓が滲み出ている、とは考えずに自分の考えの補強として物事を捕らえるあたりエクトルもまだまだなのだが、誰もそこにつっこむ人間はいない。


 エクトルの中でラナはどんどん神聖視されていった。

 義父は相変わらず憎いが、唯一生きた聖女を知っている人間でもある。大嫌いだが、聖女に操を立てている間はまあ空気を吸うことくらいは許してもいい。

 なのに、突然義父が「結婚するから」 と女を家に引き込んだ。




 どうせ金目当ての女だろう。そういう人間にはうってつけの言葉がある。自分も生涯悩まされている事実だ。

「ファブリスは聖女冷遇四人組の一人だが、それでも結婚するのか?」 と。

 まともな女なら逃げる。犯罪者と進んで結婚したい人間はいない。

 というか義父はその辺りちゃんと説明してから愛人にしたんだろうか。大人しく家にまで来てる辺り何も言ってない気がする。それでは詐欺というものだ。跡取りとして自分が説明責任を果たさねばなるまい。


 軽くノックをして中の女性の許可を待つ。来たばかりで侍女の一人もいないのが幸いだった。聞かれたい話ではないからな。


「え、もう夕飯来たの? はい、どうぞ」


 エクトルはカチャリとドアを開け、中の女性を見て思わず絶句した。

 教科書の挿絵。あの聖女の絵と瓜二つだった。エクトルの体温が急上昇する。


「あれ、侍女さんじゃないの? どちらさま?」

「え、あ、ぼ、僕、は……」


 初恋の女性に生き写しな姿を見て動揺するエクトルを前に、ラナははて誰だろうかと考えて思い当たる人間が一人しかいないことに気づいた。

 この家の中を自由に歩き回れて、ここに入るまでにも誰も止められない人間。もしかして義理の息子になる人じゃ?


「あの、もしかして次期後継者の方ですか?」

「……! は、はい。あ、エクトルと申します」

「エクトルさんと仰るのね。私はラナ。今日からよろしくお願いします」


 ラナはとりあえず当たり障りない挨拶をしたが、エクトルは気が気でなかった。何でこの人挿絵にここまでそっくりなうえに名前まで同じ? 義父がそこまでこだわってそっくりな人を愛人にしたのだろか? それとも……まさか本物?


「聖女と、同じ名前なんですね」


 エクトルはひとまずかまをかけた。ラナは咄嗟に言葉の裏を読んだ。

 ただ挨拶だけしに新婚の花嫁の部屋に一人で来るとか有り得ないよね。そもそもファブリス、息子はこの結婚に納得してない的なこと言ってたし。もしかしなくても結婚やめろって言いに来たんだろうか。

 それは困る。あの村に戻りたくない。折角結婚を喜んでいる両親に心配もかけたくない。

 なら合意してもらうためにはどうするか? ……やっぱり聖女の名前を持ち出すしかないんじゃ。後になって「実は生きてた聖女でーす」 ってやられても困るだろうし。困ったことになったらお願いね女神様!


「本人ですよ、と言ったら?」

「……まさか、本当に?」

「どうしようかな。どうしたら本人って分かります?」


 からかうように言ってみたが、ラナ自身も困っていた。自分が聖女である証拠を相手に聞いてどうするのか。でも昔から自分で証明することも出来なかった聖女なんだよ。しかし相手のほうが都合よく解釈してくれた。


「……聖女ラナについては、詳しい記録が残っております。悲劇を忘れないためという名目で。その記録によると、彼女は首の後ろに三つ並んだほくろがあると……」


 自分では確かめようもない場所だった。仕方なく後ろを向いて髪をかき上げ「これで見えます?」 と聞いた。

 結果、容体を書き記した絵と全く同じ場所に同じほくろがあった。自分で捏造するのは不可能だし、義父がそうするメリットもない。やはり、彼女は……。

「ラナ様……」

 恋した相手が目の前にいる。が、頭の冷静な部分が問いかけてくる。

 本物ならなんで公式的には死んだことになっているんだ。どうして今頃義父のもとに現れたんだ。

 だがそんなことはどうでもいい。ラナの両手を取って握りしめた。


「あ、あの?」

「父上と僕だったら僕のほうが貴方と年齢も近い」

 四人組の中で一番年長だったファブリスは今年で31、ラナは22、エクトルは18だ。

「どういう経緯で貴方を引き取ったのか分かりませんが、まだ正式に結婚した訳ではないのでしょう? なら僕と結婚してください!」


 ラナは数秒固まった。だが村でそれなりに大切にされて自己肯定感も上がったし、人付き合いで何を優先するかくらいは考えられる。以前のように人の言うままにはならないし、もうなれない。 


「私、貴方のこと何も知らないし突然そんなこと言われても」

「僕は知っています! 貴方のことは教科書にも載ってるし、その、義父を酔わせて何度も当時の話を聞いたんです。気の毒で、可哀想で……自分がいたら決して不幸にはさせないのにと何度思ったか」


 たらればなんて意味がない。それに当時のことは冷遇四人組だけでなく聖女本人も黒歴史なのだが。それを掘り返すってなんだかなあ。ラナはじっと目の前の男を見た。

 若い。ファブリスは大人の色気があるが、エクトルの瑞々しい若葉のような爽やかな美貌はこちらの方が好きという人も多いだろう。

 美貌……そう。思えばあの旅だって美貌に惑わされたことから悲劇が始まった。

 男は基本信用していない。すぐ色香に引っ掛かる。エクトルも憧れていた存在に初めて会ってテンション高いけど、数年もすれば私のほうが年上だと気づくだろう。いやそれよりも数日で私が大層な性格などしていないと気づくはず。そうなったら若くて綺麗な女のほうがマシって思うかも。もうそういうのは本当に嫌。跡取りの奥さんは魅力的な響きだけど、一生つかまえておける自信なんかない。それだったら一生年下でいられるファブリスがいい。


「私はファブリスと婚姻するためにここに来ました。……何も聞かなかったことにしますから、どうかお戻りください」


 これで諦めてくれるだろうかと思ったラナだが、エクトルは包み込むように握っていたラナの手を一旦解放し、そのまま離れようとしたラナの手首を折れんばかりに掴んだ。


「うっ……!」

 痛みで呻くラナを気にする様子もなく、エクトルは言いたいことを言う。

「どうして! あの男は屑だ! 聖女に相応しくない男だ! どうせ貴方を見つけた義父が無理矢理ここに連れてきたんでしょう? いまだに独り身の義父を優しい貴方は見捨てられなかった。そういうことなんでしょう?」

「違います!」

「嘘だ! 貴方は騙されているんだ、虐待されて正しい物の見方が分からないんだ、ここから出ましょう!」


 引きずられるように部屋の扉に歩かされる。何で来て早々こんな目に、とラナは嘆いた。思っていたよりも聖女の名前は強いのか。いまだに可哀想な聖女の幻想を見るほどに。

 だがどこかへ連れていかれる前に助けが現れた。


「ラナ様!」


 ファブリスの秘書、コンスタンが飛び込んで来た。後ろに怯える侍女の姿があったから、その子が伝えてくれたんだろう。

 コンスタンは体術の心得でもあるのか、あっという間にエクトルをラナから引き離した。距離を取れてラナは安堵の溜息をもらしたが、手首には生々しい痕が残っていた。そのラナを庇うように、コンスタンはエクトルの前に立つ。


「エクトル様、父の奥方に一体何をしようとしていたのですか!」

「奥方? ふざけるな。あの男にラナ様は相応しくない。僕のほうがよほど相応しい!」

「それはラナ様が決めることです。ラナ様はどう見ても了承していない様子でしたが」

「またあの男が暴力で黙らせたんだろう。あいつは前科者だ。だから僕が保護しようと……」

「いい加減にしてください! 聖女の件で義父を嫌うのは許せても、今現在のラナ様まで巻き込むというなら貴方は廃嫡されても文句は言えません!」

「今更他の養子を迎えられるとでも?」


 家庭の事情を知らないから下手に口を挟めずどうすることも出来ないまま震えるラナに、やっと救世主が現れた。


「ラナ!? エクトル! これはどういうことだ!」


 仕事を終えたファブリスが世話役の侍女を伴って現れたのだが、侍女は次期当主と現当主の異様な雰囲気に困惑して中には入ってこなかった。

 親子で大喧嘩したらどうしようと思っていたラナだが、エクトルは予想に反してにっこりしながらファブリスに話しかけた。


「父上。ありがとうございます」

「は?」

「僕の正妻を連れてきてくれたんでしょう? 聖女だったラナ様を」


 ラナもコンスタンも開いた口がふさがらなかった。


「何を……ラナは俺の妻になる女性だ」

「息子とそう変わらない年の妻をですか? 世間体が悪い。貴方にはいまだに敵も多いというのにラナ様を巻き込むのですか?」


 不敵な笑みを浮かべて言うエクトルに、コンスタンが呆れたように「こういう時だけ息子面するんですね」 と言ったのがラナの耳に入った。ファブリス達の耳にも入っているだろうに、彼らはそれどころじゃないのか最初からそういうものだと割り切ってるのか気にもしない。……エクトルが普段がどういう風にファブリスに接しているのか想像がつく。


「俺の決断をお前にとやかく言われたくないな。お前が俺の指図を一切受けないように」

「なんと大人げない。そういう子供じみた屁理屈でまた聖女を騙したのですか? 以前も王都から離れるまでは聖女の扱いをしてたといいますからね。本当、馬鹿は何度でも同じことをする」

「……いい加減にしろ!」

「ほら、都合が悪くなるとすぐ怒鳴る。ラナ様、本当にこの男と婚姻なさるおつもりなんですか?」


 最初からファブリスは信頼してない。金だけの関係だ。それにファブリスが問題だからってエクトルが問題無しって訳じゃない。喧嘩するとこうやって過去を持ち出して理詰めで追い詰めるのか。ねちっこいな。普通に結婚したくないです。……とぶちまけられたらどれほど楽か。

 結婚は双方認め合って行うもの。ファブリスはエクトルに現状言い返すこともできず困っている。ファブリスが解決できないならもうここは自分が引導を渡すしかない。


「私はファブリス様と結婚します。何度も言わせないで。大体貴方さっきから何なの。私のためにやってるつもりなの? 私のす、好きな人を傷つけるようなことを平気で言う人なんか大っ嫌いよ!」


 致命的な一言をくらったエクトルから一切の生気が抜けた。膝から崩れ落ちた彼をコンスタンが引っ張り上げて立たせ、部屋から退出させる。

 室内はファブリスとラナの二人きりになった。


「ラナ、あの……」

「……」


 気まずい。ああ言わないと場が収まらなかったとはいえ、「好き」 かあ。心にもないことをよく言えたな自分も。許されたがってるファブリスは大喜びするんだろうか。


「分かってるから」

「え?」

「好意があると明確にしないとエクトルを納得させられなかった。そういうことだろう」

「……うん」

「君に助けられたな。同じ失態は二度と繰り返さないよ。……エクトルと不仲になったのは俺のせいだが、そう思って甘やかしすぎた。新しく養子を迎える必要があるな。しばらくここには来られないが、警備を厳重にするよう言っておくから」

「えっと、うん……」


 どう考えても一つの家庭を壊した。何を言っていいか分からなくて適当な返事ばかりになってしまう。そうこうしているうちにファブリスが部屋を出ていこうとした。


「好きだって、言ってくれて嬉しかった」



 扉が閉められる音がした。さっきの今だから内側からちゃんと鍵をかける。

 色々ありすぎて疲れた身体をベッドにダイブさせた。ものともしない柔らかさが心地いい。

 目を閉じて考える。


 旅の間、ずっとずっといつか彼らから好意を向けられる日が来ると思っていた。それが仕事をちゃんと務め終えた人への感謝程度でも良かった。

 結局また日本に戻るまではずっと憎悪を向けられて、またこの世界に来たと思ったら罪悪感をぶつけられて。私は負の感情しか向けられない人間なんだと悲しかった。それが今、初めて好意に好意で返された。

 

 目から涙が零れる。やっと、旅の苦労が少しだけ報われた気がした。

 でもファブリスに恋愛感情は無い。今のところ。彼の前で油断している自分が想像できない。

 そう思っていたのに、その夜見た夢はお互いが幸せそうにキスしている夢だった。


 そして何年もずっと後のこと、あれが正夢だったとラナは気づいた。

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