クレマン
ラナが女神の懇願で山奥の村に住むようになってから数か月後。
王都ではクレマンが聖女を冷遇したうえその寿命を縮めたとして、一般人に混じって社会奉仕を強いられていた。しかし本人はむしろやる気に溢れている。配属された場所が戸籍を管理する部署だったのだ。
女神は落ち込む三人を見て『実は死んでいない。どこにいるかは教えないが』 と言った。つまりこの世界のどこかにラナがいるのだ。探すのに戸籍係は手っ取り早かった。
そうはいっても過去の書類も含めて何百何億という数がある。毎日書類とのにらめっこ状態だ。それでもいつかは見つけてみせるという信念が今のクレマンの生きる支えだった。
そんなクレマンが、ある資料を見て違和を感じた。王都から馬車でひと月はかかる距離の山奥の村。そこの村長夫妻と一人娘ラナ。ラナという名前は特に珍しくはない。だが聖女と同じ名前というのもあって妙に気にかかった。さっそく過去の戸籍を引っ張り出す。
一年前。同じく村長夫妻の下にラナの名前がある。
二年前。一年前と変わらない。
三年前。異常は無い。
四年前。全く同じ。
だがクレマンの手は止まらない。過去の戸籍を次々漁り、十年前まで遡った。
――すると、村長夫妻は子ども無しとの記載がされた戸籍が見つかった。この「ラナ」 の年齢は16歳。聖女だったラナも16歳だった。正真正銘この世界の人間なら16年前までは戸籍があるはずなのに、10年遡るとなぜか無い。決定的だった。
このラナが聖女のラナだ。どういう手段を使ったか知らないが――いや、大方女神の仕業だろう。ラナのために戸籍を偽造したはいいが、16年ぶん偽造するのを怠った。
だが今は感謝しよう。これでラナを迎えに行ける!
クレマンは急いで上司に休暇の申請をした。その上司とは――。
マルセル・フォートリエ。この国の若き宰相兼クレマンの監視役だ。実は聖女ラナとも顔を合わせたことがある。最初は聖女の出迎えと旅のお見送りを。そして二回目はボロボロになって帰ってきたラナの出迎えに。あまりの悪臭に思わず鼻をつまんだあの宰相だ。あの時はともかく女神復活を急いだために、聖女の異変を知っていながら事情聴取を後回しにして取り返しがつかなくなった。そのことを今も悔やんでいる。
「休暇? 貴方が?」
マルセルはクレマンに不審な目を向けた。一見すると仕事命な人間に思えるほど、クレマンは戸籍の整理にひたすら実直だった。それ以外興味が無いかのように。なのに、突然の休暇、ねえ。
「……何か不都合が?」
「いえ。そうですね。分かりました。ただこの時期は他の人も休暇を取っておりますので。貴方は後回しになりますね」
「そんな! 俺は正直今すぐでも……」
「何か」
「……いや、何でもない……」
マルセルがひと睨みするとクレマンは何も言わなくなった。聖女を冷遇した人間に貴族全てが軽蔑の目を向けていた。マルセルも例外ではない。一応は人並みに扱うものの、所々で思い知らせるように雑に扱う。そういう訳で一刻も早く休暇を取りたいクレマンの要望は後回しとなった。とぼとぼとその日の帰途につく。
そんなクレマンをよそに、マルセルは上司権限で翌日から休暇に入った。目指すは……クレマンがずっと弄っていた戸籍に書かれていた山奥の村。
おかしいと思ったのだ。あのクレマンが、聖女冷遇の件を責められてから人が変わったように真面目になった第一王子が休暇を取りたいと言い出すのは。休憩中にクレマンが触っていた資料を手に取り確認する。山奥の村の戸籍。村長夫妻の娘ラナ。
ピンと来た。クレマンは聖女と結婚するつもりだったというのは貴族社会では有名な話だ。それが叶わなかったからずっと贖罪に追われていることも。もしラナが生きていたなら、あいつはどんな手を使ってでもラナと結婚するだろう。元々が虚栄心と自己顕示欲と承認欲求の塊みたいな男だ。今の状況に納得しているはずがない。そして王家。王としては旅のメンバーは当代最高峰の男達を選んでいるから可能な限りその中の男と婚姻してほしいと思っているはず。そうすれば冷遇するような人間を聖女につけたという自分の失態も有耶無耶になるのだから。屑め。
それに回復に向かっていたはずの聖女の突然の死。かねてからマルセルはこれに疑いを持っていた。
マルセルは相手の身になって考えられる人間だった。だからこう推測した。
『自分を虐待した人間と結婚しないといけないのだったら死ぬか逃げるかするだろう。死の偽装くらい女神なら簡単だ。聖女はもしかしたらどこかでひっそり生きているのかも』
けれどろくに話すこともなかったマルセルでは彼女の行き先が分からない。想像もつかない。もし予想がつく人間がいたとしたら……。
そう思って、マルセルはクレマンの監視役に望んで着いたのだ。もしかしたら本当に死んでいて、自分のやっていることはただ憎い相手を毎日見るだけのストレスフルな行動なだけかもしれないが。
だが賭けに勝った。クレマンはどうやら見つけたらしい。先回りして山奥の村とやらに急ぐ。
哀れな少女。思えばボロボロの状態で現れた時点ですぐ治療を受けさせるべきだっただ。しかし慣例に従って女神復活の儀を先に行うことにした。人の心が無いと言われるかもしれないが、聖女を救う前に女神を復活させないと世界ごと滅ぶ可能性があった。だが儀式が終わったらすぐに介抱しようと思っていたのに、クレマンが魔術師に金を渡して異世界に送り返した。復活した女神はまず四人組に怒りをぶつけたが、黙って見ていたこちらにも非はあると言ってきた。「どうして聖女の様子を異常に思わなかった。近くに居ながら何をしていた。お前達は世界を救う恩人を奴隷か何かだと思っていたのか?」 と怒られた。……悔しかった。どう言い訳しようとも、あれほど普通じゃない姿の少女を見て助けるよりも自己保身を優先させたのは間違いない。自分の愚かな判断が悔しかった。
女神が哀れな聖女を再召喚した時、まず今にも死にそうな身体の治療を優先した。それから罪人たる四人組の謝罪がなされた。誰が悪いか民衆にも分かるようはっきりさせるという目的もあるのだろう。そして――ろくに会話も無かった自分は会うことも叶わなかった。ただでさえ弱っている聖女の負担になるという理由で。体調が良くなっているとは聞いていたから安心はしていたのだが。
罪人達は聖女の傍をうろつきながらもしおらしくしているが、女神の遣わした聖女を冷遇するなどと前代未聞のことをしでかす馬鹿だから、そのうちまた手の平を返すのではとしか思えなかった。そんなことになったら聖女が気の毒だ。
そうなったら、自分が彼女の世話をしよう。きっと傷ついている。簡単な会話から始めて、彼女のしたいことを聞いて、仲良くなったなら自分のことも聞いてもらって……要するに仲良くなりたかった。
悲劇の聖女。恋に落ちるには充分な肩書だった。
なのに突然の女神からの死亡報告。
怪しい報告としか思えなかった。そして事実こうしてクレマンが生きていると突き止めた。また冷遇四人組に虐待される前に、今度は自分が助けなければ。
マルセルは早馬を使い一目散に山奥の村に駆けた。本来なら重要な伝令に使う馬だが事情が事情だ。だがそのかいあってラナに会うことが出来た。
◇
ラナは満ち足りた生活を送っていた。
優しい両親。温かなご飯。村のどこへ行っても皆が微笑んでくれる。地球に居た頃からどれほどこんな生活に憧れていただろう。夢見ていたことが全部叶ったなあと思って、ふと一つだけ叶っていないと気づく。
いつか王子様が現れて、恋に落ちる。そして幸せになる。ライトノベルを読み漁っていた頃からの夢。
――有り得ない。
ラナは昔の夢に夢見る乙女心を一蹴した。
王子様だって一人の人間。身分が高貴っていうなら選ぶ権利は向こうにある。こんな自分を好いてくれる王子様なんて最初からいなかった。
だから今は――王子様なんて身分じゃなくても、自分を一人の人間として尊重してくれる人がいたらその人と結婚したいなとぼんやり思っていた。
そう考えていたある日、親友のアメリーと一緒に山で薬草やら山菜やらを採って家に戻ったラナを、両親は慌てた様子で出迎えた。
「王都から人が来ている。どうも貴族のようだ。ラナに会わせてほしいと言っているが、行儀見習い時代の知り合いか?」
ラナは生まれも育ちも地球の日本だが、女神の力で最初からこの村の人間ということになっている。おかしな部分は一時期王都の貴族の家に行儀見習いに出てそこで虐待されたから、と辻褄合わせがされている。
だから行儀見習い時代の知り合いなんて存在しないのだが、王都から来て自分を知っている人間となると……聖女ラナだった時の知り合いか? でも死んだことになっているはず。何かのはずみで生きていたと知られても、ただの一般人になった聖女に用があるとは思えないのだが。
会いたくないというのが本音だが……無視、は貴族相手には無礼になるだろうな。下手なことして罪の無いこの村の人達が巻き込まれるのは絶対に避けたい。貴族という時点で会わないという選択肢は無かった。
いざとなったら女神を頼ることも視野にいれ、ラナはおそるおそる客間にいる王都から来た人間とやらを訪ねる。
「ラナ様……」
ラナは一瞬誰か分からなかった。だが見覚えは確かにある。誰だっけ。ええと、そういえば旅から戻った時に、鼻を抑えられた人がいたような……。あの時の私は本当に酷かったからな。しかし誰か分かっても名前を元から知らない。
「あの、お名前、よろしいですか?」
「あ、これは失礼。マルセル・フォートリエと申します。この国の宰相をやっています。一応ね」
「旅から帰ってきた時に王都でお会いしましたよね? あの時は酷い姿ですみませんでした」
「どうか謝らないでください。聖女を風呂にもいれないあいつらが畜生の極みだったんです。貴方は悪くない」
王都での出来事も知っている。変な人に雇われてということも無いっぽい。それにマルセルがクレマン達に怒っている様子を見るに、ラナに何か不満があって、という訳ではないらしい。ラナはちょっとホッとした。そしてすぐ後悔した。人が罵倒されてるのを喜ぶなんて、自分も嫌な人間になったなあと。それは心が死んでいた旅の間やその直後と違って順調に回復したという証拠なのだが、マルセルはラナの曇った表情を見てやはり四人組がまだ怖いのだろうと勘違いした。
「申し訳ありません。あいつらの話題なんて聞きたくもないですよね。ですがそうも言っていられないのです。ラナ様、一刻も早くここからお逃げください。クレマンが迫っています」
クレマン。あの旅のメンバーで一番身分の高かった男。確か第一王子だったと聞くが、世界復興の旅でもないのにこんな田舎まで王子様が来るとは?
「貴方がこの村に居ることに勘付きました」
「そうなんですか? でも私がここにいると解って……どうするつもりなんでしょう?」
謝罪ならとうに受け取っている。公式では死んだ身。セレスティアがいるから想い人ということは絶対に無い。
「ご自分ではお気づきになられていないのでしょうが……聖女という身分は絶対なのです。本来なら女神と同等。聖女と婚姻した者が生まれた順番や生母の身分を越えて次代の王になれるほどに。……あんな目に合わされたから実感が無いのも仕方ないかもしれませんが」
「でも私は死んだことになってるはずでは?」
「その偽装が完璧で無かったようで……。クレマンは戸籍係の仕事をして貴方を探していたようです。十年前まで遡ると貴方の記録が無くなることから気づいたとみられます」
「ええ……生きていると分かったからって何だというんですか……もうほっといてほしい……」
女神のズボラさには呆れたが、それでも普通なら気づくはずもない偽装をしてくれたから、ここはクレマンが一枚上手だったのだろう。でもだからって何で自分に会う必要があるのか。
「聖女の身分を利用したいのでしょう。現状のクレマンは女に騙されて女神の愛し子を陥れたと王に疎ましがられ、廃嫡されたも同然。王位継承権はありません。けれど実は貴方が生きていると民衆に知られ、貴方がクレマンと婚姻すればあいつは王になれる」
「え? でもセレスティアさんは? お二人は愛し合ってしましたよね?」
セレスティア。ラナの脳裏に美貌の女性が浮かぶ。あの女性のために大変な思いをしたが、それだけ彼女に本気だった、と思うことで割り切ることにした。
マルセルは少しの間沈黙した。セレスティアは聖女を虐待したとして幽閉中だ。クレマンは既に見舞いにも行かない。
――でもそんなものご丁寧に教えてやる義理はない。この件でどう面白おかしく言われようが身から出た錆だ。恨むなら聖女を冷遇した愚かな過去の自分を恨むがいい。
「……セレスティア様を正妃に、貴方を側室にするつもりなのでしょう。貴方が了承さえすれば可能です」
「え……」
「馬鹿にしていますよ。貴方が従順な性格だったから今回も許してもらえると思っているのでしょう」
ラナの頭の中でぐるぐるとマルセルの言葉が回っている。
クレマンってそんな人だったっけ? いやでも彼のこと何も知らない。旅の間は一緒の宿に泊まったことすらないし、話すことはセレスティアの自慢話かいかに私の出来が悪いかを一方的に言われるだけ。一応それは謝られたけど、女神に怒られたからとしか思えない。でも、あの件で父王に睨まれてたんだ。それで王様にもなれないって……。旅の間のことを思えば確かに嫌いな女でも王様になるために結婚しそう、かも?
そう考えた瞬間、背筋に悪寒が走った。
そりゃあ、物語みたいに王子様と結婚していつまでも幸せに、なんてもう夢見てないけど、ハーレムの一員にさせられるなんてあんまりすぎる。これが本当の話なら、あの時と同じ、いつまで経っても私のことなんか一人の人間として見ていない。
ラナの目に涙がにじむ。マルセルはそれを見て砂糖のように甘い言葉をかけた。
「僕はクレマンのそんな暴挙を許せなくてここまで来ました。貴方にはあいつに従ってやる義務はありません。あいつはここで静かに暮らしたいという貴方のささやかな願いさえ踏みにじろうとしている。けれど一国の王子に命令されれば地方の村には拒否権がないでしょう。だから」
貴方さえよければ、僕と逃げてください。
ラナはその言葉を聞いてマルセルと会った時を思い出した。悪臭に鼻を抑えながらも、その目はずっと心配そうにこちらを見ていた。女神が復活するまで、この世界に来て一番他人に気にかけてもらった瞬間だったかもしれない。そんな彼と一緒なら、もしかしたら。
◇
マルセルは中々の口達者で、村の人間達にはこう説明した。
ラナが行儀見習いで行っていた貴族の家にはたまたまとある王子が滞在していた。その王子はクレマンといって性悪貴族の見本のような男で、庶民のラナを見るなり軽蔑して虐待した。つまりラナをボロボロにした主犯だ。今にもラナが死にそうになってやっと家の者が慌ててラナを帰郷させた。この時に自分はこの貴族の自宅に立ち寄っており、ボロボロのラナを見て何事かと家の者に聞いて事情を知った。人の上に立つ者がその身分差を利用して罪に問われないことをいいことに庶民を虐待した。これを有耶無耶にしてはならなないと自分は王に訴えたのだが、王は王子にこう言った。「娘に償うように」 おそらく相応の見舞金などを払えという意味だったのだろうが、クレマンは明後日の方向に解釈した。娘と結婚すれば許されるのだと。その頃には罪も無い少女を冷遇したとして降るようにあった婚姻話がパタッと無くなっていたのだからさもありなん。ともあれ、クレマンがそういう考えに至ったのは間違いなく自分も原因だ。せめてラナをクレマンから守りたいのだと、微妙に本当のことも交えた迫真の説明をするものだから皆ころりと信じてしまった。
村の人間の脳裏にはマルセルも見た、ボロボロになったラナの姿が焼き付いている。女神の刷り込みだ。ラナをああなるまで苛めた主犯がやってくるだと? しかも結婚を申し込みに……。人並みの心があったら絶対に了承しないだろう。特にアメリーが怒って「任せて! そんなやつが来たら追い返してやるから!」 と張り切っていた。
こうしてラナの両親、友人、村人、そしてラナ自身からも許可を取り付け、クレマンが来たらこう説明するといいとアドバイスを残し、マルセルはラナを同じ馬に乗せてその日のうちに村を出た。クレマンに会わせないためにはひたすら急ぐしかないのだ。
「でも、この先どうするのですか? 私は聖女といえば聖女だけど、何も取り柄がなくて……」
「ご安心を。こんなこともあろうかと少し戸籍をいじってあるんです。親戚の伯爵家に貴方と同い年の娘を亡くした方がいましてね。戸籍上ではまだ生きていることになっているんです。王都からもほどよく離れていて羊毛業で裕福、当主も善良だ。きっと貴方の力になってくれます」
そんな会話を交わしながら、その日は人目につかない夜のうちに馬で駆けた。明るくなると移動手段を変え、中が見えない馬車を使って目的地に急ぐ。ラナはふと、女神復活のための旅を思い出した。……着の身着のままで来ちゃったけど、食事や服、お風呂とかはどうなるんだろう。緊急事態だしあの旅の時と同じかな?
丸一日、ひたすらマルセルの指示に従って移動した。そして夜になると馬車は高級そうな宿に止まった。
「この界隈で一番評判の良い宿です。さあどうぞ」
馬車から降りる時にマルセルはレディーにするように手を差し伸べた。ラナはふとあの冷遇された旅を思い出す。
初日、皆が宿に泊まると言うから当然のように自分も泊まるのだろうとついて行こうとしたら「自分も泊まる気な人間がいるようで。嫌だわ馬の骨の自覚がないって」 とセレスティアが言って、男三人はどっと笑った。何事かとやってきた宿の支配人に「あれはずっとついてきてる乞食だ」 と説明され追い払われた。それからずっと一人だけ野宿だった。……あの時ですら一応は聖女だったのに、今はただの村娘となった自分がこんな高そうな宿泊施設に……?
「あの、こんな立派な宿に本当に私なんかが泊まってもいいのでしょうか」
マルセルは泣きそうな顔をしたあと、怒りをこらえるような表情になった。
「……本当に、あの屑どもは。百回死んでも許せないな」
「え?」
「何でもありません。ラナ様。ラナ様は立派な宿と仰いますが、本当ならもっと高級な宿のほうが貴方にはふさわしい。……本来そういうお立場で、そういう生活を謳歌しているはずだったんですよ」
「は、はあ。どうも実感もてなくて。ごめんなさい」
「……遅くなる前に宿帳に記入しないと。ラナ様はこちらの文字は書けないでしょう? 僕に任せてくださいね」
マルセルに連れられて宿屋に入る。一時期居た王宮ほどではないが、田舎の村と違いどこもかしこも綺麗で、何となく自分がここに居てはいけない気になるのは、あの旅がまだトラウマだからなのだろうか。
ラナが居心地が悪そうにしている間、マルセルは淡々と記帳していた。聖女をお待たせする訳にはいかない。
飛び込み客は簡単なプロフィールを書く必要があるが、クレマンに目をつけられないためにも全て偽名だ。適当な名前を書き、男女二人で一番怪しまれない関係を記入する。『夫婦』 金持ち夫婦の気ままな旅行だと思われるように部屋は一番良いものを要求した。記入が終わるとスタッフは相応の部屋の鍵を渡した。
鍵を持ってラナに目を向けると、彼女は本来ここにいる誰よりも偉そうにする権利があるというのに、身を固くして建物の隅っこで縮こまってた。哀れさと、彼女にそこまで消えない傷を残した四人組に怒りが湧く。
「申し訳ありません。クレマンの目を欺くためにも夫婦と登録せざるをえませんでした」
それを聞いたラナはポッと顔を朱に染めた。嫌でしたか、とマルセルが聞くととんでもないですと返ってきた。
「人の目がつきにくい離れを借りられました。今夜はそこで旅の疲れを癒しましょう」
照れたままこくこくと頷くラナに愛おしさがこみあげる。また手を取り、二人で離れまで歩いた。
◇
聖女の存在はこの世界の誰もが知っている。女神復活の鍵。世界再生の礎。翼のない天使。過去の詩人は聖女をそう歌ってきた。
宰相として物事の裏表を考えるようになるまでは、聖女という存在に純粋な憧れがあった。聖女に好かれたらきっと嬉しいだろうなとか、旅の同行者に選ばれれば聖女の夫になれるのだろうかとか。
結果、机仕事が主で体力に難のあるマルセルは選ばれずに王都に残った。だがその頃には聖女を世界再構築のための歯車の一環として考えるようになっていたからどうとも思わなかった。けれど、今は……。
王都に戻ったばかりの頃は四人組のせいで酷いものだったが、すっかり回復した今は、ラナを絶世の美女とまでは思わないが、儚げで可愛い少女だと思う。ふとしたはずみで消えてしまいそうな風情は思わず抱きしめたくなりそうだ。冷遇されていた聖女の存在を知ってから急速に気になり始めたあたり、マルセルはそういう可哀想な少女が好みなのだろう。
だがマルセルは聖女は旅の同行者に選ばれた三人の誰かとくっつくのだろうと思っていた。けれど顔だけの女にたぶらかされた三人は聖女に魅力を感じなかったらしい。節穴だと思う。
ラナがこうしておずおずと握り返す手も、ぎこちないながらも嬉しそうに返される笑みも、物慣れず従順に振る舞う様子も。自分からすればこの上なく可愛い。彼女の本当の王子様になりたいと思うほどに。
マルセルがそうラナのことを考えている時、ラナもラナでマルセルには好印象だった。お世辞にも美少女とも有能ともいえない自分をここまで厚遇してくれるなんて。クレマンのことだって放っておいても自分は死んだことになっているのだから罪にならなかったのに、気の毒だからと助けに来てくれた。義理堅い人なのだろうか。
王子様とは身分のことだけを指すのではない。女の子にとって恋した男の人は皆王子様だ。特に世間知らずなラナのような子供はそう考える。
ラナは、マルセル様は物語に出てくる王子様みたいだと思い始めていた。
◇
その頃、地位と権力をフルに使ってやっとクレマンはラナのいた山奥の村にたどり着いていた。そう、地位と権力を使ってもマルセルに大きく後れを取っていた。聖女冷遇四人組の一人として貴族社会に知られている以上、全盛期には遠く及ばず、廃嫡寸前の王子でも売れる恩は売っておこうという低俗な連中しか集まらなかったのだ。馬車も案内人も護衛も。案の定というか、村につくなりそのあからさまに怪しい風貌を警戒される羽目になった。
「王族……? そんな方が一体我が村に何の御用があ有りで?」
村長も警戒心を隠さずに接してくる。葬儀の最中なのかなんなのか、村人は一様に真っ黒な服を着ていた。雰囲気といい態度といい威圧感を覚える。だがそれでもここにラナがいるなら絶対に諦めない。
「村長、貴方にはラナという娘がいるはずだが」
「……いましたよ」
「その娘に用がある。会わせてほしい」
「それは……」
口ごもる村長に気の短い荒くれ者の護衛が「王族にそんな態度が許されると思ってんのかぁ!?」 とその胸倉をつかみ上げた。こんな三流すぎる護衛にも、それでもそんな人間しか雇えなかった自分にも腹が立つ。
「やめないか! 村人への無礼は許さんぞ!」
クレマンが制止すると護衛は舌打ちしながら村長を離した。村長は咳き込みながらもクレマンに説明した。隠し切れない苛立ちと怒りを滲ませながら。
「娘は先日魔獣に襲われて亡くなりました。だから会わせたくともどうにも出来ないんですよ」
やけに突き放したような言い方をしながら発されたその言葉を聞いて一瞬感じたのは絶望だった。自分は哀れな少女を苛めぬいたあげく、その二度目の死にも立ち会えなかったというのか。
表情が無くなったクレマンを村人はぎょっとしつつも、マルセルから「自分のあとに来る王族がラナを虐待した主犯だ」 と聞いていたため警戒を解かない。だからこそマルセルの指示通りに、ラナの幸せを邪魔しないために死まで偽装したのだ。だが……クレマンがその死を悲しんでいるように見えるのは意外だ。血も涙も無い王族と聞いていたのに。いや、謝罪の機会を永遠に奪われた自分が可哀想と思っているだけなのかも。きっとそうだ。そんな自己中にラナの本当の居所を知られてたまるか。
絶望の中にいたクレマンが違和感に気づいたのは、その村人の態度が原因だった。
何だろう。村人が自分にやたら怒りをぶつけてくるような。この態度はどこかで見たことがある。
あ。旅の間、鏡で何度も見た……。
理解した瞬間、ラナが死んだというのは嘘だと確信した。村人は自分からラナを引き離そうとしている。自分がラナをセレスティアから遠ざけようとしたように。大体女神がすぐ死ぬような場所にラナを送るとは考え難い。だが村人が自分を嫌う原因は? 自分が冷遇四人組の一人だと知った? いや、あれは貴族社会にだけ知られた話。こんな山奥にまで知られているはずがない。だが実際に憎まれている。――誰かが裏で糸を引いている?
「……そうか、ご息女はお亡くなりになられていたか」
「え、ええ」
急にまともな貴族のように振る舞うクレマンに動揺しつつ、村長は返事をする。クレマンは村長からなんとかラナのヒントを得ようと会話を続ける。
「ご息女の葬儀はもう終わっているのだろうか」
「はい。数日前に……」
「そうか。……村長の娘だからだろうが、村人が一様に喪服を着て……どれほど愛されていたのだろうな」
「もったいないお言葉でございます」
「恋人の一人くらいは居たんじゃないか? 彼女のためなら何でもするというような……」
一瞬、村長が動揺した。――誰か知らないが、どこぞの男が彼女の逃亡を手引きした。そういうことだろう。死んだと偽装してまで逃亡するなんてずいぶん大がかりだ。
「……娘は人見知りなところがありましたからね。そんな相手はいませんよ」
「こんな人の好さそうな人間しかいなそうな村にもそんな少女がいるのか」
「……うちの娘は、少しだけ人と違っているんです」
そうだらだらとクレマンが村長と話している間、護衛はすっかり待ちくたびれていた。そして暇つぶしに近くに居た少女に突っかかる。差別意識が強い人間なのでどう扱ってもいいと思っていたのだ。
「なんだよなんだよ。こちとら暇でもねーのにこんな山奥来てやったのに! おいそこの女! 本当に探してる女はいないのかよ! 嘘言うと承知しねーぞ!」
少女の手首をつかんで乱暴に村人達の中から引きずり出す。それはアメリーだった。
「痛い! 何すんのよこのハゲ!」
友達のラナを虐待した主犯と聞いて義憤に駆られていたアメリーは、筋肉達磨のような男に捕まっても臆さず悪口を言う。
「ハ……!? てめえ女だと思って調子乗ってんじゃねーぞ!」
既にその兆候が見える頭皮を気にしていた護衛はアメリ―の腕をねじるように乱暴した。アメリーは目に涙をにじませながらも、ボロボロだったラナの姿を思い出して決して屈しようとしなかった。
「……っ! 殺すなら殺しなさいよ! 絶対ラナのことは言わないから!」
「おいやめろ! 今すぐその少女を離さないと首にするぞ!」
雇い主がそういうものだから護衛はしぶしぶとアメリーを離した。クレマンは部下の非礼を詫びる。
「すまない。部下がとんだ無礼をした」
「……そう思うなら早めに帰ってくれると助かるんですけど」
腕を抑えて痛みをこらえながらもそう憎まれ口を叩くアメリーを見て、ラナはこの村で良い友人に恵まれていたのだとクレマンは少しホッとした。
「そうだな。ラナもいないし本日中に帰るつもり」
護衛達を連れて村から出ていく。クレマンは去り際に振り返って村を見た。
『絶対ラナのことは言わないから』
おかしな話だ。死んだのだから言うも言わないもないだろうに。ラナは生きてここではないどこかにいる。それが分かっても、今はこれ以上どうすることも出来ない。少女ですらあのような態度を取るのであれば、誰も本当のことは口にしないだろう。それにラナが心地よく過ごしたであろう村でこれ以上嫌われるのは避けたかった。あとはもう、地道に痕跡を探すしか……。
◇
クレマンが村から追い返されるように出ていった頃、ラナは高級宿で贅沢をしていた。マルセルが取った部屋は離れというがまるで一軒家。しかも露天風呂つき。食事は人目を避けるために部屋に持ってこさせるという至れり尽くせりぶりだ。唯一の難点はよく知らない人と二人きりという点だが、マルセルは紳士的で鍵付きの部屋に案内して内側から鍵をかけて眠るようにと言ってくれた。
先程から胸のときめきがおさまらない。マルセルはあの三人ほどではないが綺麗な男性だった。そんな人にこうまで優しくされたら好きにならずにいられないではないか。
いやいや、彼は優しいから義侠心で自分を助けてくれるんだ。勘違いしてはいけない。……彼だって、セレスティアさんみたいに綺麗な女性のほうが好きだろう。綺麗でも有能でもない自分はひたすら他人の迷惑にならないように生きなければ。
ラナがそんな風に戸惑っている間、マルセルはマルセルでこうまで全てが上手くいった事実に酔いしれていた。冷遇四人組に自尊心をボコボコに折られ、今はちょっとしたことでも感動するし喜ぶし好きになるラナの心が手に取るように分かる。それが分かってわざと良い宿を取り紳士的に振る舞い贅沢を与える。ラナはそれらに裏があることを知らない。
一度贅沢を覚えたら元の生活水準には戻れまい。そうしたら村を捨てた以上、自分に縋るしかなくなる。
他の人間を避けるのはクレマンに会わせないためではあるが、それ以上に自分以外の人間を視界にいれてほしくないという独占欲がある。
聖女でない貴方がいいとは一言も言っていない。――自分だって人並みの人間だ。彼女と婚姻したらクレマン達にばらして鼻を明かしてやりたい。真面目さしか取り柄がないと言われている自分が聖女と結婚したのだと周囲をあっと言わせたい。結婚するくらいの間柄になったなら正体を明かすことくらい了承するだろう。
そんな内情を知らずにラナは自分を好きになりつつある。
ふとマルセルは思った。女神はこの状況を止めないのだろうか? ……止めないというなら、このまま聖女を自分のところに留めおくが、それを許可したということでいいんだな?
――当の女神はラナが村から出ていったことを知っていたが、ラナ自身がクレマンに会いたくないと思っているし、マルセルに惹かれ始めている。これで色々言うほど女神も野暮ではない。マルセルが可哀想な少女萌えの性癖なのは確かなようだから、まあ彼によって幸せになるのも有りかな? と女神は考えた。問題は一人貧乏くじを引いたようなクレマンだが、聖女を冷遇した罰と思えばまだ軽いほうだろう。クレマンが死にそうになったらまた考える、と女神は現状維持の方針を固めた。
◇
マルセルによって連れてこられた伯爵家は、彼の一族の本家で今は伯母が継いだ家らしい。建物は立派だし着ている物も庶民が着ることのないひらひらドレスであるが、良い意味で庶民的な人達だった。
王都から町一つ離れた大きめの村にその伯爵領はあった。牧畜を営んでおり、羊の肉を売ったり毛皮を被服工房に卸したりしてかなり財政は豊からしい。村民とも距離が近く、マルセルの叔母は親しみのある領主様として通っていた。
「まあいらっしゃい。マルセルったら随分大きくなったわね。前に会った時はこんな小さかったのに」
「会う度同じこと言わないでくださいよ、伯母上」
普通、貴族はこんなあけすけに話をしない。いつも婉曲的に物事を言うし、話の裏をしっかり読まないと田舎者と見下される。王都で見た貴族はラナの知る限りそんな感じだった。このマルセルの叔母さまはそんな風でもなく、気さくで優しそうだなとラナは思った。
「あら失礼。甥っ子との再会に夢中になってこんな可愛らしいお嬢さんを忘れるなんて。初めまして。私はベレニス・カントルーヴ。ここの女領主をしているわ」
優雅なカーテシーで挨拶され、慌ててラナもそれらしく返す。ここに来る前に大人気の店でオーダーメイドで作ってもらったドレスを着ていると、まるで自分も貴族の一員になった気がしてくる。
「は、初めまして。私はラナと申します。領主様。以後お見知りおきを」
「まあまあ、嫌だわ。領主様だなんて。マルセルから聞いたのだけれど、貴方が私の娘になってくれる子なのでしょう?」
――そう、それこそがマルセルの目的だった。
そもそも何故彼は親戚の戸籍を弄ったりしたのか?
ベレニスの治める領地は豊かさゆえにそれを狙う不届き者が多かった。数年前一人娘が不自然な事故死を迎えたが、暗殺だったと噂されている。一人娘がいなくなれば遠縁から養子を迎えるしかないが、その候補達は何故か娘が亡くなる前に全員死亡していた。怪しむなという方が無理である。マルセルが協力して犯人達を一網打尽にしたが、亡くなった命が戻る訳でもなく。幼い頃母代わりだったベレニスが夫に申し訳ない、女一人ではこの地を守れないと悲しんでいるのを見かねて戸籍を弄った。一人娘の不自然な死に動転して死亡届を出していないのが幸いだった。自分は聖女以外と結婚する気は無いし、そのうち適当な娘を探してベレニスの所に送ろうと思っていたのだが、ラナが見つかってからはこれこそ女神のご采配としか思えなかった。
「伯母上は気の毒な方で、過去にたった一人の娘を亡くしている。王都から離れているから煩わしい社交も無いし、どうか彼女の娘になってやってくれないだろか」
馬車の中でラナはマルセルからそう頼まれた。可哀想であるし、協力したいのは山々なのだが……。
「貴族って、結婚必須ですよね」
ほんのひと時王都にいただけだが、それでも貴族達はいつも結婚の話ばかりしていた気がする。
「ええ、まあ。でも必要になればまた戸籍を弄って適当な男と白い結婚をしたということにすればいい話です」
「うーん……」
改めて考えると、村を出た瞬間に隠れて暮らすことを義務付けられたのだなあと思ってしまう。隠れるためにはそんな人々を騙すようなこともしないといけない訳で。何となく気が重い。
「安心してください。貴方に不自由な思いはさせません」
「マルセルさん……」
「伯母を助けると思ってどうか。一人娘が死んだと分かれば家門断絶の危機なのです。それに新しい領主をどうするかで領地はまた荒れる。何より、貴方に不自由も危険も無く過ごしてもらうには伯母のところほど安全な場所はありません」
そうだ、このままではクレマン達に嗅ぎ付けられる。ラナは折れるしかなかった。
◇
危惧していたほど伯爵領の生活は窮屈なものではなかった。マルセルの伯母は穏やかでゆったりした人で、日本の学校のように家庭教師から学ぶ時間を与えられたが、それさえきちんと受ければあとは自由なのだ。領地で羊と戯れたり人気の店から流行りのドレスを持って来させて着せ替え人形になったり、休日には近辺の史跡を訪ねたり。
ラナは先日17になった。まだ少女といえる年齢だ。愛らしい動物と触れ合ったり美しいドレスに目を輝かせたり、見知らぬ土地をあちこち歩き回ったり。楽しくないはずがない。山奥の温泉くらいしかなかった村と違って華やかな生活。ベレニスの穏やかな気性もあって、ラナは徐々に明るくなっていった。
ただ、時々考えるのは結婚について。これだけ贅沢させてもらっているのだから多少のことでは文句は言わないつもりだけど、ベレニス様はどう考えているのだろう。
「ラナが気にすることではないわ。全てマルセルが何とかしてくれるから」
そういうものなのだろうか。あまりうるさく聞くのも気が引けてそれで終わった。
ベレニスはラナに優しいが、もちろん下心があってのこと。
過去に実の娘が亡くなった時は家督争いで揉めに揉めた。長女のベレニス、長男のティモテ――マルセルの実父で、早世した。マルセルは母親のほうが身分が高いため、他家の人間となっている。そして末のロラン。このロランが問題で、女癖が悪くそのうえ賭け事に夢中になり度々借金をこさえた。そんな人間が次期当主になれる訳がない。当時の当主である父はロランを勘当し放逐した。しかし執念深いロランは悪事に手を染め暗殺者を雇い候補になりえる親族の男子のみならず、婿入りしていたベレニスの夫も、さらにベレニスの一人娘まで死に追いやった。これは痛手だった。娘は難産で、次の子供は諦めてくださいと医師に言われるほどだったのに。一応甥のマルセルがいるものの、既に伯爵家より格の高い公爵家の跡取りとなっている。成人して子供を養子に貰えば……それまで果たして現役でいられるだろうか。ロランめ、自分が継げない家なら滅びてしまえと思っているのか。甥に泣く泣く頼んで戸籍をそのままにし、ロランが雇った暗殺者達を葬ったが、ロラン自身はどこかへ逃げたきりだ。逃げる前に痛めつけたとは聞いたからそうそう無茶はしないだろうが……。ともかく、自分の代で家門を潰す訳にはいかない。ベレニスは都合のいい娘を探し始めた。甥のマルセルと協力して。そうしていたらマルセルがどうかこの子を匿ってくれと言うではないか。
ベレニスは甥を高く評価していた。ロランとのいざこざを鮮やかに解決してくれたその手際の良さ。若くして宰相に上り詰めた才覚。正直言うと、甥が娘と結婚してくれることをずっと望んでいた。その娘は亡くなるし、甥はどうにも結婚に興味が無さそうだったというのに。
ラナは気づいていないが、マルセルは相当ラナに惚れこんでいる。そんな娘が実の娘と偽ってだが、この家にいる。そしてラナ自身もマルセルに満更でもなさそうなのだ。何よりも、いきなり連れてこられたラナの正体をちょっと探れば、田舎の小娘どころか亡くなったはずの聖女の容貌と完全に一致するではないか。もし正体が世間にバレても聖女の名でどうとでも出来る。なんなら犯罪者達から守った美談に出来る。
家を存続するための素晴らしい手札が手に入ったとベレニスは上機嫌だった。だから大切に大切に扱っている。そんなある日、さらにベレニスの機嫌が良くなる出来事があった。
「まあ……やっと亡くなったのね、あの女」
この世界でも新聞は発行されている。その日の記事は一面に大きく『稀代の悪女死亡』 とあった。今現在、この世界で悪女といえばセレスティアのことだと代名詞のように扱われている。亡くなった際に部屋ではお菓子が一つ残されていたが、それが食べられないほど弱っていたらしい、悪女は死んでも物を粗末にすると記事は面白おかしく書きたてていた。つられてベレニスも笑う。今や実の娘となったラナを虐待した主犯にやる同情はない。ラナに伝えたらさぞ喜ぶだろうと思ったが、マルセルには彼女が聖女であったという事実は話してもらっていない。まあ、ここは黙っているべきだろうと彼女は何も言わないことにした。その日の新聞は火にくべさせる。今日に限らず新聞はあの聖女冷遇のことをちょくちょく書くからラナには見せない。ラナは綺麗なものだけを見ていればいい。何といっても我が家の大切な切り札なのだから。
◇
ある日、ベレニスの治める伯爵領で不穏な動きがみられた。真っ暗な月も無い夜。二人の男が建物の影できな臭いことをこそこそと話していた。一人は顔に大きな怪我があり、それを黒いフードで隠している。もう一人は体格の良い美丈夫で、どこか騎士然としていた。
「金さえ払えば大抵のことは引き受けると聞いた」
「……まあな。それで、内容は」
「ここの領主のベレニスってやつに娘がいるんだが、そいつは偽者なんだよ。本物は俺がこの手で二階から突き飛ばして死んでるんだ」
美丈夫は一瞬びくりとなった。偽者という言葉には感じるものがあったのだ。フードの男もそれが分かって自分がいかに正当性があるか言い募る。
「本当ならここは俺が治めていたはずなんだ。ベレニスは当主の寵愛をいいことに正当な跡継ぎである俺を追い出した。なあお前はこういう話は許せないだろう? 悪女に騙されて正当なほうを虐げてしまったんだもんなあ? ドミニク」
聖女を冷遇した四人組の一人、騎士のドミニク。実家を勘当され、傭兵として地方を渡り歩いている。生活費は魔獣討伐のようなギルドから依頼される真っ当な仕事の他に、このような裏の仕事も請け負っている。生きるというのは存外金がかかるのだと今更知った。
「ロランといったな。それで、依頼はその娘の暗殺か?」
「話が分かるじゃねえかドミニク。そうだよ、その得体の知れない娘を殺してくれ」
「……あんた、顔に酷い傷があるし、片腕も不自由なんだろう? 何より追放された経緯は俺も聞いたことがある。娘がいなくなったところであんたが領主になれるとは到底思えないが」
「いいんだよ! 俺がもらえない領地なら滅びちまえ! 俺が不幸になるなら全員不幸になればいい!」
ロランの自分勝手さに呆れながらも、金は前払いでそれなりに貰えること、そして娘を亡くして前後不覚だったであろうベレニスの懐に、どういう手段を使ったか突然潜り込んで贅沢し放題という謎の娘に怒りが湧いてこの依頼を引き受けた。正体不明の聖女への不安につけこんだセレスティアを信じて、何も悪くないラナを虐待した過去の自分が被る。セレスティアのような悪女だったら本気で許せないかもしれない。
警備はザルだった。壁をつたって簡単に娘の寝室に潜り込む。窓に鍵はかかっていたが、最小限の音で壊す。部屋の主が起きる気配は無かった。前もって夕食の材料に睡眠が深くなる薬を混ぜていたから。
足音を立てず、慎重にベッドの主に近づく。呑気にも娘は横に来るまで寝息を立てていた。間近まで来たが、頭まで毛布を被っており中の状態がよめない。仕方なく毛布をそっと取る。現れた娘の容姿を見て、ドミニクは絶句した。
ラナはその時夢の中にいたが、ぽかぽかした春の陽気のなかで村の皆とピクニックしていたのに、急に吹雪いてきて撤収騒ぎになった。おかしい、なんで急に寒くなるの、あれ、本当に寒い、寒い……。
パチリとラナの目が開かれた。誰だろう、目の前に誰かがいる。侍女の誰かかな、でもそれにしては……。段々目の焦点が合ってくると、それが誰だったのか気づいてしまった。
この世界に来て、旅の間セレスティアと一緒に苛めてきた男の一人、ドミニク。
咄嗟に大声を出そうとしてドミニクの手が口を塞いだ。
「声を出さないで」
何で夜中にこんなところにいるのか、もしかして聖女の件で本当は恨んでいたとか? 怖くてたまらなくてぶるぶる震える。そこで今着ているものが薄いシュミーズ一枚なのに気づいて更に怖くなる。襲おうと思えば簡単だ。
しかしドミニクにそんなつもりはない。ただ、冷静にラナがどうしてここに居るのか、今は幸せなのか知りたいだけだ。
「何もしない。大丈夫だから」
ドミニクが辛抱強く言い聞かせた。暴れて逆切れされてもまずいと思ったラナは大人しく従う。
「まず……俺はとある人間の依頼でここに来たんだけれど、ラナ様はどうしてここに?」
聞かれたラナもどうしたものかと思う。話せば結構長くなる。昔から国語のテストで要点だけまとめよっていうの苦手だったんだけど、話さないと納得してもらえないかもだし……。色々はしょったりするのは許してほしい。
「クレマンに、追われて……」
「クレマン? あいつ、君がどこにいるのか知ってたのか。俺やファブリスに教えようとしなかったのは……まあ当然か……」
「ドミニクはどうしてここに? 依頼って何? 私が生きてること知ってたの?」
「……君が死んだと聞いた時、俺達の社会的な人生は終わったと思ったよ。落ち込む俺達に女神が生きてると教えてくれた。女神のことは怒らないでほしい、そうしないと俺達は全員後を追ったかもしれない」
全員セレスティアが好きなくせに他の女に殉死するって……この世界そんなに身分制度激しかったっけとラナは疑問に思う。ともかくそれでクレマン達が死んだことになっているはずなのに追ってきたのは分かった。女神に思うところはあるけど、自分の代の聖女召喚は前代未聞のことが多発してたらしいから、まあ仕方ないのかもしれない。あとは……。
「依頼って何? それが理由でここに来たの?」
「……ああ。でももう関係ない。君が完全な無罪と分かったから。それよりクレマンに追われてって、まさかクレマンがここに君を匿っているのか?」
「ええ!? 違う違う。ここにいるのは親切な人が、クレマンがやってくるから逃げろって教えてくれて、その人の好意でここにいるの」
「そうか……」
人一人の戸籍を弄って怪しまれない。それがクレマンではない。ここの領主の親戚を考えると誰なのか察しがつく。マルセルか。女神の叱責を受けてからというもの、聖女を冷遇した四人への敵意を隠そうとしない。噂だが、自分が勘当されたのもマルセルが冷遇四人を執拗に糾弾したからとも聞く。
「あの……」
気がつくとラナがもじもじしていた。そういえば夜中に部屋で男女が二人きりとかまずいなと思った瞬間、彼女がシュミーズ……要するに貴族の下着姿だったのを今更自覚して慌てて離れた。
「す、すまない。だがあと一つだけ聞いてもいいだろうか」
「……何?」
「今、幸せか?」
「……うん」
それを聞いてドミニクは安心した。平民となった自分にはマルセルの庇護下にある彼女をどうこうは出来ないし、考えられない。あとは、何か困ったことがあったらひっそり力を貸すくらいが、過去の罪滅ぼしになる。そう思って去ろうとしたが、ラナが引き留める。夜中にいきなり起こされたこともあって強気だ。
「ちょっと、一人で勝手に納得して帰らないでよ! こっちは聞きたいこと山ほどあるんだから!」
シュミーズ姿のラナに後ろから抱き付かれる。女に縁のない日々を送っているドミニクに布越しに伝わる温かさは色々とやばかった。危険なので慌てて引きはがす。
「頼む! 逃げないから抱き付かないでくれ! ……それで、聞きたいことって?」
「ここにいると王都のこととか昔の知り合いのこととか全然分からないの。ファブリスやクレマンは今何をやっているか分かる? それにセレスティアも……」
ベレニスが情報を遮断するからラナは何も知らない。何かおかしいと思ってもどうにも出来ない。あくまで匿ってもらっている身なのだから。ドミニクは外の世界を知る最後のチャンスかもしれないので逃がす訳にはいかなかった。
「ファブリス? あいつなら大商会の当主だから、相変わらずあちこち飛び回って忙しそうだったよ。……多分、あいつもあいつで君のこと探しているんだろうな。当主のくせにフットワークが軽すぎる」
「探してるって、どうして?」
「……君は被害者だけど、同時に俺達に消えない傷を与えた。多分、全員君無しでは生きられない。生きていても空虚なものになるだけ。ま、自業自得なんだけどな」
ちょっとだけ、ラナは罪悪感を覚えた。けどどうにも出来ない。罪悪感だけで過去にされたことが帳消しにはならない。ドミニクもファブリスもクレマンも、結婚しようと言われたらノーだ。現時点では。
「クレマンは?」
「前に長い休暇を取ってどこぞに出かけたとは聞いたけど、あれはおそらく君が居たところだったんだろう。そして見つけられなかったから、結局元の場所に戻ってまた書類と格闘しているらしい。ここの戸籍がしっかり偽造されてるなら、多分もう見つかる心配はないんじゃないか?」
それならいい。でも、クレマンはもう諦めたのだろうか。私はその程度の存在だったのだろうかとなんだか理不尽な怒りがこみあげてくる。ストーカー男がもう寄ってこない。喜ばしいことなのに、何だろう、腹が立つ。何よ、結局セレスティア一人が奥さんになればいいんじゃない。
「それで、セレスティアはクレマンと結婚したの?」
マルセルからそう聞いていた。クレマンはセレスティアを正妻に、ラナは側室か愛人にするつもりだと。
「え? なんでそこでセレスティア? しかもクレマンとか……」
「??? だって、二人は結婚するんでしょ。そう聞いたけど」
「結婚? 他の誰かと間違えたのではなく、クレマンとセレスティアの二人が? そんな馬鹿な」
話が急に噛みあわなくなる。
はて? 疑問符を飛ばすラナの前で、ドミニクは考え込む仕草をする。世にも気の毒な聖女だったラナを大切に保護するというのなら何も言わないつもりだった。だが、どうもそいつは自分さえ良ければ他人にいくら泥を塗っても構わないと考える人間らしい。
「……誰にそう聞いたかは聞かないが、そんな嘘を言って平然としている人間なら考えものだな」
「え? 嘘ってどういうこと?」
「クレマンなんてセレスティアとは真っ先に縁を切った男だぞ。それに、セレスティはもう……」
「セレスティアさんがどうしたっていうの?」
「先日亡くなった。新聞は朗報のように書いていたよ。俺達の時もそう書かれるんだろうな……。この領地にも同じような新聞が発刊されていたと思ったが、読んでないのか?」
目の前が真っ暗になる。あのセレスティアさんが亡くなった? 新聞に悲報が朗報のように書かれた? いやそれより、その話が本当なら。
「私、騙されてるの?」
ドミニクは何も言わなかった。いや、言えなかった。騙されていても先程ラナは幸せだと言った。単に昔の嫌な出来事を遠ざけていただけかもしれない。……にしては積極的に嘘をついているようだし……。
「ねえ、ドミニク」
不安そうなラナを見ているとこのまま傍に居てやりたい衝動に駆られる。だがそうもいかない。ロランとの契約は夜が明けるまでだ。ラナを殺せなかったことを知ればあいつはどんな手段に出るか。何としても今日中に決着をつけなければならない。
「……すまない。俺は夜が明ける前にしなければいけないことがある。少なくとも君に危害を加える気はないようだし、当分はこのままでも大丈夫だろう」
「でも!」
「貴方が本当に困った時には助ける。それは誓おう」
そう言ってドミニクは風のように去って行ってしまった。残されたラナはただただ嘘をつかれていた事実に悶々としていた。
「遅かったじゃねえか。なんだなんだ? 良い娘だったから殺る前に一発楽しんだのか?」
ドミニクが向かった先にはロランがいた。下卑た笑いを浮かべながらそう言うロランに、ドミニクの決意は固まった。
「そのことで話がある。あの娘のことなんだが、殺したあとに意外なことが分かってな」
「どうした? その辺の乞食の娘だったとかか? ベレニスのクソ姉貴に追い打ちかけられる話なら大歓迎だぜ」
「少し近くに来てくれるか? 大声で言いにくい話でな」
「おう、どんな面白い話……」
ロランが最後まで言葉を紡ぐことは無かった。近づいた一瞬を狙って、ドミニクは小刀を胴体に深々と突き刺した。呻き声のあと、完全に息が止まったのを確認して引き抜いた。
「悪いな。生かしておくとラナ様の障害になる。貰った金は全額寄付させてもらうよ」
ロランは既に死んだことになっている。探す身内もいない。この罪が表沙汰になることは無いだろう。だが勘当されたドミニクはそれが少しだけ哀れな事実に思えて、森の奥に墓を作ってそこに埋めてからクレマンのところに出発した。
戸籍関係の資料と、山奥の村近辺の情報が書かれた書類の中に彼は埋もれていた。
「ドミニク? 一体何の用だ?」
「……ラナのことで、耳に入れておきたいことがある」
◇
数日後、ラナの居る伯爵家にマルセルが訪ねてきた。王都からは距離があるので滅多に来られない。ベレニスと楽しそうに話す姿は仲の良い親族そのもので、裏で嘘を吹き込んでいたようには見えない。その日の夕食会では和やかにしながらも、ラナを囲い込むための話が出た。
「ねえラナちゃん。結婚はしなくていいのって前聞いたわよね? 実はマルセルも王都の貴族から何人もご息女を紹介されて参っているらしいの」
「仕事の集中していたいのに邪魔で困っています」
「それで考えたんだけど、ラナちゃんとマルセル、籍だけでも入れたらどうかしら? マルセルは仕事に集中できるし、ラナちゃんも結婚の心配が無くなってちょうどいいでしょう?」
「え、えっと……」
それが目的なんですか? と言ってしまいそうだった。でも少し前まではそう言われれば大喜びで受け入れただろう。ただ今は……マルセルが怖い。何を考えているのか分からなくて怖い。
「ごめんなさい、話が急すぎたわよね。ラナちゃんだって乙女だものね」
ベレニスは笑って言ったが、目は笑っていないように思うのは気のせいだろうか。
その夜、どうしても真実が知りたくてラナは二人が話している部屋の前に向かう。
「……あんな反応するなんて意外だったわ」
「心の準備というものがあるのでしょう。ラナのいた世界では結婚はもっと後なのが一般的だったようですし」
自分のことを話している。マルセルは自分の事情を考えてくれてるし、やっぱりドミニクのほうが嘘を言ったのかもとラナが思ったその時。
「でも別に事後承諾でも構わないでしょう。ラナには僕の他に頼れる異性がいませんし反対しようがありません」
「そうね。ここまで世話してきたのだから、多少強引でもちゃんと既成事実化しないと」
「籍を入れたら王都にいる使用人に聖女が伯爵領にいたと広めさせましょう。跡取りが次々死ぬ土地ということで下落していたここの価値が跳ねあがります」
「楽しみだわ。本当、聖女様様ね」
「明日にでも夕飯に薬を盛って、寝ているラナから血判を頂くことにします。全く、ここに来て渋られるなんて思わなかったのに」
結婚するなら、自分を尊重してくれる人がいい。それだけでよかった。
マルセルがそういう人だと今の今まで信じていた。だが現実にマルセルはラナを道具のように扱おうとしている。自分の意思を尊重する気など微塵も感じない。
逃げるしかないと思った。
クローゼットの中にある服で一番地味な服をまとって、使用人用の出入り口から逃げ出す。お金は無いが、これでも野宿を何度も経験した。簡単に死にはしないはず。
走りながら、マルセルの裏切りを思い出して涙が零れた。信じていたのに。あの三人とは違う優しい人だって。結局自分は馬鹿だから何度でも騙されるのか。こんな頭の悪い人間のために女神の力は借りれない。
とにかく遠くに逃げようと街まで来たラナが建物の角を曲がった時、何者かがラナを捕まえた。夜盗か何かかと身を固くするラナだったが、月明かりに照らされてその人の姿が分かると、知り合いだったと気づく。
「クレマン……?」
何故ここにいるのだろう。彼はセレスティアが好きで……いや、それは嘘だったんだ。もう何が何だか分からない。
「その、事情はドミニクに聞いた。マルセルが婚姻届を持って伯母のところへ行くと聞いて。幸せらしいなら関わらないほうがいいと思っていたが、ドミニクが、万が一ラナが不幸になったならマルセルに対抗できるのは戸籍改ざんの証拠をつかめるお前だけだと……」
「心配で、来てくれたってこと?」
「あ、その、つきまといに見えたら申し訳ない」
クレマンがやばいと思ってマルセルと逃げたのに、それでも心配して来てくれたのかと思うと、ラナの目からボロボロと涙が流れた。両親も村も捨ててもう自分一人で生きていくしかないと思った。頼れる人なんて誰もいなかった。なのに。
「助けてくれるの?」
「君がそれを望むなら」
◇
ラナは伯爵家には戻らなかった。騙し討ちをするような所に戻る気にはなれなかったのだ。
伯爵家はクレマンの仕業と勘付いて言いがかりをつける等してきたが、クレマンが戸籍問題を問いただすと彼らは押し黙った。結局逃げたラナより家門を守ることを優先したらしい。
数年何事もなく、クレマンは安堵していたのだが、ある日ラナの部屋に行くとマルセルが忍び込んでいるのを目撃してしまった。
「僕の全てが嘘だったと思っているのですか。少なくとも貴方に幸せになってほしい気持ちはあった。そうするのが僕でありたかった。クレマンを必要以上に悪く言ったのが許せない? 犯罪者が後ろ指さされるのは当たり前じゃないですか。濡れ衣着せられても前科があるのだから仕方ないでしょう。あの四人は何をされても黙っているべきだったんだ、屑なんだから!」
その言葉に堂々と反論出来るほど、クレマンは清廉潔白な人間では無かった。あの過去はどうやっても戻らない。ああまで言われたらラナはマルセルと寄りを戻すかもしれない。
しかしパアンと小気味よい音が聞こえた。ラナがマルセルの頬を叩いた音らしい。
「……あの旅の時、私はずっとそう言われていたのよ。お前は悪い人間だから何されても仕方ないんだって。マルセルは、私が差別されるのが嫌で差別するのが好きな人間だとでも思ってるの!? 間違いは誰にでもある。貴方の嘘も魔が差しただけかもしれない。けど私という事例を知ってるのに他人に喜々として濡れ衣着せる人はもう無理なの!」
ほんの少しの間、沈黙が訪れた。だが本当に僅かな間で、図星を言われて逆上したのか最初からそれが目的だったのか、マルセルがラナを無理矢理襲おうとした。屋敷の主として不法侵入者を捕らえる。彼は捕らえられてもずっと焦点の合わない目でラナの名前を呼んでいた。その後、伯爵家は爵位を返上したと聞いた。
その事件の後、ラナはクレマンの庇護下で暮らし、お互い納得のうえで結婚したらしい。式に出席した人によると幸せそうだったという。
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