第31話 16歳の誕生日の朝


 あの大雪が降った日から一週間ほど経ち、天気予報では季節の足音が一歩一歩と春に近づきつつあるとは伝えるものの、今が寒い冬である事には変わりない。そんなわけで今朝も今朝で冷え込みが厳しく、外に出ると耳が痛くなる程には寒い。

「うわー、さぶっ」

 白い息を出して呟くのは、長い金色の髪を後ろにまとめた早川美波。彼女は自宅のあるマンションから一歩足を踏み出すと、その寒さから手袋を着けた両手で自分の両頬を包み込む。

「頑張れ、私!」

 美波は両頬を二回ほど叩くと、そう気合いを入れて最寄りの駅に向けて歩き出す

 自宅から最寄りの駅まではカップラーメンが出来るくらいの時間で着き、そこから鉄道で自宅のある都市部から高校のある郊外の住宅地まで向かう。基本的に登校や帰宅時には人々の流れとは逆なので、幸いにして高校に入学して以来、満員電車とは無縁の生活が送れている。

「今日は香菜とはタイミング合わなかったみたいだな」

 そう呟きながら高校の最寄り駅で下車をする。美波の中学時代からの友人である綾瀬香菜の自宅も、美波が通学で利用するこの路線の沿線にあり、タイミングが合えば二人して通学することがある。

 駅を出て、高校までの通学路を金色の髪を揺らしながら歩いて行く。商店街などがある駅の反対側とは違い、高校のあるこの地域は閑静な住宅街であり、大通り沿いの歩道では通勤などで駅を利用する住民と、高校に向かう高校生が行き交っている様は毎朝の日常光景である。

「おはよー、早川」

 高校の昇降口、美波が下駄箱の前で靴から上履きに履き替えていると、そこに同じクラスの福原明里(ふくはらあかり)から声を掛けられる。

「おはよ、明里。今日も寒いね」

「うん、寒い。まったく、こう寒いと今から家に帰ってコタツに籠もりたくなる」

「そうね、そこにミカンと冷たいアイスでもあれば最高かもね」

「それ、最高。できるものなら、これからコタツでゴロゴロしたいよ」

 美波の傍で上履きに履き替えている福原明里は楽しげに話す。そんな彼女はセミロングな髪の毛を内側にカールさせ、大きくも小さくもない瞳は少し切れ長。美波とは二学期の一時期、クラスの席が前後していた事もあって喋るようになった。

「そういえば噂話にうとい私の耳にも、早川が六組の男子と一夜を共にしたという話が聞こえてきたよ。早川が一夜を共にするくらいだから、その彼、イイ男なんでしょ?」

「あのね、噂話を鵜呑みにしないでよ。佐藤君とは何もなかったのだから」

 溜め息交じりにそう答えると美波は教室に足を向ける。

「何もなかったと言うのは、その佐藤君と一夜を共にした事自体がなかったの? それともその彼と一夜を共にしたけど何もなかったの? どっち?」

「そんなのどっちでもいいでしょ。なーに、明里は私が誰と寝たのかとか興味があるの?」

「うん、普通にある。早川みたいな美人がどんな恋愛をして、どんな性的経験をしているのか、私は興味があるね」

「きっぱり言ってくれるなぁ。そんな興味を持たれても、私が答える筋合いはないわよ」

「まあね」

 ――まったく、昨日のお昼に学食で葵さんが口を滑らした事が、さっそく明里の耳にまで入るなんて、“人の口に戸は立てられぬ”とはよく言ったもんだ。だけど、また佐藤君が嫌がらせされる事になったら嫌だな。

 美波がそんな心配をしながら階段を上がっていると、ちょうど踊り場で下から来た佐藤翔太に呼び止められた。

「おはよ、早川さん」

「うん、おはよ。なに、佐藤君が校内で私を呼び止めるなんて珍しいね」

「ちょうど見かけたから。それで少し大丈夫?」

 美波が明里に目配せすると、明里は静かにうなずき美波から二、三歩距離を置く。

「ここで大丈夫? それとも、どこかに移動する?」

「早川さんに渡したい物があるだけだから、ここで大丈夫」

「私に渡したい物?」

 美波はてっきり昨日のことで翔太に呼び止められたものだと思っていたから、翔太がカバンから取り出したお洒落な紙袋が目に入ってきた時には、ある種の期待を胸に懐くとともに多少なりとも緊張をした。

「早川さん、誕生日おめでとう!」

 翔太は緊張した様子でお祝いの言葉を贈ると、美波に誕生日プレゼントを差し出す。

「僕なりに色々考えて選んでみましたので、どうかお納めくださいませ」

「う、うん」

 翔太からプレゼントを受け取ろうとした美波ではあったが、ここで彼のプレゼントを受け取ったら、昨日の今日で再び噂話のネタにされるかもしれないという思いが頭をよぎり、プレゼントに伸ばした手を一瞬止める。しかし、周囲の目を気にして友達からのプレゼントを受け取らないのもバカらしく思い、躊躇ためらう気持ちを吹っ切るようにして翔太からのプレゼントを受け取ったが、その美波の笑顔には戸惑いの色が隠しきれなかった。

「ありがと。まさか、佐藤君から誕生日プレゼントを贈られるなんて全然思ってなくて、ビックリした」

「ごめんね、こんな朝早くに。放課後にでも渡そうかとも考えていたんだけど、階段をあがる早川さんたちを見かけたから、渡せる時に渡しちゃおうと考え直したんだ」

「それはまた、せっかちなことで。私たち友達なのだし、連絡くれたら今みたく少しぐらい時間作ったのに」

 そう言う美波の表情は柔らかく、先ほどプレゼントを受け取った時のような微妙な顔の強張りも見せないところは、さすがに場数を踏んでいるだけあって対応慣れしているなぁ、と思う翔太なのでした。

「そうだね、今度からはそうする」

 翔太が照れたような笑顔を浮かべると、目の前の彼のことを本当に分かりやすい奴だと思う美波なのでした。

「プレゼントを渡せましたし、この辺で退散します。それではお邪魔しました」

「プレゼント、ありがと。また今度ね」

 そそくさと階段を上がって自分の教室に向かう翔太を見送って、美波はプレゼントの中身が気になりつつも、明里とともに自分たちの教室に向かう。

「あれが噂の佐藤君かぁ」

「そうだよ、あれが噂の佐藤君だよ」

「間近で見たら彼、男子にしてはなかなか可愛い顔をしているもんだね」

「本当に男子にしては可愛い顔をしてるよ」

 美波は教室に入ると、自分の席の机に荷物を置いて、コートを脱いで折りたたむ。

「それで、あの佐藤君からのプレゼントは何だった?」

 明里は自分の席に荷物を置いて、コート姿のままで美波の元までやってくると、興味津々という態度を隠さない。

「さーてね、どら焼きなんかじゃないの?」

「誕生日プレゼントにどら焼きって、ドラえもんへのプレゼントじゃあるまいし」

「あら、わからないわよ? もしかしたら佐藤君には、私のことが寸胴な青いタヌキに見えているのかもしれないのだから」

「さすがにそれはないでしょ」

「まあねぇ」

 クリスマスプレゼントの件を知らない明里には、どうして美波がどら焼きだと言い出したのか見当も付かなかった。しかし、笑顔を浮かべて紙袋を開けようとする美波が、妙な緊張感を醸している事に気がつく。

「どうしたの、開けないの?」

「うん、開けるけど……」

 ――ここで開けて、もしもプレゼントが変なものだったりしたら、佐藤君にとっては悪い噂になるんだろうなぁ。だからといって、この流れで紙袋を開けないのも、それはそれで周りに私の佐藤君への気持ちを誤解されそうでイヤだ。あー、もう! どうして誕生日プレゼントをもらって、こんな悩んでいるのだろう私。えーい、悪い噂が流れようと、衆目の面前でプレゼントを渡す佐藤君が悪いことにする!

 美波が紙袋を開いて、その中を覗き込むと、茶色い物と白い箱が見えた。まずは茶色い物から取り出してみると、それは手の平に乗るくらいのクマのぬいぐるみであった。

 ――あっ、可愛いぬいぐるみ。でも、この明里の前で喜んでみせたら、子供っぽく思われるかな? しかし、高校生の私にめいぐるみをくれるとは、なんとも佐藤君らしいなぁ。

 いつかのハンカチ売り場を思い出しながら、美波は手の平に小さいクマのぬいぐるみを乗せた。そのぬいぐるみを明里が覗き込むように見つめる。

「へー、手乗りベアーか。彼、早川に対してなかなか可愛らしいものを選んだもんだ」

「それは、こんな可愛いぬいぐるみは私のイメージには似合わないと?」

「ううん、違う。大人びている早川が男子から貰うプレゼントなら、勝手に化粧品やアクセサリーとかだと思っていただけ。だから、こんな可愛らしいものが出てきて少し意外だったの」

「ふーん、そっか。でもさ、そういうアクセサリーや化粧品をプレゼントされるとしても、自分の趣味と違う物を贈られても困るだけじゃない?」

 美波はクマのぬいぐるみを机の上に置くと、紙袋に残った白い箱を取り出した。

「聞くだけヤボだと思うけど、趣味に合わない物をプレゼントされた経験がお有りで?」

「ないとは言わない」

「そうだよねぇ、早川だもんね。それで、そんな趣味合わないプレゼントはどうしてるの?」

「捨てるよ。下手に身に付けて彼氏ヅラされても面倒だから」

「うわー、バッサリ」

 美波が白い箱を開けると、赤いバラのようなモノが入っていた。何かと思い、箱から取り出してみると、それは肌触りがスベスベとした髪留めのシュシュであることが判った。

「あら、真っ赤なシュシュ。この鮮やかな赤色、文化祭の真っ赤なドレスを思い出すね」

「いや、あんな恥ずかしい事は思い出さなくていいから。まったく、たぶん佐藤君もあの時のドレス姿をイメージしているんだろうなぁ」

 そこで会話が止まり、美波がフッと顔を上げると、何かを言いたげに笑みを浮かべる明里と目が合う。

「ん、なに?」

「ううん、何でもないよ。ただ、このプレゼントも捨てられちゃうのかなぁ、ってね」

「そうね、友達からもらったプレゼントだから、すぐには捨てないかな」

「ふーん、そうなんだ。早川にとって、あの佐藤君はいいお友達なのね」

 明里は何でもない風を装いながら、先ほどの赤いドレスに絡めて佐藤君という名を口にした美波が、なんともリラックスした表情であったことから、美波にとって彼は少なくとも友達として気が置けない相手なのだと思った。

「うん、私にとって佐藤君はいいお友達だよ」

「でも、このプレゼント、あの佐藤君は早川のことを友達以上に思っているみたいだけど?」

「佐藤君の私への気持ちは知ってる。なにせ、文化祭の日に告白されて振ってるからね」

「あー、あの頃に噂になっていたの、さっきの佐藤君なのか。それでよく彼と友達関係を続ける気になったね、私なら絶対に距離を置いちゃうと思う」

「私だって、佐藤君との関係が今みたいなものになるとは思っていなかったけど、なんとなく佐藤君とは流れ的にそうなっちゃったのだから仕方ないじゃない」

 美波は苦笑いを浮かべながら、ぬいぐるみとシュシュを紙袋にしまう。

「流れ的に、か――あっ、話は戻るけど、噂の早川が一夜をともにしたというのは、さっきの佐藤君?」

「そうだよ。あの大雪の日に帰れなくなっちゃったから、佐藤君の親戚の家に泊めてもらったの。ただそれだけ」

 明里として美波の翔太への感情を推し量れなかったけれど、美波が紙袋を丁寧ていねいにカバンのなかに仕舞う様子を見て、二人はそれなりに良好な関係なのだろうと思う。

「なーんだ、つまらないの。どうせ噂になるくらいなら、ふたりっきりで一緒の部屋に泊まって、色っぽい話の一つや二つあってほしかった」

「そんなことあってたまるかっ。それに、あっても言わないんだからね」

「ケチ。でもまあ、実際に噂の佐藤君を見ちゃったら、早川と色っぽい関係になるとは思えなかったけどね」

「それはどうして?」

 美波は明里の言葉に同意するように笑みを浮かべる。

「そうだなぁ、あの佐藤君が妙に押しが弱そうだったから、なんとなくそう想っただけ」

「なんとなく、っか。たしかに佐藤君は私のことが好きだと言ってくるわりに、滅多にアプローチしてこないから、押しが弱いというのは間違っていないんだろうなぁ」

「それはまた面倒くさい友人関係をやっているもんだ」

 明里はそう呆れたように言って自分の席のほうを向く。

「だけどさ、私たちという観客が見ている前で早川にプレゼントを渡せちゃうのだから、あの佐藤君というやらはよっぽどの鈍感なのか、それとも、よっぽど度胸がわっているのか解らないね。どっちなんだろう?」」

「さーねぇ。でも、人の目があるところでプレゼントを渡すくらいだから、多かれ少なかれ噂話のネタにされることは覚悟しているんじゃないの」

 ――佐藤君はワザと空気を読まない事はあっても、周りの空気が読めないヤツではない。だけどなぁ、私に対してアプローチしようとする時、妙に気持ちだけで先走るところもあるから、さっきもプレゼントを渡すこと以外に何も考えていない可能性もあるんだよなぁ。

「もしかして、噂になることを見越したうえでの、早川を狙うライバル達への戦線布告だったりして! もしそうなら漫画チックで面白いんだけど」

 明里がなんとも楽しそうに冗談を言うと、美波もニッコリ笑う。

「それ、私が面倒くさい事にしかならなさそうなんだけど?」

「傍観者としてはそっちの方が盛り上がるからね。さてと、朝から十分に楽しませてもらったことだし、そろそろ授業の準備をしますか」

 満足げな顔をして明里は、自分の席に戻っていった。

「さてと、私も準備しないと」

 美波はカバンから学習用具を机に出すと、ロッカーにカバンとコートを仕舞いに席を立つ。

 ――まさか、佐藤君から誕生日プレゼントもらうとは思ってもみなかったな。プレゼント自体は素直に嬉しいし、悪い気もしない。だけど、なんだろう、あんな風に佐藤君からアプローチをされることに私、すこし戸惑っている? あー、そうか私、私と佐藤君との関係性が変わっちゃいそうなのが、単純に不安なんだ。

「そっか」

 ――これからも友達のままでありたいんだ。


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