第30話 滑って、転んで、傷ついて


「それで、佐藤君と一晩同じ部屋に泊まってさ、本当にエッチなイベントとかなかったわけ?」

「まったく、そんな事あるわけないでしょ。おかしなこと言わないでくれる」

 道の端々に雪がまだ残り、路面にはところどころでブラックアイスバーンが出来ている朝の通学路。そんな誰もがいつ転んでもおかしくない道路状況のなか、コート姿の早川美波と綾瀬香菜は学校へ向けて歩いている。

「一応私としては、親友が男子と一晩一緒にいたのなら、こういう事を訊いてあげるのも、お約束かと思ってね」

「おとといの件は緊急事態における緊急回避的なものだから、一般的な恋人のように扱われても困ります」

「なんとも事務的な言い回しだね、本当は何かあったんじゃないかと疑いたくなる」

「本当に何もなかった」

「本当に? 男女が一晩同じ部屋にいたのに何もなかったの?」

「あるわけないでしょ」

「本当にぃ~」

「本当に何もないよ! いい加減にしなさいよ、香菜!」

「ごめん、ごめん。いやー、美波の口から佐藤君とお泊まりした話を聞いたら、そりゃ、からかわないわけにはいかないでしょ」

 愉快そうな笑みを美波に向ける香菜。それに対して美波は怪訝そうな目で返す。

「私、香菜のそういうところ嫌い」

「嫌いで結構。でもさ、どうして佐藤君は美波と一緒に寝ることになったの? たしか佐藤君は一人暮らししていたよね」

 香菜が美波の言葉を意に介さす話を続けると、美波は溜め息をついた。

「ったく、もう……。なんでも、大雪のせいで佐藤君の部屋が、佐藤君のお姉さんとその友達数人に占領されたみたい。驚きよね、佐藤君にお姉さんがいたなんて全く知らなかったもん」

「あー、そういえば、いつだったか大学生のお姉さんがいるって、言っていたっけ」

「なんだ、香菜は知っていたのか。でも、前に佐藤君のことを聞いたら、佐藤君は一人っ子だって言っていたよね?」

「前とは言っても一学期の頃でしょ。佐藤君からお姉さんがいることを聞いたのは、たしか体育祭か文化祭あたりだしね」

「へー、そうなんだ。香菜は佐藤君と同じクラスだし、私より接点は多いもんね」

「なーに、もしかして美波、私に焼き餅やいてるの~?」

 香菜はなんとも愉快そうな声をあげる。

「そんな訳ないでしょ! どうして、ただの友達である佐藤君の交友関係に、どうして私が焼き餅を焼かないといけないのっ。まったく、香菜のそうやって私をからかってくるところ、本当に大っ嫌い!」

 怒る美波がそんな言葉を浴びせようとも、動じることのない香菜の表情は変わらない。

「フフフ、久しぶりに聞いたな、美波の『大っ嫌い』。でもまあ、可愛い子にはちょっかいを掛けたくなるものでしょ」

「なによ、それ。私が子供っぽいって言いたいの?」

「おっ、自分でも解ってるんじゃない」

 美波が睨み付けると同時、笑みを浮かべた香菜は逃げるように駆け出した。

「待ちなさいよ、香菜!」

 美波も香菜の挑発に乗り、朝の通学路を走り出す。そんな陸上部の二人が通学する生徒達の間を縫うように駆け抜けていけば、それなりに注目を集めてしまうのは当然と言える。そんな注目されている状況で、女子ふたりの追いかけっこは学校の正門前まで続き……そして、意外な形で幕を下ろした。

「……いてて」

 美波がゆっくりと目を開けると、そこには目を閉じた佐藤翔太の顔があった。

「……神様のいじわる」

 美波は思わずつぶやく。それほどまでに今の状況は彼女にとって好ましいものではない。なぜなら美波と翔太の現状、それは地面でノビている翔太の身体に、美波が四つん這いになり覆い被さっているからだ。それでいて美波がとっさに身体を起こそうとすると、手とひざはアスファルトの地面に打ち付けたらしく、少しでも動かそうとすると痛みが走り、下手をすると力が抜けて翔太の上に倒れ込みそうであった。

「香菜ぁ、ちょっと助けて……」

「そんな弱々しい声を挙げちゃうほどにヤバいの?」

「……うん、ヤバい。力が入らない」

 美波が体勢の維持に苦慮していると、翔太の目がゆっくりと開く。目を開いた翔太の目前には目を強くつむる美波の顔があった。無意識に視線を顔から下に向けると、美波の長い金色の髪が肩から流れ落ち、彼女が身体を動かすとそれに合わせて揺れる。意識がはっきりしない翔太にとってその光景は、いつかの朝日を浴びる美波の姿を思い出させるのだった。

「……もう、ダメ」

 美波の腕の力が徐々に抜けていき、彼女の頭がゆっくりと翔太の胸に落ちていった。美波は、自分が公衆の面前で何とも無様な格好を晒している自覚はあり、この場から逃げ出したい程には恥ずかしさを覚えていた。しかし、そんな想いよりも、自分が路面に足を滑らして大きく転びそうだったところを受け止めてくれた翔太に対して、彼を巻き込んでしまった事への申し訳ない気持ちで胸がいっぱいだった。

「……ごめん、佐藤君」

「……いやー、失敗しちゃったね」

 そんな二人の言葉は雑音にかき消されて、周りに聞こえることはなかった。

「よかったね、美波。この体勢でスカートがめくれていたら、あんた、当分のあいだ恥ずかしくてお天道様の下を歩けなかったよ」

「そんな事はどうだっていいから、早く私を起こしてよ」

「はいはい、そう急かしさないで。あんた一人に寄りかかられたくらいじゃ、佐藤君は潰れたりしないから」

 香菜はそう言うと、辺りをキョロキョロと見回す。そして、たまたま通りかかった同じ女子陸上部の先輩を見つけると、この状況を簡単に説明し、香菜は先輩と一緒に美波のわきを抱え上げるのだった。

「先輩、おかげで助かりました。どうもありがとうございました!」

 香菜が元気よく言葉を贈ると、先輩は照れるように手を振って校舎に歩いて行った。

「さてと、二人とも大丈夫かい?」

 香菜が振り返ると、校門横の植え込みに腰を掛ける美波は膝から血を滲ませ、なんとも心配そうな表情を隣に向けている。その視線の先には、同じように腰を掛ける翔太がところどころ赤く染まったティッシュで唇を押さえていた。

「僕は大丈夫」

「その割にティッシュがだんだん赤くなっていってるけど?」

「いやー、そこは名誉の負傷と言うことで。それにしても、人を受け止めるのは難しいね。せっかくなら格好良く受け止めたかったんだけど、見事に受け損なっちゃった」

「でも惜しかったよ、ホント。最後、美波の頭突きがあごに入らなければ、なんとかなったかもね」

 香菜と翔太が話しをしているかたわらで、美波は翔太の心配をしつつ、自分が彼に怪我をさせてしまった事に気持ちが落ち込んでいく。

 ――はぁ、佐藤君に怪我させて……もうすぐ十六歳なのに何をやっているんだろう、私は。

「――聞いているかい? おーい、美波ったら」

 美波は香菜に自分の名前を呼ばれて顔を向けると、思った以上に香菜の顔が近くにあって驚いてしまう。

「な、なに?!」

「『な、なに』って、なに驚いているのよ。ほら、保健室行くから美波も立って」

 気がつけば隣にいたはずの翔太はいなくなり、とっさに辺りを見回すと、昇降口へ歩いて行く翔太の姿があった。その彼の姿を確認して、美波は膝のすり傷の痛みを感じながら立ち上がった。

「どお、手のしびれは取れた?」

「うん、大分良くなったよ」

「それはなりより」

 香菜は微笑を浮かべて安堵する。しかし、次の瞬間には大きな溜め息を吐くのであった。

「しかし、私たちのおふざけに佐藤君を巻き込んじゃうなんて、まったくの予想外だったわ。あんたと佐藤君の怪我の手当てが終わったら、ちゃんと謝らないと」

「そうだね」

 二日前に同じような失敗をして、今日また同じような失敗を繰り返した事に、何とも情けない気持ちを懐きつつ、おとなしく保健室に向かう美波なのであった。

 そして、保健室で翔太と美波の手当てが終わると、美波と香菜が翔太に頭を下げた。

「うん、許すよ。許しますので、お願いだから夏休みみたいな事を言うのは、やめてね」

 翔太は困り顔といった表情を浮かべて、そう美波に釘を刺した。すると、顔を上げた美波は、誰が見ても作り笑顔と分かるような表情を貼り付けていた。

「いやだなー、あんな聞き分けのないことはもうしないよ」

「そうかもしれないけど、早川さんは変に律儀なところがあるから、一応ね」

「なによ、変に律儀って。私のどこが変に律儀だっていうの?」

「夏休みのデート? の件や、あげた商品券をチョコレートにして返すところとか、かな? あ、でも、昨日の朝に、叔母さんの前の雪かきを率先して手伝ってくれたことは、叔母さん達が早川さんのことを律儀なだと褒めていたけどね」

 美波が褒められたと話す翔太の表情は、それまでの困り顔から一転して嬉しそうに微笑んだ。

「雪のせいで帰れなくなった私を、一晩泊めてくれた一宿一飯の恩義があるのだから、それぐらいするよ」

「そうかもしれないけど、自分から率先して行動に移せるのは素直に凄いと思う」

「佐藤君だって雪かき、やっていたじゃない」

「一応こっちは家族で、そっちはお客様だから、立場が違うよ。それに早川さんが率先して手伝ってくれたおかげで、アオちゃんの友達も手伝ってくれて、思ったよりも作業が早く終わったからね。さすが元生徒会長だけあって、早川さんの行動は周りに良い影響を与えてくれたよ」

 翔太の無邪気に彼女を称賛する言葉、それは美波にも十分理解できている。だけど、そんな悪気のない彼の言葉は、美波のカサブタになりかけていた心の傷を引っぺがしていた。

「えへ、そんなことあるかな? ただ私は手伝いたいから手伝っただけだよ」

 翔太に対して目一杯の愛想を振りまく美波。

「あっ、私、ちょっと教室に用事があるから、もう行くね。佐藤君、さっきは私を受け止めてくれて有り難う。それに怪我させてゴメン。このお礼はいつかちゃんとするから、今日のところはゴメンね」

 美波は微笑を浮かべ申し訳なさそうにそう言うと、小走りでその場から去った。

「佐藤君、これだけは言っておくよ。佐藤君は何も悪くない」

 香菜は翔太の肩をポンッと軽く叩いて、そんな事を言った。

「えっ、それはどういう意味?」

 翔太が美波に対して何か悪いことでも言ったかと思い、慌てて香菜に聞き返すと、香菜は何事もないような笑みを浮かべて口を開いた。

「別にそのまんまの意味だよ。ぶつかったのは私たちの責任だから」

「そう」

「そういう訳で校門ではゴメンね。あー、あと、あの時にスマホで動画とか撮られたと思うから、また嫌がらせを受けるようになったら、悩まず先生に相談してよ」

 もう一度翔太の肩をポンッと軽く叩くと香菜は、美波を起こすのを手伝ってもらった部活の先輩に会って来るとか言って、その場から離れた。

「なんだかんだで、早川さんも綾瀬さんも活動的だよなぁ。さてと、僕は教室に向かいますか」

 翔太は美波から頭突きを食らった下顎したあごをさすりながら、自分の教室へと歩いて行くのであった。

 翔太に嘘をついて香菜が直行した女子更衣室、その扉を開けると静かな室内にポツンと独り、カバンを抱えてベンチに座る美波の姿があった。

「やっぱり、ここにいた」

 いきなり扉が開いて驚きの表情を浮かべた美波であったけど、香菜の顔を認識すると、何とも可愛げのある笑みを浮かべた。

「なによ、その顔は」

「お節介焼き」

 香菜は呆れたと言わんばかりの大きな溜め息を吐くと、入室して静かに扉を閉める。

「ったく、心配して探してみればコレか。私、あんたのそういう痩せ我慢体質なところ、本当に嫌いだわ」

「仕方がないよ、これが私という人間なのだから」

 美波は表情を変えずに言う。

「さっき、佐藤君から褒めてもらって普通に嬉しかったんだ、本当に。でもね、私が周りに影響を与えたとか言われたら、なんだか急に足がすくむ感じがして、怖かった」

「佐藤君もその場の空気をなごませようとした言葉が、誰かさんの心の傷に触れていたとは思ってもいないでしょうね」

「だろうね。佐藤君でなくとも思わないよ、私の言動をきっかけにして同級生をひとり、殺しかけたなんて」

 間違いなく苦しんでいる奴が表情も変えずに微笑んでみせていると、友人としては彼女の心中を思うに痛々しさを覚えずにはいられず、そんな痩せ我慢な笑顔を抱きしめられずにはいられなかった。

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