第25話 彼女の変なプライド


 タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ。

 足は一定のリズムを刻んでアスファルトを蹴っていき、身体を前へ前へと進めていく。

 とある市が催すマラソン大会に出場している早川美波は、まとめた長い金色の髪を揺らしながらコースを駆け抜ける。今日は腕もしっかり振れていて、調子もタイムも悪くなかった。しかし、そうやって朝練の成果が出ていたはずなのに、前方を走る綾瀬香菜の背中は遠ざかっていくばかり。次第に彼女のあごが上がりかけ、今のペースを維持するのが精一杯であった。

 市民マラソン大会当日は、雲一つない穏やかな冬晴れとなった。時折吹く冷たい北風も、汗を滲ませた多くのランナー達には心地良い風となっていた。だけど、そんな心地良い気候の中にあって、今の美波には、じんわりかく背中の汗の感覚も、風に揺れて頬に当たる髪の毛の感覚も、いつもなら何とも思わないような事で気に障り、気が散る。

 次第に後続のランナー達に追い抜かれていくなかで、美波はここ三週間朝練を共にしていた佐藤翔太の言葉を思い出す。

 ――ちゃんと休まないと、発揮できる実力も発揮できないよ。

 そんな言葉を翔太が言ったのは、市民マラソン大会の三日前。大会に向けて行っていた朝練で、美波と翔太が準備運動を行っている時であった。

「早川さんは朝練も部活でも走っているけど、休日はどうしてるの?」

「何でそんな事を訊いてくるの?」

「いや、単純にオーバートレーニングじゃないかと気になっただけ。この三週間、早川さんの朝練に付き合ってきたけど、日によって練習量が変わらないどころか、日が経つにつれて練習量が増えていった感じがしたから、朝練がない日はちゃんと練習量を落としているのかなって、ちょっと心配してみた」

「心配してくれるのは有り難いけどさ、朝練なんてウォームアップみたいなものなんだし、佐藤君が気にすることではないよ」

「そう、それならいいんだけどね。ただ、ちゃんと体を休ませないと、発揮できる実力も発揮できなくなっちゃうからさぁ、ちょっと言ってみたんだ」

「なに、佐藤君にはそういう経験があるの?」

「僕はないよ。だけど、友達が練習をし過ぎちゃって試合にならなかったことがあったからね。早川さんは、あいつと同じで競技に対して真面目そうだから」

 そうやって自分のことを心配してくれている翔太の言葉は、その時の美波にとって少しウザったかった。なにせ、翔太はテニス部であって陸上部ではないのだ。自分が専念している競技のことを、部外者の彼に口を出されるのは気持ちがいいものではなかった。

「大丈夫。佐藤君のお友達とは違って、私なりにちゃんと考えて練習しているから。でも、心配してくれてありがとう。佐藤君に付き合ってくれた練習を無駄にしないためにも、今年こそは香菜に負けないんだから!」

 美波が明るい笑顔を浮かべて、そう言ってしまえば、さすがの翔太も応援以外の言葉は出てこなかった。

 そんな事を思い返しながら美波は、走るペースを維持しようと、歯を食いしばり走り続ける。しかし、脚は今までに感じたことがない程に重たく、だんだんと呼吸も荒くなっていき、彼女自身が驚くほどに走るペースが落ちていった。次第に走る勢いがなくなり、気がつけば歩いていた。

「……ハァ、ハァ」

 走る力はもう残ってはいない美波ではあったけれど、レースをリタイヤせずにゴールまで数百メートルのところまでやって来ていた。次々に後続の小学生や高齢のランナー達に追い抜かれていくなかにあり、それでも彼女がゴールを目指しているのは、ただの負けず嫌いの意地である。

 朝練の最終日、翔太にあんな風に見得を切った手前、美波はどんなに苦しくても絶対にリタイヤなんてしたくない。たかだか地方自治体が催す市民マラソンであるけれど、いつも翔太に走る事に対して偉そうに語っていた彼女が、途中で調子を崩してリタイヤしてしまえば、彼に対しての面子めんつが丸潰れとなる。それは何としてでも避けたかった。

「……でも、こんな状態で面子とかないよなぁ」

 佐藤君の言うとおりにしておけば良かったのかなぁ、という後悔に近い感情を覚えながら美波は、俯き加減の姿勢で力いっぱい腕を振り、脚を早歩き程度の速度で動かしてゴールを目指した。

「あともう少しだよ、美波! がんばれ!」

 そんな声に美波が顔を上げると、ゴールラインの向こう側に綾瀬香菜が応援の声を挙げていた。その姿は、高校のジャージにゼッケンを付けていて、美波と同様にあまり格好は良くはない。その友人の応援に対して美波は、あまり目立つことはしないでいいのにと想いつつも、その応援に応えようと、ラスト百メートルを残りの体力を使って駆け抜けるのだった。

「……もう……ダメ」

 なんとかゴールラインを超えると美波は、後続の人達に邪魔にならないように脇の芝生の広場にヨタヨタと足を運び、芝生の上で崩れるように寝転んだ。

「大丈夫、美波? って、大丈夫な訳ないか――はい、お水」

「……うん、ありがと」

 美波は呼吸が落ちついてくると、仰向けになり水気のない雲が浮かぶ空を眺める。

「あーあ、今年も負けちゃった。しかも、コースを走り切れないなんて情けない」

「そうだね。去年より距離が二倍だけど、私は美波なら走り切れると思っていたから、少し期待を裏切られちゃったかな」

 美波の隣で体育座りをしている香菜は、困り笑顔を浮かべている友人の顔を見る。

「そうか、香菜の期待を裏切っちゃったかぁ。それは悔しいなぁ」

「そうだよ、せっかく佐藤君から休むように言ってくれるよう頼んであげたのにさ、全然言う事を聞かないんだから」

「なーんだ、アレは香菜の差し金だったのかぁ」

 翔太が自分のことを心配してくれたのは香菜に言われたからなのかと思うと、美波は少し残念な気持ちになるのでした。

「あんたは走る事になると、私の言葉を聞かなくなる事が間々あるからね。まったく、そういう目標に猪突猛進するのは良いところではあるけど、それで周りどころか自分すら見えなくなるのは悪いところだよ」

「だって、練習してないと実力が落ちそうな気がして怖いんだもん。特にレース前とかはさ」

「私だって、その気持ちは解らなくもないよ。それでも適当に休まないと……まあ、解っていると思うけど」

「解っていても、こんなザマなんだけどね。今年は距離が二倍のコースだし、去年よりも頑張らないと、って思っちゃったんだよね」

「今日の距離なら、普段やっている朝練のメニューで、普通に走り切れたと思うけどね」

 美波にとって香菜のその言葉は、現在における自分の心の弱さを言い表されている気がした。

「そうか、普通にか……」

 香菜との勝負が大事だと思えば思うほどに、一日でも練習を緩めるのが怖くなる。美波自身、過去の失敗から頭では休息の重要さは解っていても、その脅迫観念に囚われてしまった。練習の予定を立て、レースに向けて万全の準備をしているつもりなのに、日に日にレースの日に近づくにつれて、こんな練習量では足りないのではないかという不安な気持ちに心は支配される。こうなってしまうと、もう安心したいが為の練習を積み重ねてしまうのであった。

「だけど、途中で明らかに調子崩していたのに、どうしてリタイヤしなかったの? まさか、私に負けたくなかったからとか言わないでしょうね。やめてよね、そういう根性論染みたことを言うのはさ」

「さすがに、それはないよ。香菜の背中が見えなくなって、かなりペースが落ちた頃にはリタイヤを考えていたから」

「じゃあ、どうしてこんな無茶したの?」

 香菜は地面に手を置いて、美波の顔を覗き込む。

「それはその……リタイヤしたら、佐藤君に対して面目が保てなくなると思ったら、なんだか意地になっちゃったんだ。」

「ふーん、佐藤君か。なに、あんたって朝練の時、そんなに偉そうにマウントを取ってるわけ?」

「別にマウントなんか取ってないよ。ただ、いつも偉そうにランについて語っちゃっていたし、残念な結果になったら私の面子が立たないと思っただけ。それに、今回は私が頼んで朝練に付き合ってもらったから……こんな無様な結果にはしたくなかったんだ。あーあ、明日、どんな顔をして佐藤君に会えばいいのよ」

「どうするもなにも、全力は尽したんだから正直に言えばいいじゃん。もしかしたら同情してくれて、デートの件はなくなるかもしれないよ」

「それがイヤなのっ! そんなことをされたら私、いくらなんでもみじめ過ぎるでしょ。デートの件は私から言い出した事なのに、そんな風に佐藤君に同情されるなんて、まっぴら御免よ」

「だよねー、知ってる」

 香菜がニッコリ笑顔になると、美波は上半身を起こすと膝を抱え込む。

「あーあ、どうせ無駄にプライドの高いヤツだって思っているんでしょ」

「この意地っ張り。バツが悪いからって、そう卑屈にならない」

「卑屈にもなりたくなるよぉ。こういう時、佐藤君はどういう反応してくるか分からないんだもん。もしも、佐藤君にガッツリ同情でもされたら、私、惨めな気持ちを佐藤君に向けて八つ当たりする自信があるもの」

「それはまた、佐藤君もとんだ爆弾処理をさせられるもんだ――さてと、そろそろ冷えてきたし、更衣室に行こうか」

 香菜は立ち上がると、美波の前に手を差し出す。

「いいわよ、一人で立てるから」

「あら、そう」

 疲れた顔で美波は立ち上がると、一つ息をいた。その背中には黄色い芝生が点々と付いていて、それを香菜が払いながら更衣室に歩いていく。その後、長い距離を走った疲労感を感じながら二人は、ファミレスで食事しながら反省会をすると、その足でカラオケに向かい女子二人だけで何曲も熱唱しまくったのだった。

 そんな悔しさと戸惑いを覚えた市民マラソン大会翌日、美波は久しぶりに通常どおりの登校時間に登校していた。久しぶりに人の波に乗りながら登校すると、翔太と二人でこの道を駆け抜ける日常はもう終わったのだと実感し、気が楽になるのと同時に、少しだけ名残惜しさをも感じるのであった。

「おはよ、早川さん」

 翔太にそう挨拶されたのは、美波が靴から上履きに履き替えている時だった。

「おはよ」

「あのさ、お昼の件は昨日の報告という事でいいんだよね」

 美波は登校時に電車内で、メッセージアプリで翔太に対して昼休みに会えないかという趣旨のメッセージを送っていた。

「うん、そうだよ。君には朝練に付き合ってもらったから、昨日の報告をしたいと思っただけ。朝だと登校時間バラバラだから会うのが大変そうだから、お昼休みにしたんだけど……こうやって会ったんなら、今から話せない?」

「別にいいけど」

 美波は翔太を連れて、そのまま自分たちの教室が並ぶ、廊下の端っこまでやって来た。こんな注目される所を選んだのは、盗み聞きされることはあっても変な誤解はされないだろうという、彼女なりの計算であった。

「――という訳で最後はヘトヘトになってゴールしました。ごめんね、朝練を三週間も付き合ってもらったのに、この結果で」

 美波の話を聞き終えると、翔太は次の言葉を発するまでに少しの間があった。

「そうか、それは残念だったね。あれだけ頑張っていたのに、実力が出せなかったのは本当に悔しいと思うけど、次は悔いのない走りができるといいね」

「なぁに、その当たり障りのない言葉、本当にそんな事を思ってる?」

 冗談めかした感じで美波が訊くと、翔太は困ったように笑みを浮かべた。

「そりゃ、一緒に朝練をやってきたからね、君が納得いく結果になるように願っていたよ。だから、今回の結果は残念に思うし、いちスポーツ選手として実力を発揮できなかった悔しさは、分かるつもり。それに――」

 そこで翔太の言葉が詰まり一瞬視線を逸らされると、美波は彼から何を言われるのかと少し気持ちを身構えてしまう。そして、翔太の視線が彼女に戻り、再び口を開く。

「ちゃんと目標を決めて、それに向かって歩んでいける早川さんは、本当に格好良いよ」

 そう言うとニコッと微笑む翔太。一方、目の前の彼から思わぬ言葉を掛けられた驚きと、少なからずの嬉しい気持ちが湧き出す美波。

「……いやー、そういう事は、ちゃんと目標を達成ができた時に、言ってほしいかな-」

 思わず懐いた嬉しいという気持ちを隠すように、美波は無愛想な表情で返してしまう。

「ああ、ごめん。でもね、これが僕の本当の気持ちだから、ゆるして」

「さっきの言葉を言ってもらって、別に悪い気はしなかったから、謝らないでいいっ」

「そう? なら、良かった」

 彼女が怒っていないと知ってホッと胸をなで下ろす翔太に対して、思わぬ程に自分の気持ちがドギマギしている事に、どこか受け入れがたいものを感じる美波なのであった。

「それで、今回の約束の件だけど、予定どおり、今度の日曜日で大丈夫だよね?」

「うん、大丈夫――だけど、本当にいいの? 結果として早川さんの目標が達成できなかったのに、次の日曜日、僕なんかに時間を使ってくれて」

「あのね、佐藤君、私を見くびらないでくれるかな」

 美波は胸を張り、凜とした表情を翔太に向ける。

「この約束は、私が私のために君としたの。いい、ちゃんと君の私に対する気持ちを承知のうえで、朝練に付き合ってもらう為の条件を出したの。それとも何、佐藤君は約束も守らないような女の子が好きなわけ?」

「いや、早川さんは約束を守る人でしょ……ああ、そういう――痛っ!」

 要するに美波のプライドの問題だと、翔太に感づかれると、美波は翔太の足の甲を踏みつけた。そして、半笑い気味な表情を浮かべ、涙目な翔太を睨む。

「ねえ佐藤君、何か言いたい事でもあるのかな?」

「うーん、早川さんがこういうコミュニケーションを取ってくるようになるなんて、僕らの関係は少しぐらい近くなったのかなぁ」

 美波はもう一度翔太の足を踏みつける。

「――あら、ごめんなさい。佐藤君の足があるのだなんて気がつかなかったわ」

 わざとらしく足を退けると、微笑んで見せる美波。

「いてて……。それで早川さん、日曜日の件は、この数日で話し合う感じでいい?」

「君がいいのなら、それでいいよ。私は君との約束を守れたら、それでいいんだから」

「それじゃ、そういう事で。さてと、そろそろ先生が来る頃だし、教室に入りますか」

 スマホで時間を確認した翔太がそう言い、教室に足を向ける。

 ――そうやって簡単に流されたら、変な意地を張っている私が子供みたいじゃない。

 翔太が立ち去ると、美波はそんな事を思いながらも、気が抜けたような表情を浮かべるのであった。

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