第24話 すこし特別な寒い朝


 冬休みが終わって三学期が始まる日、佐藤翔太は手袋にマフラー、コートを身につけて早朝の駅前に立っていた。太陽が出たばかりの街の空気はキーンと冷えていて、呼吸をする度に鼻や口から出る息は白く、突っ立っているだけで足元から熱が奪われていく。そんな寒さに耐えながら翔太が何をやっているかといえば、ただの待ち合わせである。

 話は遡ること一日前。久しぶりに家族全員の顔が揃ったお正月を経て、残りの冬休みを学校からの課題と喫茶店の手伝いに費やすことになった翔太。そんな冬休みの最終日、相変わらず喫茶店のフロアで働いていると、昼過ぎに、ロングコートを羽織った早川美波が顔を見せに来た。彼女曰く、お正月は母親の実家があるイギリスに渡航していたようで、昨日、日本に帰ってきたのだと言う。

「それでね、あっちで佐藤君にお土産買うつもりだったんだけど、久しぶりにお母さんや弟と過ごしていたら、すっかり忘れちゃったんだよね。だから、このお土産は日本に帰ってきて空港で買ったものなんだけど、受け取ってくれる?」

「うん、態々わざわざありがとう」

 美波から店名がデザインされた紙袋を受け取り、翔太はニッコリと笑顔を浮かべる。

「それから、陽子さんにもお土産があるんだけど、今は大丈夫?」

「たぶん、大丈夫。だけど、叔母さんにもお土産なんて、早川さんは本当に律儀だね」

「陽子さんにはクリスマスの時にお世話になったからね」

 注文がちょうど途切れた頃合いだった事もあり、美波はカウンター越しに翔太の叔母である陽子と新年の挨拶を交わし、お土産の紙袋を丁寧に渡した。そして、陽子とちょこっと世間話をしてから、彼女はいつものように窓際の席に座り、翔太もいつものように注文を聞く。

「それでご注文は何になさいます?」

「お昼まだだし、カレーライスとブラックコーヒーをお願い」

「一応、カレーライスにはサラダと野菜のスープが付きます。それで、コーヒーはブラックでいいの?」

「うん、なんか時差ボケが酷くてさ、夜まで起きていたいから」

「了解。そうだね、明日から学校だからね」

 翔太は端末に打ち込んだ注文内容を復唱し、美波に確認すると、おしぼりと氷水を取りに向かう。

 それから、注文の品が運ばれてくると美波は黙々と料理を口に運び、カレーライズとサラダを綺麗に食べ終えると、にがそうにしかめっ面をしながらブラックコーヒーを一口ずつ飲み進めていく。そんな彼女の食事風景をチラチラと見ていた翔太なのでした。

「佐藤君、ちょっと頼みたい事があるんだけど、いい?」

 食事を終えて会計を済ませた美波は、レジカウンターで営業スマイル全開の翔太にそう尋ねた。

「明日から三週間くらい、また私の朝練に付き合ってくれないかな」

 未だ美波に未練タラタラな翔太が、彼女のそんなお願いをすぐに断れるはずもなく、脳内で色々と考えを巡らしていると、美波からある条件が提示された。その条件によって翔太は美波のお願いを聞き入れる事となったのでした。

 そして冷気が漂う駅前で待つごと数分、長い金色の髪をなびかせながら美波が現われた、

「おはよー、佐藤君! 今日からよろしくね」

 美波にいきなり元気いっぱいに挨拶をされ、翔太は彼女に対して若干の鬱陶しさを懐きつつも、寒さでこわばりかけた顔で薄い笑顔を作った。

「おはよ、早川さん。相変わらず朝からお元気そうで」

「中学では朝練をよくやっていたからね、早く起きるのは慣れっこなの」

 自慢げに胸を張る美波を眺めながら、翔太の関心は彼女の服装に向いていた。彼女の首元には白いマフラーが巻かれ、紺色のロングコートの裾からは黒いタイツが伸びている。

「なに、ゴミでも付いている?」

「いや、手袋していないから寒くないのかと思って」

「ああ、手袋。どうやら、イギリスで荷造りの時にカバンに入れ忘れたらしくて、あっちに置いてきちゃったみたい。だから、今日の放課後に香菜と買いに行く予定なんだ」

「そうなんだ。じゃあ、これ貸そうか?」

 翔太が手袋を着けた両手を小さく挙げると、美波は首を横に振った。

「大丈夫。体を動かしていれば、そのうち暖かくなるから――だから、ほら行くよぉ!」

 美波は翔太の背中を軽く叩き、学校に向けて駆け出していった。

「はぁ、久しぶりに早朝ランニングをさせられる日々が始まるのかぁ」

 美波から背中に気合いを入れられた翔太は、観念したかのように一度大きく深呼吸をすると、白い息を出しながら走って行く彼女の背中を追い掛ける。そんな三学期初日、再び翔太の早起きの日々が始まるのでした。

 それから数日後、今日も今日とて冷え込んだ早朝の駅前で美波を待っている翔太。いつものように駅構内から出てくる美波を見つけると、それだけで心が躍ってしまっている。そんな嬉しい気持ちを懐きつつも、頭の片隅かたすみでは、彼女から望まれているのは友達としての自分だと、そう理性がささやいてくるのだった。

「おはよ、佐藤君」

「おはよ。今日は一段と冷え込むね」

「そうだね、マンションから出た時、寒くて外に出たくないって思っちゃった。でも、こうやって佐藤君と待ち合わせをしているから、挫けそうな心に負けないで済んでる。うん、計画通り」

「計画通りですか、それは成りより――でもさ、寒さに挫けないように僕を利用してくれていいけど、そこまでして市民マラソン大会で綾瀬さんに負けたくないもん?」

「うん、負けたくない。だって、中学の三年で一度も勝てなかったんだから、一度ぐらいは勝ちたいでしょ、ライバルには」

「でも、短距離の早川さんと、中・長距離の綾瀬さんでライバル関係になるの?」

「私、中学では中距離も走っていたから、そういう意味では香菜が身近な目標だったの。短距離なら私の方が速いのに、それなのに走る距離が延びるにつれてさ、香菜に敵わなくなっていくの。それがなんとも悔しくてさ、香菜に何度も勝負を挑んだけど、香菜には全然勝てなかった。だから高校では、絶対に見返してやるの」

 真新しい手袋をした手を握りしめて、美波は目を輝かせる。

「綾瀬さんを見返してやるかぁ」

「なによ、その顔。また生徒会長らしくないとか言うつもりでしょ」

 翔太がクスッと小さく笑うと、美波は不満そうな表情を隠さない。

「いや、その早川さんのチャレンジは応援するよ。だけど、そんな負けず嫌いなところは、こうやって早川さんと話すようになっていなければ、きっと想像すら出来なかっただろうなぁって、少し嬉しく思っちゃったんだ」

「あ、そう」

 朝っぱらから小っ恥ずかしいセリフを笑顔で吐く翔太に、呆れ顔でそれに応える美波なのでした。

 その朝からまた数日後、翔太は駅構内の連絡通路を歩いている。いつもの通学時間ならスーツや制服姿の人達でごった返している通路であるが、日が出て間もない現在においては連絡通路を通っている人はまばらで、改札を出入りする人も多くはない。そんな通勤時間帯前の連絡通路を抜けて、いつものように駅前の待ち合わせ場所に到着した。

 手をり合わせ、ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、今日も余裕を持って到着した事に安堵する翔太。そんな油断しきった翔太の首筋に、なんとも冷たい物がピタッと当てられ、彼は声にならない声を上げ、その冷たい物を振り払う。

「あっはははは!」

 駅前に響く愉快そうな笑い声に、翔太は慌てて振り返る。そこには可笑しそうに笑う美波がいて、その彼女の手には手袋が片方だけにしか身につけられておらず、もう片っ方の手は白い肌があらわになっていた。

「…………あのさ、早川さん。少し笑いすぎじゃない?」

 ビックリして半分涙目になっている翔太は、美波のイタズラだと知って、心の中で驚きやら怒りが瞬間的に湧き出す。しかし、大きな口を開けて白い息を吐き出しながら笑う美波を見ていたら、なんだか瞬間的に湧いた怒りが小さくなっていった。

「だってさぁ、佐藤君が『ひゃんっ』だなんて悲鳴をあげるから――そんな反応、予想外過ぎちゃって――まるで女の子みたいなんだもん。ダメだ、久しぶりにこんなに笑ったら、お腹痛い――はぁ~、涙が冷たいよ~」

 笑いすぎて目に溜まった涙を拭うと、美波は満足したかのように大きく息をはいた。

「真冬に冷たい手をいきなり首筋に当てられたら、誰だってこうなるよっ」

「いやー、朝から良いものを見せてもらいました、どうも、ありがとう」

「まったく、ありがとうじゃないよ。ビックリした拍子に、スマホを落としそうだった」

「それはごめん。でもさ、そこの階段の降りたところに隠れていたんだけど、私に気づかなかったでしょ。そこから佐藤君に気づかれないように息を潜めて背後に立って、この手を首に当てるまでのドキドキ感はとても楽しかったんだよ」

 本当に楽しそうに美波が話すものだから、翔太は先ほどの怒りがゆるくぶり返してきていた。

「早川さん、こういうイタズラをやったら、やられ返されるまでが、お約束だよね?」

「うん、そうだね。あ……もしかして佐藤君、怒ってる? いやだなー、今のは茶目っ気たっぷりなコミュニケーションの一つだよ」

「そう、コミュニケーションの一つなら、僕もそれなりの応答をしないと失礼だよね?」

 翔太はゆっくりと片方の手袋を外すと、手の平を冷え切ったカバンに押し当てて、自分の手の体温を奪わせる。

「なに、佐藤君はその冷たくした手で乙女の柔肌に触れる気なのっ。そんな事をしたら、立派なセクハラなんだからねっ」

 翔太から一歩二歩と距離を取り、美波は身体を守るように自分を抱きしめる。そんなオーバーリアクションで翔太を困惑させると、茶目っ気をかもしつつ威嚇いかくする。

「あの早川さん、この場面でそれを言うのはズルくない?」

「だって私、背中に氷を入れられるイタズラとか、本当に苦手なんだもん」

「だもんって、僕だって苦手だよっ」

「そうみたいだね――私、あんなに驚かれるとは思ってもみなかったから、本当にビックリしたんだ。それで、男の子があんなに可愛い悲鳴をあげるもんだから、それが余計に可笑しくて」

 口に手を当てて再び笑いだした美波を前に、翔太の心の中は怒りの感情が薄れていった。美波は翔太へのイタズラを成功させて愉快そうに笑う、そんな美波の姿が翔太にはすごく可愛いらしく映ってしまう。いくら友達が相手とはいえ、普通こんなにも笑われてしまえば少しくらい不快に思うはずなのに、彼の彼女への恋心はいとも容易たやすく、彼女の行為を受け入れようとしていた。

「……はぁ、ったく」

 翔太は溜め息をつくと、クルッと美波に背を向ける。これには愉快そうに笑っていた美波も、翔太のことを傷付けたのではないかと思い、翔太の顔を覗き込んだ。

「――どうしたの? もしかして、本当に怒った?」

「いいや、怒ってないよ。ただ――」

 美波が翔太の顔を覗き込むと、翔太の冷え切った手がスーッと伸びてきて、彼女の頬に押し当てられた。その手の冷たさに美波が身をちぢこまらせると、翔太はそのんだ彼女のすきを突いて、してやったりという顔を浮かべ、逃げるように駆け出した。

「あーっ、わざとだったんだな! よくも騙したな!」

「へっへんっだ、友達なら仕返しされるまでがコミュニケーションでしょ」

 美波はすぐさま駆け出した翔太の後ろ姿を捉えると、騙されて腹立たしい気持ちのままに足を踏み出した。

「うるさーい! この私の肌を無断で触った罪、すぐに償わせてやるんだからっ」

 しかし、そこで美波にとって予想外のことが起こった。すぐに追いつけると思った翔太の背中は、通行人や自動車などの道路事情に邪魔をされたり、髪をまとめていたヘアゴムが外れるはで、なかなか追いつく事ができなかったのだ。それでも美波は陸上部の意地を見せて、学校に近づくにつれて二人の差を徐々に狭めていき、校門の手前でラストスパートを仕掛けた。

「……さすが、陸上部。まさか最後の最後で追い抜かれるとは」

「甘く見ないでよね……私、これでも毎日走ってるんだから」

 翔太と美波、突然の早朝追いかけっこは、校門をいち早く通り抜けた美波の勝ちとなった――まあ、そういう勝負ではないが、翔太は道中を全力疾走で駆け抜けてしまい、美波に追いつかれた時点で力尽きてしまっていた。なので、手を膝についている翔太は肩を上下に動かし、呼吸する度にせわしなく白い息が吐き出されている。

「あー、もうっ。せっかく整えて来たのに、途中でゴムが外れて、髪の毛がグシャグシャになっちゃった。これ、いきなり走らせた佐藤君のせいなんだからねっ」

 ロングヘアーの美波が、早朝の通学路をヘアゴムが外れた状態で駆け抜ければ、自ずと彼女の髪は乱れてしまう。そんな髪の毛を整えながら美波は、肩で息をしている翔太の前に立つと、彼の顔をのぞき込んで、勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。

「ふっふっふ。さて、私のほっぺを勝手に触った、この愚か者にはどんな罰が相応しいか」

 美波は茶目っ気たっぷりな口調で言う。

「先にイタズラを仕掛けたのは、早川さんじゃん」

「うるさい、だまーれ。佐藤君が私の身体からだに触れるなんて、百万年早いんだからね」

 翔太が顔をあげて何か言い返そうとすると、美波はニコッと笑顔を見せ、両手で優しく彼の顔を包んだ。その美波の手には、先ほどまで身に着けていた片方の手袋まで外されていた。

「どうだ、まいったか。ひとの心配を無下にした、これが罰だ」

 翔太は美波の手の冷たさよりも、彼女の取った行動に耐えられなかった。なにせ、お互いの白い息が空中で交わりそうなほどに、美波の顔が近くにあり、その愉快そうに笑う表情を間近で見られるのだから、もう翔太にとっては刺激が強すぎる至福の数秒間であった。

「…………うん……まいった。参りました……だから、放して」

「そう、なら許してあげる」

 美波は満足したように手を離すと、翔太と向き合ったまま一歩二歩と跳ねるように後退し、そのまま髪の毛を掻き上げた。

「あーあ、本当に髪の毛が乱れちゃってる」

 そのかれゆくつややかな長い髪は、冬の朝のひかりに照らされ、まるで絹の糸のように輝き流れていく。そんな、美波が髪を整えるだけという何気ない仕草でも、翔太の心をギュッと掴んでしまうのであった。

「佐藤君、なにボケーッとしてるの。ちゃんと練習に付き合わないと、あの約束を無しにしちゃうからね」

「はいはい、今日も頑張らせてもらいますよ」

 ――お姫様。

 そう微笑んでみせる翔太であるが、美波と友達としての関係を詰み重ねていくにつれて、叶わぬ彼女への淡い恋心もまた大きくなり、時に胸を苦しくさせるのだった。

「ん、なんか言った?」

「別になにも」

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