第12話 小さな勇気と臆病な気持ち

 体育祭から半月以上が過ぎた頃、早川美波に関する噂は、そのほとんどが彼女と朝練を共にする佐藤翔太とのものであった。なかには陸上部の先輩との噂話もあったけれど、なんだかんだと毎朝登校時に目にする二人の姿は周囲の好奇心の的になっていた。当然、そんな周りの声は意識せずとも二人の耳に入ってくるのだった。

 人通りが増え始める早朝の駅前、相も変わらず眠そうな眼をして翔太が立っている。そこに朝から目がパッチリとさせた美波が、翔太を真っ直ぐ見つめながら近づいてくる。

「おはよう、佐藤君」

「うん、おはよう。早川さんはいつも朝から元気そうだね」

「そういう佐藤君はいつも眠そう。ちゃんと寝てるんでしょうね。私のせいで倒れられたなんて言われても、迷惑なんだけど?」

「ちゃんと体調管理はしてるつもりだけど、心配してくれてありがとう」

「べつに君の心配はしてない。ほら、行くよ」

「はい、はい」

 美波がサバサバとした態度で翔太に接すると、翔太は眠たそうな顔で小さな笑みを浮かべる。ここ最近、美波の翔太に接する態度は親しげな時もあれば、距離を置く時もあったりと、その日その日で翔太に対する距離感が違う。そんな美波と接してきて翔太は、彼女を自分の姉と照らし合わせてみて、彼女も普通の女の子なんだと感じていた。

 さて、学校に登校した二人はいつもの様に更衣室で着替えると、グラウンドに出て準備運動をしてランニングを始める。初日に美波のペースに合わせて途中で息を切らせていた翔太も、なんとか自分のペースを掴んで走り切れるようになっていた。それでも、陸上部である美波のほうがランニングのタイムは速かったりするのは、これまでの練習量から見れば当然の結果なのだろう。

「佐藤君、だいぶ走れるようにはなったんじゃないの」

「……それはどうも」

 翔太が走ることに慣れてきたと言っても、ウォームアップのランニング後には膝に手をやっているのに対し、美波は額に汗がにじむ程度で涼しい顔をしている。

「早川さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

「なに?」

「ここ最近、君の周りで変わった出来事はありませんか?」

「何よ、変わった出来事って――あっ、あった」

 そう言った美波の黒い瞳が自分に向けられた時点で、翔太は彼女に何を言われるかは予想が付いた。

「佐藤君、君と一緒に朝練やっている事が変わった出来事だわ」

「そう。それ以外には何かある?」

「それ以外? ねえ、佐藤君、私に何を聞きたいの?」

 翔太は息を整えると、ゆっくり背筋を伸ばす。

「ここ最近、僕らの噂話を耳にすることがあるから、何か困っている事がないかと思ってね」

「特にないけど。なに、佐藤君には私と噂話のネタにされて困る事でもあるの?」

「早川さんと噂話のネタにされるなら悪い気はしないけどね、僕にとっては」

 そこで美波は、翔太にノッポ先輩とのデートの一部始終を目撃されていた事を思い出す。

「もしかして私がデートしているところ見たから、それで気を使っているわけ?」

「まあ、そんなところかな」

 美波は少し驚いた顔をする。

「へー、佐藤君でもそんな事を気にするんだ、意外。でもね、その変な気の回し方は余計なお世話」

「余計なお世話ですか。そうだね、自分でもそう思うよ」

 翔太がぎこちなく笑みを浮かべると、美波は彼のその笑顔について若干の違和感を懐きはしたものの、これまでの彼との付き合いから、その笑みの意味をただの照れ隠しだと受け止めた。

 一方、翔太が本当に聞きたかった事は、自分の下駄箱に時々入れられている嫌がらせの手紙の件であった。しかし、その事をよくよく考えてみると、明らかに嫌がらせの対象はこうして美波と朝練を共にしている自分自身であり、彼女の周りで特段の異常がないのなら、嫌がらせの手紙の件を彼女の耳に入れるのは余計な心労になると思った。

「でも、ありがとう。私のことで気を遣ってくれて」

「まあ、一応友達だしね。あのデートの時のような無神経な対応はできないよね」

 そんな翔太の言葉に、美波は冗談半分といった感じで口を開く。

「ふーん、佐藤君は友達じゃない人には無神経な対応してもいいと思ってるんだ」

「別に誰に対しても無神経な対応を取ろうとは思っていないよ。ただ、あの時は早川さんには嫌われてもいいと思っていたからね」

「ひどい人。あの時、私が怒っていたのに美味しそうにパフェ食べるし、君がどういう神経しているんだか、本当に分からなかった。まあ、今も佐藤君のことはよく分からないけど」

「そんなよく分からない奴とこんな風に朝練を共にさせるんだから、早川さんは変わっているよね。罰ゲームとは言え、僕が早川さんの立場なら朝練を一緒にやろうとは思わないけどなぁ」

 そこで美波がいつものように百メートル走のスタートラインに向けて歩き出すと、翔太もその後を付いていく。

「そうかな? いつも駅前で眠そうな顔して突っ立っている君には、この朝練が十分罰ゲームになっていると思うけど? それに私の命令で、あの締まらない顔をさせているかと思うと、何だか悪くない気分になるんだからいいのよ」

「僕って、そんな締まらない顔をしてるの?」

「してるよ。今日もだけど、今週は特に締まらない顔をしてた」

 翔太は締まらない顔で駅前に立つ自分の姿を想像してみる。

「そんなマヌケな顔を好きな人には見られたくはないなぁ」

「へー、佐藤君は今、誰かに恋してるんだ」

「いいや、ただの例え話だよ。もしも好きな人がいたらって話」

「なんだ、つまらないの。佐藤君がどんなタイプが好きなのか、少し興味があったのに」

 二人はいつものようにスタートラインに立つと、しゃがんで両手を地面に着き、腰を持ち上げる。

「でもさ、こうして私と朝練しているから、私たちのあらぬ噂が広がっているみたいだけど、佐藤君はそれ気にならないの?」

「気にしても仕方ないよ。今、君が僕の好きなタイプに興味を示したように、僕だって他人のことを気になるからね。早川さんのように美人で目立つ人と一緒にいれば、周りから興味は持たれるもんでしょ」

 美波が横目で見る真横の翔太の顔、その表情は困り笑顔といった感じだった。そんな彼の横顔に対して、彼女の心の中では自然と申し訳ないと思い、次の瞬間、その事に気がつくと自分の気持ちの在り様に驚きと、なぜか戸惑いも覚えていた。

「なーに、この僕らのことで噂になっているんだとしても、誰かに片思い中でもないから特には困らないんだけどね、僕の場合は」

「あー、そうですか――よーい、どん」

 美波が懐く翔太に対する印象は、これまでと大きく変わっておらず、彼女の心の中には翔太への不信感や妬みが存在し続けている。それでも半月もの間、こうやって毎朝のように顔を突き合わせて世間話程度の会話を交わしていたら、よっぽどの事がない限りはその相手に少しくらい情がわく。

「ねえ、佐藤君」

 二人で百メートルを全力で駆け抜けた直後、美波は両手を膝にやっている翔太の正面に立った。それを受けて翔太は顔を上げようとするけど、即座に美波の両手に頭を押さえられた。

「私たちはお互いが納得してこの朝練をやっているんだし、君が私たちの噂話のことで私に対して必要以上に気を遣うことはないと思う。ほら、私たちは友達なのだから、そこら辺というか、周りの目みたいなのは別に気にすることはないよ」

「わかった。分かったから、その手を放して」

「イヤだ」

 他の人にしてみたら他愛のない言葉だったかもしれないが、翔太の頭を押さえている美波にとってみれば、男の子にこんなにも自分の気持ちを素直に言葉にしたのは初めての事であり、彼女自身で自覚できるくらいには顔全体が熱くなっていた。

「そうだ、佐藤君に命令!」

「えっ、今なの?!」

「絶対に今じゃなきゃダメ!」

 悲鳴にも似た美波の切羽詰まった声に、翔太は溜め息を吐いて全身の力を抜いた。

「分かりました、何なりとご命令くださいな」

「それじゃ、心の中で百数えるまで目を閉じてなさい。途中で目を開けていたら絶対に許さないんだから!」

 美波に言われるがまま、翔太は目をつむる。徐々に頭を押さえていた力が弱くなっていき、やっと頭を上げられると、美波の両手は翔太の髪を撫でて離れていった。暗闇のなか数をかぞえていると、地面を蹴る足音が遠ざかっていく。

「まさかの放置プレイ?」

 そんな事を呟きながらも翔太は、目をつむり律義にも百まで数えるのだった。

 一方の美波はといえば、自分の照れくさい気持ちが抑えきれなくて慌てて翔太から離れていく。不意に口を突いた飾らない言葉、それをただの同級生に過ぎない翔太に対して発してしまった事は彼女にとって、完全に予想外の出来事であった。

「……えっ、いま私、佐藤君に気を許しちゃっていた? いや、でも、今のは心配してくれた相手に普通に言う言葉でしょ……」

 振り返り、グランドにポツンと一人立つ翔太を見ると、なんとも言えない恥ずかしさが美波の胸の中に溢れてくる。

「なに動揺しちゃってるわけ、私」

 あの体育倉庫の件からというもの、翔太と事があるごとに、自分の気持ちが大きく揺れ動かされるのを美波は自覚していた。それは事があるごとに、彼女が自分の駄目な部分を痛いくらい自覚する結果になりがちで、その駄目な部分を翔太にさらけ出す結果になるからだ。だから、体育祭での罰ゲームを何にするかを考えた時、翔太を彼女自身と一緒に朝練をさせることで、校内で注目の的にさせて少し困らせてやろうとした。なのに、周りで二人の色んな噂話は広がっていく中であっても、いつも平然としている翔太の態度は彼女にとって不思議であり、また、そこは目論見違いであった。

「しっかりしろ、自分。別に照れるような事はないのだから、大丈夫」

 美波は胸の前で両手を握りこぶしにして、小さく気合いを入れた。

 それから程なくして、百を数え終わった翔太が美波を呼ぶ声がグラウンドに響き渡り、慌てて翔太の元へと駆け寄っていく。

「あのね、佐藤君! グラウンドで、『次の命令はなんですかー!』とか、叫ばないでくれる。それこそあらぬ変な誤解をされるでしょ!」

 強気な態度で抗議をする美波に対し、翔太はひるむことなく微笑みで返す。

「あらぬ変な誤解って?」

「それは……何にも事情を知らない人が『』とか聞いたら、私が佐藤君を子分みたく命令して従わせているみたいでしょ」

「この罰ゲームの期間中、僕は早川さんの子分みたいなものだと思うけどね」

「そうかもしれないけど、同級生を従属させて命令しているなんて勘違いされたら、あまりに印象が悪すぎでしょ。そんな噂が広がるなんて最悪だわ」

「そこは気にするんだ」

 美波は翔太のことを恋愛の対象とは見なしていない。その事は翔太自身も重々承知しているが、それでも心の片隅では、一緒に噂話のネタにされている訳だから、少しくらい自分のことを異性として意識してほしいと、そう思ってしまうのであった。

「そこ以外に何を気にするの? 言っておくけど、君との関係を邪推されるのは私にとって別に困るような事ではないの。だって、佐藤君とはもう友達なのだから、こっちが気にするのも馬鹿らしいでしょ、そう思わない?」

 美波は翔太の目を真っ直ぐ見て言うと、力いっぱいの笑みを浮かべる。それが彼女に張れる精一杯の見栄であった。そんな彼女と相対することになった翔太は、今まで目の前の彼女を異性として見てきた気持ちよりも、そんな笑みを向けてきた美波に対して何とも言えぬ凜々りりしさみたいなものを感じてしまった。

「なによ、その間抜け面は。何か言いなさいよ」

「いや、そうやって僕のことを友達だと言い切れるのは格好いいなぁ、と思って」

「友達じゃなかったら、じゃあ、私たちの関係って何なのよ」

 美波の問いに対し、翔太は数秒間わざとらしく考えるポーズをすると、次にこう口を開いた。

「一ヶ月限定の、意地っ張り同盟ってところじゃないの?」

「……意地っ張り同盟?」

 翔太の口から思わぬ言葉が飛び出してきて驚いた美波であるけど、良く悪くも現在の二人の関係はお互いの約束で結ばれているから、感覚的に友達よりかは自分たちの関係を言い表していると思った。

「さすがに同盟なんて大げさでしょ。佐藤君は私との関係を堅苦しく考えすぎだと思うなぁ。そりゃ、私だって君に全面的に信頼を置いている訳でもないけどさ、でも、毎朝世間話するくらいには気を許しているつもりだよ」

「そう、それは嬉しく思うよ。でもまあ、同盟って言った方が何だか格好いいからね」

「何それ、バッカみたい」

 美波は可笑しくって声を出して笑う。それにつられるように翔太も笑みを浮かべた。

 しかし、翔太の本音としては、気楽に美波のことを友達と言える程には周りの目が気にならない訳ではないし、なにより自分自身に自信が持てなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る