第9話 金色の髪をした姫は活動的


 朝の空気がより涼しさを増してきた十月初旬。朝、人々が家を出始める頃の住宅街、紅葉前の街路樹が並ぶ歩道を制服姿の二人が駆け足で通り過ぎていく。ひとりはパッチリと身なりを整えて長い髪をなびかせている早川美波、その彼女の後に続くのが、寝ぼけ眼で揺れる金髪を眺めながら足を前に運んでいる佐藤翔太。こんな二人の登校風景が見られるようになったのはここ最近であり、もちろんこの状況を作っているのは体育祭で美波と翔太が行った勝負の結果である。

 話は数日前にさかのぼり、例の罰ゲームとして、美波から翔太へ最初の命令が下ったのは、体育祭の翌日、振替休日となった月曜日の夜だった。風呂上がり、突如とつじょ鳴ったスマホを手に取った翔太は、画面に表示された早川美波の名前に驚いた。なにせ、その時まで美波とはSNSどころか、電話やメールでのやり取りはした事がなかったのだから。突然のことに、動揺したまま翔太が通話を開始すると、スマホの向こうから落ち着いた声で「こんばんわ」と聞こえた。翔太も同様に挨拶すると、そこから美波が急に早口になり、翔太の翌朝の用事を確かめ、用事がないと分かると、翌朝から彼女の朝練に付き合うように言い、最後に「これは命令」と付け加えた。翔太は事情を理解すると彼女に了承したとの旨を伝えると、美波は待ち合わせ場所と時間を指定して、「それじゃ、よろしく」と言って通話を切った。いきなりの罰ゲームのスタートに翔太は面食らいつつも、美波と登校できる事は悪くないという思いもあったりした。

「あれ、今日は文句言わないんだね。昨日までは、この信号の辺りまで来る頃には、文句を一つや二つ言っていたのに」

「文句? どっちかと言えば愚痴だと思うけど」

 普段より登校時間が一時間以上も早まった上に、早朝ランニングをやらされているのだから、翔太の口から愚痴もこぼれる。

「愚痴ねぇ。なに、私と普通に登校できるとでも思っていた自分に対しての愚痴かな?」

「はぁ、そういう期待をしていた自分が嫌になるよ」

 完全に翔太をからかう笑みを浮かべる美波と、溜め息をついて首を項垂うなだれる翔太。

 それは翔太が美波の朝練に付き合わされる初日、待ち合わせの場所で二人が顔を合わせて美波から学校まで走って行くことを伝えられた時、翔太は自分が思っている以上に残念さがおもてに出てしまっていた。しかも、その事を美波に見透かされると共に指摘までされると、思わず頭を抱えて叫びたくなる程には決まりが悪かった翔太なのだった。

「ほら、佐藤君。信号変わったし、何日も前のことで項垂れてないで行くよ」

「はい、はい」

 信号が変わり駆け出す美波を、気を取り直して追いかける翔太。

 この早朝ジョギングは、駅前から学校という美波の通学路だから距離的には短い。しかし、朝練を定期的にやっていて早起きに慣れている美波とは違って、早起きに慣れていない翔太は、この朝練のおかげで生活リズムが多少なりとも崩れてしまい、その為に最近は寝不足気味であり、駆ける足取りは重たい。

 さて、二人が通う高校ではグラウンドを朝練で使用する事が認められているのだが、しかし、監督者不在である事を理由に競技用具の使用は認められていない。なので、出来る事といえば主に走ることくらいである。美波と翔太が学校に到着し、そのまま校舎内の更衣室でTシャツとハーフパンツに着替えて外に出てきても、グランドには数人の生徒が各々に運動をしているだけだった。

「相変わらず貸し切り状態だなぁ」

「そこがいいんじゃない。ロードとは違って人や車を気にしないで走れるのだから」

「本当に走るのが好きなんだね」

「うん、頬で感じる風を切っていく感覚は結構好きだよ」

 準備運動を済ませ、美波が付けている腕時計のタイムウォッチ機能を起動させると、二人はゆったりと走り出す。これからグラウンドを周回するランニングは、一周目をウォームアップとして軽く流す程度に走り、二周目以降は一周の目標タイムを設定して走って行く――というのは、日々ちゃんとトレーニングしている美波だから出来ることであって、瞬発力はあっても長距離が不得意な翔太には、淡々と足を運んでいく彼女の背中を追うので精一杯なのであった。当然、時間が経つにつれて二人の距離は離れていき、ランニングを終える頃にはグラウンド一周分くらいの差になってしまう。

「あと、ひゃく! ラスト、ラスト!」

 そんな掛け声を掛ける余裕がある美波と、歯を食いしばって走りきった途端に両手を両膝に突いて肩で息をしている翔太。

「……毎度の、ことながら、こんな、くるしい、なんて……」

「昨日も言ったけど、無理して私に合わせる事もないのに」

「ただの意地。短距離をやっている君に中長距離でも負けたくない」

「変な理屈。まあ、中長距離なら私も香菜に張り合って敵わないけどさ、そんな無理をしたりはしないよ。君は運動部のくせに体力ないんだから、実力に見合った走り方をしないと怪我するよ」

 事実を言われて翔太は無性に言い返したい気持ちになりつつも、息が上がっていて感情に任せに言い返せる状態ではなかった。対照的に美波はぴょこたんと飛び跳ねていられる程に余裕がある姿を見せているのだから、美波と比べて翔太の体力がないのは明らかなのだが。

「そろそろ息は落ち着いてきた? 次の百メートルやるよ」

 つかの間の休憩を挟んで翔太の呼吸が落ち着いてきた頃、近くで軽くストレッチをやっていた美波に声を掛けられ、翔太は大きく深呼吸をする。

「まったく今のがウォーミングアップだなんて、この体力おばけっ」

「なに? なんか言った」

「いいえ、なんでもありません」

 翔太が向ける恨めしい目を見て見ぬふりをする美波。彼女が翔太に対して朝練に付き添うように命令したのは、体育祭の練習や本番を通して自分と同じくらい実力と見込んだ翔太ならちょうどいい練習相手になると思ったからだ。しかし、これは表向きと言ってもいい理由で、本音の部分としては翔太が本当に罰ゲームを履行りこうしてくれるかどうかを試したかったのだ。

「ねえ、佐藤君。佐藤君は私の言うことを何でも聞いてくれるんだよね?」

「まあ、基本的には。なに、この朝練以外の命令でも思いついた?」

「まだ思いつかない」

「じゃあ、なに?」

 百メートル競走のスタートラインに立つ二人。

「ただの確認。正直に言えば、ここまで朝練に付き合ってくれるとは思ってなかったから」

「一日か、二日でを上げるって思われていたのか」

「まあね。なにせ君は部活を遊びでやっているそうじゃない。そんな不真面目な人が朝早く起きて私の練習に付き合うなんて事を長く続くとは思わないでしょ、普通」

「そこは早川さんの信頼を勝ち取りたいという下心があるからね、意地でも付き合うつもりだけど。でも、遊びでテニスをやっているのは本当だけど、だからといって不真面目に取り組んでいるつもりはないんだけどなぁ」

 二人は地面に両手を突いてクラウチングスタートの体勢になる。

「不真面目でなかったら何だと言うんだか――位置に就いて、よーい、どん」

 美波の掛け声と共に二人は飛び出す。スタートダッシュは短距離の競技者である美波が風に流される木の葉のようにスーッと駆け出し、一方の翔太はクラウチングに不慣れなこともあって若干出遅れてしまう。それでも翔太も運動部に所属している男子、トップスピードに達する頃には美波と肩を並べる。しかし、そこから走りが伸びてこない翔太とは違い、トップから伸びがある美波はあんまり失速感を感じさせずに走りきる。

「ハァ、ハァ、やっぱり追い抜けないかぁ」

「当然でしょ、君とは鍛え方が違うのだから」

「だけど、それだけ走れても県大会止まりなのだから、上には上がいるんだなぁ」

「悪かったね、県大会止まりの選手なんかの練習に付き合わせちゃって」

 美波の幾分かの怒りのこもった声が翔太に向けられる。

「ん? あー、今のは別に嫌味を言ったつもりはなくて、ただ思ったままの事を口にしただけ。でも、気に障ったのなら謝るよ――ごめん」

「私、別に怒ってないからっ」

 無神経に発せられた翔太の言葉に美波が突っかかるのも当然ではあるが、彼女自身の心の中では、翔太が発した言葉で違うコンプレックスにも引っ掛かっていたりする。

「怒ってないなら、そんな怖い顔で詰め寄ってこないで」

「分からないのっ。なんだか君の言葉が無性にムカついたのだから仕方ないでしょ」

 美波は翔太を睨みつけると、まとめた後ろ髪を振り回してスタートラインに戻っていく。

「無性にムカつくと言われても困るよ、お姫様」

 翔太はそう呟き、美波のあとを追う。

 その後、ほかの生徒が登校してくる頃まで何本か百メートル競走を繰り返すと、朝練を切り上げる時には、手を腰に当て口呼吸をしている翔太と、一方の美波は何事もなかったような様子で校舎の中に入っていく。そして、更衣室でそれぞれ制服に着替えると、各々おのおのに自分の教室へと向かうというが、この数日間繰り返している二人の行動パターンとなっていた。

 今回の罰ゲームでは、朝練を頻繁に行っていた美波の生活には大きな影響はなかったが、しかし、生活のリズムが変わってしまった翔太にとって、朝練の疲れからくる睡魔と戦い続けて午前中の授業を乗り越えた昼休みは、昼食後に図書室で昼寝をするのが日課になりつつあった。

「――今度の休み、俺とどこかに遊びに行かない?」

「そうですね、先輩には部活でお世話になっていますし、一回ぐらいならデート、してあげてもいいですよ」

 図書室の片隅にある衝立ついたての付いた机で、突っ伏していた翔太の耳にそんな男女の話し声が入ってきた。目をこすりながら頭を上げ、体を背もたたれにもたれ掛かけて声のしている方向を見ると、そこには背の高い男子生徒と楽しげに話す美波がいた。

「本当? ありがとう」

 嬉々ききとした表情をしている事が、顔を見ないでも分かる男子生徒の声。それに対する美波は翔太の前では絶対に見せないような愛嬌あいきょうをふりまいている。

「へー、そんな愛嬌のある顔もするんだぁ」

 翔太の思わず出た呟き、その小さな声に美波は眼だけを動かし反応させた。途端、両者の目が合い、翔太は慌てて先ほどまでとっていた姿勢で狸寝入りをかます。

「ん、どうした? 後ろで何かあった?」

「いや、別に何もないです。それであのー、あそこに寝てる人もいる事ですし、この話はこの辺で。あとの話は放課後にでもしませんか?」

「そうだね。ごめんね、こんな話で呼び出しちゃって」

「いいえ。私、ちょっと探したい本がありますので、先輩は先に戻ってください」

「ああ。それじゃ、また放課後にな」

 背の高い男子生徒は美波に対して微笑みを向けると、図書室を出て行った。

 美波は男子生徒を笑顔で見送ると、頭を低くしてその場から離れようとしている翔太を目で捉えると、若干歩幅を大きくして近づいていく。

「ちょっと佐藤君、こっちは見られて困るような事はしていないんだから、黙って行こうとしないでくれるかな。そうやって、コソコソされるのは気分が悪いんですけど」

「そうは言うけどさ、ああいう場面のあとで反応に困るのは見られた方だけではなく、見ちゃった方も困るって分かる?」

「私は別に困らないけど? 佐藤君も普段通りにしてくれればいいのに」

 あっけらかんとそう言う美波と、気が抜けた顔をしながら立ち上がる翔太。

「君にとってはデートに誘われるのが普通だとしても、こっちはそういう場面で普通でいられる程には場数を踏んではいないの」

「あー、なるほど。つまり佐藤君は、私がデートに誘われているところを居合わせて、照れくさくなっちゃったんだね」

「ハァ……そういう事です」

 なんとなく美波に対して羨ましさを覚えつつも翔太は、一方では自分が美波をデートに誘ったらOKしてくれるかどうかを考えていた。しかし、どう考えてみてもデートの相手を選び放題であろう美波に自分が選ばれる理由はないという毎度お馴染みの結論に行き着き、そして、不毛だと分かっていても毎度同じ事を考えている自分の心がなんとなく可笑しく思えた。

「急に笑顔になっちゃって、なにか可笑しかった?」

「いや、ただ自分の経験の無さが可笑しくなっただけ」

「そうなんだ」

「そうだよ――それじゃ、また明日。僕はそろそろ教室に戻るよ」

 自分を含めた多くの人が容姿の良い異性とデートをしたいと思うのは至極当然のことだと頭では分かっていても、できる事なら自分は相手のことを好きになってからデートに誘いたいと思っていたりする、そういう夢見がちなところがある翔太なのでした。

「うん、また明日」

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