第8話 最初の一歩?

 秋晴れとなった体育祭本番当日、歓声に包まれるグラウンドではつつがなくプログラム通りに進んでいる。そんなにぎやかなグラウンドとは打って変わり、誰もいない校舎内では時折遠くで聞こえる歓声が響いては静かになっていく。

「えーと、救急箱はと――あった、あった」

 金色のロングヘアーに赤いハチマキを巻いた早川美波は、保健室の棚から救急箱を取り出すと、丸イスに座らせたひざひじにすり傷を負った佐藤翔太を見る。

「ちゃんと消毒しないと。それに、まだ血がにじむから大きい絆創膏貼っておこう」

「あとは自分で出来るから。もう早川さんは戻っていいよ」

「それはダメ。先生に佐藤君のことを頼まれたんだし、ここで放ぽって戻ったりしたら私の評判が落ちちゃうでしょ」

 美波は机の上で救急箱を開くと、処置に必要な消毒液とかを並べる。

「こうやって保健室にってくれただけで十分だと思いますが?」

「それで許されないのがこの美貌で生まれてきてしまった者の呪縛かなぁ。ほら、人は有名人とか注目を集める人間に対してある種の清廉せいれんさを求めるじゃない。だから、下手に早く戻って冷たい人間だって噂されるのも嫌なの」

「それはご苦労様。それじゃ、肘の消毒頼める」

 翔太が傷ついた方の腕を折り曲げて傷口を見せると、美波は机のティッシュ箱から二、三枚を取り出して肘の傷口の下に当てる。そして、消毒液の容器を強くまむと消毒液が射出され、傷口とその周りを濡れさせた。一方の翔太はと言えば、消毒液を傷口にかけられ顔をしかめる。

「それにしても、君にとってはしい勝負だったよね。さっきのリレーは」

「……そうね。あともうちょっとトップでゴールができたはずだったのに、転倒に巻き込まれてこの有様だからなぁ」

 アンカーを任されていた翔太は二位でバトンを受け取ると、前を走るランナーを最終コーナーで追いつき、そのまま外側から追い抜かそうとしていたら、その前のランナーがバランスを崩して転倒してしまう。翔太はそのランナーを避けようとして飛び越えたまでは良かったのだけど、残念ながら着地に失敗してしまった。突っ伏した翔太が顔を上げた時には、長い金色の髪を揺らしながら美波がゴールテープをトップで切るところだった。

「しかも、巻き込んだ方より巻き込まれた方が傷だらけ。本当にいていないよね」

 消毒液を軽く拭き取りと、笑みをこぼしながら美波は傷口に絆創膏を貼る。

「ありがと。膝は自分で出来るから」

「そう」

 翔太が膝の処置をし始めると、美波は保健室の洗面台で手を洗う。

「佐藤君さぁ、あの私たちの勝負の件は本気だったの?」

「もちろん本気だよ。なに、冗談っていう事にしてくれるの?」

「まさか。勝負は勝負だし、負けた君には勝った私の言うことを聞いてもらわないと」

 本当はその場限りの戯言きょげんだと思っていた美波ではあったけれど、それを翔太に悟られてしまうのも何だか面白くないような気がして、つい見栄を張って話を合わせてしまう。

「だよねー。でもまあ、僕が持ちかけた話だから異論はございません」

「ここで勝負が無かった事にしようとしたら、本当に男らしくないもんね」

 そこで美波は鏡の写る自分の顔を見て、手を洗う水の音が聞こえなくなる程に驚いた。なにせ、未だに美波のなかでの翔太は自分の弱みを握る用心するべき存在であり、そんな警戒している相手の前なのに緊張感なく微笑んでいたのだから。

「もう、いつから……」

 美波がもう一人の自分に問いかけたような呟きは、翔太の耳には届かなかった。こんな事で落ち込みそうになりつつも美波は、もう一人の自分とにらめっこしながら表情を引き締める。

「それで、早川さんは僕に何をさせる気?」

 美波は蛇口の水を止めて、手をハンカチで拭いながら振り向く。

「明日から一ヶ月間、私に絶対服従してもらいます」

「あれ? てっきり僕は体育倉庫のことを口止めされるのかと思っていたのだけど」

「だって、ここで君に口止めをしたところで君が誰にも喋らないという保証にはならないじゃない。であれば、こういう罰ゲームぽいものを選んであげるのが、私にアプローチしてきた君に対しての最低限の礼儀でしょ」

 膝の傷を処置している翔太は翔太で内心、自分に対して疑念を懐いているはずの美波がこの話にここまで乗ってくるとは予想外ではあった。本番では散々な結果となったリレー勝負であったけど、本番前の練習での感触も負けが濃厚ではあったから、口止めの命令をされる覚悟はしていた。だから、美波が疑念を懐いている自分とより接点が増える命令をしてくるとは夢にも思いもしなかった。

「それは礼儀なの? まあ、お手柔らかにお願いしますよ」

「罰ゲームだからね、君には少々嫌なことをさせたいと思っていたりするけどね」

「少々嫌なこと? パシリにでもする気?」

「そんなあからさまなイジメみたいなマネをしたら、学校での私の評判が悪くなるだけでしょ。それとも何、君は私にイジメられたいわけ?」

 翔太が膝に絆創膏を貼り終えると、美波は消毒液の容器とかを救急箱にしまい、その救急箱を元にあった棚に戻す。

「残念ながらイジメられて喜ぶような性癖は持ってはいないよ。それでも勝負をしようと言い出したのは僕だし、早川さんが一ヶ月間の絶対服従と言うのなら、僕はできる限り君の言うことを聞くつもりだけど」

「ずいぶんと従順な態度じゃない。てっきり君は今回の勝負で負けたら、罰ゲームのことは無かった事にするんじゃないかと思っていたんだけど」

「本当に信用をされてないなぁ。まあ、自分が負けて冗談だと言うくらいなら最初から勝負はしないよ。どんな勝負だって、負ける事があるから勝ったときの喜びもあるんだし」

 美波が座ったままの翔太の前までくると、翔太は屈託のない笑顔を向ける。そんな悪気のなさそうな彼の表情を目の前にしてしまい、彼女の心の中では、どうしようなく彼に対して疑念を懐き続けてしまう事への後ろめたい気持ちが大きくなっていく。一方で自分が彼に理不尽な疑念を向けてしまっている事は認識していても、やっぱり目の前の彼に秘密をバラされてクラスで疎外感は味わいたくないという気持ちも確かに存在していた。

「それじゃ、君は明日から私の言うことを何でも聞いてくれるのね?」

「あくまでも僕に出来る範囲でね。いくら罰ゲームでの絶対服従とは言っても、君の命令には常識の範囲以内でしか聞けないし、無理な命令ならちゃんと無理だと言わせてもらいます」

「仕方ない、それくらいで許してあげる」

「それはどうもありがとう。では、そろそろグランドに戻りますか」

 相も変わらず笑顔を向ける翔太に、思わず溜息を吐いてしまう美波。そんな美波に対して、椅子から立ち上がり出入口に向かおうとしていた翔太が立ち止まって振り返る。

「ああ、早川さん」

「なに?」

「僕に言いたい事があるなら、ちゃんと言ってくれると助かります」

「言いたい事って、何よ?」

「僕らが初めて話した時、早川さんは誰かに話してほしくない事を口走ったじゃない。あれはプールの出来事からの流れで、誰にも言ってほしくないのだと分かったけど、あの高圧的な態度だと君の意図するところでは受け取る事ができなかったかもしれない。正直、プールの件は下手したら君から喧嘩を売られていると思っちゃったかもしれないから」

 誰にも言わないでほしいと伝える事は、相手に弱みを握らせる事になるから、信頼できない奴にそんな真似を出来る訳ないじゃない――それが、瞬時に美波が思った事だった。

「それくらい察してよ。もう私たちは高校生なんだからさぁ」

 美波は面倒くさそうに翔太を交わして、引き戸の取っ手に指を掛ける。

「高校生であろうと大人であろうと、ちゃんと言葉にしてくれないと分からない事はあると思うよ。僕と君とでは価値観が違うところがあるんだから、僕が君の言動の意図を読み違えて誰も望まない結果になる可能性だってあるから、だから、こうやって言っています」

 保健室を出て行く美波のあとに続いて行く翔太。目の前の彼女との信頼関係が築けていない現在、自分の言葉は簡単には聞き入れてはくれないだろうと思いつつも、これから彼女と交友関係を築いていこうとするなら、少しでも誤解を生まないようにしたいと思った。

「佐藤君、それくらいの空気も読めないと、後々人間関係で苦労する事になるよ」

「うん、まあ、それはそうなんだろうけど」

「なによ、それ。こっちは親切心で言ってあげたのに」

 美波があまりにキッパリ言うものだから、翔太は目の前の彼女にこれ以上言ったところで聞く耳は持たないだろうと思った。

「わかった、その親切心は素直にいただいておきます。それに、これからは君と接する時にはできるだけ空気を読むようにはする。だから、その上で僕から一つだけお願いがあります」

「お願い?」

 美波は立ち止まるとそのまま振り返り、無理矢理表情を引き締めて翔太を見る。外見では何でもない風を装っている彼女ではあるが、その内心では弱みを盾にどんな要求をされるのかと戦々恐々であった。

「そう、お願い。僕は、僕と早川さんが初めて出会った時の事を他言しない事を約束するから、早川さんは僕に他言しないようにお願いしてくれないかな」

 静まりかえった廊下に翔太の声。美波は今にも目眩めまいを起こして倒れるのはないかと思うぐらい気持ちが揺れた。それでも、その心の動きを目の前の彼には悟られまいとして、美波は普段通りであるかの様に虚勢きょせいを張るしかなかった。

「なに、私は土下座でもすればいいのかな?」

「いや、さすがに怪我の手当てをしてもらった相手に土下座なんてさせられないよ」

 困惑を含んだ笑顔になる翔太。

「ただ僕は、このまま雰囲気に任せていても事は落ち着かないだろうから、友達として早川さんとの関係をここでちゃんと約束をする事で一区切り着けたいと思っただけ」

「――本当に? 本当に誰にも言わないんでしょうね」

「うん、誰にも言わない」

「絶対の絶対に?」

「絶対に言いません」

 そこで会話は止まり、二人の間に若干の静寂の時が訪れた。

 今の状況的に翔太が自分に歩み寄ってくれているのは美波も理解している。それでも次の行動に移すには、彼女の中の恐怖心や虚栄心を無理やり抑え込み、それなりの勇気を振り絞る必要だった。

「わかりましたっ」

 美波は自分の前髪を撫でるように触れてからそう言うと、翔太の目を見る。

「あの体育倉庫で私が口走った事はどうか誰にも言わないでください。お願いします――どう、これでいい」

 美波は淡々とした口調で頼んだ。

「うん、ありがとう。これでちゃんと他言しない理由ができたし、納得して約束を守れるよ。それにモヤモヤとした気持ちも晴れたかな」

「佐藤君、もしかしてこれで私の君への疑念も消えたとか思ってないでしょうね。これくらいで人の気持ちはそう簡単には変わらないんだから」

「うん、別にそれで構わないよ。今、早川さんにお願いしてもらったのは、ただ僕が納得しておきたかっただけだから。それに疑念を懐き続けてくれるなら、たまに君みたいな美人とこうやって話しができるし、それはそれで悪くはないと思ったりもして」

「――やっぱり、君は最低だよっ」

 翔太のことを思いっきり睨みつけると、ついて来ないでオーラをバンバン出しながら美波は昇降口に向かって歩いて行った。

「これで罰ゲームの件も無かった事にならないかなー」

 翔太は体育倉庫の件を他言する気は更々なかった訳だけど、どうして一歩踏み込んだ行動を取ったかと言えば、雰囲気に任せた不安定な関係ではなく、約束というお互いの信頼を預け合うことで、少しでも二人の関係が良くなればいいと思った。一方で、彼が踏み込んだ行動に出たもう一つの要因としては、いつまでも自分に対して疑念を懐き続ける彼女への不満もなかった訳ではない。

「まあ、やっぱり最後の一言は余計だったかな」

 美波と他言しないと約束する事で信頼関係を構築する足掛かりに出来たかもしれないと、美波に置いて行かれて一人で昇降口に向かう途中で思ったりもしたが、最後に余計な一言を言っておいて信頼関係もないよなぁ、と思い直す翔太なのであった。

「それにしても、美人さんは怒った顔も絵になるもんだな。あれはモテるよなぁ」

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