第6話 姫と引き立て役
夏休みが終わり、二学期が始まって間もない九月上旬。日中の日差しは未だ強く、午後の授業が終わる頃でも少し動いただけで汗ばんでしまう。
そんな夏の余韻が残る放課後のグラウンドに、体育祭の学年別クラス対抗リレーに出場する一年生達が、練習のために徐々に集まってくる。その各クラスによって色の違うハチマキをつけたリレーの選手が集まってくる中に、金色の長い髪を後ろでまとめた早川美波の姿や、同じクラスの男子らとじゃれ合う佐藤翔太の姿もあった。
その体操着姿の生徒達から相手を認識したのは美波の方が先で、意外そうな顔で翔太の姿を見つめる。
「佐藤君もリレーの選手なんだ」
「――そうだよ」
「っ!!」
いきなり自分の独り言に返事が返ってきた美波は、身体をビックンと跳ね上がらせ、小さく悲鳴を上げた。すぐさま声のした方向に顔を向けると、そこに立っていたのは、ボブヘアーに緑のハチマキをつけ、若干驚いた顔をした綾瀬香菜であった。声の主が判った途端、引きつった美波の顔は、一気に安堵した表情にへと変わる。
「なんだよぉ、香菜か。もう、ビックリさせないでよ」
「あー、ごめん。そんなに驚くとは思わなかった」
「独り言に返事があったら誰だって驚くでしょ、普通」
「ごめん。ついね、美波の独り言が聞こえたから返事しちゃった」
美波と香菜はそんなやり取りをしながら、リレーの選手が集まる輪から少し離れたところに移動する。
「相変わらず気にしてるね、佐藤君のこと」
「そうだよ、気にしている。だって、私が
美波が冷静にあのデートを振り返ってみると、翔太に彼女自身の自分勝手さや往生際の悪いところ、最後には女性の部分を武器にしようとしたりと、自分でも考えられない程の醜態を晒してしまい、その事を考える度に自分であの時の自分を消し去りたい気持ちになってしまうのであった。
しゃがんで地面を見つめる美波と、彼女の隣に立ち集まってくるリレー選手達を眺める香菜。そんな美波と香菜は同じ陸上部という事もあり、二人が集団から離れている事を他の選手達はあんまり気に留めていない。
「ハァ……佐藤君とは顔を合わせたくないなぁ」
「あんたから友達になりましょうとか言っておいて、それを言うか」
「だって、男子とどう付き合っていいのか分からないんだもん」
「別に友達なんだから、挨拶と世間話くらいしたら? そこは男女関係ないだろうし」
美波と翔太はあのデート以来、二学期が始まってからも顔を合わせていない。それはクラスや部活も違う二人なのだから顔を合わせないのは当然とも言えるが、裏を返せば双方が積極的に交流を図ろうとしていない事を示していた。
「あの時、どういうつもりで佐藤君は私の提案を受け入れたんだろう」
「私が知るか。まあ男子にとってみれば、美波みたいな美人の連絡先を知っておいて損はないからねぇ」
「ハァ、佐藤君が他の男子にメルアドとか教えていたら、どうしよ」
「そういう心配かい。美波は本当に佐藤君を信用していないんだね」
美波は顔を上げて、同じ緑のハチマキを巻いた男子たちと話している翔太を目で捉える。
「よく分からない人をどう信じろって言うの。おまけに弱みを握られている相手なのに」
「あんたの気持ちも解らなくもないけどね。でも佐藤君にしてみたら、勝手にあんたの弱みを聞かされて、それで何だかんだと文句を付けられてくるのだから堪らないね。あのデートの時に彼が怒鳴らなかったのが不思議なくらい」
「香菜はどっちの味方なの?」
「もちろん美波の味方。でもね、美波から疑念を懐かれつづける佐藤君には同情する」
「そう」
美波自身も翔太に対して疑念を向ける事は理不尽だと分かっているが、それでも秘密が露見した場合の恐怖心には抗(あらが)えず、どうしても翔太に対する疑念を抱えたままでいる。美波はそんな弱い自分が嫌ではあるけれど、問題解決に向けて進める脚は重たく動きは鈍いのであった。
「もー、なにもかも面倒くさい」
「面倒くさいよね、誰かと関係を築くのは。それでも、私らみたくダメな自分を見せ合える関係もあるのだから、人と関係を築くのは面白いんだけどね」
「今の私はそんなにポジティブになれないもん」
「これに関して言えば、大事なのは美波がどうしたいかだよ。私に協力できる事なら協力してあげるから、思う存分悩めばいいよ」
香菜は美波の前に立つと、中腰になって手を美波の顔の前に差し出す。
「私はもう悩みたくないんですけど」
「でもさ、こういう悩み事はなんか青春っぽくていいじゃない」
美波が香菜の手を握ると、香菜は握られた手を握り返し、美波を引っ張り上げて立ち上がらせる。
「香菜は悩んでいる私を見て、ただ面白がっているだけでしょ」
「うん、そうだよ。こないだのデートで佐藤君の反応とか見ていたら、あんまり心配する必要もないかと思ったしね」
「だから、どっちの味方なのよ」
「だから、あんたの味方だよ」
二人はリレー選手が集まっているところに向けて歩き出す。
「美波、あんたが佐藤君を相手に独り相撲を取っているくらいは解ってるよね?」
「……うん。そうだよ、今は私が勝手に空回っているだけだもん」
「そういう認識ならさ、佐藤君に秘密のことを口外しないようにちゃんとお願いしてみたら? まあ、この前のデートとは順序が逆のような気もするけど、佐藤君は秘密のことを利用して何かを企んではいなさそうだったし、すぐに許諾してくれるでしょ」
「佐藤君はデートに香菜が付いてきていたのを知っていたし、私みたく猫を被っているのかもしれないじゃない」
「頑(かたく)なだねぇ、あんたも」
「そんな事、自分がよーく分かってますよーだっ」
美波は拗(す)ねたような言い方をすると、スタスタと香菜を置き去りにして澄まし顔で選手達の中へと入っていた。
美波たちが合流して間もなくして、リレーを指導する体育教諭が現われた。準備運動してからバトンの受け渡しを指導されて、リレーの練習が開始される。このリレーは各クラス男女四名ずつ計八名で、七名がグランドの半周を走り、最後のアンカーが校庭を一週走るルール。そして、最初の練習では各クラスがテキトウに走る順番を選んだ結果、美波と翔太は揃ってアンカーを任される事になった。練習レースは無難に進んで各クラスはアンカーにバトンが渡り、翔太が三位、美波が五位でバトンを受け取る。美波は後ろ髪を左右に揺らしながら前の選手を次々に追い抜いていき、最後のカーブを曲がった時にはトップになっていた翔太と肩を並べると、更にスピードを上げた。翔太が追い抜かれ美波に存在に気が付ついた時にはゴールまで残り僅かで対応できずに、そのままゴールを許してしまう。
「かっこわりーぞ、最後に追い抜かれるなんて」
坊主頭に緑のハチマキを巻いた鈴木浩介が可笑(おか)しそうに言いながら、走り終えたばかりの翔太に近づいてきた。
「あのな、これでも全力で走ったんだぞ」
「佐藤が手を抜いてないのは見ていれば分かる。まあ、最後は慌ててフォームが崩れていたけどな」
「悔しいなぁ。抜かされたと思ったら変に力んじゃってさ、もしも上手く走れていたら抜き返せていたと思う」
「佐藤、それは負け惜しみだ。しかし女子とはいえ、さすが陸上部。前を走る男子達を次々に追い抜いていく姫の姿は華麗だった」
「ああ、そうかい」
赤いハチマキを巻いたクラスメイトに囲まれる涼しい顔をした美波を横目にしながら、翔太は自分のクラスメイトの輪に加わる。そのあと、各クラスがさっきのレースを受け、反省点や走る順番変更などの話し合い、新たな走る順番を決めると各クラスの第一走者がスタートラインに並ぶと、教諭の合図と共に第一走者の選手達が駆け出していく。
こうした練習をあともう一回繰り返し、この日の男女混合リレーの練習は終わった。
「なんで二回も順番を変えたのに、三回とも早川さんに当たるかなぁ? しかも三回とも追い抜かれるしさ、今日はツイていない」
「それが佐藤の運命かもしれないな。姫を華麗に見せる為の引き立て役としてのな」
翔太と浩介はリレーの練習が終わると、自分らの教室に戻ってカバンなどを持ち、部活で練習着に着替える為、制服には着替えずに体操着のままで廊下に出る。
「それは嫌な運命だなぁ」
「だけど、夏休みには溺れた佐藤を助けた事では姫の株が上がったし、お前は立派な彼女の引き立て役だろう」
「なに、僕が助けられた事で早川さんの評価上がってんの?」
「そりゃそうだろ、美人だけど人付き合いは控えめな彼女が、身体を張って人命救助をしたんだ。その普段から想像も付かない彼女の勇姿は、周りが姫の評価を上げる材料としては十分だろ」
「そんな感じになっていたのか」
現在、翔太の美波に対する認識は周囲の男子とは異なっている。以前の翔太も彼女のことをちょっとしたアイドル的な存在として見ていたのだけど、体育倉庫の件からの一連のやり取りで彼の彼女を見る目は冷めたものになっている。
「命の恩人なのに、お前は何で姫に感心がなさそうなんだ?」
「もちろん早川さんには感謝している。それに彼女のことを感心がない訳ではないけど、あのプールの件では溺れて彼女に助けられた情けない身だから、格好悪くて自分の噂話とか聞く勇気がないよ」
「その判断は正解だな。最初噂が流れた時には男女から
友人の前ではあるけど情報に
「早川さんは目立つ存在だから、あんな写真が広まれば色々言われるのは仕方ないけどね。でもなぁ、あの写真を撮られた場面だと、僕は早川さんの身体に密着しているけどさ、それなのに僕にはその記憶がないというのが何とも残念で仕方ない」
「最低だな、お前。そんな事を姫のファンに聞かれたらヤバいぞ」
「最低ねぇ、そうかもな。でもさ、男ならそう思ってしまうのは仕方ないでしょ」
「まあな、そう思うのは仕方ない。だけど、こんな誰が聞いているか分からない廊下で言う事ではないわな」
放課後の廊下ですれ違うのはリレー練習に参加した同級生に、校内で部活動をやっている生徒くらいで
「なーに、聞かれたら聞かれたらで別に構わないよ。それに助けられた時に印象に残っているのは、早川さんがシャツを着て、シャツの中から濡れた後ろ髪を掻(か)き上げて出すところぐらいだしな」
「お前はブレないよなぁ、女子のそういう仕草が好きなところ」
「本当は掻き上げられたサラサラの髪が背中に落ちていくところが良いんだけど、それでも濡れた髪は濡れた髪でなんだか色っぽくて良かったな」
残念ながら、そんなシーンを翔太は見てはいない。彼が本当にあの救出劇で思い返されるのは、動揺しきってしまい涙を流す美波の泣き顔に、トボトボと肩を落として去って行く彼女の後ろ姿くらいであった。
「姫が今の発言を聞いたらドン引きするだろう」
「大丈夫だ。お礼の商品券を渡した時にドン引きされているから、今の話を聞かれても僕に対する印象がさらに悪くなるだけだ」
「お前、姫に何か失礼な事でもしたのか?」
「僕が相手のことも考えずに自分に正直な行動したから、早川さんの気分を害しちゃったんだろうなぁ、たぶん」
翔太と美波の間ではデートの事は内緒にしておく約束はしてはいない。しかし、翔太がデートの事を誰にも口外しないのは、彼女と再び噂になるのが面倒くさく思っているだけなのかもしれない。または、美波に対して自分のデートでの態度を申し訳なく思う気持ちがあるからなのかもしれない?
「なんだ、それ? もっと詳しく教えろよ」
「お礼に商品券だけを渡したんだけど、そうしたら気持ちが込もっていないと言われた」
「それは気持ちが込もってないだろう」
「でもね、女子に何をあげていいのか分からないから、色々と悩んだ結果、それなら早川さんに自分のほしい物を選んでもらえばいいと思ったんだ。だけど、これが完全に失敗しちゃいました」
翔太はワザとらしく落ち込んで見せると、浩介が笑う。
「それが失敗したと思っている態度かよ」
「お礼選びを失敗したと思っているのは本当だけど、早川さんとはこれ以上関わる機会はないだろうし、だから彼女にどう思われようと構わないんだよ」
「もったいないなぁ、上手くやって姫とお近づきになれば、それ以上の関係になれるチャンスもあったかもしれないのに」
「なら鈴木は、僕と早川さんがどうにかなる可能性があると思うのか?」
「ないな」
「だろ」
翔太と浩介はそんな話を部室棟まで続けて、各々の所属する部室に入っていった。
現時点で美波と翔太との関係は友達とも言えない状態である。それは、自分に落ち度があるのも関わらず翔太に疑心を向ける美波と、世間の価値観に縛られ美波との関係を築くのを諦めた翔太、そんなどちらも相手側に一歩を踏み出そうとしない姿勢が、現在の二人の関係性を表わしている。
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