第3話 一人でダメなら二人で

 ピンポーン、ピンポーン――

 インターホンのチャイムがマンションの一室に響き渡り、早川美波はクーラーの効いた自室からだるい身体を引きずって、夕日が差し込み蒸し暑いリビングのインターホンに出る。その画面にはエントランスホールにいる綾瀬香菜が笑顔で手を振る姿が映し出された。

「やほー、美波。引きこもり姫の様子を見に来たぜ」

「私、引きこもってないし。今、エレベーターホールのドア開けるから」

「うん、ありがと」

 パジャマ姿の美波は玄関のドアを開けて、ジャージ姿の香菜を招き入れる。

「お邪魔します。って、少し顔色が悪い?」

「うんまあ、少し調子崩してるかな。でも大丈夫だから、とりあえず私の部屋に入って」

 二人は会話の場を美波の自室に移す。

「相変わらず綺麗に片付いているよねぇ、美波の部屋。脱いだ服も散らかってないし、本棚も綺麗に並んでる。私の部屋とは、えらい違いだなぁ」

 香菜は部屋を見回しながら、当然のごとく勉強机の椅子に腰掛ける。

「麦茶、机の上に置くからね」

「おお、悪いね。ちょうどのどかわいていたんだよね」

 美波が入れてきた冷たい麦茶を香菜は一気に飲み干す。そして、喉をうるおしたコップを置いた卓上には、ペン立てや教科書などが並び、スマホが充電されていた。その卓上の端っこに飾ってある写真立てには、正装をした家族四人の写真がある。

「そういえばイギリスにいる、おばさんと天才の弟くんは元気?」

「うん、元気にやってるみたいだけど」

 美波はベッドに腰掛け、そのまま上半身だけを布団に横たえる。

「ふーん、それは良かった。それで、あんたはどうしたの? 私らに黙ってプールから黙って帰ったかと思ったら、それから三日も部活休んじゃって。美波を怒らせる事をしちゃったんじゃないかって、先輩たちが心配してたよ」

「うん、黙って帰ったのは先輩達に申し訳ないと思っているし、別に怒っていない。部活を休んだのは生理がいつもより重たかったから」

「そう。プールに行った日の夜に電話掛けてきたきり連絡ないから、私も心配したんだよ」

「ごめん」

「それに連絡がないから、あの佐藤君と何かあったんじゃないかと思っちゃったじゃない」

「どうして、そこに佐藤君が出てくるの?」

「ん、昨日ね、この写真が出回っていたんだよね」

 香菜はハーフパンツのポケットからスマホを取り出し、SNSアプリを起動させて、画面に一枚の画像データを表示させる。美波が香菜からスマホを借りて画像を見ると、あのプールで美波が翔太を抱きしめている姿が映っていた。美波は驚きを隠さず香菜を見る。

「この写真、どうして」

「うちのクラスの男子が撮ったものなんだけど、昨日、私のところにも回ってきたんだよね。でもさ、美波も人命救助をやって黙って帰っちゃうなんて水くさいよね」

「人命救助? そんな事、誰が言ってるのよ」

「そこに写っている佐藤君だよ。昨日までは、あんたと佐藤君がプールでイチャイチャしている場面じゃないかという噂だったんだけど、今日、佐藤君が自分のアカウントで自分が溺れたところを美波に助けられたんだと言ったから、あっという間に噂は沈静化しちゃった――で、その納得いっていない様なその顔は、実際は違うの?」

「違くないけど、違うのっ」

「どっちなのよ」

 美波は重たい身体を起こすと、ためらいがちに三日前のプールでの出来事を香菜に説明する。あのブルーの世界で人形のようにピクリとも動かない彼の姿を目の当たりしたときの衝撃、プールから出た後に襲ってきた強い自己嫌悪の気持ち、今も続くどうしようもない程の後悔の念、今回の出来事を思い返す度に心は氷付けにされたように冷たくなりキシキシと痛む。それら全てを香菜に打ち明けた。

「それは苦しかったね」

 香菜は美波の話しを全て聞き終えると、美波を優しく抱きしめた。

「ちょっと、なに」

「私、こういう時にどんな言葉を掛けていいのか解らないけど、美波の苦しくて辛い気持ちは理解できたつもり。無理に問い詰めなければ佐藤君はプールに落ちなかったし、決断が遅れた佐藤君が死んじゃっていたかもしれない。そりゃ、誰だって自分のことを責めちゃうよ」

「でも、これは私の自業自得だから」

「それでも私は美波の友達だから、あんたが苦しくて辛い時には少しでも力になりたいんだ。大丈夫、これからも辛かったら私が今みたいに話しを聞いてあげるから」

「……いいのかな、そんなズルしても」

「なあに、神様だって気球上の生き物を逐一観察しているほど暇ではないでしょ。幸いにして美波も佐藤君も無事だったんだし、これくらいのズルは許してくれるよ」

「……ありがと、香菜」

 美波の目から次々に溢れ出した涙は、香菜の胸あたりに染みを広げていく。あのプールでの出来事以来、どうしようもできない良心の呵責かしゃくと後悔の念で精神的に追い詰められていく中でも、美波は泣くことをしなかった。それは罪の意識からくる苦しさや辛さと、どう向き合っていいのか解らずに気持ちの整理がつけられないでいたからであった。しかし、香菜に全てを話せて気持ちを理解してもらい、自分が苦悩している事を自認する事ができたことで、美波は少しだけ気持ちの整理がついたような気がした。

「そんなに怖かった? 水中の佐藤君を見たとき」

「……とにかく必死だったから解らない。怖いと明確に思うようになったのはプールを上がってから」

 泣いていた美波がようやく落ち着きを取り戻し、若干スッキリとした顔をしている。そんな彼女を見ている香菜は内心安堵していた。高校に上がってからの美波は連絡が取れない事がちょくちょくあったけど翌日か、酷い時でも翌々日には返事があり、今回のように返事が全く返さないという事はなかった。プールから黙って帰った事と翔太と映る写真で、そこで何かあったのだろうとは想像をしていたけど、美波が自分に涙を見せるくらいに悩んでいるとは思ってもみなかった。

「そうか――やっぱり、佐藤君のこと美波に教えないほうがよかったかな」

 美波の隣に座るTシャツ姿の香菜は、目をこする美波を横目で見る。

「ううん、教えてもらわなくても自分で調べていたと思うから」

「それで、佐藤君は雨宿りの時の件についてはなんて言ってた? 訊いたんだよね」

「訊いたよ。こんな下らない事って、言われた」

 美波はプール転落事件前に翔太と話しをしていた事柄を香菜に話す。美波は翔太を見かけて話し掛けようとした時には穏便に事を運ぼうと思っていた。しかし、実際に翔太を目の前にすると気持ちばかり焦ってしまい何だか初めから高飛車な態度になっていた。内心ではこのままではいけないと思いつつも、翔太の無愛想な態度にだんだんとムカついてきて、仕舞いには翔太を怒鳴り迫っていた。

「そりゃ、普通逃げるでしょ。佐藤君にしてみたら、あんたに絡まれたのも同じだし」

「……だよねー。誰にも言わないでほしいって、頼みたかっただけなのに、どうして高圧的な態度を取っちゃったんだろう、私……ホント、自分が嫌になる」

 ガックリとうなれる美波。

「そうだね、中学の頃の美波は女子のなかでの立ち回りは上手かったけど、男子に対する接し方は常に上からの物言いでキツいものがあったからねぇ。特に嫌いな奴には」

「うん、今なら少々男子のことを馬鹿にし過ぎだったと思うけど。でも、今回の事と関係ないでしょ」

「いや、あるよ。私から見て、早川美波という人間は基本的に男子と接するのが苦手なんだよ」

「私、別に男嫌いではないよ」

「そうでしょうね――じゃあ、苦手ではなく下手なら分かる? 女子が相手なら適切な距離が取れるのに、男子とは上手く距離感が掴めていないんだよ」

「確かに今も、中学の時も男子の友達はいなかったけど、彼氏は出来たことがあるもん」

「あんたに好意を懐いている相手だからね、多少のことは目をつむってくれていたんだと思うよ。それでも、どれも長続きしなかったけど」

「そうだけど……」

「まあ、このダメ出しはこの辺で終わり。今日は美波が心配だから様子を見に来たんだし」

 香菜はすっかり暗くなった窓の外を見ると、そこで会話を打ち切る。そして、両手を両膝にやってゆっくりと立ち上がり、椅子に掛かる美波の涙で濡れたジャージを取りに向かう。

「あのさ、香菜。お願いしたい事があるんだけどいいかな」

「ん、なによ」

 香菜はジャージを手に取り振り返ると、真っ直ぐ自分を見つめる美波と目が合う。

「私、プールの件はちゃんと佐藤君に謝りたいと思っているの。だから、その時は付き合ってほしい。また私が高圧的な態度を取っちゃって、佐藤君とトラブルになっても嫌だし」

「それくらいなら別に構わない。でも、私が一緒にいれば高圧的な態度にならないわけ?」

「一人よりかは知り合いの目があってくれたら、冷静でいられるような気がする……」

「そう。要は美波がまた佐藤君に高圧的な態度を取ったら、私が止めればいいわけね」

「そうは言ってないけど……そうはならないように努力します」

「頼むわよ、本当に」

 美波は自分と佐藤君の事なのに、そこに香菜の協力を得るのは情けなくて肩を落とした。本当は香菜に協力してもらう理由はもう一つあり、それは美波が翔太に一人で会うのが怖いのである。今回の件で翔太に責められるのは嫌だけど、美波はその覚悟はしている。それでも、もしも自分の態度次第で再びプールでの出来事のような事が起きたらと考えてしまうと不安でしょうがないのだ。

「さてと、久しぶりに美波の落ち込んだ顔も見たことだし、そろそろ帰りますかな」

「いじわる」

 美波が拗ねたような表情をすると、香菜はニヤッとイタズラを企むような笑顔になる。

「ああ、主将には美波はある男の子のことで頭一杯なので、あと三、四日はダメそうだって言っといてあげようか」

「そう言ったら絶対に許さないからねっ!」

「冗談だってば――でもまあ、良かったよ。佐藤君もだけど、美波も無事で」

 香菜は美波から語られた話を思い返しながら、美波の金髪がクシャクシャになるまで撫で回す。美波は素で目立つ存在であり、良くも悪くもいつも注目されてきた。だから、周りに舐められないように誰よりも等身大の自分より大きく見せようと背伸びしてきた。その影響で美波が男子に対して高圧的になってしまうのも仕方ないかと香菜は思っている。しかし、友達として言うべき事は言わないといけないとも思う。

「もー、なにするのっ」

「こうやって美波をいじれるのも生きている証なんだからね。今回の件は結果オーライだったけど、下手したら佐藤君も美波もが死んじゃってたかもしれないんだから、ちゃんと反省して肝に銘じときなさいよ」

 美波は香菜に頭を押さえられて香菜の表情は判らないけど、そのふざけた口調の中に真剣さも感じ取れて、香菜がどんなに自分のことを心配しているのかが痛いほど伝わってきた。

「分ってる」

「分ればよろしい」

 香菜の手が離れると美波は、自分に優しげな眼差しを向ける香菜を見つめる。

「なに?」

「ありがとう、心配してくれて。それに話も聞いてくれて」

「まあ、友達だしね」

 香菜はニコッと笑顔を見せると、美波もぎこちない笑顔を見せた。

「香菜は凄いよ」

 美波は玄関でスニーカーを履く香菜に対して言葉をこぼす。

「私が凄いの?」

「うん、凄い。私なんかすぐに自分の事で手一杯になっちゃうけどさ、香菜はどんな時も周りがよく見えている感じがする」

「それは買い被り過ぎね。美波、今はあんたが落ち込んでいるから、そう感じるだけ。普通の状態ならそんなことは思いもしないから、とっとと立ち直っちゃえ」

 靴を履き終えた香菜に両手で両頬を引っ張られ、美波は渋々頷うなずく。

「じゃあね、美波。早く体調が戻るといいね」

「うん、今日はありがとう」

 香菜が帰っていき玄関ドアが閉まる。

 美波は香菜にプールでの出来事を洗いざらい話すことができて、いままで上手く処理できなかった気持ちが幾分落ち着いた感じがした。それでも、面と向かって佐藤翔太に会うのは正直怖いけれど、でも、ちゃんと謝らないと心のなかの黒くて重たい気持ちの塊はいつまでも残り続ける気がして、それも怖かった。だから、美波は友人の力を借りてでも、前を向いて一歩目を踏み出そうとしている。いつか自分がこの件でこれ以上後悔をしない為に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る