第2話 負けん気の強い人魚姫
すこし長い梅雨が明けたのは、夏休みに突入してから数日後のことであった。
あの雨宿りの時の出来事は佐藤翔太にとってみれば些細な事でしかなかった。それなのに早川美波にとってみれば、あの時に口走った事を翔太が誰かに言わないかと心配で
午前中の部活動をこなすと翔太は、その足でクラスメイトの男子数人と近くの屋外レジャー施設にあるプールに遊びに来ていた。今日は快晴という事もあってプールはかなり賑わっている。その賑わいの中で十代半ばの少年達は全力で泳いでみたり、流れるプールでただ流されてみたりして遊んでいた。その合間には通りかかる水着姿の女性を見ては、お互いの女性の趣味を
「さすがに寝不足で部活とプールは疲れた。もう歳かな」
全身日焼けをした小学生達が元気いっぱいに駆け回っている姿を眺めて、翔太は
「なに、十五歳のガキが年寄りぶってるのよ」
すぐそばで女性の声がして翔太がそっちに顔を向けると、翔太の隣に麦わら帽子を被った美波が座っていた。翔太はなぜ美波が座っている訳が分からなかったが、麦わら帽子から延びる長い金髪に、幾重に猫の影がデザインされた大きめなTシャツの下から延びる引き締まった太ももに目を奪われる。
「やっぱり美人と言われる人はおしゃれに気を遣っているもんだね、どこに行くにしても」
「いきなり
「不躾なのはお互い様だと思いますが」
美波がなぜこの場所にいるかと言えば、陸上部の女子部員の先輩達に誘われてプールに遊びに来ていたのだ。午前中から散々遊び倒していたのだが、日焼けで肌が赤くなってきたから昼食後は部活の面々が遊んでいるのを見学していた。そしたら、たまたまベンチに座る翔太の姿を見かけて、自身の悩みの種を解決してしまおうと、気乗りはしないながらも翔太に接触を試みたのでした。
「あなたは何でここにいるの?」
「クラスの奴らと遊びに来た。早川さんこそ何でここにいるの?」
「私は部活の先輩に誘われたから」
翔太は美波の手首に身につけられた赤いヘヤゴムから、目の前を行き交う人々に目を移す。
「それで早川さん、こうやって話しかけてきたからは、僕に何か用があるんだよね?」
「そうよ。……あなた、あの時の事は誰にも喋っていないでしょうね」
あの時の事と言われて翔太は、あの体育倉庫で雨宿りした時の事だと思った。しかし、その時の発言で美波を面倒くさい奴だという印象を懐いたけれど、その発言内容はおぼろげにしか覚えていない。
「あの体育倉庫で雨宿りした時の事は、誰にも言っていないよ」
「本当でしょうね。その言葉が嘘だったら佐藤翔太君、あなたのこと絶対に許さないんだから!」
自分で大事な事を口走っといて、それを他人に言いふらしたら絶対に許さないと言われて、翔太の中で美波の印象は面倒くさい奴で固まった。ただ、印象が固まったのはいいのだが、美波が自分の名前を口にしたことに翔太は気になった。
「別に許してもらわなくてもいいけどさ、もしかして早川さん、あの雨宿りをした日のあとに僕の事を調べたの?」
「もちろん、あなたの事はできる限り調べさせてもらった。あなたの名前は佐藤翔太、誕生日は十月十五日。うちの高校では一年六組でテニス部に所属している。それに一人っ子で、両親は他県へ出張中のために一人暮らしをしている。どう、合っている?」
これらの情報は別に秘密にしているようなものではなく、翔太が日常生活において世間に公開している情報である。しかし翔太自身、髪型はスポーツ刈りで、特徴と言えば二重まぶたくらいしかない。そんな運動部ならどこにでもいそうな自分のことを、美波が覚えていたうえ身元を調べていた事に、翔太は驚き戸惑った。
「うん、まあ、だいたい間違ってはいないけど……。あのさ、君にとって見ず知らずの僕の事を調べなきゃいけないほどに、あの時に口走った事はそんなに誰かに知られたくない事だったの?」
「それは、どういう意味よ」
「そのまんまの意味だよ。僕にはあの時に君が口走った事が特別隠すような事だとは思えなかったからね」
美波の高圧的な口調は、この先の話がどんどん面倒くさい方向に向かっていく予感がして、翔太は力なくベンチに寄りかかる。近くの高飛び込み台から飛び込む人の姿があり、誰かが飛び込み、水柱が立つ
「あなたは全然分かってない。あの密閉空間の女子間で変に悪目立ちするのがどれだけ迫害されるリスクがあるのか、あなたには想像できないわけ!」
「僕の耳までクラスで孤立しているという噂が聞こえてきている時点で、もう悪目立ちしていると思いますがね。それに、君がどんなにクラスの女子達からハブられないようにしているのだろうけど、それは僕には関係ない」
「関係があろうとなかろうと、私はあなたの事が信用できないんだもん。もしも、あの時の事をうっかりにしても、ワザとにしてもあなたが誰かに喋ったら、私の高校一年生の生活が――いや、高校三年間が終わるかもしれない」
「いくら何でも考えすぎでしょ、それは……」
翔太は美波の危機感は度が過ぎていると呆れ、もうこの話しには付き合っていられないとベンチから立ち上がる。
「ちょっと、どこへ行く気っ!」
「いい加減にしてくれ。僕が信用できないのは仕方ないとしても、こんな下らない事に僕を巻き込まないでくれ」
「下らない事って何よっ! 私があの時からどんな思いでいたか、分からないでしょうね!」
頭に血が上ってしまった美波はベンチをバンッと叩いてから立ち上がると、目を
「大げさに落ちちゃって」
翔太がプールに落ちるも美波は
一方の翔太はというと、いきなり水の中に落ちてしまい上下左右といった空間認識を
美波が飛び込んで視認した時には翔太は水中を力なく漂っていた。そんな光景を目の当たりにしてしまうと、美波の頭は真っ白にになり、無我夢中で水を掻いて潜っていき、翔太の正面から両脇を抱えると水面を目指して必死に脚を動かす。
二人の頭が水面から出る。美波はプールサイドに手を掛けて、今にも泣きだしそうな声で「佐藤君、佐藤君」と叫びながら何度も翔太のぐったりとした頭を揺らす。すると、気を失っていた翔太の口から水が吐き出されてゲホゲホと咳込んだ。咳込む翔太はなんでこんな苦しいのかと思うのと同時に、目の前の彼女は怒っていたはずなのに、なんで目にいっぱいの涙を溜めているのか分からなかった。
「……あー、そのー、ありがとう、助かったよ」
翔太は記憶を整理しつつ俯いて涙を
「……ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」
先ほどまでの強気な態度とは一変させて、ぽたぽたと涙を落とす美波の声はもう涙声で、詰まらせながら謝罪の言葉を繰り返す。そんな美波の姿は周りの人々の注目を集めつつあるのだが、異常な緊張感から解放されても、自責の念にかられてしまい情緒不安定になっていく美波にはどうする事もできない。
「早川さん、僕は大丈夫だから」
「でも、でも、一歩間違えていたら私のせいで佐藤君、死んじゃってたかもしれない……」
良心の
「あのね、水中から見た水面がキラキラとして、あまりにも綺麗でさ、つい息をするのも忘れちゃったんだよね。だから、僕が溺れたのは君のせいじゃないし、早川さんは身体を張って溺れた僕を助けてくれた命の恩人だよ」
「でも私が……」
「早川さん、確かにプールに落ちたのは君のせいかもしれないけど、その後に潜り続けたのは僕のせい。だから必要以上に責任を感じることはないよ。それでさ、そろそろプールから上がらない?」
翔太は周りからの好奇な視線に耐えられなくなり、また、一緒に来た奴らに美波とこんな近接しているところを見られたくないという思いから、一刻も早くその場から離れたい気分であった。
翔太に促されてプールから上がる美波ではあったけれど、周りの目が気にならない程に意気消沈してしまい、Tシャツを拾うのも忘れて近くのベンチに座ると、顔を伏せたまま肩を振るわせている。翔太が何と言おうとも美波はこの出来事の責任は自分にあると思い、それに、あの水中に漂う翔太の姿を思い返すと、あのまま自分が助けに行かなかった結果を想像してしまい、もう怖くて胸を締め付けられた。
「あの早川さん、陸上部の人らと来ていたんだよね。放送で誰か呼び出してもらおうか?」
「……呼ばなくていい。ごめんなさい、気を遣わせちゃって」
美波は力なく立ち上がると、翔太に対して頭を下げる。
「……今日は本当にごめんなさい。あと、もうあなたに突っかかる様なマネはしないから安心してください」
「うん、わかった」
頭を上げた美波の顔はなんとも辛そうに見えて、翔太のほうがなぜかバツが悪くなる。翔太は拾っておいたTシャツと麦わら帽子を美波に渡し、そのまま帰ると言う美波の背中を見送った。
「あー、危なく死ぬところだった。まさか――」
まさか、翔太を助けに飛び込んできた美波の凜々しい表情や、太陽の光が透けて見える金色の髪のあまりの美しさに息を呑んでしまい、思わず肺の中の空気を吐き出して溺れたとは口が裂けても言えるわけがない。
「一瞬、人魚姫かと思ったもんな。ハァ、まったく」
ほんの短時間で美波の色んな表情に触れたけれど、たぶん笑顔だけは自分には向けられないだろうと思うと、どんなに釣り合わない相手である事は解っていても少し寂しくなる翔太なのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます