ブルータワーより

絵空こそら

ブルータワーより

 人魚はえら呼吸、肺呼吸どっちだろう?もし、えら呼吸なのだとしたら、喉から出る歌声は、なにか人間と違うところがあるのだろうか。少なくとも、えら呼吸もできない、人間なのに肺呼吸だってまともにできない私よりは、綺麗な歌声に違いない。

 そんなことを考えていたら、授業終了のチャイムが鳴った。スクリーンに映し出されていた映像が停止し、先生が電気をつけると、画面は昼に出ている月のように薄くなった。

「えー、では、今回見た資料のまとめをふり返りシートに記入して、提出してくださーい」

 先生はパソコンを操作しながらそう言うけど、既に休み時間に突入したクラスメイト達は、もう席を立っておしゃべりを始めている。それでも、教卓の上に次々放られるふり返りシートには、きっちり文字が並んでいる。

 私はといえば、「エラ呼吸」と書いたところで文字が止まっていた。

 カーテンが開いていよいよスクリーン上の画像は見えなくなる。ため息をついて、ほぼ白紙のプリントを裏返して提出する。早足で理科教室を出た。


「起立。礼」

 席につくと、途端に黒板が見えなくなる。この前の席替えで、クラスで一番背の高い男の子の後ろになってしまった。

 机をどっこいしょと移動して、椅子に座ったら驚いた。私の視界は会田くんの背中でジャックされたようなものだった。あまり気にしたことはなかったけど、会田くん、こんなに背が高かったのか、と驚いていると、隣の席の岡本さんがすかさず手を挙げた。

「先生!会田くんの後ろだと、浅井さん黒板見えないと思います」

 私は会田君の背丈に圧倒されている最中だったので、突然話の矛先が私に向いて、またびっくりした。前のほうの席の子たちも、体を捩って後ろを向いた。

「あー、そうか。浅井さん、どう?やっぱ見えない?」

 見えません、と即答できなかったのは、いろいろと思い浮かぶことがあったからだ。真っ先に思い出されたのは、小学校時代の友達、ゆきちゃんのこと。ゆきちゃんはとび抜けて背が高くて、いつも一番後ろの席にされていた。けど、あまり目がよくなくて、黒板が見えないとぼやいていた。鍵っ子だったので、なかなか親と眼鏡を買いに行く時間がとれなかったのだそう。もし、会田くんも同じ事情だったら、ということが、頭によぎってしまったのだった。

 第一、会田くんはちょっと怖かった。長身はともかく、鋭い目つきとか、休み時間に大きな声でしゃべっているところとか、それに今、目の前で不機嫌に折り曲げられた背が、頑なに後ろを振り向こうとしないところとか。「お前のせいで席後ろになったじゃねえか」と、言われたらどうしよう、とか。

 それに、もう机を移動し終えていた。「○○と席近い!やったー!」というような歓声が教室のあちこちから聞こえていた。それを自分のせいで白けさせるのは、気が引ける。

 ここまで考えるのに、何秒くらいかかったのだろう。先生に問いかけられて、「えっと」と呟いたきりの私が再び口を開くまでの間、クラスの注意が自分に向いていると思うと、その時間は永遠にさえ感じられた。一生懸命早く考えているつもりでも、求められる返答速度はいつも、もっと速い。

「大丈夫です」

 言ってしまった。

 先生は、

「そうかー。まあ、もし見えづらかったら、言ってください」

と言い、クラスのみんなは拍子抜けしたようにくるくる前に向き直った。ホームルーム終了のチャイムが鳴り、会田くんは前を向いたまま、隣からは不満そうなため息が聞こえた。


 だから今、黒板が見えない。体を左右に傾ければ多少見えるのだけど、動きが不審なのでやめてしまう。馬鹿みたい。席をひとつ入れ替えるのなんて、なんでもないことのはずなのに、言い出せない自分が情けない。でも、一度大丈夫と言ってしまったのだから、なんとか大丈夫な状態にしなくてはと思う。

 説明をよく聞こうと先生の声に耳を傾ける。でも先生が和歌の一節を読んだ瞬間、頭の中にいきなりポップな歌が流れ始める。去年人気アイドルグループが十二単みたいな衣装を着て歌い、ヒットしていた曲だ。それの歌詞に、さっきの一節が使われていた。小気味いいリズムにつられて歌いだしたくなる。もちろん授業中なので歌えるはずもなく、無意識に息を止める。それでも頭の中の音楽は鳴りやまない。

 作業用BGMだと思えばいいと切り替えようとしたけど、頭の中の音量が次第に大きくなり、いつの間にか先生の声がとても遠くに聞こえる。

「それでは姿の見えない浅井さん、ここに入るのは何詞でしょうか?」

 先生の問いだけが突然クリアに聞こえて、私は顔を上げた。「立って」と言われて椅子を引く。椅子の足が床と擦れて、なんとも申し訳なさそうな音が鳴った。

「ここの“や”は何詞?助詞?助動詞?」

 私はまた「えっと」と言ったきり、声が出なくなる。助詞か、助動詞か、とりあえずどちらか言ってしまえばいいのに、声を出したら意味を成さない鳴き声になってしまいそうで、喉に息をおくれない。

先生は焦れたように「おーい」と言って苦笑した。

「まさか、寝るために会田くんの後ろにいるんじゃないでしょうね」

 くすくすと数人の愛想笑い。私が起立してなお高い、前席の頭。きらきらしたアイドルソングが、ぐるぐると脳内に響いている。


 放課後は、寄り道をして帰る。家とは逆方向の坂道を、ずんずん登っていく。もう少し季節が進んだら、この坂を進むだけで汗をかきそう。それでも、私はあの場所にいくことをやめられないと思う。

 坂道を登り切って、平らな地面をもう少し進むと、大きな塔が迫ってくる。この町のシンボル、ブルータワーだ。シンボルと言っても、多くの人はそう思っていない。送電塔や何のテナントが入っているのかわからないビルと同じように、ただの風景の一部と思われているから。たまに初めてこの町を訪れた人が、「なんでこんなに高い建物がこんな田舎にあるんだろう」と不思議に思うくらいだ。そういう人だって、よほどのガッツがなければ登ろうなんて考えないだろう。

 そう、このタワーは登ることができる。その事実を知ったのはつい最近だ。おばあちゃんが茶飲み仲間と話しているのを偶然きいたのだ。半信半疑で来てみたら、あっさり扉が開いた。水色のペンキが剥げて赤茶色が見え隠れしている、驚くほど軽い扉。その向こうには延々と螺旋階段が続いている。

 全部の階段を登りきるまで、二十分くらいかかる。初めて頂上まで登った日の翌朝は、筋肉痛でベッドから転がり落ちてしまった。それでもまた登りたいと思ってしまったのは、タワーの上では気兼ねなく歌が歌えたからだった。

 普段言えないことが、体の中に溜まっていて、それをひとつずつ吐き出して潰すように階段を上った。タワーの壁にはところどころ穴が開いていて、差し込んでくる明かりはそれだけなので、薄暗い。でも足元を見るには困らないくらいの暗さだ。わき腹が痛くなって、汗もだらだら流れてきて、脚も痛いのに、夢中になって登った。

 最上段を登りきると、踊り場に辿りつく。そこで終わりかと思ったら、入り口と同じような、錆びた扉があった。息を整えて、ドアノブを回すと、風のかたまりが突進してきたように重かった。全体重をかけてなんとか開けると、風が吹き抜けた。風を吸い込んで、塔全体が巨大な楽器のように音を鳴らす。

 この風圧で閉まるドアに体を挟んだら骨折する、と青ざめながら慎重にドアを閉めても、ガチャンと大きな音がした。もし誰かに聞こえたらと心配になったけど、これだけ高く登ってきたのだから少しくらい大丈夫かと思い直した。

 肩で息をして、ぼさぼさになってしまった髪の毛の間から、ようやく景色を見た。

そこまで綺麗な眺めではなかった。町は低くて、遠くに山が見えて、空は煙っていた。でも、上を見ると空が近くて、気に入った。冷たいとも暖かいともいえない風が絶え間なく吹き抜ける。私は愉快になって小さな声で歌を歌った。どうせ地上には聞こえないのだ。そう思ったら、楽になった。


 それからというもの、毎日この塔に登っては歌を歌っている。未だに最上階まで登ると汗でびしょびしょになってしまうけど、最近は汗を拭くためのタオルを持ってきているので、少しはましになる。

 教室にいるときのつかえをとるみたいに、喉はスムーズに酸素と二酸化炭素を出し入れする。運動部のひとたちも、こんな気持ちなのかしらと考えるけれど、きっと少し違う。私が完全に一人になれる場所。そこへ向かう解放感はきっと、グラウンドを走ったり、球を打ちあったりするだけでは、得られない。

 もう手慣れたドアの開け閉めをして、さっそく風を大きく吸い込む。授業中から頭の中に流れていたアイドルソングを歌う。まだ息切れしている最中なので途切れ途切れで、音程も全然合っていなくて、聞くに堪えない。でも、すごく楽しい。私は鞄を放り投げて、踊った。ダンスの心得はないけれど、体が勝手にステップを踏んだ。サビを歌って、うろ覚えの振り付けで踊り、最後にくるりとターンすると、近くに人がいた。私は文字通り飛び上がって、石造りの床の上に尻もちをついた。

柵の近くに座っていた人は、お腹を抱えてげらげら笑っている。他校の制服を着た女の子だ。

 私は全身真っ赤になるくらい恥ずかしくて、心臓がばくばくして、もう少しで柵を飛び越えるところだった。

その人はひとしきり笑うと、目元の涙を拭いて、息も絶え絶え言った。

「ご、ごめんね、邪魔しちゃって。あんまり楽しそうだったから、声かけられなくて」

 相当ツボに入ったのか、その人はまた笑いだしてしまった。私はと言えば、大量の汗を流しながら突っ立っているだけ。鞄をひっつかんで逃げてしまえばいいものを、タイミングを逃してしまった。どうして先に誰かが来ているという可能性を考えなかったのだろう。そんなことを一ミリも疑わずに、とんちきに歌いだして、挙句の果てに踊りだすなんて。もう一段顔が熱くなって、しまいには燃えるんじゃないかと思うほどだ。

「さっきの歌、私も知ってるよ」

 笑いの収まったその人は、そう言って続きを歌いだした。

「一緒に歌おうよ」

と、人懐こい笑顔で言う。

 もし、ここで「せーの」とか「さんはいっ!」と言われたら、私は絶対に歌わなかった。でも彼女は、私には構わず柵のほうに向かって、景色を眺めながら一人で歌った。

 少ししてから小さい声で、私も歌った。


 次の日の放課後もブルータワーに登った。今度は用心して扉を開ける。左右に視線を走らせると、果たして、その人は居た。隅のほうで鞄に隠れるようにして体育座りをしていたけど、全然隠れられていない。私と目が合うと、

「きゃ。見つかっちゃった」

と、楽しそうな声をあげた。それから立ち上がって、手を差し出す。

「わたし、柏井ゆり」

 私は手に浮かんでいた汗を制服のスカートで拭いて、なんとかその手を握った。

「浅井かの子、です」

 本当は、握手なんてするべきじゃないのかもしれない。だって、彼女は私のとんでもない痴態を見ているわけだし、それをネタに強請られるかもしれない。とてもそんなことをするようには見えないけど。

 でも、手を差し出されると、反射的に自分も手を差し出してしまうのだ。同じように自己紹介をされると、すぐ自分も返してしまう。それは、反射神経があるというよりは、むしろないからなのだと思う。多分、ほかのみんなは、考えてから行動しても間に合うんだろう。私は考えるのが遅いから、遅すぎるから、私だけ遅れちゃいけないと思って、考えないでとりあえず動いてしまう。だから相槌だったり返事だったりが変なタイミングになってしまうこともあり、そういう時は大変にきまずい。でも、私の思考速度に合わせていたら、会話が死ぬ。何かが死ぬのは怖い。たとえ命のないものでも。

「今日は歌わないの?」

手を離すと、彼女はそう聞いた。私はまた「えっと」と呟いたきり、黙ってしまう。せっかくこの場所なら息ができると思ったのに、またできなくなってしまったみたいだ。

「わたし、邪魔かな」

 彼女はぽつりと言った。胸の内を見透かされたようで、どぎまぎする。慌てて首を横にぶんぶん振る。とたんに彼女の顔はぱっと明るくなった。

「よかった!」

 そして、柵の向こう側に目を向ける。

「いい場所だよね、ここ。学校とか家とか、ここから見るとちっちゃいんだね。逆に山でかっ!て感じ」

 無邪気に笑う彼女のセミロングの髪が、風でばさばさ揺れる。スポーツドリンクのCMみたい、と思う。突然、私が小学生だったころのヒットソングを歌いだしたので、俄然CM感が濃くなる。

 彼女の歌には癖がない。音程がばっちりとれていて、息を吸う前も後も、声が揺れない。柔らかい高音なんて、ずっと聴いていたくなる。私は昨日の自分の、癇癪を起したような歌い方を思い出して、また恥ずかしくなってしまった。

そんな感情とは裏腹に、また音楽が頭の中に流れ始める。イントロの、ドラムのロールから、主旋律を掻き鳴らすギターと、リズムを刻むベース、低い声のボーカルの歌いだし。流れ続けて、彼女の歌へ重なる。

 私は気づくと歌っていた。彼女は振り向いて、「お!」というような顔をすると、すぐさまハモリのほうへ転向した。そんな、メロディーを歌っていていいのにと思ったけれど、私の歌は坂道を転がる石みたいに止まらなかった。頭の中の音楽と、私の歌と、初めて違う人の声。三つの音が合わさると心臓がどきどきと鳴った。午後四時のまだ明るい太陽が、光を降らせていた。


 放課後、息を切らせて走る。そのまま螺旋階段を駆け上がり、頂上の扉を開けた時の風が通り抜ける感じがたまらなく気持ちいい。思わず「はあー」と大きく息をすると、先に到着していたゆりが、ハンカチで額を抑えながら笑う。太陽に近い分直射日光がきついけれど、ひっきりなしに風が吹いているので、汗はすぐに乾いてしまう。

ゆりがブルータワーに来るようになってから、一週間が経過していた。柏井さん、と呼んでいたけど、「ゆりでいいよ」と言うので、そう呼ぶことにした。出会ってそんなに日の経っていない人を呼び捨てにするのは緊張したけど、ここで頑なに苗字で呼ぶのも変だ。

 もっとも、人見知りの私でも、ゆりとは結構話せた。ゆりが社交的なのと、風の音のおかげもあるかもしれない。ある日はびゅうびゅう、別の日はごうごう、何かの楽器みたいにずっと鳴って、沈黙が訪れることがない。だからずっと話していなくても平気。

 それにゆりは無理に会話しようとしないし、突然とりとめもなく歌を歌う。風に運ばれてきたメロディーをふっと掴むように。そしてそれは、私も同じことだ。知ってる曲なら一緒に歌うし、知らない歌なら「それなんて曲?」なんてまた会話が始まる。自由だ。一時はどうなることかと思ったけど、ゆりと一緒にいるのは居心地がよかった。のろいスピードで生きていても、一緒に過ごせる唯一の人だ。

「なんか、かのの歌声って、録音みたいだよね」

 とゆりは言う。

「悪い意味じゃなくて、歌手の癖とか、ブレスの位置とか、完コピしてる感じ。味の出し方っていうのかな」

 ゆりは顎に手を当てて真剣だ。そんなこと言われたのは初めてだから、私はちょっと照れる。そう、歌を歌っているっていうより、合わせている。頭の中に流れる歌声に、伴奏に、合わせてメロディーをなぞるのが、楽しい。

「ねえ、歌をつくってみるってどうかな?」

 ぱっと表情を明るくして、ゆりが言った。

「歌をつくる?」

「そそ。私たちで私たちだけの歌をつくるの!楽しそうじゃない?」

「む、むりむりむり。曲作りなんて、やったことないし、勉強したこともないし」

 手をぶんぶん横に振るとゆりは面白そうに笑った。

「かのって、真面目!勉強してなくてもいいんじゃないかな、私とかのが楽しければ!ねえ、かのはどんなジャンルの歌が好き?」

「う……ロック?」

「ロックなんだ。意外」

「わかんない。知ってるジャンルそれしか思い浮かばなかったから」

「あーね。人に聞いといてなんだけど、私も実はあんまり知らないや。ポップとかインディーズとかくらい?まあいいや」

 ゆりは立ち上がって、ふんふんと鼻歌を歌いだした。上がったり下がったり、音程がうろうろする。なんだか、粘土をこねているみたいだ。

「かのもなんか歌って!」

「えっ」

 私もゆりの真似をして、でたらめな音を出してみる。途中メジャーな曲のメロディーになってしまって、いやいや違う、と軌道修正したらすごく変なメロディーになってしまった。ゆりの鼻歌と重なると不協和音になって、すごくへんてこな感じがした。ぷっとゆりが噴き出す。

「あはは。全然、うまくできない。歌詞から考えた方がいいかも」

「うん。だね」

 私も笑った。うまくできないけど、なんだかすごく楽しかった。



 帰ってからユーチューブで音楽をきいた。コメント欄に歌詞が書いてある。じっくりそれを読んでみた。

 今までは、あまり歌詞を深く考えたことがなかった。私にとって歌声は、そういう楽器のように聞こえるのだった。でも、当然のことながら、歌詞は言葉でできていて、音を止めて読んでみると、なんとなく伝えたいことが見えてくる。わかりやすいのも、難解なのもある。それらに音がついて、歌になって、伝わる。言葉だけじゃ伝えられないこと、音だけじゃ伝わらないことが。

 私には作曲も作詞も無理だ、と思っていたけれど、ちょっとだけ、書いてみたい気がした。



「これ」

「なになに?」

 例によってブルータワーの上、ノートのページに指を差し入れて、ゆりに渡す。ゆりは受け取ると、ページを開いて、ぱっと顔を輝かせた。

「歌詞?」

 そして食い入るようにページに視線を落とす。私は不安と恥ずかしさでもじもじした。指を落ち着きなく弄って気を紛らわす。しばしごうごうという風の音だけが、空間に鳴っていた。

「すごいよ」

 ゆりは呟くように言った後、私にまっすぐ視線を向けた。

「すごい素敵。かのってこんなこと考えてたの?全然知らなかった!」

 興奮した様子のゆり。とりあえず、気味悪がられなくてよかった、と胸をなでおろす。ゆりはもう一度ノートに視線を落としている。

「なんていうか、かのの言葉って、深成岩みたいだよね」

「深成岩?」

「そう。理科の授業でやったでしょ?深成岩と火山岩。深成岩は、マグマが地下でゆっくり冷えて、大きな結晶をつくっていく。かのってあんまりおしゃべり得意じゃないでしょ?でも色んなことを考えてて、文字にするとこんなに綺麗な歌詞になる。だから、深成岩」

 そんなことを真剣な顔で言うものだから、照れてしまう。今まであまり人に褒められたことがなかったから、なんだか少しだけ泣きそうになってしまった。

「ねえ、これに合わせた歌、考えよ!」

「うん」

 それからふたりで、昨日みたいに適当に音を並べた。でも、歌詞がある分、音の方向性というか、語感に合うメロディーが決まった気がした。一応曲らしいものが出来上がると、私たちは繰り返し歌ってみた。その都度、音が面白くなるように、軌道修正していく。

 本当に完成!というところで、私たちは地面に寝っ転がった。頭上には暮れかかった青空と巻層雲があった。どちらからともなくもう一度、歌ってみる。音はぴったりと合致した。

 最後の一音を歌い終えると、晴れ晴れとした、爽やかな気持ちが胸に広がった。今までに経験したことがないくらい、楽しかった。

「楽しい」

と、私は口に出していた。

「私も!」

隣で寝転がっているゆりがこちらを向いた。二人でふひひと笑う。

「他にも色々、作ってみたいな」

「……そうだね」

 ちょっと返事までに間があったのが気になったけど、その間を消し飛ばすかのように、ゆりは「もう一回歌おうよ!」と言って笑った。



 次の日、ブルータワーに行くと、珍しくゆりは来ていなかった。どうしたんだろう、と思いながら鞄を下ろす。ふと、扉の影に、国語辞典が置いてあるのに気づいた。なんだろうと思って手に取ると、下に敷いてあったらしい紙切れが、風に攫われていった。あっと思って柵の外に手を伸ばしたけど、紙はひらひらと町に落ちていく。

 その日からゆりはブルータワーに来なくなった。



 きっとあの紙は、ゆりが私に向けて書いたものだったのだろう。あれから、いつも通り毎日ブルータワーに登ったけど、やっぱりゆりは来なかった。前はひとりで歌っていたのに、今はひとりで歌を歌うことがなんだか虚しい。それでも、ゆりとの繋がりはこの場所だけなので、私は毎日懲りずに登っていた。歌詞もちまちまとノートに書き綴っていた。


 ある日、いつもの通りブルータワーに行ったら、知らない人がいてぎょっとした。  その次の日もそのまた次の日も、どんどん人数は増えているようだった。どうにも、偶然この街を訪れた芸能人がSNSにブルータワーの写真をアップしたところ、ちらほら観光客が来るようになったのだそうだ。

 終いにブルータワーは閉鎖され、扉に南京錠がかけられた。張り紙によると、市がお金を出して改装するらしかった。一か月もすると、風化した水色のブルータワーは、目の覚めるような色に塗り替えられた。扉も階段も、錆びひとつなくピカピカだった。



 理科教室に歌詞ノートを忘れてきたことに気づいて、慌てて戻った。最初は授業用のノートの隅に、ふと思いついたことを書き留める程度だったのに、あまりにも量が多いから歌詞を書く専用のノートを作ったのだ。

 誰もいませんように、と祈りながら走ったけども、中から数人の喋り声が聞こえてくる。

「あ、誰か忘れ物してるよ?」

「こら、人のものを勝手にあけない」

「だって、表紙に名前書いてないし」

 それ、私のです。見ないで。

 教室に入って行って、そう言えたらよかった。私は扉の前に突っ立ったまま、動けずにいた。

「うわ、めっちゃポエム書いてある」

「あーこれはイタい」

「怖い怖い」

 きゃはは。キン、と響いた笑い声が、胸に刺さる。

「ねーこれ、職員室に届けたほういいんかなあ?」

「いや、取りに来るでしょ。むしろ届けたら、公開処刑っていうか。取りに来れなくなっちゃう」

「それもそっかー」

 そこでチャイムが鳴った。やべやべ、と言って人が出てくる気配がする。私は慌てて廊下の柱に隠れる。ばたばたという足音が遠くなってから、理科教室の扉をあけた。私が座っていた席の引き出しに、ノートが入っている。それを黒い机の上に開いて、下手くそな文字を指でなぞってみる。

 「イタい」か。確かにそうだ。ゆりも、本当はそう思っていたのかもしれない。「すごい」と言ってくれたけど、よく考えたら、目の前に突きつけられたら、そう言うしかないだろうと思った。それなのに、舞い上がって、こんなノートまで作って、馬鹿みたい。でも、こんな気持ちも歌詞になるかもしれない、とまたノートに言葉を書きたくなってしまうから、ますます馬鹿みたいだと思った。


 久しぶりにブルータワーに登ってみた。入場料500円を払って。

 ところどころ赤く錆びていた扉や外壁や階段の手すりは綺麗な薄い青で塗り直されていた。螺旋階段は相変わらず長くて、すぐに息が上がってしまった。それにしても人が多い。タワーの内部にいろんな人のおしゃべりがこだましている。何回もここに来たのに、私の知っている場所じゃないみたいだった。

 屋上の扉は、自動ドアになっていた。風圧で壊れないような金属製の、だけどガラスをはめ込んでいて、向こう側の景色が見えるようになっている。ドアが開くと突風がごうっと音を立ててタワーの中を駆け抜けていった。

 平凡な景色に人、人、人。みんなスマートフォンを持って、写真に景色や自分を収めようと躍起だ。風の音も聞こえないくらいのお喋りの声。それなのにあの子だけがいない。あの子の声だけがない。私は息を吸った。口から出たのは二酸化炭素だけで、歌が煙った空気に響くことはなかった。うるさいほどの太陽が、塔の上を照らしていた。



 休みの日、ずっと気になっていた楽器屋さんに寄ってみた。本屋で参考書を買った帰りだった。寂れた通りに、ぽつんと一軒だけある楽器屋さんだ。ピアノや管楽器、楽譜なんかが整然と置かれている。

 ゆりに会えなくなって、ブルータワーに登れなくなって、自分の書いた歌詞もただのイタいポエムだってわかったけど、未だに私は音楽に興味を持っている。あれから色んな歌をきいた。私はスマートフォンを持っていないので、家のパソコンできいた。気に入った曲はメモして、レンタルショップで借りて、繰り返し聞いた。

 その中には自分で楽器を演奏しながら歌っている人たちもいた。曲を作るには、自分で楽器を弾けた方がいいのかもしれない。そう思って、寄ってみたのだった。

 やっぱり定番はピアノかギターだろう。でもピアノはうちのアパートに置き場がないかもしれなくて、だとすると消去法でギターだ。そもそもうちのアパートは壁が薄いのに、楽器を演奏したら近所の人に通報されないだろうか。などと思いながら何とはなしに値段をみたら、思っていた金額より数倍高かった。とても私のおこづかいと貯めてきたお年玉では間に合いそうにない。私はとぼとぼと楽器屋さんを後にした。



 バスを待っていたら、貸し切りバスが向かいの車線に停まった。わらわらと制服を着た生徒が降りてくる。その制服が、ゆりが着ていたものと一緒だったから、一瞬どきっとした。みんな重そうなケースを抱えて、急ぎ足で近くのホールに入っていく。

ホールは、普段コンサートや演劇に使われたりしていて、小学生のときよく校外学習で来た覚えがある。あまり気にしていなかったけど、そういえば私が楽器屋さんを覗いているときから、今日はホールにたくさん人が入っていた。校外学習というわけではないようだ。だとしたら、何?気になったけど、ひとりで大きなホールに入っていく勇気はない。

 でもその時バスから降りてきた女の子が、ゆりに少し似ていて、思わず二度見してしまった。もう一回そっちに目を向けた時には、もう背を向けていて、ちゃんと確認できなかった。待っていたバスがやって来る。乗り込んで席に座る。バスが走り出して、窓の外の景色がどんどん変わっていく。停留所をひとつ、ふたつ過ぎたところで、我慢できなくなって降りるボタンを押した。


 息を切らせて辿りついたホールの入り口には、「全日本吹奏楽コンクール 中学校の部」という紙が貼ってあった。挙動不審になりながら受付を通り抜け、会場に入る。ちょうど演奏の合間だったようで、すんなり入ることができた。ほぼ満員の席を見て一瞬帰ろうかと思ったけど、ちょっとだけ聞いてみたい気がして、どうにか空席を探した。

 会場が暗くなり、アナウンスが流れる。

「○○中学校、課題曲は△△、自由曲は××」

 どこかの中学校の生徒たちが舞台袖からステージにぞろぞろと進み出てくる。50人くらいはいるだろうか。最後に出てきた先生らしき人が、真ん中でお辞儀をするのと同時に、生徒たちも頭を下げる。観客席の人たちが拍手をし始めたので、私も拍手をした。

 先生がくるりと生徒たちをふり返り、見回す。そして指揮棒を上げると、生徒たちはいっせいに楽器を構えた。ふわり。先生の手が動くと、トランペットの音がまっすぐとんできた。まるで楽器と同じ金色。そんな音色。

 軽快なその音に引っ張られるように、他の楽器も歌いだす。ひとつひとつの音が重なって、ひとつの夢みたいな音楽になる。大きいホールいっぱいに広がる夢。耳に力強くびりびりと響いて、でも、全然不快じゃない。胸がどきどきするような、熱くなるような、ひとつも音を聞き逃したくないような、そんな巨大な音楽。その迫力や美しさに夢中になるうち、演奏時間はあっという間に過ぎてしまった。余韻が引けたあと、生徒たちが立ち上がってお辞儀をすると、割れんばかりの拍手が彼らを包んだ。


 関係者用通路にそっと忍び込んで、さっき演奏していた中学生たちを探した。関係者じゃないのにそんなところに入るなんて、見つかったら絶対怒られる。怒られたくはないし、普段の私だったら絶対しないことだ。でも今は、怒られても、彼女に会いたいと思った。

 やがて演奏を終えた生徒たちがぞろぞろ出てきて、ひとり廊下に立っている私を怪訝な顔で見ながら通り過ぎていく。大変に気まずかったけど、ここで下を向いたら駄目だと思って、顔は上げたままにしていた。後ろの方に、彼女はいた。私を見つけると、目を見開いた。



「まさかこんなところで会うなんて、思ってなかった」

 会場の外。久しぶりに会ったゆりは、はにかみながら言う。

「わ、私も。……あのね、演奏、すごく素敵だった!」

「ありがと。わー恥ずかしいな」

 ゆりは後ろに手を組んで、わざともじもじしたポーズをとる。でも急に真面目な顔になって、私に頭を下げた。

「ごめん。突然ブルータワーに行かなくなっちゃって。怒ってるよね。だから連絡くれなかったんでしょう?」

「いや、いやいや!私のほうこそごめん」

「どうして?」

「だって、多分ゆりが置いてってくれたメモ、読まないうちに風でとばされちゃったの。だから読めなかった。個人情報書いてあったのなら、尚更ごめん」

 ゆりは目を見開いた。そしてあははと笑いだす。

「ごめんね、踊り場に置いとけばよかったよね。風の強さなめてた。馬鹿だね、私」

 と言ってひとしきり笑った後、よかった、と言った。

「よかった。かのに嫌われちゃったんじゃないかって思ってた」

 私はぶんぶん首を振る。確かに、どうして突然来なくなっちゃったんだろうと悲しく思ったりはしたけど、私がゆりを嫌う要素なんてない。よかった、と言いたいのはこっちのほうだ。もしかしたらゆりが来ないのは、私のことが嫌になったのかなと少し不安に思っていたから。

 ゆりは恥ずかしそうに、ぽつぽつと事情を語り出した。

「あのね、初めてブルータワーに行った日、私、初めて部活サボった。小学校の時からトランペットやってて、中学は吹奏楽部に入ったの。でも、練習がすごくハードでさ。朝も放課後も休みの日も楽譜に向かって、同じところを何度も何度も細かく練習して、ちょっとでもずれると怒られて、ふっと、私何やってんだろうって気分になったの。音楽って楽しくやるものでしょう。それなのに、全然楽しくなかった。だから逃げたの。放課後、同じ部活の人に遭遇しないようにこっそり学校出て、そのまま走った。家に帰ると部活サボったのばれるから、とりあえずどこかで時間潰さなきゃと思って、目についたのがあの塔だったのね。もしかしたら、怖い人が中にいるかもしれないとも思ったけど、登った。すごい頑張って登った。うしろめたかったの。で、頂上まで行って、すごい眺めよくて、また、私何やってんだろって気分になった。練習したくないけど、じっとしながら時間をやり過ごすのもなんか、嫌で、すごく憂鬱だったよ。その時かのが入ってきて、歌った。すごく楽しそうに歌ってた。あの時は笑っちゃったけど、あの時のこと思い返すと、なんでか泣きそうになるんだ。そうだよね、音楽って楽しいんだよね。本当に、かのと歌歌ってる時間が楽しかったよ。だからこそ、逃げちゃ駄目だと思った。部活から逃げたままじゃ、思い切り楽しめないと思った。だから放課後の練習に戻ったの。色んな人に怒られたけど、ちゃんと真面目に練習して、合奏して、全員の音がひとつに調和したとき、楽しいって思えた。そういうことを、かのが教えてくれたんだよ」

 ゆりは私の手を握って、まっすぐ目を見た。

「置いて行ってごめんね。でも私、本当に本当に、かのと一緒に歌ってる時間が一番楽しかった。今は部活が忙しいし、ブルータワーにも気軽に登れなくなっちゃったけど、また一緒に歌をつくれたらって思ってるよ」

 私も、と言いたかった。私も、ゆりと一緒にいるときが一番楽しかった。全然うまく喋れない私の言葉を素敵だねって言ってくれたことが嬉しかった。もっと一緒に歌を作りたいと、思ってた。

 そういう言葉がひとつも出てこなくて、代わりに口から出てきたのは泣き声だった。顔の中心と胸がじんと熱くなって、私はゆりの手を握ったまま泣いてしまった。

「かの、それは何泣き?」

 ゆりは困ったように私の顔を覗き込んだけど、ふと笑って手を引き寄せた。

「いいよ。今度歌できかせて」




 空が近い。

 狭いステージに立って、薄く煙った青空を見上げた。今日演奏するのは二人だけど、風がびゅうびゅう吹いて、味方をしてくれているよう。顔を前に戻すと思ったよりもお客さんがいて、また緊張してきてしまった。そのまま視線を隣に走らせると、ゆりが笑っていた。「大丈夫だよ」と言うように。

 そうだ。ようやくここに戻って来れた。私たちが初めてライブをするのはこの場所だと、決めていたんだ。私も笑ってみせる。

 合図して、前奏を弾く。私たちは大きく、風を吸い込んだ。

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ブルータワーより 絵空こそら @hiidurutokorono

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