第10話
「ですから。明後日の部長の日程はずらせないと申しておりますでしょう?」
矢嶋は相変わらず淡々と、しかしきっぱりはっきりと無理な申し出を却下する。
「ずらせといっているわけじゃない。時間を調整してもらえないかと頼んでいる」
ほんの数週間前に聞いたような台詞に、周囲はまたもや固唾を呑んだ。
二人はデスクを挟んでいつものように睨みあう。
「どうしてもとおっしゃるなら、部長に直に依頼なさってください。部長が納得すれば私はいくらでも調整しますわ」
ごく当たり前の反論だったが、これを瀧原に真っ向から言える人間はそうはいない。
この二人のやりとりはいつも周囲に緊張を強いる。
実際に今も皆が固唾を呑んでいる。
暫くのにらみ合いの後、先に口を開いたのは瀧原のほうだった。
「その言葉、しっかり覚えておけよ」
これまたいつもの企んだような笑みを浮かべて、そのまま回れ右をしてドアへと向かう。
そこでようやくフロア内は緊張から解放された。
「おい。あの二人、どうなってんだよ」
「昨日の歓迎会でのあれは痴話ゲンカじゃなかったのか?」
「いや、あの態度、いくら会社とはいえ、できてるんだったらあの雰囲気はないだろ? ありゃ完全に宿敵って感じだぜ」
「単に酒の席で今までの鬱憤が爆発したってところじゃないのか?」
周囲のそんな囁き声なんて全く耳に入っていないかのように、矢嶋も瀧原もしらっとしている。
だが、ドア付近まで来て瀧原は何かを思い出したように踵を返す。
そのまままっすぐ矢嶋の元へ来て、周囲に聞こえないくらいの小声で囁いた。
「襟足、少しだけ痕が見えている」
それは当然、昨晩瀧原がつけた痕。
「そんなベタなひっかけ、面白くともなんとも──」
「いや、本当に見えてるし」
うそ。
襟に隠れ、微かに見えるか見えないか、しかもよほど注意してみなければわからないほどに薄い痕だったが、間違いなく情事の痕。
矢嶋は一瞬だけ眉を寄せたが、目に見えた変化はそれだけだった。
わざとやったわね。
本当ならば怒鳴りつけたいくらいだっただろうが、その辺は冷静な矢嶋のこと、顔色を変えることはなかった。
「ご忠告ありがとうございます。せっかくですから私のほうからもひとつ」
そこで今までの矢嶋ならありえないような笑みを浮かべた。とても爽やかで晴れやかなもの。
え。矢嶋さんが笑っている? しかもあんなに爽やかに。
周囲の人間すべて、思わず作業する手を止めて凝視してしまっている。
「あまり無理な要求をなさるようでしたら、ビールだけではすまないと思ってくださいね。──今後一切、受け付けませんわよ?」
その迫力に、瀧原ではなく周囲がぞっとした。
瀧原は別な意味で溜息をついたが。
矢嶋の言っている『受け付けない』が仕事のことではなく、プライベートのことであるということは充分理解していた。
そう宣言するからには絶対に実行するのが矢嶋葵。
「善処する」
矢嶋に負けないくらいの爽やかな笑顔でそういって、今度こそ瀧原は出て行った。
二人のいろいろな要素を含んだ新たな関係は、まだ始まったばかりだった。
遠くて近きは同期の仲 古邑岡早紀 @kohrindoh
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます