第9話
怒っているのは間違いない。
それでも矢嶋は引くことなく瀧原を睨み返す。
先ほどあふれた涙が、またこぼれないことだけを祈りつつ。
意地でも瀧原にみっともない顔を見せたくないという思いが働いていた。
「何であそこでお前が切れるんだよ」
ひどく理不尽なことを言われていると思った。
そりゃ切れるでしょうがっ。
だが矢嶋の反論は許されなかった。瀧原は瀧原で怒りで一杯のようだった。
やはり人前で恥をかかされたと頭に血が昇っていると考えたほうがいいかも。
しかし瀧原の怒りはまったく別な方向からきているとは、矢嶋も想像できずにいた。
「俺のほうこそ切れて然るべきだろう? 俺の申し出に対して何の答えも出さない。触れようともしない。で? 何でお前のほうがいきなり切れるんだよ」
「何の答えも出さないって……。それは祐介のほうでしょう?」
まるで何事もなかったかのように振舞われて振り回されていたのは自分のほうだ。
それでなくても、誰でもよかったような発言に意気消沈していたというのに。
「は? ふざけるなよ葵。あれ以上明確な意思表示、ないだろうが」
どこに明確なものがあったって言うのよ。
この瀧原の言葉にはさすがに矢嶋も理不尽さを感じずにはいられなかった。
「悪いが俺は何とも思っていない女に結婚を申し込むことはしないし、会社で押し倒そうともしない」
あのときのあれって、キスだけで済ますつもりじゃなかったんだ、などと実に的外れなことを思い浮かべ、それから気を取り直す。
問題はそこじゃない。
どうやら瀧原は自分の失言に気がついていないらしい。
無意識というところがさらに矢嶋に腹を立たせる原因になっていた。
仕事で見せる以上の冷たい視線にも瀧原は怯む様子もない。
「手近な女ならば、私じゃなくても、誰でもよかったんじゃないの?」
それに対し瀧原は怪訝そうな顔をした。
「何でそうなるんだ」
「言ったじゃない。私くらいしかいなかったって。余り者の様な言われ方をして喜ぶ女なんていないわよ」
瀧原は一瞬きょとんとし、それからみるみるうちに険しい表情を増していった。
「お前、前後の言葉を加味しろよ」
「加味したわよ」
瀧原は苛立ちを最大限にあらわにして、でもそれでもきっちりと説明を始めた。
瀧原は瀧原で焦っているなどと、矢嶋にはまったくわかっていなかった。
ここで逃がすわけには行かない。
そんな思いを。
「葵といると調子がいい。テンポがいいから疲れない。そもそもお前といて緊張を強いられることはない。なにより、葵を見ていると無性に押し倒したくなるときがある。この間、鳴宮の稟議書の一件のときもいっそこのまま連れ出して、会議室で押し倒してしまおうかと思ったくらい、そそられる」
突然矢継ぎ早にまくし立てられて、その上内容がなんとも呆気に取られる内容で、矢嶋はそのままぽかんとしていた。
瀧原はというと、矢嶋の表情を見てようやく自分が結構な台詞を口にしたことに気がつき、微かに頬を染めて視線をそらした。
確かに今まで瀧原から、こんな言葉をもらったことはない。
ああ。じゃああれはつまり。
「だから、お前しかいなかった」
そこでようやく瀧原が言わんとしていることを矢嶋は理解した。
お前しかいない。
それは決して、お前しか残っていなかった、という意味ではなくて。
そうではなくて。
理解した途端に矢嶋は顔を真っ赤にした。
それがその言葉の本来の意味を悟ったからなのか、自分の大いなる勘違いに対してなのかは瀧原にも、それどころか矢嶋にもわからなかった。
互いが互いの言動に頬を染めて立ち尽くしていた。
我に返ったのは矢嶋のほう。
立ちはだかる瀧原を押しのけて、自分の部屋の階のボタンを押した。
そのままボタンの位置にぴったりと張り付き、瀧原には完全に背を向けている。
瀧原の言葉に対して応える様子はない。
エレベーターはあっという間にフロアに着き、矢嶋は常より早い歩調で廊下を歩いていく。
「葵」
自分の名前を呼ぶ声は、からかいを含んでいるのか、優しさを含んでいるのかわからない。ただ、怒りだけはトーンダウンしたようだった。
どう反応したらいいのかわからず、まるで巣に逃げ込む動物のように自宅の鍵を回そうとしたときだった。
ドアが開く前に背後から瀧原がドアを押さえつける。
返事をしなければ部屋に入れないと無言で訴えかけていた。
そう。
逃げちゃいけない。
覚悟を決めて矢嶋は振り向いた。
それと同時。
柔らかく唇が重なってきた。
まるで初めてキスするような、本当に重ねるだけのキスは、ゆっくりと離れていった。
「……これって、セクハラ」
「ここは会社じゃねぇよ」
確かに。
矢嶋は自分の立場が弱いこともわかっていて、口をつぐんだ。
「悪かったわ。勘違い、していた」
「みたいだな」
優位に立ったような口ぶりに、矢嶋は睨みつける。
勘違いの原因は何も矢嶋のせいだけではない。
「でも勘違いするのも当然じゃない。あんないい方ないわ。いつもはこれでもかと言うくらいに饒舌なのに、どうしてああいう場面では必要以上に簡素なのよ?」
今みたいにもっと丁寧に説明してくれたら。そうしたらこんなことにはならなかった。
今回の一件は自分だけのせいじゃない。
そんな意味を力強く込めて、矢嶋は睨みあげる。
「行動では示した」
ああ。あのあとのキスか。
「夜の相手に事欠かないとか言われたあとのあの行動は、すごくまずいと思わなかったわけ?」
あれじゃあからさまにそっちが目的ですといわれているようなものだ。
でもなにより。
矢嶋は目を伏せた。
そのことを思い出すのは辛い。でもいっておこうと思った。わかると思って放っておけば、いらぬ誤解を招くのは経験済みだ。
「でも一番辛かったのは、祐介の憲への言葉だった」
『俺には関係ない』
あの言葉は矢嶋をひどく傷つけた。
その時の感情が甦ってきたのか一瞬だけ辛そうな顔をしたが、瀧原に気持ちを吐き出してしまって楽になったのかすぐさまいつもの目力溢れる視線を投げつけた。
それに対して瀧原は口を開くことなく、手を伸ばし、矢嶋の頬に薄く残る涙の跡を指でなでた。
すでに乾いてしまっていて、うっすらとしかわからない頬のあとに瀧原は困惑したらしい。
頬をなでていた手は、そのまま首筋に流れ、静かに抱き寄せた。
柔らかな抱擁だった。およそ、瀧原らしからぬ抱擁だったが、それはとても心地よかった。
まるで壊れ物を抱くかのように、そっと抱いてくる。
「──お前のこととなると、俺は途端に自信がなくなる」
常では考えられない弱気な言葉に、矢嶋は耳を疑う。
顔を上げて瀧原の顔を見ようとするものの、柔らかく抱く腕が心地よくてそのまま黙って聞き入る。
「俺は葵にとってどんな人間か、葵の心のどこに位置しているのか。いつもそんなことを気にしていた」
何故だろう。柔らかい腕のせいだろうか。声までひどく優しげだ。
「葵との関係は居心地がよかった。このままでもいいかと思ったことも何度もある。でも、気持ちは押さえ切れなかった。だから一世一代の賭けに出たというのに、お前は何の反応もしない」
そこに責めた口調はない。
ただ、事実だけをありのままに伝えているといったふうだった。
なんだか調子が狂う。
こんな瀧原は想像もつかない。
矢嶋はどう反応していいものか困りはて、言葉を返すことも身動きもできずにいた。
「辛かった。だが、それ以上に、お前を傷つけたという事実のほうがもっと辛い」
今日もっとも意外性のある言葉にさすがに驚いて、矢嶋は反射的に顔を上げた。
それと同時にきつく抱きしめられる。
「俺は、どうしたらいい?」
瀧原の寄せられた眉、かたく閉じられた瞳。
なんだか切ない。
こんな顔をさせているのが自分かと思うと、尚更。
矢嶋は自分が傷つけられたということより、瀧原のあり得ない様子のほうが心を大きく占めていた。
矢嶋の知っている瀧原は常に強気で攻めの姿勢を崩さない人間だった。
「らしくないわね」
ぎこちない笑いを浮かべて何とか軽口をたたくと、呼応するかのように瀧原もかたい笑いを浮かべていた。
「ああ。お前のことになると俺はとことん弱気だよ。憲一郎が戻ってくると知って焦ったし」
「憲とのことはもう、整理できているわ」
「部長と夕食をともにしたと聞けば、腹が立つし」
「部長は単に部下としてねぎらってくれただけだと思うけど」
「やたらと鳴宮には甘いし」
そこで矢嶋はちょっと瀧原を押し返してまじまじと見つめた。
あきれた。鳴宮くんにまでそんな嫉妬めいた感情を抱いていたというわけ?
そもそも。こんなに自分の気持ちをストレートに吐露する瀧原など初めてお目にかかった。
瀧原もアルコールが入っているのだろうかと訝しがるほどに素直だった。
「随分と弱気ね」
弱気というより、独占欲が強いといったほうがいいのかもしれない。そちらのほうがまだ瀧原にはしっくりくる。
実際、そこで矢嶋に向けた顔は弱気とは程遠いものだった。
「俺は憲とは違って行動派じゃないからな。小心者は用意周到。当然だろ?」
小心者かどうかは別として、瀧原が常に計算高いことはわかっている。どうすれば効率がいいか、どうすれば自分に最良の利益をもたらすことができるか。そういった判断は恐ろしく早い。
「だから葵。そんな小心者のためにお前の気持ちを聞かせてくれ」
矢嶋の顔を覗き込み、返事を強要する。
何でいきなりそんな流れになるのかと矢嶋は顔をしかめる。
大体、それは今更でしょう?
無言で拒否すると瀧原はさらに矢嶋と密着する。
背後にはドア。目の前数センチには瀧原。矢嶋に逃げ場はない。
「お前の心の中で俺はどの位置にいる? お前が俺をどう思っているのか。一言でいい。何か証をひとつだけくれ」
それは矢嶋がいつも思っていたことだった。
互いに同じことを思っていたなんて。
その事実に矢嶋は笑ってしまいそうだった。
でも瀧原の目は真剣だった。言葉どおり、焦りの色がしっかりと見えていた。
キスも許したし、抱擁されても抗わなかった。それでも確かな形として、言葉が欲しいという。
いつも自信満々で、弱味なんて見せない男が。自分のたった一言を欲しがって嫉妬して焦って強要する。
私のためだけに。
「葵」
その様子をしっかりと目に焼きつけたくて矢嶋はまじまじと瀧原をみつめた。
ビールが、髪を伝い、頬をつたう。
それが気になって、矢嶋は手でしずくを払う。
水とは違う質感に矢嶋は眉をしかめた。
「ビールくさい」
真剣な要求をはぐらかすかのような態度に、瀧原は一気に脱力した。
「おまえなぁ。こういうとき普通そういうことを言うか? そもそも誰がこんなビールくさい状況にしたと思っているんだよ」
邪魔された苛立ちを隠しもしない。
矢嶋はそんな瀧原にこれ以上ないくらい晴れやかな笑顔を見せる。
今まで見せたことのない笑顔に、瀧原の苛立ちはどこかにいってしまったかのようだった。
「なら。うちでビールを流していけば?」
思わぬ申し出に瀧原はきょとんとした顔をしている。
「……いいのか?」
「これも祐介が言う確かな形でしょ?」
それに対して瀧原は渋い顔をする。
「お前、何だかはぐらかしていないか?」
矢嶋は答えなかった。
ただ、笑うだけだ。
「じゃあ帰る?」
「いや」
瀧原はそこで少しだけ考え込み、いつもの挑戦的な目を向けた。
「──まあいい。今日必ず俺の望む言葉を引き出してみせるから。覚悟しろ」
耳元で囁く瀧原の声がいつになく甘く感じられたのは気のせいではないだろう。
望む言葉を引き出す、ですって? それは私の台詞。
そんな思いを目に込めて、睨みあげる。
片手で矢嶋を力強く抱きしめ、片手でドアを開け放った。
互いの気持ちを確かめあうのと、張り合うのとがまるで同義語のように、視線を絡めあった。
ドアは二人を飲み込み、ゆっくりと閉まった。
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