第8話

 いたたまれなくなり逃げ出した。

 この私が逃げるなんて。

 かなり自己嫌悪。

 飲みすぎていた。……多分。

 だって泣きそうだった。

 この私が泣くなんて。

 混乱を振り払うかのように、矢嶋は立ち尽くしていた。

 ホームにはまだ結構な人がいる。

 駅から歩いて10分という立地的にはなかなかな自宅の途中には、行きつけの飲み屋がある。

 いっそもう一杯飲んでいってしまおうかという誘惑が頭をもたげる。

 前後不覚になるほど酔っ払ったことはない。酔っ払ったらみっともない、という思考が先に働き、気を抜くことがないため醜態をさらしたことはない。

 だから。今日みたいなことは初めてだった。

 あんな事をしたあとだ。だったらいっそとことん酔っ払ってみても面白いと思った。

 そうすれば、少しは気分が軽くなるだろうか。

 寄って行くか行くまいか。迷いながら店の手前50メートルまできたところで、携帯が鳴っていることに気がついた。

 無視しようかと思ったが、しつこいくらい鳴り続けるそれをとりあえず手に持ち、それからディスプレイに表示されている名前に目をやった。

 宮城からだった。

 これが瀧原からだったら間違いなくあっさり無視してしまうだろうが、相手が宮城となるとどうしたものか迷ってしまう。

 宮城の歓迎会を台無しにしてしまったという自覚はあるし、あの言葉にもきちんと答えていない。

 さんざ迷って、結局矢嶋は電話に出た。

『葵?』

 宮城はいつもと変わらない優しい口調で矢嶋の名前を呼んだ。

「……申し訳ないことをしたわ」

『いや、それはどうでもいいんだけどね。それより大丈夫か? 今、どこ?』

 まさかさらに一杯引っ掛けようとしましたとも言えず、矢嶋はちょっと考え込みながら自宅に戻るところだと返答した。

『ふぅん……。まさかまたどこかで飲み直そうと思ったわけじゃないよな』

 見透かされている。

 なぜか宮城は昔からそうだ。

 実は超能力者なんじゃないかと思うくらい言動を当てるのが得意だった。

 そして矢嶋が認めることはほとんどない。

「帰るわよ」

『本当に?』

「本当に」

 そう言い切っておきながら飲みに寄るのも気が引けて、そのまま店の前を通り過ぎる。

「あと2,3分で自宅」

『あ。そ。……あ。ちょっと待ってて』

 どうやら背後で誰かと話をしているらしい。

 微かに聞こえる声は会計はとか、二次会の場所とか、鳴島を呼ぶ声。

 おそらくこれから二次会なのだろう。

 瀧原はどうしているのだろうか。今頃トイレでビールにまみれた上着でも絞っているだろうか。

 同情はしないけど。というよりいい気味だわ。

 矢嶋も、瀧原がみっともない自分を見せることや、恥をかくことを極端に嫌うことを知っている。そもそもあの男は人生において挫折を経験したことがないタイプだから、恥をかく自分やみっともないという言語自体に縁がないのかもしれない。

 いい経験をさせてやったんだから、感謝されてもいいくらいだなどと、矢嶋は一人で勝手に納得していた。

『ああごめん。葵、結構飲んでいただろ? 大丈夫かと思って』

 やはり宮城はそういうところは目ざとく確認していたらしい。

 矢嶋がかなりのアルコールを流し込んでいたと気がついたのは瀧原と宮城の二人くらいなものだろう。とにかく顔色は変わらないが、決してザルというわけではなく、飲める量はごく一般的なものだ。

「大丈夫。本当に今日はもう飲まない」

 ただでさえ気分が悪いのに、この上二日酔いまで併発させたくない。

 それに対して宮城は苦笑したように否定した。

『そうじゃなくて。さっきのこと』

 ああそっちのことだったのかと矢嶋は心を身構えた。

「大丈夫」

 本当は全然大丈夫じゃなかった。でもそういって自分を奮い立たせないと途端に崩れ落ちそうだった。泣いて喚いてなんて全然自分らしくない。

 らしくない自分は一番嫌だった。

『俺には全然大丈夫そうには聞こえないけど。……でもまぁ、俺が行って慰めるわけにもいかないみたいだしな』

 さらりと言ったようでいて、深い意味を持っていた。

 先ほどの『立候補』云々が元になっていることは間違いなかった。

『俺ではダメなんだろう?』

 どう答えたものか、考える時間が欲しかった。宮城にきちんと簡潔に伝えられるように、整理したかった。でも考えるまでもないことだということもわかっている。

 答えは出ているのだ。

 ただ自分がどう伝えるべきか、考えあぐねているだけ。

 宮城が駄目だということではない。あの男でなければ駄目なんだということを。

 矢嶋は携帯を握り締めた。

 大抵は考えてから言葉を発する。

 でも今は感じたままに言うのが一番だと判断した。

「4年って、とても長かったわ」

 あの、目先しか見えなかった若かった時代は過ぎさってしまった。

 以前より周囲に目を向けられるようになった。周りが見えない恋をすることはなくなった。恋の仕方も変わっていった。

 求める相手も。大切に思う存在も。

「考える時間もたくさんあった。余裕もできてしまった。……年かしらね」

『やめてくれ。俺は同期なんだぞ』

 笑う宮城の態度が嬉しかった。

 返ってくる答えを宮城自身もわかっているはずだ。それでも宮城は黙って聞き、黙って受け入れてくれるだろう。

「もし4年前、憲が同じことを言っていたら。もしくは逆に私が憲を手に入れようとしていたなら。結果は違っていたかもしれない」

 矢嶋にとって宮城はいつも数歩前を歩いているような人間だった。それを追いかけて、そしてふと立ち止まって気がついた。

 たとえどんな毒舌を吐かれても、どんなにケンカをしようとも、必ず自分の横に立ち、向かい合ってくれていた存在を。

 その存在は自分の心の奥底の、一番重要な位置にしっかりと根付いている。

 楽しかったのだ。

 宮城を追いかけることも楽しかった。でもすぐ隣で自分と向かい合ってくれる存在は楽しいだけでなく、安堵感を与えてくれた。

 口は悪いくせに。

 いつも意見を衝突させていたのに。

 そのことに4年かけて気がついた。

 そしてそれが恋だと気がついたのはついこの間だった。

『でも、結局そうはならなかった。あのとき、お互いその選択をすることはなかった。そうだろう?』

 そう。もし今4年前に戻ったとしても、きっと宮城は矢嶋を選ぶことはないだろうし、矢嶋も宮城を手に入れようとはしないだろう。あのときは、ああすることが最良の方法だと思っていたのだから。今でも、間違っていなかったと思う。違った選択をしていたなら、どうなっていただろうと思うことはあるが、後悔したことはない。

 自宅が近づき、矢嶋はエントランスに入る前にバッグの中の鍵をまさぐった。鍵はどこに入っているのか、なかなか見当たらず少々苛立ちを覚えた。

 そこにつけ込むかのように宮城の声が耳元で響く。

『祐介が好きなんだな』

 その言葉に矢嶋の動きがぴたりと止まった。

 堰を切ったかのように涙があふれる。

 自覚したばかりの恋をストレートに指摘されたものの、その恋は今わけのわからない状態に陥っている。

 結婚しようかなどと、あの言葉自体が戯言だったと思えてならない。

 それとも宮城に対する対抗心なのか。

 判断つかなかった。

 耳に残るのは先ほどの祐介の言葉。

『俺は関係ない』

 耳でエコーするその台詞が辛い。手で塞ぎたい。

 自分が思うほどに、祐介は自分を思ってはくれていない。

 気になって仕方がなかった。

 本当は私のことをどう思っているの?

 私はあなたの心のどこに位置しているの?

 少しでも、あなたの心のどこかに私はいるの?

 そんなことを考えると苦しくて苦しくて。

「祐介は、私のことを単なる同期としてしか思っていないわ」

 電話の向こうでは宮城が絶句している気配。

『あのねぇ葵。あの状況を見て、単なる同期としてしか思っていないなんて思うこと自体、間違っているだろ』

 宮城の声があきれた調子だということは矢嶋も気がついていた。

 ああこれは説教が始まると思い、エレベーターのボタンを押し、説教前に宮城の電話は切ったほうがいいかもしれないと思ったそのときだった。

 宮城の言葉は強引に奪われた。

 明らかに全速力で走ってきたとわかる荒い息づかいに、反射的に振り返る。

 振り返ると同時に携帯を奪い取られ、そのままエレベーターの奥へと追いやられる。

「憲。俺だ。とりあえず邪魔するな」

 そのまま一方的に告げて、一方的に電話を切り、ついでに電源まで切った。

 目の前にいたのは、紛れもなく瀧原だった。

 しかも、上からビールを滴らせ、ネクタイを緩めて、いつもの瀧原からは想像もつかないほどの乱れようだった。

「なんで」

 しかし矢嶋の抗議は完全に却下。

 エレベーターのドアは静かに閉じた。

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