第5話


「あのぅ? 矢嶋さん???」

 ずっと考え込んでいたのだろう。自分でも気がつかないうちに資料を置く手が止まっていた。

 鳴宮は怪訝そうな顔をして矢嶋を覗き込んでいた。

 表面上はなんら変わりなく、矢嶋は現実に立ち戻った。

「確かめないとね」

「……何をですか?」

 脈絡のない会話に鳴宮は一瞬どう応えたものか迷っているようだった。

「瀧原課長が鳴宮くんを本当に手放すつもりがないかどうかを」

 かろうじていつもの調子を取り戻し、相変わらずの無表情で応対する。

「ああああー。やっぱり瀧原課長は俺のことを」

「冗談よ」

 鳴宮はほっとした表情を浮かべる。

「やめてくださいよー。矢嶋さんが言うと冗談に聞こえないんですから」

 これまた正直な。

 でもそんな素直な反応に、思わず笑みをこぼした。

 なんというか鳴宮は瀧原とはまた違った意味で、付き合いやすい人間だった。年下の屈託のなさが前面に出ているせいかもしれない。

 そのときだった。

「葵?」

 突然下の名前で呼ばれ、なおかつ久々に聞く声の響きに反射的に振り返った。

「ああ。やっぱり葵だ。変わらないな、お前」

 その声も、名前を呼ぶ調子も相変わらずで、でも4年という月日は伊達ではなかったらしい。まっすぐ前だけを向いていたがむしゃらさはなりを潜め、余裕さえ感じる落ち着きを身にまとっていた。

 目の前には宮城と、ちょっと後ろに瀧原とが立っていた。

 おそらく社内の案内でもしていたのだろう。ことによっては見学がてら、今日の会議にも参加するつもりかもしれない。

 矢嶋は先ほど鳴宮に向けていた笑みをすっと隠し、なめるように宮城を観察した。

「それってほめ言葉? なんだか変化に乏しい女と言われているような気がするわ」

 相変わらずの物言いに、宮城は大きく溜息をついた。

「ほんっとに。あいかわらずだなぁ」

 確かに宮城のまとう雰囲気は少々変わったものの、矢嶋の冷静な言葉を受けても、のほほんと対応してしまうあたりは変わっていない。

「変わってないってよ。よかったな矢嶋さん」

 からかうように瀧原に言われ、矢嶋は少々眉を寄せた。

 おそらく誰も気がつかない程度のものだったが、矢嶋は内心気分を害していた。

 変わらない?

 今、変わりそうになっているのは誰のせいだと思ってんのよ。

 瀧原の意図がつかめなくて、苛立つ。

「変わらないものなんて、ないけどね」

 殺気に満ちた視線を向ける矢嶋と、屈託ない笑みを浮かべる滝原。

 周囲はいつものことと軽い緊迫感を持ったまま、二人を見つめていたが、案内を受けていた宮城は少々違っていた。

 二人の間にある種の含みを感じ取り、興味津々といった体で二人を交互に見つめていた。

 そんな宮城の態度に気が付き、これ以上宮城に詮索されるのは事がこじれるだけだと判断した矢嶋は殺気だった雰囲気をひとまず収めた。

「いつ帰ってきたの?」

「先週末。とりあえず今日は社内見学。いやぁ。4年の間にいろいろと変わっちゃって、俺、本当にこっちできちんとやっていけるのか心配。祐介はいつの間にか課長だしさー。葵は部長付のアシストだろ? 俺だけ置いていかれちゃってまぁどうしようかね」

 この明るさは相変わらずで、これがあるからこそ瀧原と矢嶋が陥りそうな険悪な雰囲気は回避される。

 今は宮城の存在が本当にありがたかった。

「海外事業部直下の営業課長だって聞いたわよ」

「あー。それね。新規事業だから不安いっぱいなんだけどさ。あれ? 誰から聞いたわけ?それ。まだ本辞令じゃないんだけど」

 誰って。

 そのままちょっと離れた位置で事を眺めていた鳴宮に視線が集中する。

「鳴宮……。お前はまた余計なことを」

 瀧原の怒りをもろに受けて、鳴宮はとたんに真っ青になる。

「あー。えーっと。すみません。つい口が滑っちゃって。あ、でも矢嶋さんにならいいかなと思っちゃって」

「お前は莫迦か」

 そのまま頭を抱えて、おろおろしかねない鳴宮の姿があまりに哀れで、矢嶋が二人の間に立ちはだかった。

「許してあげたらどう? あんまり瀧原課長に怒られてばかりで、自分はもしかしたら海外事業部の営業課に身売りされるんじゃないかと心配して私に相談に来たようなものだし」

「なんだそれは」

「それだけ瀧原課長が恐いって事なんじゃないかしら」

 ずばり言い切った矢嶋に対して、瀧原は苦い顔をし、宮城はかろうじて笑いをこらえているという形となった。

「やっぱりお前らあいかわらずだよ。いやぁ、安心した」

 何とか笑いをこらえてそう告げると、宮城は一瞬だけ懐かしそうな、まぶしそうな顔をした。

 そんな宮城の顔に胸を締め付けられるような気分にさせられる。

 そして自然と瀧原のほうへと目が行く。

 あえてなのか、瀧原は全く感情の読めない顔をしていた。

 それは私の専売特許でしょう?

 何とか反応しなさいよ。

 しかし瀧原は肝心なところではいつも完璧なポーカーフェイスを装う。

 今も然り。

 矢嶋のきつい視線に気が付いているだろうに、それは完全に無視して滝原は鳴宮に話を振る

「ああ。鳴宮。宮城、一ヶ月はうちで研修予定だから明日歓迎会するぞ。お前、幹事な。有志でいいから人集めと場所を決めといてくれ」

 飲み会のセッティング。

 その件に関して非常に適している人材、それが鳴宮だった。

 先ほどまでもおろおろした様子はどこへやら、与えられた任務にこれでもかというくらい晴れやかな顔をする。

 そんな鳴宮の様子を面白そうに見つめて瀧原は囁いた。

「気合入れてやれよ。今度のお前の上司かもしれないからな」

 そんな意地の悪いことをいい、宮城を伴って去っていった。

「あああー。どうしよう」

 そんな鳴宮の弱りきった声も耳に入らないくらい、矢嶋は不快感を覚えていた。怒りとまでは行かないものの、不愉快であることは間違いない。

 それがはっきりと怒りに移行することになったのは、次の日のことであった。

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