第4話

 最近おかしい。

 それは矢嶋自身が自覚していたことだった。

 おかしい。

 あれから一週間以上経つが、劇的な変化があったわけでもなく、いつもと変わりない日々が過ぎている。

 ほっとした反面、何だか妙なくらいに拍子抜けした。

 瀧原の態度は相変わらずだった。つかず離れず。いつものように仕事をこなし、いつものように矢嶋に部長のスケジュールを確認し、隣をすり抜けていく。

 あの時向けられた感情が嘘のように、瀧原は静かだった。

 祐介ってば、何を考えているのだろう。

 いまいち理解できなかった。

 あんなことを言えば自分たちの関係に変化が生じることぐらいわかっているくせに、なぜ?

 事実、矢嶋の心の中では確実に変化が起こっていた。

「矢嶋さーん。プロジェクター、もってきましたー」

 大会議室で会議の資料をセットしていた矢嶋に、能天気な声がふってきた。

 それはあっという間に矢嶋をいつもの冷静な矢嶋に戻した。

 ドアのところに鳴宮が立っていた。

 そのままプロジェクターを片手に入り込んでくる。

 そういえば、一課にプロジェクターを貸していたっけ。

 会議と知って戻しに来たのだろう。

 取りに行かずにすんで、少しは時間が省けたかと思うとほっとした。

 それでなくても今日の会議は参加人数が多く、一分でも時間が惜しい状況だったのだ。

 真っ直ぐ近づいてくる鳴宮を見て、矢嶋はそっと溜息をつく。

 そういえば、この子も相変わらずな態度だ。

 最初はあんな場をみられたということで、気まずい思いをしていたが、鳴宮はその件に関しては触れることはなかった。

 そういうところはなんというか、意外というか。

 もっと追求されるかと思いきや、誰に漏らすでもなく、鳴宮は自分の胸一つに納めているようだった。

 もっとも。瀧原が何らかのプレッシャーを欠けた可能性もなくはない。

 最近では営業としての仕事も増えてきているようだった。それ自体、瀧原が意図したことなのか、それとも純粋に鳴宮の仕事ぶりを気にして改善策を取ったのか、矢嶋には判断しかねるものがあったが。

 それでもやはりあの忙しい一課の中では一番時間が取れるということもあり、相変わらずアシストの仕事も兼務しているようだった。以前のような余裕は全くないようだが、ちょこちょここうして顔を合わせる機会はある。プロジェクターの返却だって、結局一番下っ端の鳴宮が使い走りをさせられたようなものだろう。

「あ。矢嶋さん、先日はありがとうございましたー。あのときの稟議の件。ようやく終わったんですよー。本当に助かりました」

「私は何もしていないから」

 実際に話をつないだだけで、何もしていない。

「いやいや。あの時矢嶋さんが動いてくれなかったら、俺、一課に在籍し続けられたかどうか」

 そんな大げさな。

 とは思うものの、確かに肩身の狭い思いはしていただろう。

「もしかしたら、体よく新しい課に放出されていたかも」

 ああ。そういえば海外事業部に新しい営業課を作るとか部長が言っていた。一応所属部は海外事業部になるらしいが、営業統括部にも片足突っ込んでいるような状態の課になると思うので、今後はいろいろと接点が出てくるだろうとぼやいていた気がする。

「海外事業部の営業課のこと?」

「そうそれです!」

「いくら何でも考えすぎじゃない?」

「いいえ! だってその新しい課の課長、瀧原課長の同期なんですよ? うちの会社における同期ってのがどれだけ結束が強いか知っているでしょ? 同期のよしみで献上されちゃったらどうするんですかー」

 いまいち言葉の使い方に誤りがあるような気もするが、それはともかく。

 同期ですって?

 矢嶋が知る限りでは本社の事業部にくるような同期はもうほとんど残っていない。

 ──たった一人を除いては。

「鳴宮くん。その人の名前、知っている?」

「え? えーっと。なんて名前だったっけ。確かついこの間までアメリカのほうに出向してて。えーっと。えーっと。み、宮なんだっけ?」

「宮城憲一郎?」

 後を引き継いでつぶやいた矢嶋の言葉に、弾かれたように反応する。

「そうです! 宮城さんって仰ってました。……って。矢嶋さん、ご存知だったんですか?」

 ご存知も何も。

 それで合点がいった。

 先日の瀧原の言動は、宮城の帰国が原因であることを。

 確かにところどころで何かいいたそうなそぶりをしていた。

 そして瀧原のあれは。

 あれは……。告白なわけ?

 何度思い出しても腹が立ってくる。

 余り者の様ないい方をされて、一体どこの女が喜ぶというのだろう。

 それでも不器用な男の不器用なプロポーズとして考えることもできるかもしれない。普通ならばそう考えてもおかしくはない。

 でも宮城が絡んでくるとするならば、話は少し違ってくる。

 4年前、宮城がアメリカに出向が決まった頃。瀧原と矢嶋とそして宮城の間には、少々はっきりしない関係が存在していた。

 当時、矢嶋と瀧原と宮城は気の会う同期としてよく仕事帰りに飲みにいったりもしていた。

 世界的な金融危機の影響をもろに受けた世代だった。同期は入社した当時から少なく、その上退社するものが続出していた。いわゆる早期退社対象者に狙われたわけである。入社してそこそこの人間などは使い勝手に困るところだったのだろう。

 そんなわけで、矢嶋たちの世代は同期が少ない分、結束は固かった。そんな中でも本社営業部組だった三人は特別仲がよかった。

 当時から矢嶋は相変わらずクールで、瀧原は毒舌で、宮城はそんな二人のつなぎ役のような役割だった。

 それは楽しい日々だった。

 上司やクライアントの愚痴を言い合い、時には互いの仕事に対して意見を述べ合った。本音で語り合える仲間がいるというのはありがたいものだったし、楽しかった。

 いつのころからか抱いていた、矢嶋の宮城に対するほのかな恋心が叶わぬものでも、やっぱり楽しかった。あの頃、少々苦い思いをすることはあっても、楽しいという思いのほうが強かったと断言できる。

 当時宮城には学生時代から続いている彼女がいて、結婚の約束もしていることを知っていた。

 だから矢嶋は同期としての立場に徹した。自分の恋心はそっと心の奥に閉まって。

 そうすることができたのは瀧原がいたからこそだと思っている。

 瀧原は全部知っていた。瀧原だけが、知っていたといったほうがいい。

 苦しい思いを溜めこんで、大きくせずにすんだのは、ところどころで瀧原に吐き出していたからこそ。

 毒舌で押しの一手なくせに、そういうときには聞き上手になるあたり、意外だった。

 不思議な均衡の元、同期としての関係は続いていた。

 それが微妙に崩れたのは宮城のアメリカ行きが決まったときだった。

 そのころからなんとなくぎくしゃくしていった。

 原因が何にあったのか、矢嶋も瀧原もそして宮城もはっきりと自覚していた。

 すべては宮城の葛藤にあった。

 長年つき合っている彼女に対する思いと、矢嶋に惹かれる気持ちに翻弄されている宮城が全ての原因。

 アメリカに行く前に彼女と結婚するかどうかという現実を突きつけられて初めて気がついた自分の気持ち。

 誰に相談するでもないが、そのことで悩んでいると瀧原はいち早く気がついていたし、矢嶋も自分に向けられる視線や言葉の端々で勿論気がついていた。

「葵。憲一郎はお前に惹かれている」

 矢嶋自身もなんとなく気がついていたが、瀧原にそういわれてしまうとはっきりと意識せずにはいられなかった。

「それはあくまでも『惹かれている』だけであって『好き』とは違うわ」

 冷静に返す矢嶋に対し、瀧原はいつものからかうような毒舌を押し込め、これまた冷静に指摘する。

「だから。今、お前が憲を一押しすれば堕ちるって言ってるんだけど」

 瀧原の指摘はごもっともで、一瞬矢嶋はその言葉に乗ってしまおうかと思った。

 だが、そんなことをしても宮城が苦しむだけだと矢嶋はわかっていた。

 万人に優しい宮城のことだ。たとえ自分を選んだとしても、長年付き合っていた彼女をないがしろにしてしまったという後悔をしないはずがない。そしてその後悔をずっと引きずっていくに違いない。

 意外に繊細なのよ。憲一郎は。諦め口調でつぶやいたことは何度もある。

 結果はわかっていた。

「落として、堕ちたことに苦悩する憲一郎なんて見たくないのよ」

 それが答えだった。

 結局宮城がアメリカに行くまで、矢嶋は何も気がつかないそぶりをしていた。

 それが矢嶋の選択した道であり、瀧原もその選択を尊重した。

 それはそれで最良の選択だったと思う。

 ただ、もし、何も考えずに宮城と一緒にいる道を選んだらどうなっていただろうと考えたことはたまにある。

 アメリカに行ってしまって、姿を見ることができなくなるとその考えはますます強くなった。

 考えて落ち込んでどうしたらいいのかわからなくて。

 そんなときにいつも傍にいてくれたのは瀧原だった。

 その日によって愚痴ったり、黙ってアルコールを口に運んだりと、症状は違っていたけど、そのたびに合わせて付き合ってくれていた。

 結局立ち直るのにかなりの時間を費やしたけど、それでも再び会ったときにはしっかりと気持ちの整理はついていたと思える。

 宮城がアメリカに行っている4年の間、日本に帰ってきたのはたったの1回。会うと決まったときは少々緊張したが、以前と変わらない調子で過ごせた。

 あえて互いのプライベートの話はしなかったからとも言えるだろう。

 久々に会って、せっかく以前のように過ごしているのに、そこにあの複雑な雰囲気を持ち込みたくないと三人とも思っていたのだ。

 それぞれの個人的な話はしなかった。

 だから宮城が今、学生時代からの彼女とどうなっているのかなんて知らない。

 瀧原は知っているのだろうか?

 男同士ならばそういった連絡を取り合っていても不思議ではない。

 結婚を申し込んだと、そんなことも伝えていたりするのだろうか?

 そもそも。タイミング的に矢嶋には理解できないものがあった。どうしてこのタイミングで結婚を申し込んできたのか。

 結局矢嶋の思考は巡り廻って、元いたところに戻ってきた。

 きっかけが宮城の帰国だということはわかった。

 もしかしたら、すでに宮城が結婚していて、カムフラージュのためにしてくれたのだろうか?

 でも、だからって結婚?

 だからって、あんな行動?

 矢嶋は無意識に唇へと手を当てた。

 もし鳴宮が来なかったら間違いなく唇は重なっていた。

 そしてあの一言がなければ、自分ももっと素直な気持ちで瀧原の申し出を考えることができたのではとも思う。

 結局全てはたった一つに尽きる。

 瀧原は自分のことをどう思っているのか。

 それが気になっていた。

 4年前はそれらしいそぶりなんて全くなかった。瀧原は当時から皮肉の上手い毒舌家だった。

 だからこそ、先日の言葉は意外で仕方がなかった。毒舌以外の瀧原の言葉。しかもセクシャルなものを含んだ言葉。

 驚くよりもあんな言葉も発することができるんだと妙に感心してしまった。

 いつもの毒舌が行き過ぎたというには、甘すぎる言葉だった。

 あの言葉の意味を知りたい。言葉に隠された瀧原の心の奥底が見たい。

 そう思うのは当然だろう。

 これじゃ生殺しもいいところだわ。

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