第3話

 灯りはまだついていた。腕時計を確認すると針は10時を回っている。

 最近は会社側もコスト削減を高らかに唱えていることもあり、退館時間を越えての残業は以前に比べて断然減っている。

 矢嶋が入社した頃は午前様ということもざらにあったが、今やこれだけ機器が発達していれば自宅で仕事をすることも可能だ。

 自分のいつもいるフロアを通り過ぎ、そのまま一番奥の営業部へと足を運ぶ。

 一応会社のコスト削減に貢献しているつもりなのか、フロア内の一角だけに明かりが灯っていた。

 微かについているあかりは物悲しさを漂わせている。

 ノックをすることなくフロアに入り込み、真正面から一枚のプリントをデスクの上に置いた。

「はい。お待ちかねのものよ。一応中身を確認してくれる?」

 そのまますぐ隣にあった椅子を引き寄せて、腰を下ろした。

 フロアに残っていたのはたった一人。

 瀧原は上から下まで稟議書を確認し、部長のコメントにざっと目を通し、それから満足したようににやりと笑った。

「よくまあ戻ってきたな。明日の朝でいいと言ったのに」

 矢嶋は片手に持っていた缶コーヒーを一本分け与えた。自分の分をハンカチでくるみ、プルトップに手をかけた。

 外は冬の寒さが染み渡っており、室内に入ってもかじかんだ手はなかなか体温を取り戻さなかった。

 とはいえ矢嶋は温かい飲み物を素手でつかめない。どうやら手の皮が薄いらしく、熱くてもてないのだ。

 そんな矢嶋の些細な仕草を瀧原は目で追っていた。

「戻ってくるとわかっていたんでしょ? どう考えてもこの状況はあたしが帰ってくるのを待っていたとしかいえないんじゃない?」

「昔から葵ってそういうところは律儀だからな」

「昔から祐介はそういう期待を私にするから」

 二人は顔を見合わせた。

 実際、あの場で言ったとおり、二人はそれぞれの役割をきちんと果たしていた。

 矢嶋は説明の為の時間を割き、瀧原は短い時間で部長を納得させる力を示した。それは二人の長い付き合いが生んだ結果ともいえる。

 付き合いはもう10年以上になる。入社したころはそれなりに同期も多かったが、地方に異動になった者、早々に退社した者、海外勤務となった者といろいろだが、本社に残っている同期は結局二人だけになってしまった。二人が同期だと知っている人間はすでにいないかもしれない。

 だからこそ昼間あんな鋭い言い合いをしても、仕事に関しては互いに信用していた。

 なんだかんだ言いつつも、矢嶋はサインの入った書類を持って今日中に帰ってくるだろうと瀧原は確信していたし、明日の朝必要ということは、今日自分が持って戻ってくるのをまっているだろうと矢嶋も予想していた。

 二人とも仕事に関してはどこまでも完璧を求めるからだ。

 そういうところはそっくりだし、そういう人間だからこそ本社で幅を利かせているわけだ。

「葵、メシ食った?」

 本当に矢嶋待ちだったのだろう。稟議書を明日訪問するだろう資料と一緒にしまいこむ。

 それはこれで今日の仕事は終わりという合図。

「部長とクライアントに熱心に誘われたけどお断りしたわよ。それ、届けるためにね」

 私、一度『葛葉』でお食事してみたかったのにね、なんて嫌味をひとつ言われて、瀧原は渋い顔をした。

「……おごるぞ」

「あ、そう? まあ安心して。『葛葉』みたいなお高いお店は指定しないから」

 軽口を叩く姿は昼間の矢嶋からは想像もつかない。

 こうして夜、時々だがオフィスで二人きりになることがある。

 そんなときにはほんのわずかだが、こういった姿を見せることがある。瀧原もこのときばかりは気やすい会話をしてくる。

 多分、二人が二人らしくある唯一の時間。

 だからこそ瀧原はこの時間をとても楽しみにしているし、矢嶋はこの時間を大切にしている。

 そして明日になればまた距離ある同僚として過ごす。

 いつものことだった。いつもの。

「できれば私、さっぱりしたものがいいんだけど。でもおごってもらえるなら文句は言えないわね。あ、それでも中華はちょっと避けたいかも。で、祐介は? 何がいいの?」

 矢嶋は笑っていた瀧原の目が、真剣な色を帯びていることに全く気がついていなかった。先を歩き、フロアから出て行こうとしたところで瀧原に腕を掴まれるまで。

 反射的に振り返り、瀧原と視線が絡み合う。

 その途端瀧原の口から出た言葉は。

「お前がいい」

「……は?」

 何を意図しているのかわからずに、素っ頓狂に聞き返す。

「結婚しよう」

 あまりに予想もしない答えに今度は完全に言葉を失った。

 吟味していたのは夕食に何を食べるかということであって、何故そこで結婚云々なんて話が出てくるわけ?

 あまりにも突然。

 何を考えているのよ、この男は。

 みるみるうちに日頃の鉄仮面状態に変わっていく。

「なにか、会話に脈絡がないような気がするんだけど」

「そうか? 俺はずっと考えていたことだけどな。時期的にもそろそろいいかと思っていたし」

 時期的? いったい何のよ。

「私と祐介はつきあっているわけじゃないわよね」

「じゃ、とりあえず付き合ったほうがいいか? いや、これだけ長いこと同期としてやってきて、いまさらだろ? だったら即結婚の方が効率的だと思わないか?」

 だから。話がどうしてそんなに一足飛びになってしまうのだろうか?

 物事には段階というものがある。

 いや、そもそも段階どころかそんな話、皆無だった。

 そのあたりわかっているのだろうか。

「何故私なのかがわからない。確か祐介、付き合っている女性がいなかった?」

 矢嶋の質問に苛立っているらしく、面倒くさそうに答える。

「そんなはるか昔の話を持ち出してくるな」

 そういえば瀧原は仕事に没頭しすぎて捨てられるというパターンが多かった。

「まあ特定の女性がいなかったとしても、よ。社内にはいくらでも若くて有能な女性がいるじゃない。なのにどうして私なのよ」

 尚も食い下がる矢嶋に対し、瀧原はさらに面倒くさそうな顔をする。

 だがそこで矢嶋が引くはずもない。

「そんなに理由が聞きたいのか」

「そりゃ聞くでしょう?」

 瀧原はそんなこともわからないのかといわんばかりに、不服そうな顔を隠そうともしない。

「社内には若くて有能で美しいお嬢さんがたくさんいるかもしれないが、少なくとも俺の周りには葵くらいしかいなかった」

 ──。

 あきれた。

 二人の間に、今までそんな甘い雰囲気なんてなかったにもかかわらず、結婚云々なんて言い出すこと自体がまず大問題。でもそれ以上にこの言い草はないんじゃないかと矢嶋は妙に冷静に考えていた。 周りに私ぐらいしかいなかったですって? 『しか?」

 そんな誰も残っていなかったから仕方なく、なんていわれ方をして嬉しがる女がどこにいるというだろう。

 ひどい言われようではないか。

 確かに双方とも一時の感情と勢いで突っ走ってしまうような年はとうに過ぎてしまった。そんな中で冷静に結婚を考えるならば、こうした手近で気心の知れた人間をと考えてもおかしくはない。

 でもいくらなんでも──それがたとえ矢嶋が相手であったとしても──この言い草はないとさすがに腹がたってきた。

「理由としては最低ね」

 そう矢嶋は切り捨てるように言い放った。

「理由なら、他にもいろいろとある」

「ふーん。例えば?」

 意地悪く瀧原に突っ込む矢嶋に対しても、なんら慌てる節はない。

「お前といれば生活に張り合いがあるし」

 この男はあの常のやりとりを張り合いと取るわけ? 

 周囲の人がなんといっているのか知らないのだろうか。

「どちらかというと口ゲンカに近いと思うけど」

「だから。そりゃ日々のはりあいというだろう?」

「普通は言いません」

 そうしている間にも、瀧原は器用にさりげなくデスクへと矢嶋を追い込んでいく。

 掴まれた腕はデスクの上に押し付けられ、必然的に逃げ場を失っていく。何だか妙な雰囲気になりつつあるような気がしてならない。

「気疲れしないし」

「ま、お互いやりたいようにやっているものね」

「それに夜の相手にも事欠かなくなる」

 矢嶋はそこで巧みに切り替えしていた言葉をぴたりと止めた。

 瀧原は完全に拘束し、矢嶋は逃げ場を完全に失った。

「冗談でしょ」

 そんな対象としてみたこともないくせに。

 矢嶋の言葉にそんな意味合いが含まれていることを滝原も気が付いていた。

 10年以上もの間、同期としてしか付き合っていなかったのに。

 瀧原は握っていた矢嶋の腕を柔らかくなであげる。それは優しく、瀧原の欲望を柔らかく表していた。

「何なら今すぐここで証明してみせようか?」

 瀧原の顔は鼻先が触れるか触れないかというほどに近づいている。

 まずい。

 笑っていながら、瀧原の目は真剣そのものだった。

 さながら狩りを楽しむ獣の目。

 その時瀧原が本気で自分に触れようとしていると理解したが、それでも矢嶋は感情を乱すことはなかった。

 麻痺していたといったほうがいいかもしれない。魅入られたといったほうがいいかもしれない。

 ストレートに自分を求める姿はやたらと魅力的だった。

「ここ、会社よ」

「ああ。そうだな」

「……これってセクハラ」

「ここまできて、そんなことをいうか葵」

「事実だわ」

「うるさい女だな」

 瀧原は苦笑し、うるさい小言を遮るかのように唇を寄せた。

 そのままあと数センチで唇が重なる、まさにそのとき。

 ドア近くで書類が床にばら撒かれる音が響いた。

 その音に反応して瀧原の動きは止まる。

 緊迫した雰囲気は一気に四散し、その一瞬の隙を突いて矢嶋は瀧原の手からすり抜けた。

「あわわわわっ。えーっと。すみません。俺、明日訪問の資料を家で読もうと思って、取りに帰ってきたら一課の電気がついていてそれで! とにかく、す、すみませ、ん」

 語尾は徐々に小さくなり、最後にはほとんど聞こえなくなっていった。

 盛大に書類をばら撒いたのは鳴宮だった。

 うつむいたままの瀧原からはこれ以上ないくらいの怒りが立ち昇っていた。下から舐めあげるように鳴宮を睨みつける姿に、鳴宮は恐ろしくて正視できずにいた。

 もっとも。矢嶋にとっては救いの神みたいなもの。

 慌てふためいて書類を拾う鳴宮に感謝しつつ、拾い上げた書類を渡した。

 怒り心頭の瀧原とは異なり、先ほどあんな状況を見られたというのに矢嶋は平然としていた。あまりに平然としていて逆に鳴宮のほうが焦っているくらいだった。

「はいこれ。助かったわ。ありがとう」

 さらりと礼を述べて、鳴宮の横を通り抜けながら斜め後ろに立つ瀧原に視線を向けた。

 挑戦的な瀧原の顔を見ても矢嶋は特段表情を変えなかった。

「おごってもらうのは今度でいいわ」

 それに対しては何も答えず、瀧原はただ笑っただけだった。

 しかしその笑顔には諦めないというメッセージが込められていることを矢嶋は理解していた。

 一体どうして突然あんなことを言い出したのだろう? 

 顔にこそ出なかったが、矢嶋はとても混乱していた。その混乱はますます募っていく。

 何で今なんだろう。

 この10年それらしいそぶりを見せたことはなかった。

 あの4年前の時でさえ。

 疑問は尽きないが、とりあえずはっきりしていることは、きっと今頃鳴宮は盛大な八つ当たりを受けているだろうということだった。



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