第2話
で。今に至る。
「そもそもそんなに重要な稟議ならばもっと早いうちに確認するべきだったのではありませんか?」
最初からきつい一言を見舞った矢嶋の言葉に周囲は焦りまくる。
それ、言っちゃうのかよ、といった囁き声が辺りを包む。
しかし珍しいことに瀧原は素直にその言葉を受け止めた。
「確かにこちらに落ち度があったことは確かだ。その点は申し訳ないと思っている」
珍しく殊勝な。と思いきや、それもここまで。
「だがそこを何とかして欲しい」
何とかですって?
あんたばかじゃないの? 先ほどまでのあたしの話を聞いていなかったの?
矢嶋は直に口にしたわけではないが、細められた目は明らかにそう語っていた。
「今日の部長の会合がどれだけ重要か、瀧原課長もご存知でしょう?」
「そりゃ俺が担当しているクライアントとも懇意にしている会社だからな」
知っているくせにこの男は。
そう思うと矢嶋もイライラしてくるところだったが、それを顔に出さない辺りが長年のキャリアを物語っていた。
「お時間が取れないことも承知していただいていると思っていました」
「5分でいいといっている」
相変わらず瀧原は強引だった。
しかし矢嶋がそう簡単に押し切られるわけがなかった。
「稟議の内容を確認しましたが、5分で済むようなお話ではないと思います」
「本当にそう思うか?」
その問いに対して矢嶋は口を開かなかった。
瀧原は確かに我儘で自己中心的だが、仕事に関しては抜群の才覚を備えていると矢嶋も認めている。確かにこの男ならばあの内容を5分で説明し、説得し、完結させることができるかもしれない。
矢嶋が答えに窮した隙を突くかのように今度は瀧原が畳み掛ける。
「5分で部長が納得いく説明ができるかどうか、それは俺の力量次第。そして過密スケジュールの部長に対してたった5分の時間を作れるかどうか、それは矢嶋さんの力量によるだろう?」
瀧原が挑発していることはよくわかっていた。
表情を変えずとも矢嶋が思案していることは明白。そもそも重要な会合を行なっているところに、たかが稟議ひとつをもって邪魔するなんて普通のアシストならばできない行為だった。チャンスは矢嶋が作成した資料を渡すときぐらいなものだろうが、それでさえ無茶な話には違いなかった。そもそも出かける間際の部長の神経質な様を見ていれば、そんなことは避けたいと思うはず。
「新人のアシストという訳でもあるまいし、できないなんてまさか言わないだろうな?」
プライドを逆なでするような物言いに、ようやく矢嶋は口を開いた。
「期待はなさらないでください。いくら瀧原課長が私を挑発しようとも部長の仕事に支障をきたすなら、課長の要望は一切のめませんので」
挑戦的な瀧原の表情は、矢嶋の言葉を受けてふと緩む。
「先ほどの物言い、莫迦にされているとは思わないのか?」
「たかがアシスタントとしてのプライドひとつで、大きな仕事を壊す暴挙を確約することはできません」
そう言い返すと瀧原は思い切り笑った。
どんなに挑発しても表情ひとつ変えることなく、自分のプライドなんてどうでもいいと言いきってしまう。そんな矢嶋の姿は瀧原にとっては小気味のいいものだった。
しかしそんなことは周囲の人間も、当然矢嶋もわかっていなかった。
わかっているのは、瀧原の大笑いする姿などそう拝めるものではないということ。
しかもその笑いのおかげで緊迫した雰囲気は途端に解けた。
この話はこれまでと二人はさっさと話を切り上げ、まるで何事もなかったかのように自分の仕事へと戻った。
瀧原はデスクの上に稟議書を置いて立ち去り、矢嶋はその書類に全く目を向けることなく、再びパソコンへと向かう。
「矢嶋さーん。ほんとーにすみませんっ。助かりました! ああやっぱり矢嶋さんは俺の味方だ」
しかしそんな中、場が和んだのを受けて、早速いつもの調子を取り戻した鳴宮がべったりとデスクにくっついてきた。
「確約はできないわよ。先ほども言ったとおり、とりあえずは伺ってみるけど」
「いやいや。俺のために動いてくれただけで、もうすげぇ嬉しいです」
いや、そんな呑気なことを言っている立場ではないでしょうに。いったいこの子の頭のネジはどんな状態になっているのだろうかとさすがに心配になってくる。
「これのお礼に今度一緒に飲みにでも」
そこまで言いかけたところで、鳴宮は思い切り襟首を掴まれた。
まるでやんちゃな子猫を抱えあげるかのようにひっぱり睨みつけているのは、数歩行きかけて再び戻ってきた瀧原だった。鳴宮の浮かれた声は当然瀧原の耳に届いていたわけだ。
「鳴宮。次はお前だ。最初から最後まで事細かに、事の成り行きを説明してもらおうか」
そのまま強引に連れて行かれる様は、とても情けないものがあった。まさに子猫。
「あーあー。矢嶋さーん、それじゃまたー」
それでも手を振る鳴宮に思わず手を振りかえした矢嶋は、突如振り向いた瀧原とばっちり目が合う。 振った手をどこに持っていっていいものか、少しばかり顔を強張らせながらその体制で固まった。
しかし瀧原は特段表情を変えるでもなく淡々とした調子で口を開いた。
「矢嶋さん。──聞いたか?」
突然の質問にわけもわからず、矢嶋は怪訝な顔をした。
聞くって、なにを?
その反応に、瀧原らしくなく戸惑いを見せる。
「いや。いい」
らしくない態度に一抹の不安を覚えつつ、それでも急ぎ仕事を仕上げなければならないことも手伝って、すぐさま瀧原の不審な態度は蚊帳の外となった。
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