遠くて近きは同期の仲
古邑岡早紀
第1話
「ですから。今日承認印をいただくのは無理だと申し上げていますでしょう?」
何があっても冷静かつ無表情。ついたあだ名は『統括部の制御マシーン』。それが矢嶋葵。
「急ぎであることは綱川部長も充分承知しているはずだ。矢嶋さんから説明してくれといっているわけじゃない。時間をほんの5分だけ作ってくれるように頼んでもらえないかといっているだけだ」
そしてそんな矢嶋に食ってかかる男、それが営業部一の我儘強引男の代名詞を持つ瀧原祐介。
二人の間に流れるとてつもない緊張感はフロア全体に及んでおり、フロア内の人間全員が固唾を呑んでことの展開を見守っていた。
ああこれでまたよからぬ噂がたつと矢嶋はぼんやりと思った。
なんせ相手は逆らってはいけない男と言われている瀧原だ。そんな男と真っ向勝負をしているなんて、無謀もいいところだと全員が思っているに違いない。
しかし矢嶋は知らない。
そんな瀧原に真っ向勝負で敵う人間など、矢嶋くらいだと思われていることを。
そもそも以前から矢嶋も瀧原もこの本社内で逆らってはいけない人間のトップクラスと認知されている。
それもそのはずで、矢嶋は営業部のトップである統括部部長の直属のアシスタントだった。しかも過去類を見ないほどに仕事ができるアシスタント。
多忙を極める部長のスケジュールを完璧に管理し、スムーズに業務を運行させ、書類の一切を取り仕切る。実際、矢嶋がアシストになってから統括部の仕事は断然効率がよくなり、効率がよくなりすぎて公私において部長のフットワークが以前よりもよくなったくらいだった。
その迅速かつ正確無比な仕事ぶりに部長は矢嶋を手元から離すつもりはないだろうといわれているほどだ。当然周囲も矢嶋に一目おいているし、彼女に冷静に理路整然と諭されれば返す言葉がなくなるのは仕方のないことだった。
かたや瀧原は営業部でも一番業績がよく、一番多忙で、一番我儘で有名な課長だった。先の先を予測し、冷静に判断してから行動に移す矢嶋とは正反対で、瀧原はほぼ直感を頼りに思ったままに動いてくる。はっきり言うならば強引で我儘で押しが強い。そのくせ押す一方ではなく、引くタイミングもこれまた絶妙だ。特に鬼気迫る押しのあとの爽やか全開の笑顔攻撃は、頑なな取引先を懐柔するのによく利用されていることは周知の事実。
完全に水と油のように正反対に見える二人でも共通項がひとつ。
二人とも途方もなく負けず嫌いで、途方もなく弁が立ち、途方もなく頭の切れる人間だということだ。当然誰も逆らおうとはしない。そんな二人が互いに遣り合っている姿を見ても、とめに入る人間などいやしない。
「頭が固いな統括部のアシストは」
「いつもルーズすぎるんですよ。営業一課は」
互いに全く引く気配のない様子に、周囲はますます静けさを増していった。
そもそもことの発端は瀧原の部下である鳴宮の持ち込んだ案件だった。
「矢嶋さーん! お久しぶりでーす!」
あまりの陽気さに矢嶋はほんのちょっとだけ眉を寄せる。
入社して半年になろうかという鳴宮は、新人らしからぬ飄々とした態度でかなり目立っていた。彼特有の陽気さを前面に押し出して、目が合う人全てに満面の笑みを返す。
確かに鳴宮は好かれている。今時の子らしくおしゃれだし、笑顔がトレードマークの人懐っこい顔をしているし、何より警戒心を解いてしまう妙な魅力にあふれている。
その屈託のない笑顔はさすがの矢嶋でもついほだされてしまいそうになるが、それを表に出すことは決してない。
「昨日の帰宅前にあなたが勤務集計報告書を持ってきて以来だから、まだ24時間もたっていないと思うけど」
矢嶋は目を上げることなく、淡々と対処する。こういう冷たい態度は毎度のことだが、鳴宮はめげることはない。それどころか楽しんでいる節さえ感じられる。
普通矢嶋の厳しい発言を受ければ大抵すごすごと帰っていくのに、鳴宮だけはやたらと楽しそうなのだ。
何が楽しいのかしら、鳴宮くんって。
矢嶋としては不思議がらずにはいられないほどだった。
「でも俺、矢嶋さんのところには最低でも一日一回は往復していると思うんで、やっぱり久しぶりな感じがするんですけどねー。日参状態だなぁ、俺。あ、それじゃいけないのか。俺って一応営業だったっけ。あははー」
あははー、じゃないでしょうに。
この軽さ、間違いなく営業一課で浮いているはず。
一課のメンバーはあの滝原が集めて鍛え上げた精鋭ぞろいだ。新卒で営業一課に配置されているということはそれなりに認められてのことだろうけど、どうにも一課のメンバーとしては色が違いすぎて戸惑う。
鳴宮が一課のメンバーとしていまだ染まり切れていないのにはそれなりに理由があるのだが。
社内一忙しい一課は、ついこの間寿退社という名目の元にアシストが退職したばかりなのだ。必然的に一番下の人間が簡単なデスクワークを引き受けることになる。
すぐさま代わりのアシストをあてがえばいいのだろうが、一課のアシストは既に半年で三人も代わっており、部長もいい加減にしてほしいと嘆いていたくらいだ。
そもそも寿退社したアシストも、実際はあまりの激務に音を上げたのだろうというのがもっぱらの噂。そのくらいアシストがいつかない課だった。仕事の量は並ではないし、かなりの根気を持ち合わせているアシストでないかぎり、続かないのは事実。
でもいつかない原因は仕事の量だけではないだろう。
口にしないだけで、その主たる原因は皆予想がついている。
そう考えると暫く鳴宮がアシスト業務をすることになるだろうと予想がついてしまう。それは本人も自覚しているようで。
「俺、このままアシストになっちゃったりして。そうなったら矢嶋さん面倒見てくれますか。手取り足取り、とにかくいろいろと……」
ああでもこの調子にいつまでも付き合っているわけには行かない。
「あなたの戯言はともかく。今日はどうしたのかしら。私、あと30分で外出する予定だから、できれば用事は手短にお願いしたいのだけど」
そういった途端、今までとは打って変わって鳴宮が真剣な顔をした。
「え? 矢嶋さん、でかけるんですか?」
いつもの鳴宮らしからぬ態度に矢嶋は少々疑問に思った。
「部長に資料を届けなければならないの。場合によってはそのまま直帰することになりそうなんだけど」
先ほどから手を休めることなく、PCの操作をしている理由はそれだった。
失礼とは思ったが、そんなことにかまっていられないくらい、実は切羽詰っていた。
矢嶋は今週に入ってからずっと部長に依頼された資料作りに奔走している。今年に入って一番大きい案件の足がかりとあって部長もかなり神経質になっている。
休むことなく手を動かす矢嶋を目にして、みるみるうちに顔色がかわる。
「私が外出したら何か不都合でもあるのかしら?」
外出の事実を知ってうろたえた鳴宮の顔を覗き込む。
完全に表情が強張っている。
つまりこれは不都合があるってことね。
「あのぅ。実は俺、明日の朝一番で必要な案件の承認をもらっていなくて」
ああそんなことでないかとは思っていたけど。
でも嫌な予感がした。
この顔つき。重要な案件であることは間違いない。
簡単な案件ならば、あとで部長へ口添えし、こちらで何とかすることもできるが、鳴宮のこの様子はただ事じゃない。
「承認って、なんの」
「稟議書なんですが」
稟議書。よりにもよって稟議書ですって?
矢嶋は眉を寄せて、鳴宮の手から書類を奪った。
「あ」
ざっと目を通し、それから盛大に溜息をついた。
「案件が大きすぎるわ。この件、部長には既に話はいっているの?」
会社によって稟議のあり方は異なるだろうが、矢嶋の勤める会社は稟議に対して重きを置いている。ましてやこんな定期的な価格変更に関する稟議など、ただはんこを押すだけですむはずがない。たとえ事前に話がいっていても、二、三の質問が飛ぶのは目に見えている。
「多分、瀧原課長から大体の説明はしてあるはず、だと思うんですけど」
全く。『はず』とか『思う』とかは断定とは違うものなのよ、鳴宮くん。
そう言いたいところをこらえた。
矢嶋が言わなくとも、きっと課のトップから強力な小言が落ちるに違いない。それもこれ以上ないくらいの迫力で。
瀧原がこの手のミスを許すはずがない。稟議書の日付は一週間前になっている。ということは鳴宮自身が提出を忘れていた可能性が高い。しかもこれは鳴宮自身の仕事だ。臨時の仕事であるアシスト業務をおろそかにするのとわけが違う。
察するに初めてまかされるちょっと大きめの仕事といったところだろう。
あの男が、オーバーフローになるような仕事の振りをするわけはないだろうから、やっぱりこれは鳴宮くんのミスね。
「いずれにせよ、部長が判を押せるのは明日の午後以降だわ。今日は終日戻らないし、明日は午後出勤の予定だし」
書類を返しつつそこまで言った途端、鳴宮は今までないくらいにどんよりと落ち込んでしまった。
それこそ、地の果てまでめり込んでいきかねないほどの落ち込みよう。先ほどの陽気さが嘘のようだった。
なんというか。感情表現が激しすぎだわ。
「どうしよう。俺、本当に課長に殺されるって」
何とかしてあげたいとは思う。なんせ相手はあの我儘男だから──。
と、いつもの矢嶋ならばありえない同情を見せたときだった。
幾分急ぎ足で廊下を通り過ぎる気配が目に入った。そのほんの一瞬、わずかなドアの隙間からその人物と目が合う。
いつもの鋭い視線を投げ、すぐさまその真向かいにいる鳴宮の姿を確認し、行きかけた身体を回れ右して戻ってくる。
矢嶋はこの先のやり取りが目に浮かぶようで、うんざりしたように溜息をついた。
最初に気がついたのは矢嶋。次にフロアで作業をしていた人間。最後まで気がつかなかったのは、悩みぬいている鳴宮だけだった。
「ああどうしよう。俺の命は明日の朝までもつのか? こんなこと知られたら」
「ただで済ますつもりはないな」
奪うような形で声を重ね、そのまま動きの止まった鳴宮の手から書類をすくいあげた。奪われても鳴宮は微動だにしない。表情さえもそのまま凍りついたように固まっている。
「あ、か、ちょう?」
ようやく声は発したものの、顔を直視することまではできず、その上声は完全に裏返ってしまっているような状態。
そう。
鳴宮の背後には直属の上司である瀧原が立っていた。
瀧原は書類に目を通し、それからはっきりとわかるくらい眉を寄せた。
その寄せ方ときたら、矢嶋を髣髴とさせるほど。
それは雷が落ちる一歩手前であり、運が悪けれその余波が周囲に及ぶこともある。できればこの場から逃げ出したいと思うのが普通だろう。
「俺がこの稟議に判を押したのは一週間前だったと記憶しているが、違うか?」
明らかに怒りを抑えた口調に鳴宮は返す言葉もなし。
すぐさま落ちるかと思われた雷は、何とか上空で留まっている模様。やはり他部署で叱り飛ばすのは気が引けたということだろうかとフロア内の全員が思う。
でも、そんな予測なんて的外れであったと気づくことになる。
「あ、はい。あのぅ、すみません。……忘れていました」
その言葉にこれ以上ないくらいの鋭い視線を鳴宮へ投げる。
その一睨みで人でも殺しかねないほどの威力。
視線を受けた鳴宮はもとより、周囲の人間も冷汗を流しかねないほどに硬直している。
平然としているのは矢嶋くらいのものだった。
瀧原はそれなりに顔もよく、均整の取れた身体をしており、センスも悪くない。かなりいい男の部類に入るだろう。黙って、睨みもせず、毒舌を吐かず、普通にしていれば。
そういった観点から言うと矢嶋も同じようなことが言える。少々華やかな格好をし、明るい色調の化粧をすればそれなりに見られるだろうが、本人は一向に構いはしない。そして一貫した無表情は矢嶋の女性としての魅力を台無しにしていた。
「まあいい。とりあえず小言は後回しだ」
瀧原は暫く考え込み、それから矢嶋のほうへと視線を向けてきた。
「今日の部長の予定は」
その瞬間、矢嶋も顔を引き締めた。
これは無理な要求をしてくるに違いない。
そこで矢嶋はようやくキーボードを打つ手を止めて、立ち上がり、臨戦態勢に突入した。
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