[7]

 αは諏訪の背後を取り、彼の頭を掴む為に手を彼の顔に突き出した瞬間、勝利を確信した。

 大きく開かれた手は諏訪の脆い頭部を掴んで地面へと叩きつけて行動不能にし、護衛を殺して冬島紗耶を拘束して帰還する。

 そのような算段であったが、その目的を達する前に、ブラックリストの並外れた反射神経に対して、もう少しばかり警戒しておくべきであった。


「────えっ?」


 だからαは、彼女は小さく声を漏らした。

 だからαの、彼女の腕は掴まれた。


「残念」


 諏訪は、顔先に迫ったαの腕を掴んだ。普通の人間には視認できない早さで掴んだ為、いつ掴まれたか分からなかった。

 αも自身の腕を掴まれた感触で、ようやく視認できた。しかし、認識した瞬間、彼女の突き出された左腕は通常の関節とは逆方向に強制的に折られた。

 鋭い激痛が走り、αは脂汗を浮かべて顔を顰めたが、そのまま右足で諏訪を蹴り上げようと足を振り上げた。

 だが、諏訪はαの左腕を折ったまま、彼女の右足の関節を狙って蹴りを入れ、逆方向に強制的に折り曲げた。


「────ッ!!!」


 先ほどまで鬼神の如き表情であったαの顔は苦悶くもんで満ち、激痛による悲鳴を押し殺していた。諏訪に使い物にならなくなった左腕を掴み上げられながら、地面にへたり込んだ。

 αは息を整えながら、残像を生み出すほど素早く右腕を諏訪に突き出して指を弾いた。時間にして0.1秒にも満たない動き、彼女の指先から放たれた細かな斬撃ざんげきは諏訪の顔に向かう。

 だがこの攻撃を見切った諏訪は顔を左に傾け、攻撃を避けたが、斬撃の一部が首をかすめ、その軌道に沿っ鮮血が傷口から滲み始める。

 諏訪は右手でαの右腕を掴むと、下方向に強引に折り曲げた。骨の折れる独特な音が室内に響く。αは痛みで息が荒くなり顔を伏せた。


「残念、本当に残念だよ」


 諏訪はまるで別人の様な口調でそう呟くとαの首を掴み、ゆっくりと持ち上げた。αは諏訪に掴み上げられながら体を左右に振り、低い唸り声を上げながらもがいた。徐々に両目から赤黒い血が溢れ、頬を血が流れ始める。流石に、これを見た諏訪も顔を顰めた。


「無理をするな」


 諏訪はそう呟くと、残像すら取り残すほど素早い動きで、二度αの腹部に拳を叩き込む。その衝撃で彼女の肋が折れる音が聞こえ、そのまま彼女自身も次第に動きが弱まり、そのまま完全に停止した。

 諏訪は手足が不気味なほど自由に揺れているαを少し見つめてから手を離すと、少女は力なく地面に落下した。諏訪は四肢があらぬ方向を向いている少女を見下ろしていると、頭の中で再び少女の声が響いた。


『これで戦い方、思い出したよね』


 その問いの直後、諏訪はまた自分の意識下で体が動くことに気づくと、左右の手を握っては閉じてを繰り返し、先ほどの戦闘の感覚を振り返った。


「ああ、思い出したさ」


 頭や体で鮮明に思い出した自身の闘い方や殺人の技術に、諏訪は喜びよりも恐怖が勝った。自身がレジスタンス時代にどの様な人物であったか、どの様な性格、どの様な思想や能力の持ち主であったか、まだ色々と思い出せないでいる。

 そんな中で戦闘技術だけを思い出しても、嫌な方向にばかり想像してしまう。快楽殺人者、冷酷無慈悲な薄情者、考え出したらきりがないし、実際に考え過ぎなのかも知れない。


「諏訪君?」


 諏訪はその一言で我に返った。

 背後を振り返ると、紗耶がこちらを心配そうに見つめていた。


「終わったの?」


 紗耶の問いかけに諏訪は乱れた髪を後ろにかき上げてから、小さく頷いて紗耶に答えた。


「ああ、両手両足を折って肋を砕けさせた。殺してはいないが、目覚めるにしても時間が掛かるな」


 そこで諏訪は一息つき「逃げるなら今だぞ」と言うと紗耶は小さく頷いたが、後方を振り返った。


「ええ、だけど……中尉を置いて行けない」

「曾根中尉の様子は?」

瀕死ひんしの重症よ」


 諏訪は拘束室に戻ると奏は壁に背に寄りかかった曾根の足と手に止血帯を巻き、出血箇所を押さえていた。奏は顔を上げると、紗耶と諏訪に顔を向けてから小さく首を横に振った。


「私は……もう動けません。すでに両足の感覚がありませんので」


 血だらけの曾根はそう言うと苦しそうに咳き込んだ。彼女の言う通り、両足はもはや使い物にならなかった。右足はククリナイフで切り裂かれ、左足は9mm弾が貫通していた。特に右足の出血が酷く、血溜まりができている。このままいけば失血死は確定である。


「お嬢様……私を置いて、今すぐ逃げてください」


 出会った時とは比べものにならないほど弱々しい声でそう言われた紗耶は、頭では分かっているのに反射的に首を横に振って口が動いた。


「いやです、私は……」


 しかしすぐに言葉が詰まり口籠った。重症の曾根を止血帯で結んだ程度の応急処置で脱出口まで連れて逃げることはできない。紗耶と奏、諏訪も当然ながら分かっているだろう。


「お嬢様」


 曾根は、血の気の引いた青白い顔で紗耶を見ながら力なき小さな笑みを浮かべた。


「私は、もう動けません。このまま行けば……必ず脱出時に足手まといになる」


 曾根はそう言っている間も辛そうに辛そうに咳き込んでいた。咳き込むたびに血が口から漏れ、呼吸が荒くなる。すると、観察室の天井に設置されたスピーカーから、僅かなノイズを響かせながら慌てた様子の男性の声が聞こえてきた。


『施設に残っている全職員へ、収容所がレジスタンスに襲撃された。現時刻をもって施設を放棄する。一三五五時より施設の浄化を開始、施設に残っている者は最寄りのゲートから至急退避せよ』


 スピーカーから聞こえていた避難指示。そこにある単語が含まれている事を聞いた奏は顔を顰めて呟いた。


「……浄化だと」

「浄化って何だ?」

「施設の自爆装置を発動させたんだよ。一時五十五分に、この施設は消え去ることになるわ」


 諏訪の問いに紗耶は遣る瀬無いという顔つきで答えると、左手首に巻いた腕時計に視線を落とした。


「今は一三時十五分、あと四十分ね」

「お嬢様」


 自分を呼ぶ声に紗耶は顔を上げた。曾根は自身の死を覚悟している事を悟った様な顔つきであるが、その目力は未だ生気を保っており力強かった。


「時間がありません、私を置いて逃げてください。私に構って、あなた方が死ぬことはありません。あなたが死亡すれば、私は安らかに成仏できない」


 曾根の放った言葉は覚悟の決まった強い意思が感じられ、それを聞いた紗耶はようやく決心がついた様で僅かに間を置いてから頷いた。


「……分かりました。申し訳ないです、中尉」


 それを聞いた曾根は穏やかな顔つきに変わると、小さく首を横に振った。


「大丈夫です、貴女には"二人"の護衛がいらっしゃるのですから、必ず脱出できますよ」


 その言葉に紗耶と奏は僅かに瞠目どうもくした。二人の護衛。それは奏と紗耶の背後にいる彼のことを示していた。


「四十七番、いや……諏訪匡臣」


 諏訪は自身の名前を呼ばれて紗耶の隣に跪くと曾根はゆっくりと自身の装備ベルトを外し、震える手で諏訪にベルトを掲げた。


「私の装備をあげます。これで二人と一緒に、ここから……逃げなさい」

「良いのですか?」

「あの闘いを見て、私は君が二人を裏切らないと確信した、だから君を信用する」


 諏訪は腕を伸ばしかけて受け取っても良いのかという考えが頭をよぎり、一瞬ばかり躊躇した。だが葛藤する前に誰かが横から肩を掴んだ。

 横を向くと紗耶が真剣な顔つきで諏訪を見つめて軽く頷いた。それを見た諏訪は決心した様に表情を引き締めると、掲げられた装備ベルトを掴んで腰に巻き付けた。


「さあ行って……早く!」


 曾根の言葉に紗耶は立ち上がると、諏訪と奏に顔を向けて観察室側に向けて歩き始めた。


「奏、諏訪君、行くわよ」

「……了解」


 奏は少々諏訪に対して不信感を隠しきれない様子でそう答えたが、口には出さなかった。諏訪も小さく頷くと拘束室から出て行く。

 しかし、諏訪は最後に拘束室から出て行こうと枠を越えようとして曾根の方を振り返った。


「……諏訪?」


 諏訪は曾根に体を向けて姿勢を正すと軍人顔向けの敬礼を送って拘束室の枠を飛び越えていった。曾根はその姿に僅かに瞠目したが、遠ざかる足音を聴きながら小さく笑みを浮かべ呟いた。


「どうか……ご無事に」


 曾根はゆっくりと両の瞼を閉じた。意識が深い闇の中へと消えていくが、不思議と恐怖を感じる事は無かった。


◆◆◆◆◆


 司令室に詰めている赤渕少佐は何度もスマートフォンで冬島紗耶に着信をかけていた。

 爆弾ドローンと共に襲撃してきたレジスタンス過激派と、彼らの設置した通信抑止装置のせいで地下との連絡を断たれてしまっていた。しかも、司令室まで迫っていた武装集団に警備部隊と対処していたせいで連絡ができないでいる。


「赤渕少佐!」


 肩に20式小銃を下げた赤渕の元に、迷彩服を着た自身が率いる部隊の第一小隊長である野嶋少尉が駆け寄ってきた。


「少尉、状況報告を」

「占拠を試みた武装集団の一部を制圧しました。戦闘中に収容所所長と警備隊司令官、収容所の幹部数名は既に秘匿資料と共に脱出し、陸軍の救助ヘリが四機ほど戻ってくる様です」

「分かりました、地下の曾根中尉から連絡は?」

「ジャマーを破壊した現在でも応答は途絶しています。冬島の御令嬢とは連絡がつきましたか?」


 赤渕は首を横に振ろうとした、その時であった。

 彼のスマートフォンから着信音が鳴り響いた。赤渕と野嶋少尉は瞠目し、赤渕少佐はすぐにスマートフォンの通話ボタンをタップした。


「赤渕です」

『赤渕さん、冬島です』


 少々息が上がっている様子の紗耶が電話口に出ると、赤渕は腕時計を見て浄化処置発動までの残り時間を確認しながら紗耶に尋ねた。


「お嬢様、今どこですか?」

『特殊収容区のエレベーターホールにいます。これからエレベーターに乗るところです』

「お怪我は……ご無事なのですか?」

『私達は大丈夫ですが、曾根中尉が特異体質者の襲撃で瀕死の重症を負ってしまい、残念ですが……』


 赤渕はそれを聞いて驚愕すると同時に、自身の新しい副官が任官して僅か一週間で亡くしてしまったという辛さで眉を顰めた。しかもあの場に曾根を置いてきた紗耶達の辛さを考えてしまった赤渕は、心が締め付けられる感覚に陥った。

 しかし、もう浄化処置までの時間はないので、赤渕は辛さと湧き上がる負の感情を押し殺した。


「分かりました。お嬢様達は地上に到着したら、第二ゲートに向かってください。我々はそこで救助ヘリと共に待機します。まだ襲撃者が地上の収容区に残っているかもしれません。注意してください」

『はい、承知しました。では……』


 紗耶との通話を切った赤渕に野嶋少尉は神妙な顔つきで尋ねてきた。


「少佐、中尉は───」

「曾根中尉はKIAです」


 赤渕はそう答えると、仲間を失ったことを知った野嶋少尉は顔を少しばかり伏せた。赤渕は、そんな彼を見て指示を出した。


「彼女の死を悔やむのはあとです。部隊をまとめて至急撤退準備を始めてください。終わり次第隊員を四名選選抜し、第二ゲート行きのヘリに乗ります」

「了解しました」


 野嶋少尉は顔を上げて頷くと、廊下の奥に走って行った。赤渕少佐は彼の後ろ姿を見送ってから、司令室の中に戻った。

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