電車内で私に起きた話

三文の得イズ早起き

電車内で私に起きた話

「お前は! 一生! そのままだ!」

 怒鳴り声でした。

 地下鉄の通路を挟んで、私の向かいに座った男が大声でそう怒鳴りつけて私を睨んだんです。その声の大きさは誰が聞いても一瞬で異常とわかる大きさでした。

「お前は! 一生! そのままだ!」

 男はもう一度、はっきりと、大声で私にそう怒鳴りつけました。


 最初、その男が私に向かって言っているのか分からなくて、左右を見ました。が、やはりそれは私に向かっている言葉でした。

「お前だよ! お前! お、ま、え」

 男は私に向かって真っ直ぐに指を指しました。

 男は50代後半位でした。角刈りで、目が血走っていて、一切まばたきをしません。皮膚の色がどことなく奇妙で土の様な色をしていました。服装は薄汚れたスーツらしきものを着ていましたが、細かい所はよく覚えていません。

 私はすぐにこの男が狂人だ、と気づきました。

 男はギョロギョロとした目をむいて「お前は! 一生! そのままだ!」と繰り返しました。その怒鳴り声は電車内に響き渡って、車内はシーンと静まり返り、皆が声をひそめていました。この狂人は何をするかわからないぞ、という空気が張り詰めていて、その場にいた全員が怯えていたと思います。


 私は心臓がドキドキとして一言も発することができませんでした。目を逸したかったけれど、男が今にも襲ってくるのでは、と思い目を離せませんでした。


 そんな恐怖の中で、気づいた事があったんです。

 あれ? って。

 偶然だと思うけど、まさかな、という事が頭に浮かんだんです。

 ちょっと説明が難しいのですが、つまり、思い当たる所があったんです。その男の言葉に。

 男が言う『お前は! 一生! そのままだ!』という言葉がもしかしたら、この事かもしれないってある一つの思いが頭をよぎったんです。


 当時、私はとある事情で精神的に落ち込み、不幸の渦の中でもがき苦しんでいました。こんな苦しみが続くのならば生を諦めるしかない、と思い詰めていました。

そんな中で「お前は一生そのままだ」という男の言葉はそのまま「私は今のこの苦しみを一生受け続けるのだ」という暗示に聞こえたのです。

 が、そんなわけがない、と私はこの考えをすぐに打ち消そうとしました。この初対面の男が私の内面など知るはずがない。ただの狂人の言葉が偶然私の生活の問題と一致しただけの事だって思い込もうとしました。


 でも、私はその懸念が混じり合った恐怖を感じていました。

 その恐怖は二つの恐怖が混じり合った物だったと思うんです。

 二つの恐怖の内の一つは、この男は私に何か物理的な危害を加えようとしているのでは? という恐怖。そしてもう一つは、もしかすると、この男は私を、そして私の未来を知っているのかもしれない、という恐怖。私は本当にこの男が言うように一生このままなのかもしれない、という恐怖でした。


 向かいの男は半腰のような体勢になって電車の座席から尻を浮かせ、私を指差していました。男の異常な目を今でも忘れる事ができません。


 その時、意外な事が起きました。

「お前も一生そのままだよ!」

 私の左に座っていた女性が男にそう叫んだのです。

 ちらりと横を見ると、歳は50歳前後、鋭い目をし、痩せてはいるが身なりの良い、気の強そうな女性でした。

「お前も! 一生! そのままなんだよ!」

 その女性は、男に負けない位の喧嘩腰で怒鳴りつけました。

 電車内の人々は皆この事態に息を飲み、我関せず、という態度で見て見ぬふりをしていました。私が同じ立場でも見て見ぬふりをしたと思います。

「なんだとこらババア」

 そう叫んで男はさらに怒り狂って座席から腰を上げ、女性の顔を睨みつけながら右手を振り上げて立ち上がりました。その時の男の顔は逆上し真っ赤で、もう何が起きてもおかしくない、って私は思いました。危険だ。どうしたら良い? 私は一瞬でさまざまな事を考えました。すぐに立ち上がって男を止めるべき? それとも何か話をして男を冷静にさせるべき? もしくは、大声で車掌や周りの人を呼んで男を取り押さえてもらうべきか?

 がしかし、男は威嚇するだけで女性に手を出そうとはしませんでした。その内に次の停車駅に止まり、ドアが開くと男は出ていきました。


 私はホッとして、左に座った女性に礼を言おうと思いました。けれど、なぜか言葉が出て来ませんでした。

「なんか、すいません」

 ようやく出てきた言葉はそんな曖昧な言葉だったと記憶しています。

 左の女性は私の言葉にわずかに頷きました。

 私は横目で彼女の顔をちらちらと見ていました。私は笑顔を作っていましたが、女性は一切笑っていませんでした。

 あの時の女性の顔を私ははっきりと覚えています。

 それはまるで大事にしていたコレクションを学校へ行ってる間に親に全て捨てられた子供のような顔でした。

 女性は私と目を合わせようともせずに正面を向いていました。

 そして、すごくゆっくりと丸っきり抑揚のない声でこう言ったんです。

「でも、お前、一生、そのままだよ」

 すごくすごく低い声でした。

 私は、えっ? と思ったのですが、一切声が出ませんでした。

 左の女性ははっきりと、もう一度私に言いました。

「お前は、一生、そのまんまなんだよ」、と。


 私は大きく左に向き、女性の顔を今度は正面からまじまじと見ました。女性はほとんど化粧をしておらず、やはり50代位に見えました。髪は白髪交じりで、じっとりとした目で私を見つめていました。私と女性は数秒黙って目と目を合わせていたと思います。

 それから、女性はとって付けたような笑顔を作ってこう言ったんです。

「でも、私が、お前の、


 私は女性と目を合わせるのを止めて、前を向き直しました。目を合わせてられなかったんです。そして再び心臓がドキドキと動悸を始めた事に気がつきました。

 私は恐怖に襲われていました。それはどうしようもなく生理的な恐怖でした。私はもうどこにも逃げ場はないんだ、そう感じました。混乱しました。なぜこの女も私の事を知ってるんだろう? そう思うと動悸は止まりませんでした。胃の辺りが万力でしめつけられてるような痛みに襲われました。

 そしてもう一度左を見やった時、女性の姿は消えていました。

 

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