揺れ動く女神
ヒムラーの大粛清も一段落が着き、ローエングリンの復帰も数日後にはと言われるようになった頃。
ヒムラーは帝国全土を平定して、銀河の全てをローエングリン総統の下に統一すべきと主張するようになっていた。つまりトラファルガー共和国の討伐を早急に行なうべしという事である。
このヒムラーの熱狂的過ぎる要請に後押しされる形で副総統ゲーリングは、ヘル党の最高支配機構“ヘル最高指導委員会”を招集した。
ヘル最高指導委員会は、内閣や最高幕僚会議のような帝国の国家機関ではなく、政治結社ヘルの私的な機関という意味合いが強い。しかし帝国政府及び軍部の重役のほぼ全てがヘル党員で占められた今となっては、帝国の事実上の統治機関と言える権限を獲得している。とはいえ、これまではローエングリン総統が絶対者として君臨していた事もあり、この委員会が召集されるのは非常に稀な事だが。
今回はローエングリンを除くヘルの最高幹部が、総統官邸の大会議室に集結した。
「総統閣下は、デナリオンズや貴族連合の残党をトラファルガー共和国に集めて一網打尽にすると言われたが、既に機は熟した。総統閣下のご命令に従い、艦隊の部隊編成も完了した。かくなる上は全面攻勢あるのみ!」
純白の壁と天井に囲まれ、煌びやかな装飾があまり見られないこの会議室に、1人席を立ち上がるヒムラーの熱烈な演説が鳴り響く。
そんなヒムラーに対してまず最初に異議を唱えたのはゲーリングだった。というよりゲーリングしかいなかったというのが正しいかもしれない。
今のヒムラーに権勢を抑えられるのはローエングリンとゲーリングの2人くらいだろう。
「ヒムラー長官、貴公の言う事も分かるが、総統閣下の許可無しに戦端を開くわけにはいかんだろう。総統閣下ももうじき復帰される事だし、数日くらい待っても良かろう」
ゲーリングとしてはそう言うしかなかった。これ以上ヒムラーの独走を抑えるためにはここでヒムラーの提案を否決に追い込むしかない。
もし、この会議でヒムラーの提案が通ってしまえば、ゲーリングは完全に立場を失ってヒムラーにヘルのナンバー2の座を奪われてしまうからだ。幸いにもゲーリングには、総統の許可無しに動くわけにはいかない、という正当な言い分もある。
「負傷された総統閣下の気苦労を少しでも和らげて差し上げるためにもあの反逆者どもを直ちに討伐されるべきとは思いませんかな、ゲーリング副総統」
「相手は実戦のプロなのだぞ。出征して、もし仮に敗北でもしたら、総統閣下に何とご報告するというのだ?」
「これはゲーリング副総統のお言葉とは思えぬ弱腰な発言ですな。戦う前から負ける事を考えておられるとは」
「負ける事を考えているのではなく、あらゆる可能性を考えた上で最悪のケースを話しているに過ぎん」
「最悪のケース、ですか。確かに様々な可能性を吟味するのは大事な事でしょう。しかし、だからと言ってもし負けたら、とばかり言っていては、軍事はおろか政治の世界でもやっては行けぬのではありませんか?」
ヒムラーは強気の姿勢でゲーリングに言い放つ。彼がこのような態度で話せるのには、トラファルガー共和国を速やかに攻撃したいという
今や
そんな
ゲーリングが尻込みしてしまう中、ヒムラーの態度を見かねた厚生大臣レナード・シェーンハウゼン伯爵が口を開く。
「ヒムラー上級大将、少々お言葉が過ぎるのではありませんか?ここで我々が足並みを乱しては、それこそ総統閣下の御落胆は必至ですぞ」
「まるで私が足並みを乱している元凶のような物言いですな、シェーンハウゼン吐伯」
「そ、そのようなつもりはありません。気を悪くされたのなら謝罪します」
ヒムラーの鋭い視線に晒されたシェーンハウゼンはあっさりと身を退いた。
これに続いてシェーンハウゼンのような文官系の党員もヒムラーを恐れて視線を下に下げてしまう。
しかしその中で、情報大臣コンラート・ゲッベルスが挙手をして発言を求めた。
「情報省としては、トラファルガー共和国への出兵計画に賛同致します」
「な、何だと!?貴様、一体どういうつもりだ?」
ゲッベルスの急な言葉に、ゲーリングが思わず声を上げる。
閣僚であるゲッベルスは自動的にゲーリング派の陣営に属していると言えたのだが、今のゲッベルスの発言は完全にゲーリングへの裏切り行為だったからだ。
「
「そ、それは……」
今のヘル政権にとって確かに民心の安定化は急務だった。
ヘル政権はローエングリン総統の指導力による部分が大きく、そのローエングリンが負傷して療養しているだけとはいえ、テロの被害を受けた。
それは帝国の臣民に大きな衝撃をもたらした。これをいち早く鎮めるのは、ヘル政権を存続させる上で重要な事になるだろう。
ゲーリングが言葉を詰まらせるのを見ると、ヒムラーはトラファルガー共和国討伐作戦の決行を半ば強引に決定した。
─────────────
宮廷病院の病室にてローエングリンは、妻のエフェミアの介護を受けながら悠々自適な療養生活を送っていた。
主な傷はほとんどが完治し、いつでも退院できるという状態になっていたのだが、なぜかローエングリンは主治医に診断結果の偽造までさせて入院し続けている。また面会者も極一部の者しか受け付けず、まるで職務復帰する事を避けているようだとエフェミアには思えた。
そんなローエングリンがヒムラーがトラファルガー共和国討伐作戦の決行を決めた事を聞いたのは、決定から30分後の事だった。
高級ホテルのスイートルームのような豪華な病室に設置されたベッドで横になっているローエングリンは、エフェミアが果物ナイフで切り分けた林檎を食しながら、副官のボルマン少佐からその報告を受ける。
「……総統閣下、ヒムラー長官の専横ぶりは目に余ります。このままでは総統閣下の御身にも害を及ぼすやもしれません」
不安そうな表情でローエングリンに訴えるボルマン。
「案ずるな。ヒムラーが何をしようと全ては私の手の中だ。貴官は今後も何かあれば逐一知らせてくれ」
「は、はい。承知致しました」
ボルマンは若干戸惑いつつも敬礼をして退出した。
ボルマンが去り、2人きりとなったエフェミアは不思議そうにローエングリンに問い掛ける。
「どうして仮病を使われてまで、ここにおられるのです? お早く表舞台に復帰された方が良いのでは、と思うのですが?」
「ふん。決まっているだろう。ここにこうしていれば、戦争にも政治にも煩わされる事もなく、ずっとあなたと一緒にいられるからだ」
そう言ってローエングリンは手を伸ばしてエフェミアの手を握る。
エフェミアはローエングリンの返答があまりに予想外だったのか「まあ」と声を上げて呆然としてしまう。
「す、すまん。変な事を言った。忘れてくれ」
軽い冗談のつもりで言ったのだが、エフェミアの驚いた顔を見て急に恥ずかしくなり、頬を赤くしながらそっぽを向く。
「あ、いえ。違います。初めてそのようなお言葉を掛けて下さいましたので、少々意外だったのと嬉しかったんです」
「そ、そうか。……ま、真面目な話をすると、今はまだ戻る必要は無い」
「ですが、ゲーリング副総統とヒムラー長官が対立して、ヘルが二分されようとしていると伺っておりますが、宜しいのですか?」
「邪魔者を片付けるという意味では、ヒムラーはよくやってくれた。だが、流石にやり過ぎだ。このままでは奴は、膨れ上がった自分の権力の重みに押し潰されて自滅するだろう。私が今戻れば、その巻き添えを食いかねない」
「ではヒムラー長官の自滅を待たれる、という事でしょうか?」
「そうだ。ヒムラーは帝国臣民のみならずヘル党内部からの信頼も失いつつある。奴が勝手に自滅して、私がそれを処断したら臣民の信望は自然と私に集まるというわけだ。かと言って今動くのは得策ではない。ヒムラーの地位と権力を維持しているのは巨大な警察機構そのものだ。これが暴走してクーデターでも起こせば、ヘルは本当に瓦解してしまうだろうからな。だから今はヒムラーの勢いが削がれるタイミングを待つべきなのだ」
ローエングリンの話を聞いたエフェミアは急にクスクスと笑い出した。
「ん? どうかしたか?」
「ふふ。閣下があまりにも楽しそうにお話しているので」
「……すまん。つまらん話を長々と聞かせてしまったか」
「いいえ。そうではありません。閣下が楽しそうにされていて何よりだと思っていたのです」
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